『メゾン・ド・ヒミコ』
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B000CC1DTS&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
久しぶりにシネマライズに行ったらなんと。全席指定・整理番号入場制になっていた。おお。さすがのライズ様も時代の流れには逆らえなかったのね。よし(?)。
なので立ち見がない。売切れの回が出る。ぐりは夕方の回を開始2時間前に買いに行ったのだが既に売切れ。大人気だー。そんで最終回を買ったら¥1000。日曜日の最終回は¥1000なんだそーだ。ラッキー。
映画はですね。なかなか面白かったですよ。うん。笑えて、泣けて、いろいろと考えさせられる。ある意味とても日本映画らしい映画。
物語の雰囲気は『トーチソング・トリロジー』なんかに似てますね。ブロードウェーミュージカルではよくあるテーマです。あるいはアジア映画の同志片と云ってもいい。同性愛者の人生の悲哀。苦悩。涙。
それをソフトに日本人好みにつくりかえてある。やさしくてあたたかくておしつけがましくなくて、おだやかだけどしんと心に響く。
うまいこといえば。
正直なところ、日本映画らしくいいところもあるけど、よくないところも目につく。ヒジョーに目につく。人間関係の描写がぬる過ぎたり、物語の展開が冗長だったり、世界観や設定が妙に甘ったるかったり。少なくともこの監督の前作が観たいとまでは思えない。オープニングの大時代なナレーションもいただけない。あのパートだけ完璧に浮き上がっている。なんであそこをああする必要があったのか。ダサ。
全体に音も汚いし。例によって何いってんのかさっぱり聞き取れない箇所多数。環境音もまるで情緒なし。細野晴臣の音楽もどうもぱっとしない。カメラワークとか照明、編集にもいまいちセンスが感じられない。せっかく素敵なロケセットだからもうちょっと感動的なカットとか劇的なシークエンスとかあるかと思ったのにないまま終わり。がっくし。
主演の柴咲コウとオダギリジョー、田中泯の魅力がそれらの欠点を巧妙にカバーしている。
とくに柴咲とオダギリの演技はぐりはあまり好きではないのだが、今の日本映画界を支えるこのふたりのオーラ、力強さのようなものは否定しきれない。
わけてもオダギリの芝居はどこからどうみても浅野忠信の焼直しにしか見えないのに、それすら嫌味にならない。老人たちの夢の城に君臨する死期の女王にかしづく従順な僕(しもべ)、幻のように美しいボーイズラブの王子役がおもしろいくらいハマってます。でもあのヒゲはやっぱいらんかったよ。あのヒゲがあるから、どーしても彼が「春彦」ではなく「オダギリジョー(あるいは斎藤一>笑)」に見えてしまう。日本の俳優はいつから役に合わせて造形を変えるとゆーことをしなくなったんだろう。西島秀俊だって塗装会社の専務にしてはスマート過ぎるし。
田中泯はかっこいいねー。この人は職業俳優ではないので演技らしい演技ってのはぜんぜんできないんだけど、こーゆー棒読み芝居を見ていると「演じる」ということの定義が自分のなかでぐらぐらと大きく揺らいでくる。ただ衣装を着て黙ってそこにいるだけなのに、物凄い説得力がある。観客に有無を云わせない。これこそが「役者」という気がしてきてしまう。この作品に出ている他の素人役者たちは問題外とするにしても。
この物語にはいわゆる「家族」は一切画面に登場しない(辛うじてラスト近くに一度だけ入居者の親族一家が出て来る)。
タイトルにもなっている舞台の老人ホームは“メゾン・ド・ヒミコ”=「ヒミコの家」だが、そこに住んでいるのは今や天涯孤独の身となったゲイの老人ばかり。ホームの主ヒミコ(田中)には沙織(柴咲)という娘がいるが、幼い頃に離別してからまったく顔をあわせたことのないふたりの間には父娘の情のようなものはかけらもないし、沙織の母も既に病没している。ヒミコの恋人春彦(オダギリ)にも家族はいない(と本人はいっている)。
なのにこの映画に描かれているのは紛れもない「家族」の物語だし、実際登場人物たちの台詞にもひきもきらず「家族」が出て来る。その悉くが崩壊して久しいにも関わらず。
それはとりもなおさず、同性愛者として生きることが例外なく家族との葛藤を伴っているからにほかならない。ヒミコやルビィ(歌澤寅右衛門)のように結婚の経験があれば妻や子どもを裏切ることになってしまうし、そうでなくても、平凡な結婚や孫の誕生を望む親の期待にそうような生き方はできない。同性愛者としての人生を選択するということは、最も身近で無条件に愛してくれるはずの家族を苦しめ、常に世間の偏見や差別と孤独に戦わなくてはならないという、たいへん苛酷なものだ。
しかし彼らはそれを選んだ。なによりも自分自身を騙しきれなかったからかもしれない。本当に生きたい生き方に妥協出来なかったのかもしれない。事情はそれぞれだろう。
だが世間を欺き、家族を裏切り、自分自身を騙して生きているのはなにも同性愛者だけではないはずだ。
どんな人間のどんな人生にも大なり小なりそうした嘘や罪はつきまとう。そして人はみな、そのツケをいつ払わされるのか、審判の日におびえながら生きている。ただなすすべもなく、無意識に赦されたいと願いながら生きている。
だからゲイ映画やゲイのミュージカルは常に支持され求められ続けるのだろう。物語の中で役者が演じるオブセッションは、ほんとうは人間なら誰もが抱えている当り前の暗闇だからだ。
この映画に出て来るゲイたちは、その「審判の日」を間近に控えているからこそ、あえて平和に静かに暮している。どれほどひどいラストシーンが彼らを待ち受けているのか、ヒミコを含めた彼ら自身がいちばんよく知っているからこそ、沙織を黙って受け入れ、沙織の糾弾を否定せず、云うがまま、云われるがままに聞いている。その無言の贖罪がせつない。かなしい。彼らだって好きで同性愛者に生まれた訳ではないのに、彼らにだって幸せになる権利はあるはずなのに、どうしてそれが許されないのだろう。
でもよくよく聞いてみれば沙織は彼らが同性愛者であることに怒っているのではない。家族を捨て、傷つけ、裏切りながら、世間から隠れて幻想の世界に安穏と暮そうとする傲慢さが赦せないだけなのだ。彼女もまたその怒りが彼らに対してむけるべきものでないことを分かっている。彼女の不幸は、父が同性愛者であったがために家庭を捨てた、そのせいばかりではない。人生はそこまで単純ではない。それを彼女はうすうす感じとりながらも、怒らずにはおれないのだ。その怒りこそがこれまで彼女の人生を支えて来たからだ。
怒りとの戦いを生きたヒロインゆえに、物語は安易な「父娘の和解」を用意しようとはしない。父娘もそれを期待してはいない。ふたりにとっては父も娘もずっと昔に葬り去った過去の存在であり、その深い深い墳墓は並み大抵のセンチメンタリズムでは簡単にほじくりかえせはしない。そこはぐりはとても共感した。
ここまで深く父を恨むほどの娘に沙織を育てながらも、自分はこっそり着飾って元夫の店に通った亡母のキャラクターも、あんまり感心できないけど(笑)なんだか人間くさくて悪くない。
観客席が爆笑するくらい楽しいシーンもふんだんにあって、エンターテイメント映画としてもまぁまぁの出来ではないかと思います。
ところどころ女性の目から観て「これはどうなの〜?」なパートもあるにせよ。しかし日本映画ってどーしてこうも女性の視点が足りないんだろう。今や日本の映画の観客のほとんどは女だとゆーのに、日本映画はいつもオトコのエゴのにおいばかりぷんぷんする。
ノーメークの柴咲コウがかわいかった。てゆーか若くてかわいい女の子はムダに化粧したり着飾ったりせんでもかわいいってことだね。途中いろいろコスプレしてたりもします。バニーガールとか、チャイナドレスとか、バスガイドとか。さっぱり色っぽくないけどラブシーンもあるしダンスシーンもあるし(オダギリジョーの踊りが意外に上手くて驚き)、柴咲ファンは必見です。
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久しぶりにシネマライズに行ったらなんと。全席指定・整理番号入場制になっていた。おお。さすがのライズ様も時代の流れには逆らえなかったのね。よし(?)。
なので立ち見がない。売切れの回が出る。ぐりは夕方の回を開始2時間前に買いに行ったのだが既に売切れ。大人気だー。そんで最終回を買ったら¥1000。日曜日の最終回は¥1000なんだそーだ。ラッキー。
映画はですね。なかなか面白かったですよ。うん。笑えて、泣けて、いろいろと考えさせられる。ある意味とても日本映画らしい映画。
物語の雰囲気は『トーチソング・トリロジー』なんかに似てますね。ブロードウェーミュージカルではよくあるテーマです。あるいはアジア映画の同志片と云ってもいい。同性愛者の人生の悲哀。苦悩。涙。
それをソフトに日本人好みにつくりかえてある。やさしくてあたたかくておしつけがましくなくて、おだやかだけどしんと心に響く。
うまいこといえば。
正直なところ、日本映画らしくいいところもあるけど、よくないところも目につく。ヒジョーに目につく。人間関係の描写がぬる過ぎたり、物語の展開が冗長だったり、世界観や設定が妙に甘ったるかったり。少なくともこの監督の前作が観たいとまでは思えない。オープニングの大時代なナレーションもいただけない。あのパートだけ完璧に浮き上がっている。なんであそこをああする必要があったのか。ダサ。
全体に音も汚いし。例によって何いってんのかさっぱり聞き取れない箇所多数。環境音もまるで情緒なし。細野晴臣の音楽もどうもぱっとしない。カメラワークとか照明、編集にもいまいちセンスが感じられない。せっかく素敵なロケセットだからもうちょっと感動的なカットとか劇的なシークエンスとかあるかと思ったのにないまま終わり。がっくし。
主演の柴咲コウとオダギリジョー、田中泯の魅力がそれらの欠点を巧妙にカバーしている。
とくに柴咲とオダギリの演技はぐりはあまり好きではないのだが、今の日本映画界を支えるこのふたりのオーラ、力強さのようなものは否定しきれない。
わけてもオダギリの芝居はどこからどうみても浅野忠信の焼直しにしか見えないのに、それすら嫌味にならない。老人たちの夢の城に君臨する死期の女王にかしづく従順な僕(しもべ)、幻のように美しいボーイズラブの王子役がおもしろいくらいハマってます。でもあのヒゲはやっぱいらんかったよ。あのヒゲがあるから、どーしても彼が「春彦」ではなく「オダギリジョー(あるいは斎藤一>笑)」に見えてしまう。日本の俳優はいつから役に合わせて造形を変えるとゆーことをしなくなったんだろう。西島秀俊だって塗装会社の専務にしてはスマート過ぎるし。
田中泯はかっこいいねー。この人は職業俳優ではないので演技らしい演技ってのはぜんぜんできないんだけど、こーゆー棒読み芝居を見ていると「演じる」ということの定義が自分のなかでぐらぐらと大きく揺らいでくる。ただ衣装を着て黙ってそこにいるだけなのに、物凄い説得力がある。観客に有無を云わせない。これこそが「役者」という気がしてきてしまう。この作品に出ている他の素人役者たちは問題外とするにしても。
この物語にはいわゆる「家族」は一切画面に登場しない(辛うじてラスト近くに一度だけ入居者の親族一家が出て来る)。
タイトルにもなっている舞台の老人ホームは“メゾン・ド・ヒミコ”=「ヒミコの家」だが、そこに住んでいるのは今や天涯孤独の身となったゲイの老人ばかり。ホームの主ヒミコ(田中)には沙織(柴咲)という娘がいるが、幼い頃に離別してからまったく顔をあわせたことのないふたりの間には父娘の情のようなものはかけらもないし、沙織の母も既に病没している。ヒミコの恋人春彦(オダギリ)にも家族はいない(と本人はいっている)。
なのにこの映画に描かれているのは紛れもない「家族」の物語だし、実際登場人物たちの台詞にもひきもきらず「家族」が出て来る。その悉くが崩壊して久しいにも関わらず。
それはとりもなおさず、同性愛者として生きることが例外なく家族との葛藤を伴っているからにほかならない。ヒミコやルビィ(歌澤寅右衛門)のように結婚の経験があれば妻や子どもを裏切ることになってしまうし、そうでなくても、平凡な結婚や孫の誕生を望む親の期待にそうような生き方はできない。同性愛者としての人生を選択するということは、最も身近で無条件に愛してくれるはずの家族を苦しめ、常に世間の偏見や差別と孤独に戦わなくてはならないという、たいへん苛酷なものだ。
しかし彼らはそれを選んだ。なによりも自分自身を騙しきれなかったからかもしれない。本当に生きたい生き方に妥協出来なかったのかもしれない。事情はそれぞれだろう。
だが世間を欺き、家族を裏切り、自分自身を騙して生きているのはなにも同性愛者だけではないはずだ。
どんな人間のどんな人生にも大なり小なりそうした嘘や罪はつきまとう。そして人はみな、そのツケをいつ払わされるのか、審判の日におびえながら生きている。ただなすすべもなく、無意識に赦されたいと願いながら生きている。
だからゲイ映画やゲイのミュージカルは常に支持され求められ続けるのだろう。物語の中で役者が演じるオブセッションは、ほんとうは人間なら誰もが抱えている当り前の暗闇だからだ。
この映画に出て来るゲイたちは、その「審判の日」を間近に控えているからこそ、あえて平和に静かに暮している。どれほどひどいラストシーンが彼らを待ち受けているのか、ヒミコを含めた彼ら自身がいちばんよく知っているからこそ、沙織を黙って受け入れ、沙織の糾弾を否定せず、云うがまま、云われるがままに聞いている。その無言の贖罪がせつない。かなしい。彼らだって好きで同性愛者に生まれた訳ではないのに、彼らにだって幸せになる権利はあるはずなのに、どうしてそれが許されないのだろう。
でもよくよく聞いてみれば沙織は彼らが同性愛者であることに怒っているのではない。家族を捨て、傷つけ、裏切りながら、世間から隠れて幻想の世界に安穏と暮そうとする傲慢さが赦せないだけなのだ。彼女もまたその怒りが彼らに対してむけるべきものでないことを分かっている。彼女の不幸は、父が同性愛者であったがために家庭を捨てた、そのせいばかりではない。人生はそこまで単純ではない。それを彼女はうすうす感じとりながらも、怒らずにはおれないのだ。その怒りこそがこれまで彼女の人生を支えて来たからだ。
怒りとの戦いを生きたヒロインゆえに、物語は安易な「父娘の和解」を用意しようとはしない。父娘もそれを期待してはいない。ふたりにとっては父も娘もずっと昔に葬り去った過去の存在であり、その深い深い墳墓は並み大抵のセンチメンタリズムでは簡単にほじくりかえせはしない。そこはぐりはとても共感した。
ここまで深く父を恨むほどの娘に沙織を育てながらも、自分はこっそり着飾って元夫の店に通った亡母のキャラクターも、あんまり感心できないけど(笑)なんだか人間くさくて悪くない。
観客席が爆笑するくらい楽しいシーンもふんだんにあって、エンターテイメント映画としてもまぁまぁの出来ではないかと思います。
ところどころ女性の目から観て「これはどうなの〜?」なパートもあるにせよ。しかし日本映画ってどーしてこうも女性の視点が足りないんだろう。今や日本の映画の観客のほとんどは女だとゆーのに、日本映画はいつもオトコのエゴのにおいばかりぷんぷんする。
ノーメークの柴咲コウがかわいかった。てゆーか若くてかわいい女の子はムダに化粧したり着飾ったりせんでもかわいいってことだね。途中いろいろコスプレしてたりもします。バニーガールとか、チャイナドレスとか、バスガイドとか。さっぱり色っぽくないけどラブシーンもあるしダンスシーンもあるし(オダギリジョーの踊りが意外に上手くて驚き)、柴咲ファンは必見です。