落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

崩壊した家庭の終末

2005年08月28日 | movie
『メゾン・ド・ヒミコ』
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久しぶりにシネマライズに行ったらなんと。全席指定・整理番号入場制になっていた。おお。さすがのライズ様も時代の流れには逆らえなかったのね。よし(?)。
なので立ち見がない。売切れの回が出る。ぐりは夕方の回を開始2時間前に買いに行ったのだが既に売切れ。大人気だー。そんで最終回を買ったら¥1000。日曜日の最終回は¥1000なんだそーだ。ラッキー。

映画はですね。なかなか面白かったですよ。うん。笑えて、泣けて、いろいろと考えさせられる。ある意味とても日本映画らしい映画。
物語の雰囲気は『トーチソング・トリロジー』なんかに似てますね。ブロードウェーミュージカルではよくあるテーマです。あるいはアジア映画の同志片と云ってもいい。同性愛者の人生の悲哀。苦悩。涙。
それをソフトに日本人好みにつくりかえてある。やさしくてあたたかくておしつけがましくなくて、おだやかだけどしんと心に響く。
うまいこといえば。
正直なところ、日本映画らしくいいところもあるけど、よくないところも目につく。ヒジョーに目につく。人間関係の描写がぬる過ぎたり、物語の展開が冗長だったり、世界観や設定が妙に甘ったるかったり。少なくともこの監督の前作が観たいとまでは思えない。オープニングの大時代なナレーションもいただけない。あのパートだけ完璧に浮き上がっている。なんであそこをああする必要があったのか。ダサ。
全体に音も汚いし。例によって何いってんのかさっぱり聞き取れない箇所多数。環境音もまるで情緒なし。細野晴臣の音楽もどうもぱっとしない。カメラワークとか照明、編集にもいまいちセンスが感じられない。せっかく素敵なロケセットだからもうちょっと感動的なカットとか劇的なシークエンスとかあるかと思ったのにないまま終わり。がっくし。

主演の柴咲コウとオダギリジョー、田中泯の魅力がそれらの欠点を巧妙にカバーしている。
とくに柴咲とオダギリの演技はぐりはあまり好きではないのだが、今の日本映画界を支えるこのふたりのオーラ、力強さのようなものは否定しきれない。
わけてもオダギリの芝居はどこからどうみても浅野忠信の焼直しにしか見えないのに、それすら嫌味にならない。老人たちの夢の城に君臨する死期の女王にかしづく従順な僕(しもべ)、幻のように美しいボーイズラブの王子役がおもしろいくらいハマってます。でもあのヒゲはやっぱいらんかったよ。あのヒゲがあるから、どーしても彼が「春彦」ではなく「オダギリジョー(あるいは斎藤一>笑)」に見えてしまう。日本の俳優はいつから役に合わせて造形を変えるとゆーことをしなくなったんだろう。西島秀俊だって塗装会社の専務にしてはスマート過ぎるし。
田中泯はかっこいいねー。この人は職業俳優ではないので演技らしい演技ってのはぜんぜんできないんだけど、こーゆー棒読み芝居を見ていると「演じる」ということの定義が自分のなかでぐらぐらと大きく揺らいでくる。ただ衣装を着て黙ってそこにいるだけなのに、物凄い説得力がある。観客に有無を云わせない。これこそが「役者」という気がしてきてしまう。この作品に出ている他の素人役者たちは問題外とするにしても。

この物語にはいわゆる「家族」は一切画面に登場しない(辛うじてラスト近くに一度だけ入居者の親族一家が出て来る)。
タイトルにもなっている舞台の老人ホームは“メゾン・ド・ヒミコ”=「ヒミコの家」だが、そこに住んでいるのは今や天涯孤独の身となったゲイの老人ばかり。ホームの主ヒミコ(田中)には沙織(柴咲)という娘がいるが、幼い頃に離別してからまったく顔をあわせたことのないふたりの間には父娘の情のようなものはかけらもないし、沙織の母も既に病没している。ヒミコの恋人春彦(オダギリ)にも家族はいない(と本人はいっている)。
なのにこの映画に描かれているのは紛れもない「家族」の物語だし、実際登場人物たちの台詞にもひきもきらず「家族」が出て来る。その悉くが崩壊して久しいにも関わらず。
それはとりもなおさず、同性愛者として生きることが例外なく家族との葛藤を伴っているからにほかならない。ヒミコやルビィ(歌澤寅右衛門)のように結婚の経験があれば妻や子どもを裏切ることになってしまうし、そうでなくても、平凡な結婚や孫の誕生を望む親の期待にそうような生き方はできない。同性愛者としての人生を選択するということは、最も身近で無条件に愛してくれるはずの家族を苦しめ、常に世間の偏見や差別と孤独に戦わなくてはならないという、たいへん苛酷なものだ。
しかし彼らはそれを選んだ。なによりも自分自身を騙しきれなかったからかもしれない。本当に生きたい生き方に妥協出来なかったのかもしれない。事情はそれぞれだろう。

だが世間を欺き、家族を裏切り、自分自身を騙して生きているのはなにも同性愛者だけではないはずだ。
どんな人間のどんな人生にも大なり小なりそうした嘘や罪はつきまとう。そして人はみな、そのツケをいつ払わされるのか、審判の日におびえながら生きている。ただなすすべもなく、無意識に赦されたいと願いながら生きている。
だからゲイ映画やゲイのミュージカルは常に支持され求められ続けるのだろう。物語の中で役者が演じるオブセッションは、ほんとうは人間なら誰もが抱えている当り前の暗闇だからだ。
この映画に出て来るゲイたちは、その「審判の日」を間近に控えているからこそ、あえて平和に静かに暮している。どれほどひどいラストシーンが彼らを待ち受けているのか、ヒミコを含めた彼ら自身がいちばんよく知っているからこそ、沙織を黙って受け入れ、沙織の糾弾を否定せず、云うがまま、云われるがままに聞いている。その無言の贖罪がせつない。かなしい。彼らだって好きで同性愛者に生まれた訳ではないのに、彼らにだって幸せになる権利はあるはずなのに、どうしてそれが許されないのだろう。
でもよくよく聞いてみれば沙織は彼らが同性愛者であることに怒っているのではない。家族を捨て、傷つけ、裏切りながら、世間から隠れて幻想の世界に安穏と暮そうとする傲慢さが赦せないだけなのだ。彼女もまたその怒りが彼らに対してむけるべきものでないことを分かっている。彼女の不幸は、父が同性愛者であったがために家庭を捨てた、そのせいばかりではない。人生はそこまで単純ではない。それを彼女はうすうす感じとりながらも、怒らずにはおれないのだ。その怒りこそがこれまで彼女の人生を支えて来たからだ。
怒りとの戦いを生きたヒロインゆえに、物語は安易な「父娘の和解」を用意しようとはしない。父娘もそれを期待してはいない。ふたりにとっては父も娘もずっと昔に葬り去った過去の存在であり、その深い深い墳墓は並み大抵のセンチメンタリズムでは簡単にほじくりかえせはしない。そこはぐりはとても共感した。
ここまで深く父を恨むほどの娘に沙織を育てながらも、自分はこっそり着飾って元夫の店に通った亡母のキャラクターも、あんまり感心できないけど(笑)なんだか人間くさくて悪くない。

観客席が爆笑するくらい楽しいシーンもふんだんにあって、エンターテイメント映画としてもまぁまぁの出来ではないかと思います。
ところどころ女性の目から観て「これはどうなの〜?」なパートもあるにせよ。しかし日本映画ってどーしてこうも女性の視点が足りないんだろう。今や日本の映画の観客のほとんどは女だとゆーのに、日本映画はいつもオトコのエゴのにおいばかりぷんぷんする。
ノーメークの柴咲コウがかわいかった。てゆーか若くてかわいい女の子はムダに化粧したり着飾ったりせんでもかわいいってことだね。途中いろいろコスプレしてたりもします。バニーガールとか、チャイナドレスとか、バスガイドとか。さっぱり色っぽくないけどラブシーンもあるしダンスシーンもあるし(オダギリジョーの踊りが意外に上手くて驚き)、柴咲ファンは必見です。

仮面と素顔

2005年08月15日 | book
『風呂』 楊絳著
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ずっと前に胡軍(フー・ジュン)がなんかのインタビューで好きな小説に挙げていて、それ以来どんなんやろ?と思ってたんだけど、邦訳が出てるとは知らずにおりましたです。たまたまこないだ『こころの湯』を観て、原題が同じ(『洗澡』)で内容は全く関係がなく、『風呂』という邦題で日本語版が出てるのを知り早速チェック。

ちょっと難しかったですね。ぐりには。おもしろかったけど。
舞台は1950年代、中国で三反運動─汚職・浪費・官僚主義に反対する運動─が吹き荒れた時代、北京のある小さな文学研究社で、恋愛や保身や功名心に不器用にあくせくする人々の姿を描いたお話です。
つまり登場人物のほとんどがインテリ。彼らは旧社会でさまざまな形で恵まれた境遇にあり(ある者は生まれつき裕福であり、ある者は親の労苦によって勉学の機会を得た)、海外留学を経験したり、大学で要職に就いていたり、いわゆる“知識人”としては立派な経歴の持ち主ばかりである。しかし却って彼らはその自分のキャリアに甘んじて現実を見ようとはせず、私利私欲や立身出世にばかり傾注していて、どうみてもあまり“知的”とはいえない。はっきりいってかなりかっこわるい。
そんななかで最も美しく描かれるのは、学もなく財もなく社会的地位も権力もない未亡人や一介の主婦、学位も後ろ盾もない若い研究者といった、日陰の女性たちである。

著者の楊絳自身が文学研究者なので、たぶんここに描かれたようなことは実際に彼女が経験したこともいくらか反映されているのだろう。
それにしても手厳しい。ここに登場する文学者はほとんどが皆ただの中途半端な文学オタク、世間知らずな割りにやたらに他人を妬み蹴落とし、自分だけは事なかれ主義でいたがる下劣な井の中の蛙として描かれている。彼らは勉強だけはできるかもしれないけど、人としてはまったく尊敬できないような人ばかりである。
ぐりには文学研究者の知りあいはいないので、こんな人たちが本当にいるのかどうなのかはよく分からない。ただ、いつの時代どこの国でも、インテリと呼ばれる人たちが必ずしも人格的にも高潔でいられるわけではないというのも現実として想像はできる。
おそらく著者はそうした文学界のどろどろと胡散臭い空気を、小説というフィクションの形で告発したかったのではないだろうか。学があること=知識階級であることと、真の意味でのインテリジェンスは決して同義ではない、人間性の豊かさは経歴や学位や地位といった目に見えるかたちで図れるような単純なものでは決してない、みたいな。
その反動として、親のきめた浮気な夫に黙って従う中年の主婦や、夫を喪ったうえに半身不随の身となった未亡人、家庭のために将来を犠牲にした女性など、社会に顧みられることのない、あくまでも無害なひとたちを必要以上に美化してしまうのだろう。

ぐりはこの三反運動ってのよく知らないんですが、これって文革の前だよね?文革ってもっとヘビーなやつだよね(爆)。
にしても読んでてけっこーきついです。
ぐりはこの「自己批判」ってのにどーゆー意味があるのかよく分からんのですが、自分の反革命的な経歴をいちいち告白して自分で批判するってのは、面子をもっとも重んじる中国人にとってはすんごい重大なことなんだろーね。きっと。
まぁそれでもあとあとの「ヘビーなやつ」に比べれば全然平和な話のよーにも思えたりもするけど(爆)。

あとこの人の文体はすごく面白かったです。流麗でメロディアスで、なんだか日本の夏目漱石とか森鷗外みたいな感じ(そーゆー訳なのか)。描写の形式としてはミニマリズムってのかな?視点が常に一人称規模でとっても緻密。その割りに背景をあまり書きこまない。こういうスタイルはぐりはかなり好きです。
他にも読みやすい邦訳があったらまた読んでみたいです。

中華地獄電影編

2005年08月10日 | movie
『中国魅録「鬼が来た!」撮影日記』 香川照之著
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面白かったです。うん。映画と同じくらい。
しかしなぜ人は他人の労苦がこんなにおかしいんでしょーね?もう文中で香川さんが苦しめば苦しむほど、困れば困るほど笑える。おもしろい。たぶん書いてる本人も「喉もと過ぎれば」じゃないけど、ちょっとおもしろくなっちゃってるんだと思う。過去の自分の七転八倒が。

ぐりは中国映画の現場は知らないけど、ひとつ云えるのはこの姜文(チアン・ウエン)組の撮影スタイルはおそらく中国でも独特なのではないかと思います。
ひたすら台本を改訂し続け、スケジュールは際限なく延びまくり、予定は読めず、フィルムは湯水の如く浪費され、監督以外はスタッフもキャストも全員が作品の全容を把握していない・・・とゆーとすぐ思い出すのはあの人ですね。そう、王家衛(ウォン・カーウァイ)。
彼らにそんな撮影方法が許されてるのは、ひとえに彼らが紛れもない天才・巨匠であることがひろく認められ誰からも信頼されてるからにほかならない。でなければいくら三度の食事が出てくるからといって(先進国以外の撮影現場ではこれすっごい重要)そんな大作のスタッフチームが監督ひとりに無条件で従うなんてことありえません。
逆に、日本では天才・巨匠というとどーしてもおじいちゃんなので、まだ三十代(今はもう四十代だけど)の姜文や王家衛の傍若無人ぶりが、とくに日本人には受け入れられにくいかもしれない。文中にでてくる姜文を黒澤明に置き換えればべつに「あーやっぱし。そーだよねえ」で済まされちゃうんだけど。

あと香川氏自身も二世俳優として最初から恵まれた環境でキャリアを積んできたことが、このカルチャーショックにより強いフィルターをかけたのかもしれない。
確かに日本の撮影現場じゃ俳優部の地位がムダに高い・俳優をのべつまくなしにちやほやする悪習がまかりとおっているけど(アレほんとどーにかならんかね)、やはりどこの現場もそんなになまやさしい訳ではない。俳優が制作部の手伝いをする、自分で衣装を用意して管理する、なんてのは売れない前の役者ならみんな経験してるし、自分から調べなければ香盤(一日のスケジュール)が伝わらないなんてのも最底辺の出演者なら当り前ですし。なにも中国だから、姜文組だから特殊、ってほどのこともないです。日本国内でだって極寒・酷暑の現場、ろくにお風呂に入れない現場、極端に段取りのわるい・異様に苛酷な現場は全然あり得ますし。中国に飲酒運転の車輌部がいるなら、日本には車輌部そのものがいない組すら存在する(本当。徹夜明けで一睡もしてない演出部とか制作部が運転する。そして当然のことながらしばしば事故る)。
そんな極限状態の現場で尊重されるのは俳優やスタッフの待遇とか人権とか環境保護なんかではない。もちろん。制作費を予算内に収めることやスケジュール通りに撮り終わることも二の次にされる。大切なのは、撮るべきものを絶対に撮る、この一点に尽きる。クルーが解散してしまってポストプロダクション作業に入ってから「あ、しまった、あの画も撮りたかったのに」では困るのだ。
撮るべきものを絶対に撮るために、ありとあらゆるものが犠牲にされる、その目的のためなら何をやっても許される、それが映画の現場なのだ。なにしろそこでは映画は至高の芸術なのだから。

要するに香川さんは姜文と自分自身の中国における正確なポジションをうまく把握しきれてなかった、ってことですね。あと中国について知らなすぎた、ってことか。5ヶ月も中国にいて、自力で中国人とコミュニケーションをとろうという努力(というか余裕)がまったく見られずに終わる姿勢に、その「意識のギャップ」が如実に出てる気がします。
ただ著者として、中国にも撮影現場に関しても知識のない一般読者の目線に近いという点では、この本を描くのに最も適した人だったとも云えます。
にしても香港・ハリウッドで幾多の経験を積んだ鉄人小隊長(笑)澤田謙也、膨大な時代劇の知識と見た目からはおよそかけ離れたタフネスを備えた宮路佳具のキャラクターには驚くべきものが多々ありました。特に澤田氏の「痛いと言ったところで痛さが和らぐのならオレもそう言う」ってのは名言です。天晴れ。
そーゆー意味ではこの映画のキャスティングはまさに奇跡です。コレ読むとまた『鬼が来た!』が観たくなりますねー。あーおもしろかった。

ちなみに文中で「暴走してる」と書かれた演劇理論「スタニスラフスキー・システム」についてはこちら
日本じゃすっかり廃れてしまった理論だけど、依然中華圏では絶大な影響力があるよーです。ぐりも全然しらないんだけど。

羽化しなかった官能

2005年08月03日 | movie
『蝴蝶 羽化する官能』

女子高教師の蝶(何超儀ジョシー・ホー)はある日スーパーマーケットで万引きしたお菓子を食べている少女(田原ティエン・ユエン)と出会い、ひと目で恋に堕ちてしまうが、彼女には優しい夫(葛民輝エリック・コット) と一歳に満たない娘がいた。一途に思いをぶつけてくる少女との交流のなかで、彼女は少女時代のつらい恋を思い出す。

激しく不完全燃焼。うーん。期待しすぎたのかなー?
映像はとても綺麗だし、フレンチポップスみたいな音楽もかわいい。8ミリフィルムやビデオ撮影など質感の違う映像を交互につかってみたり、過去と現在がオーバーラップする構成などにもすごく気を使ってるなという感じはする。全体にかなり丁寧につくりこんだ映画だとは思う。
しかし何かが足りない。リアリティだろうか?といってもぐりは同性愛者ではないのでレズビアンの「リアル」な恋愛がどんなものなのかまったく想像はつかない。だからどうしても自分の経験と重ねあわせると男女の恋愛に似たものをそこに求めてしまう。すると自ずと足りないものはハッキリしてくる。

綺麗すぎるのだ。彼女たちの恋が。
この物語には何組かの女性同士のカップルが登場するのだが、そのどれもがとにかく常にちゃらちゃらいちゃいちゃと楽しそうなんである。それはそれで構わないのだが、恋愛関係にはお天気のいいときもあれば雨が降ることも嵐が来ることもあるはずだ。ここに登場する彼女たちの関係にはそれがない。長く交際していても互いの汚い部分や都合の悪い部分をさらけだしたりはしないし、少々気まずくなっても正直な思いをぶつけあったりもしないし、そうなると当然修羅場にもならない。そういうふにゃふにゃとなまぬるい恋愛関係も実際にはあるだろうが、フィクションとして描くならもっとしっかり立体的な描写をしなければ説得力は出てこない。
演じている女性たちはそれぞれに魅力的だし頑張ってはいるのだが、もうひとつ「本気」で愛しあっているようには見えないのはそのせいなのかもしれない。
おそらくヒロインがおとなしく優柔不断な女であることが物語の上で重要であるがためにそうしたヘビーな描写を避けたのだろうが、逆にそれがあだになってしまっている。何超儀の演技がいつでもこつでも淡々としすぎているのも物足りない。ぐりは日本のドラマ「魔女の条件」の松嶋菜々子の芝居を連想したね。キャラ設定もちょっと似てるし。

公開当時は同性愛を描いていて物語の背景に天安門事件があるということで『藍宇』と比較されたそうだが、これはちょっと可哀想だったなと思う。どうみても比較にならないからだ。たぶん予算的には『蝴蝶』の方がお金がかかっている。だが見た目の道具立てに手がかかっているだけに、役者の演技力、監督の描写力に歴然と差があるのが誰の目にも明らかに分かってしまう。
特に分かりやすい点として、『藍宇』に直接的な性行為が描かれないのに対して『蝴蝶』には男女・女性同士の性行為が何度もくりかえし描かれるのだが、その頻度や長さの割りにあまり全体の印象が「官能的」にはなっていない。肌の露出が少ないとかそういう問題ではないと思う。官能的なシーンに不可欠な「必然的な感情描写」というものが、ハッキリと足りないからだと思う。あなたにさわりたい、あなたでなくてはダメなのだ、どうしてもあなたが欲しい、という切迫感、あなたとやれてうれしい、幸せだという充足感が、いまひとつ明快に伝わってこない。だから全然いやらしくもないし気持ち良さそうにも見えない。
女優さんたちがかわいらしいだけに、ああいうラブシーンで終わってしまってるのはなんだかもったいない気がする。なかでもぐりはヒロインの少女時代の恋人(演じているのはどなたなのか存じ上げませんが。分かる方おられたら教えてください)がすごくいいなと思ったデス。ちょっと少年ぽくて、いかにも女子高でモテそーなタイプの、爽やかできりっとした女の子。傍に寄るとミントの香りとかしそうな感じ。

久々に演技してる葛民輝を見たけど、この人いい俳優さんですねー。感情を出す芝居も出さない芝居もフツーっぽくて。あとヒロインのおとーさんが曾江(ケネス・ツァン)ってのは笑ったね。『美少年の恋』じゃ息子がホモ、『蝴蝶』じゃ娘がレズ。参るよな(笑)。
そういやこの映画、恋愛関係に家庭環境が影を落としていく物語という点ではむしろ『藍宇』よりも『美少年~』の方がこの作品の対照になるのかも。アレもちょー乙女な世界~♪だったし。『美少年~』が好きな方は『蝴蝶』もきっとお気に召すのでしょー。ぐりは残念ながらどっちも好きではないけど、『蝴蝶』の方法論で『美少年~』がつくられてたら好きになってたかもしれない。そのくらいつくりは丁寧だから。
全体にくっきりとしたシティーノイズをきれいにかぶせた音響設計が印象に残りました。美術も豪華だし、香港映画でもここまで繊細緻密なガールズムービーが撮れるという意味では新鮮な映画だと思う。
それにしても最近の香港映画の邦題はなんでこんなんばっかしなの~?まぁ回転させるにはイヤでもこれくらい思わせぶりなのつけなきゃいけないんだろーけど・・・品がなさすぎ。アタマ悪そー。愛がないね。

皇帝ペンギン

2005年08月01日 | movie
『皇帝ペンギン』
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観て来たよ~。
すんげー混んでた。てゆーか満席だった。スゴイ。ただの動物ドキュメンタリーなのに。
ぐりが観た上映館では2スクリーンの一方で字幕版、もう一方で吹替え版をやってて、どちらも大盛況。ぐりはもちろん字幕版を観ましたが。べつに日本のタレントさんの声とか歌とかどーでもいーので。

映像があまりにも圧倒的で、最初はちょっと現実感がない。CGとか絵画とか、なにか虚構の世界に見えてしまうくらい、そのくらい凄まじい映像美。空をさえぎるものは何もなく、一面淡いブルーの氷と白い雪と紺碧の海だけの世界。だがそこはただ美しいだけの世界ではない。零下40度という極寒に加えて時速250kmのブリザードが吹き荒れている。ペンギンたちが繁殖する真冬、太陽も一日2時間しか地表を照らしてくれない。
そんなにも苛酷をきわめた大地で文字通り命を懸けて子どもを生み育てるペンギンたち。ただひたすら寒さに耐え体力の限界と戦いながら一途に子どもの誕生を待ち、伴侶の帰りを待ちわびる彼らの姿は、真摯を通り越して崇高にさえ見える。彼らは決して迷ったり考えこんだりはしない。彼らは自分がなにをするべきなのか、せざるべきなのか、どこへ行くべきなのか、行かざるべきなのか、全てをちゃんとわきまえている。一歩間違えれば待っているのは確実な死だからだ。誰にもひとかけらの猶予も与えられてはいない。

生後まもなく割れてしまったタマゴが凍るシーンが印象的だ。わずかなヒビが、中身の凍結による水分の膨張でひろがり、まるでタマゴが口をあけて笑っているようなかたちに裂けていく。そのくちびるから中の卵白がみるみる真っ白い氷に変わっていくのが見える。
作中にはアザラシが海でペンギンを襲うシーンや、カモメがヒナを襲うシーン、寒さと餓えで凍死するペンギンたちなど、命を失うペンギンが何度も登場する。しかし彼らの命を奪うのはなにもそうした環境だけではない。彼ら自身の過失によって失われる命もある。ほんのちょっとしたミスによって死んでしまった無残なタマゴの姿は、そのまま我々の日常のすぐ隣にある悲劇のひとつに、どこか似ているようにも感じた。

環境が厳しいだけに、うまれてくる子どもたちの愛らしさがたまらない。
彼らはなにもしなくても、ただそこにいるだけで我々観客を微笑ませる。かわいいばかりでなにも出来ないけれど、両親の愛情を一身にうけて元気に大きくなる姿だけで、観ている人間を幸せにしてくれる。
彼らの親子愛、夫婦愛の深さは、単にいとおしいとかなつかしいとかいったなまやさしい感情的なものではなく、それぞれの運命をつなぐ命綱のようなものだ。だからこそ懸命にヒナを守りエサを運ぶ姿が美しく見えるし、声だけを頼りに親を待つヒナの姿がかわいいのだ。しかし本来愛情とはそうしたものであるべきなのかもしれないと、ふと思った。実は彼ら家族が互いのそばにいる時間はとても短い。ヒナが生まれてしまえば夫婦は交代でエサをとりにいくためほとんど顔もあわせなくなる。それでも彼らはお互いの愛に対する忠誠を露ほども疑おうとしない。絶対に生きてここへ戻ってくることをかたく信じている。そこでは生きることと愛情とが全くわけ隔てられることなくひとつにかたまった定義になっている。彼らは相手に対する愛のために生きているし、相手が生きているから愛がはぐくまれる。どちらか一方の愛が見失われた時はすなわちそれは死を意味しているし、遺された方にも生きるすべは残されていない。

それともうひとつ、ナレーションには登場しないけど、画面にうつっていた「ヘルパー」と呼ばれるペンギンの姿が印象的でした。
ヒナが抱いていてやらなくてもいい程度に育つと、親鳥はヒナをクレイシと呼ばれる保育所に預けてそれぞれエサをとりに出かけるんだけど、このクレイシにはヒナをもたない成鳥が常に付き添っていて、ヒナたちがひとり立ちするまでその傍を離れない。襲ってくる外敵からヒナを守ったり、海に出るヒナたちを導いたりする。
ヘルパーの多くはまだ繁殖期に至らない若い成鳥や、タマゴやヒナを途中で失った親鳥らしいけど、自分の子ども以外のヒナを本能的に守ることができる生き物ってスゴイなぁと思ったし、結局自然界にあっても親だけで子どもが育つわけじゃないってとこがおもしろいと思ったデス。