落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

手摺の外で

2018年07月17日 | lecture
一橋大学アウティング事件 裁判経過報告と共に考える集い ─大学への問いかけ─

2015年8月24日、東京都国立市の一橋大学の敷地内で、ひとりの男子学生が転落死した。
全国で司法試験合格率トップを誇る法科大学院の学生だった彼は、そのちょうど2ヶ月前、想いを寄せていたクラスメイトに同性愛者であることを暴露され(アウティング)、以後、精神的に極度に追いつめられていた。その日は模擬裁判の授業があって、亡くなった彼のクラスは全員出席が義務づけられていた。その授業の間に、彼は同級生たちに別れのメッセージをLINEで送り、校舎の窓の手摺を乗り越えた。

わが子の最期に何があったのかを知りたいというのは、親なら誰もが抱く当然の願いである。だが一橋大学はそんな人として当たり前の思いすら一顧だにしなかった。
両親は、真面目で「人の役に立つ仕事を」と法律家を目指した息子の身に起きた事実を、何ひとつ知ることができなかった。手だては裁判しかなかった。
事件発生から1年ほど経って、両親は暴露した同級生と大学を相手に損害賠償訴訟を提起した。その後昨年5月の報告会から1年以上を経て、先月、同級生との和解が成立し(和解内容非公開)、今後は大学との裁判が続くことになった。

大学側は事件発生の翌日、うちひしがれた遺族に向かって「おたくの息子さんは同性愛者だった」と告げた(原告代理人の説明動画)。そして、彼が死んでしまったのは人知をこえた出来事であり、大学にはなすすべがなかったと主張し続けている。
つまり彼を死なせたのは、同性愛という彼の性的指向が彼自身を苦しめたことが原因だといいたいわけである。
これは私個人の勝手な考え方だが、それは完全に間違っていると思う。
人は性的指向が理由で死んだりはしない。
そこに無理解があり、偏見があり、差別がある。それが人の精神を蝕み、これ以上生きていられないという感情を抱かせ、生きる気力を奪うのだ。
彼は、同性愛者だから亡くなったのではない。
それだけは、絶対に違うと、私は思う。

亡くなった男子学生は確かに同性愛者だったし、そのことを家族にも周りの誰にもうちあけてはいなかった。
直接彼自身の口からその事実を告げられたのは、彼が愛した同級生だけだった。
他ならぬその相手から秘密を暴露された彼の孤独と絶望を、私自身は到底想像することができない。
どれほど苦しく、悲しく、寂しく、悔しく、情けなく、恐ろしかったとしても、その気持ちを理解することはもう誰にもできない。
ひとついえることは、彼はそれでも自分自身でできるだけのことはしていた。担当教授にも、ハラスメント相談窓口にも、保健センターでも、彼はしたくもないカミングアウトをして助けを求めている。
でも誰も、彼を助けなかった。
まさか死ぬとは思わなかった、というのが大学の言い分である。

報告会を聞いている限りでは、原告側は大学の性的少数者の人権に対する配慮義務を争点としているようだが、それで大丈夫なのか、正直なところ少し不安を感じた。
大学側が、同性愛者だから男子学生は死んでしまったのだと主張しているとしたら、性的少数者の人権に対する配慮義務への懈怠を裁判所に認めさせるのにはかなりのハードルがあるのではないだろうか。あるいは、裁判官にそうしたマイノリティへの見識があるとすればそれも期待できなくはないが、実際のところはどうなのか。
極論をいえば、男子学生が同性愛者であろうがなかろうが、彼の訴えをきちんとハラスメントとして大学が受けとめ、教育機関として備えておくべき行動原理をもって彼の命をまもるための対策を果たしていれば、彼は死ななくても済んだはずである。それができなかったから、彼は孤独と絶望のなかで死を選ぶしかなくなってしまったのだ。

それが、よりにもよって法科大学院で起こってしまったことの重大さを、おそらく一橋大学は骨の髄までよくよく認識しているに違いない。
だからこそ、彼らはわざわざクラス全員に緘口令を敷き、遺族に「おたくの息子さんは同性愛者でした」、だから死んだのだなどと言い放ち、見るも醜悪な事なかれ主義で遺族や、多くの性的少数者の心情を蹂躙し続けている。
繰り返しになるが、これが日本に冠たるトップエリート法律家を育成するロースクールのやることだろうか。

一審証人尋問は25日に行われる。傍聴にも行く予定です。入れたらまた何か書こうと思う。

関連記事
子どもの権利条約総合研究所2018年度定例研究会「いじめ等に関する第三者機関の役割と課題」
大川小学校児童津波被害国賠訴訟

アンテナの感度

2018年07月08日 | lecture
2018年度 定例研究会「いじめ等に関する第三者機関の役割と課題」
主催:子どもの権利条約総合研究所

震災の復興支援を通じて宮城県石巻市立大川小学校での津波被害の当事者支援をはじめた関係で(過去記事リンク集)、学校事故・事件の第三者機関について具体的に知りたくなり参加してみた。

スピーカーは東京経済大学教授で弁護士の野村武司氏。子どもの権利条約総合研究所副代表。
学校での“重大事態”が発生すると設置される第三者調査委員会だが、野村氏は平成20年以降のこの10年、全国各地の学校の第三者調査委員会に招聘される、いわば重大事態調査のスペシャリストである。

2013年にいじめ防止対策推進法が施行されて今年で5年、教育評論家の武田さち子さんのまとめでは計57件のいじめによる自殺(未遂を含む)が日本の学校で起こっている。この57件すべてではないが、指導死も含めて設置された第三者調査委員会は5年で68件。これは新聞報道に基づく数値だそうで、ここにもれている案件もあるため実際にはどれほどの子どもが犠牲になっているかはわからない。野村氏によれば、第三者調査委員会は学校および教育委員会の要請(遺族からの要望含む)で設置されるが、遺族の意思で非公開とされるケースもあるため、実数までは把握しきれないということである。

法律ができて5年の間にさまざまな問題点が見えてきたが、その根幹は「いじめの定義」。
いじめという現象に定義が求められたのは1986年の中野富士見中事件(詳細)だった。葬式ごっこ事件といえば記憶している人もいるかと思う。当時2年生の鹿川裕史くんが午前中に病院に行って遅れて登校したところ、机の上に別れのメッセージを寄せ書きした色紙と花と遺影が置いてあった。色紙にはあろうことか担任教諭のメッセージも書かれていた。
鹿川くんはその2ヶ月後、自ら命を絶った。鹿川くんは私とちょうど同年齢だった。
関わった児童をはじめ教諭も、必ずしも鹿川くんに明確な悪意を持っていじめに加担したわけではなかったが、結果的に鹿川くんは亡くなってしまった。
ではどうすれば、こうした事態を防ぐことができるのか。

いじめと認定される文部科学省の基準の変遷を掲載した配布資料の一部を引用する。

1986年定義:「いじめ」とは、①自分より弱いものに対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手方が深刻な苦痛を感じているものであって、(関係児童生徒、いじめの内容等)学校としてその事実を確認しているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わないもの。

1995年定義:「いじめ」とは、①自分より弱いものに対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手方が深刻な苦痛を感じているものであって、(関係児童生徒、いじめの内容等)学校としてその事実を確認しているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。なお、個々の行為がいじめにあたるか否かの判断を表面的・形式的に行うことなく、いじめられている児童生徒の立場に立って行うこと。

2006年定義:個々の行為がいじめにあたるか田舎の判断を表面的・形式的に行うことなく、いじめられている児童生徒の立場に立って行うこと。
「いじめ」とは、当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

2013年定義:「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的または物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。
(下線部分は変更箇所・筆者追加)

こうした改定は、いじめによる重大事態が発生した際に加害者側から発せられた行為の理由、つまりいいわけに基づいて行われてきた。
たとえば「被害者は弱者じゃないから弱いものいじめじゃない」「被害者もやり返しているからいじめではなく喧嘩」「被害者側にいじめられる理由がある、あいつが悪い」「ちょっとやっただけ」「傷つけるつもりなかった」「ふざけただけで悪気はない」「この程度でいじめになるの?」。

そもそもいじめは被害者側と加害者側の間に認知のギャップがあるから重大化する。加害者がいくら「たいしたことじゃない」と思ってやっていても被害者は傷ついている。加害者側がいくら「ふざけてるだけ」と思っていても被害者は傷ついている。加害者が「あいつにだって非はあるんだからこれくらいされて当然」と思っていても、被害者はやはり傷ついている。

いじめなんてやり方は子どもによって学校によって地域によってまた時代によって、ありとあらゆる手段が採用され、常に変化し続ける。だからどんな行為がいじめかという点に着目していては、いつまでたっても「何がいじめか」なんてことは決まらない。基準は尺度であり、尺度は不変でなくてはならない。
だから尺度は、被害者が傷ついているという一貫性に基づいていなくてはならないのだ。
そのことは1995年の定義に「個々の行為がいじめにあたるか否かの判断を表面的・形式的に行うことなく、いじめられている児童生徒の立場に立って行うこと」と決められている。
ところが、文科省が実施している問題行動調査にいじめの行為が分類されている項目があるため、ここに分類された加害行為がなぜか現場ではいじめ行為の基準として一人歩きしてしまっている現状があり、いまだに被害者側の気持ちに寄りそった判断ができないでいるという。20年以上経って、その部分は一歩も前進していない。

第三者調査委員会は、設置されたらまず資料のリストをつくり(あるかないかを確認する前にリストアップをする)、委員会の目的を確認し、遺族からの聞き取り、資料の精査、アンケート調査、教職員からの聞き取り、児童からの聞き取り、校長・教頭に聞き取りを実施して報告書の作成をして任務完了となる。
聞き取りには当初、学校側は否定的だったが、実施してみるとあったことを話すことで児童や教諭が精神的に解放されたり、起こったことを話しながら冷静に判断できるようになったりといった効果もあるという。
また調査目的がどうしても再発防止に偏りがちだが、そうなると全容解明を求める遺族の意思との乖離が生じることもあるため、よくいわれる「公平中立」ではなく、「第三者性」「公正性」が重視されるべきだという。

いじめを防止する学校づくりの課題としては、学校に平時からいじめを防止するための行動原理を持った対策組織が必要なのだが、学校という職場が忙しいことを理由にそれがほとんど設けられていないという。
行動原理がないから、教諭それぞれが勝手な個人的ポリシーで指導してしまい、それが重大事態に発展してしまう要因のひとつとなることもある。組織的対応ができないから、たとえいじめと思われる事案が発生していても、学校組織の中で情報共有だけで終わってしまい、結局担任教諭ひとりに対応が丸投げになり、そしてやはり重大事態を防ぐことができない構造的欠陥が放置されてしまう。

質疑も含めて3時間の長丁場。
参加者はほとんどが教育問題の専門家や当事者の様子だったが、驚いたのは大多数が「いじめの定義」を「行為」ととらえ、いじめられて傷ついている被害児童の心情を基準として考えていなかったこと。
例に挙げられた物語を以下に付記しておくので、読んだ方はちょっと考えてみてください。

(以下配布資料引用・一部略)

太郎くんの小学校では、毎年運動会の最後の競技として、学年ごとのクラス対抗のリレー競走をおこなってきました。
担任のP先生は、全体の勝ち負けは、リレーだけで決まるわけではなく、リレーも、リレーの順位だけではなく、応援の様子や応援旗も含めて採点されることから、リレーの選手には足の速いいつものメンバーということでなく、立候補で決めることにしました。
太郎くんは、引っ込み思案で、いつもまわりから、もっと積極的にいきなさいといわれていたこともあり、走るのはそんなに速くはありませんでしたが、思い切って、リレーの選手に手を上げました。ふと見ると、手を上げたのは、足の速いいつものメンバーばかりで、しかも11人でした。誰が選手になるかは、くじで決めることになりました。結果は、クラスで走るのが一番速い亮太くんが落選し、太郎くんは選手になりました。その日から、亮太くんは太郎くんに冷たくなりました。
太郎くんは一生懸命に走る練習をしましたが、そんなに急には速く走れません。バトンをうまく受け取れず、落としてしまうこともありました。みんなもきつく当たります。他の子がミスをしてもあまり言わないのに、太郎くんがミスをするとあからさまに文句を言います。運動会の前の日、亮太くんと仲の良い慎二くん、貴之くん、そして智宏くんに囲まれ、「リレーで負けたらおまえのせいだからな」と言われました。
太郎くんは運動会に出るのが怖くなり、眠れませんでした。運動会の朝、おなかが痛く、朝ごはんものどを通りませんでしたが、お母さんに心配かけてはいけないと思い、なるべく顔を見ないよう、また普通に装い、お母さんが作ってくれたお弁当を持って頑張って学校に行きました。運動会が始まり、いよいよリレーになりました。結果は、バトンのミスこそしませんでしたが、太郎くんは3人に抜かれ、最下位。クラスのみんなは悔しくて泣いていました。そして、みんな太郎くんを見ると口々に、「負けたのはお前のせいだ」「なんで立候補なんかしたんだよ」などと不満をぶつけます。太郎くんは、その言葉に涙があふれてきました。

さて、ここで起こったのは「いじめ」だろうか。

檻と鍵

2017年12月08日 | lecture
明治学院大学国際学部付属研究所公開セミナー「憲法が変わる(かもしれない)社会」

3回目のスピーカーは憲法学者で東京大学法学部大学院教授の石川憲治さん。
不勉強で私は著書も読んだことがなかったのだが、どうも世間では天才と呼ばれているお方らしい。最近は日本統治時代の京城帝国大学法学部を研究しておられたという。正直そんなこといわれてもさっぱりわからないのですが。
わからないなりに受講後すぐノートにまとめようと思ったんだけど、ぜんぜん時間がなくて時間が経ってしまったので、理解できて記憶に残った範囲内の備忘録を残しておく。聞き手は高橋源一郎氏。

石川さんは立憲デモクラシーの会という研究者のグループの呼びかけ人にもなっておられるそうだが、ご自身では政治的センスにぜんぜん自信がないとくりかえし口にしておられたが、それでも96条(憲法改正の条件)改正が取り沙汰ときは「このままでは憲法が壊されてしまう」と危機感を持たれ行動されたそうである。先人のように、あとから振り返って「あのときのあれがそうだったんだ」などと後悔はしたくない。まあいま何かしらしなくてはとじたばたしている人の多くがそういう気持ちなんだろうと思う。私も含めて。

Q.安倍政権がやろうとしている改憲が実際にどう生活に影響するのか。

A.まず現憲法は国民主権とうたわれているが、主権者とは至高の存在、いってみれば神のようなもののこと。神は何にも縛られない。そもそもそんなものを決めていいのか、というところを疑うべき。
国民主権=民主主義という認識になっているが、その何にも縛られないはずの主権者を縛るのが立憲主義で、96条で縛ることで既存の権利を守っている。
安倍政権は「憲法を国民に取り戻す」といったような主張をしながら、憲法を壊そうとしている。たとえば集団的自衛権を合憲と閣議決定したのは改正手続きの破壊である。

Q.立憲主義とは、国を縛っているがほんとうは国民も縛っている?
国民主権だから自分でつくった憲法は自分で壊していい?
一回決めたら変えられないのが憲法では。それを変えたら違う国になるのでは?

A.難しい議論だし、時代によって変わっていくし、実際いまも変わっている。
むしろわかりやすく説明する先生はいんちき。
たとえば絶対民主主義と先制主義は何が違うのか、立憲主義とどう違うのか。

Q.詳しく喋り出すと「まあいいや」、わからないもの=いらないもの、という風潮で専門家はきらわれる。

A.難しいから一生かけてるんだけど。

Q.みえないしさわれないのにコントロールされていて、どうしても難しくて説明しづらいのに、生活にダイレクトに結びついている。問いたやさないことが大事。

A.果たして主権者は必要なのか、ひとりひとりが考えるべき。
たとえば自分でつくったものはいつでも自分で変えていいのか。契約は自分で契約したからといって自分で変えていいものではない。
そのもやもやを、おかしいなという疑問を形にするのが法理論。

Q.去年8月8日の今上天皇のおことばについての評価を。
天皇は憲法に書いていない象徴的行為ができなくなってきたからという理由で退位に言及された。
石川さんはこのおことばを高く評価されておられる。その理由を。

A.象徴的行為で論理が一貫している。憲法には書いていないけどなんとなく共通認識としてあったものを、先行して理屈をみつけて形にされた。
退位のシステムだってもたないわけにはいかないのに、制度として存在していなかったことを指摘された。
戦後の天皇は国事行為だけを行う国家機関になったが、それ以前に象徴であることをもとめた。戦前の考え方の代替物でもあるから危険な面もあるのだが、政治的には中道路線をめざし象徴的行為で中道天皇論を確立させることで宮内庁をかためてきた。
象徴とは、この国が目指しているものをわからせるための装置。ふつうの国なら国旗や国歌にあたるもの。
国事行為や宮中祭祀は外からはみえないからそれだけで象徴にはなりえない。
今上天皇にとっての象徴的行為とは努力義務だった。代替の効かない、やりつづけなくてはならない、動けなくなったらできない、寝ていてはできない行為。だから限界があって、退位システムが必要。平和主義の象徴のための努力が、天皇にとっての答えだったのでは。
すなわち、あのおことばで、中道天皇論の形を示した。

Q.すばらしいことだと思うんだけど、説明がつきにくい。
きっと今上天皇は誰よりも憲法をよく読んでる。そして憲法を破壊しようとする人々からまもろうとしたのでは。
法律は明快な完成形ではなく隙間だらけの道具。

A.憲法にはもともと暴走装置があった。
書いてあることだけが法律じゃない。9条には書かれていないことも含めて天皇制はパフォーマンスとして成功してきた。
だからいまの改憲論議は安易すぎる。

ノートに書いたことを拾いだしてみたけど、やっぱり難しい。
石川さんの本読んでもっと勉強しなくては。


関連記事:
明治学院大学国際学部付属研究所公開セミナー「憲法が変わる(かもしれない)社会」第二回

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鏡と玉と剣

2017年11月22日 | lecture
明治学院大学国際学部付属研究所公開セミナー「憲法が変わる(かもしれない)社会」

第二回に参加して来た。初回も参加したかったんだけど、先週は仙台高裁にいてかなわず。

スピーカーは片山杜秀氏、対談者は研究所所長の高橋源一郎氏。
片山氏の専門は政治思想史。もともと戦前のナショナリズムを研究しつつ音楽評論も書く著述家で、慶応大学で教鞭を執られるようになったのは40代になってからとのことである。

主催の高橋氏によれば、この連続セミナーの主旨はなんらかの結論に誘導するのではなく、昨今活発になって来た改憲論を考えるにあたり、ほんとうに必要な知識を得ることだそうである。
改憲を考えるといっても、ごくふつうの庶民は憲法なんて中学高校の社会科の授業以来、本文を読んだこともないのが実情だろう。しかも憲法はわかりにくい法律用語で書かれている。そんな憲法に、まず、ひとりひとりが自分の立ち位置で向かいあい、己の頭で読み解くための道具が必要である。確かに。

第二回のテーマは「天皇と憲法・天皇と民主主義」。
なんでかというと、いま改憲を進めようとしている保守派の皆さんが、天皇を重んじる形に日本を変えていこうとしているからである。政治的思想的宗教的ナショナリズムをもって、不況のストレスに苦しむ人々を欺いて、明治大正時代の国家体制に戻そうとしている。
一方で今上天皇は戦後民主主義を擁護する姿勢を常に明確にしているから、彼らとは大きな思想的齟齬がみられる。このギャップは何か、ということが語られた。

以下、高橋氏の質問に片山氏が答える形で進行した(録音もしてないしメモに基づく概要なので一字一句このままではないです。念のため)。

Q.明治憲法と明治天皇とはどんなものか。いったい明治の初めに何がおきて、どんな国家が生まれたのか。

A.明治憲法はざっくりいえば「天皇=神」という憲法。
明治憲法は戦後新憲法になるまで一字も変更がなかった。その点では現憲法と同じで、解釈次第でどうにでもなる憲法だった。憲法を変えないで、解釈の範囲で大正デモクラシーも国家総動員体制も実現した。
違いは主権が天皇だったこと。明治憲法の最大の目標は天皇制の維持。もちろん国民をまもることがうたわれてはいるけど、それはあくまで天皇制を維持するための手段だった。
だから主権者は天皇なのに、天皇は何の責任も負わないしくみになっている。たとえば、欧米では戦争に負ければ元首も変わるし、革命がおこったりする。大幅に国家体制も変わる。日本の天皇はそうしたしくみを超えた“超越的存在”に設定されていた。
つまり一見グローバルスタンダードな国家を目指したようにみえて、尊王と開国を並列させた、西洋とは全く別の東洋的思想に基づいた国家体制だった。
西洋の憲法は国民の自己実現のためにある。ところが明治憲法では、国のために個々の幸せは犠牲にされなくてはならないことになっていた。

Q.人権と社会保障が注目された大正デモクラシーの時代から、なぜ第二次世界大戦、国家総動員体制という社会になっていったのか。

A.第一次世界大戦後の好景気の後、日本は辛亥革命で混乱する中国に市場を求めた。そこに関東大震災があって、その2年後に普通選挙が始まり、世界恐慌がおきた。
世界中不景気だから、選挙でどの政党が政権をとってもマニフェスト通りにはいかなくて政治不信になる。そのはけ口が軍や官僚に向かった。アジアブロック経済に解決を求めたのが大東亜共栄圏。そして満州事変がおきる。
大正デモクラシーだって綺麗事じゃなくて、人がそれぞれ豊かになりたいという基本的欲求によって始まった。それが戦時中、アメリカのプロパガンダで日本のナショナリズムがとんでもないもののように世界中に喧伝されて、日本の国民性自体が全世界から疑われることになってしまった。
それを日本の保守派はいまも恨んでいる。にもかかわらずその代弁者である安倍政権は日米同盟至上主義だし、今上天皇は国民と親しくすることで家業としての天皇制を維持しようとしている。いずれにせよスタンスがはっきりしない国。

最後に、たまたま来場していた政治学者の原武史氏も交えて、今上天皇のおことばについての討論があった。
去年8月、自ら退位について触れられた件である。

片山氏は、戦後民主主義を擁護する今上天皇の発言として、ふたつの側面があると指摘した。
ひとつめは、天皇が天皇制に言及するのは憲法違反であるということ。ふたつめは、積極的に語る行動主義的天皇像を提示したという点で、これは肯定的に評価せざるをえない、とした。

原氏はそれとはまったく別のポイントを指摘した。

われわれが天皇制を語るとき、しばしば想定されるのは近代の天皇制である。だがいまの天皇制ができたのは明治時代であり、それ以前の天皇制はいまとは別のものだった。
過去の天皇の半数以上は生前に退位していて、これが他国の王制・帝制とは大きく異なる点である。日本で最後に生前退位したのは光格天皇(注:在位1780〜1817年。けっこう長いね。亡くなったのは1840年)。といっても鎌倉〜江戸期の天皇は社会的影響力も弱く、政治力もなかった。2013年に今上天皇は天皇陵を見直し、江戸以前の小規模な、戦後憲法下の天皇制の、いわば身の丈にあった形に戻すことを提案した。

その一方で、今上天皇はおことばの中で、天皇の役割の中核は「いのり」すなわち宮中祭祀と、人々の傍に直接たつ行幸であるとしている。
しかし、宮中祭祀も行幸も明治以降に復活したもので、江戸期には行われていなかった。行幸に至っては平安中期以降何世紀にもわたって行われていない時期が続いていた。行幸は明治以降、天皇の力を強大化するための手段でもあった。
それを今上天皇は誰よりも熱心におこなっている。江戸以前の天皇の姿に戻そうと提案しながら、明治以降につくられた天皇制を強化しようとするのは矛盾している。

昭和天皇が終戦直後にやった巡幸が良い例で、戦争が終わって時代は変わったのに人のあり方はまったく変わっていなかった。人間宣言をした天皇のために、どこにいっても何万もの人が集まり万歳コールがおきて、ときに涙しながら君が代を斉唱した。
彼は玉音放送で「国体を護持」と断言している。敗戦がどれほど残酷でも、皇太子時代に全都道府県を行幸した彼は、君民一体の国体は簡単に崩壊しないことをよく知っていたからだ。

今上天皇もおことばのなかで、玉音放送と同じ言い回しで“皇室がどのような時にも国民と共にあり”と語った。
夫婦ふたりで国民の前で膝をつき直に手を触れる平成スタイルで、さらにひとりひとりの心に深く刻む行幸を確立したのは、ある意味ではかつての天皇制より危険といえる。

セミナーの内容はここまでで、以下しょうもない感想。

憲法の勉強がしたいけど、専門書は難しいし市民講座は高いしなどとくよくよしていたところに、最近何度か専門家のお話をうかがう機会があり、よりきちんと総合的に憲法を知りたいという欲求がたかまっていた。
天皇制には個人的にさほど興味があったわけじゃないけど、たった1時間半でもめちゃくちゃおもしろかったので、もっと勉強してみたくなりました。
それにしてもスピーカーお二方ともすんごい早口で喋る喋る。著作もまったく読んだことなかったけど、これから読んでみようと思います。
会場になった500名収容の大講義室はほぼ満席。平日の昼間、横浜市内とはいえ駅からかなり離れた山の上のキャンパスにここまで人が集まるというのが驚き。それだけ関心が集まってるってことだね(なんてコメントはのんきすぎですか)。大半はリタイア世代だったけど、現役学生と思しき若者もちらほら見かけました。
来週も出席の予定です。



明治学院大学横浜キャンパスにて。

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飴売りの墓

2017年09月18日 | lecture
加藤直樹さんと一緒に、埼玉から関東大震災・朝鮮人虐殺を考える

関東大震災当時、埼玉県寄居町の隣にある桜沢村というところに、具学永(グ・ハギョン)さんという28歳の朝鮮人の若者が住んでいた。
「朝鮮飴」と呼ばれる飴を街の子どもたちに売って生計を立てていたが、1923年9月5日、埼玉県内で起きている朝鮮人虐殺事件の知らせを耳にして、自ら警察に出頭し留置所に保護された。
といっても寄居町そのものは地震の影響もさほどなく、平穏だったともいう。街でたったひとりの朝鮮人だった彼は、ただで泊めてもらうのはわるいからと、警察署の庭の草引きなどして過ごしたその日の深夜、隣の用土村からつめかけた100人以上の自警団の手で、署内で惨殺された。4人しかいなかった警官たちにはなすすべもなかった。
その墓所が、現場となった寄居警察署跡の目の前の正樹院にある(ブログ「9月、東京の路上で」)。
今回は『九月、東京の路上で』の著者・加藤直樹氏といっしょに彼の墓にお参りするフィールドワークに参加した。

加藤氏の案内によれば、数千人単位ともいわれる虐殺の犠牲者のほとんどは氏名不詳となっていて、墓碑に名が刻まれた墓があるのはこの具学永さんと、さいたま市常泉寺の姜大興(カン・デフン)さんのたった2名である。具学永さんはこの地域に2年ほど住んでいて、墓を建てて埋葬してくれる日本人の友人がいた。姜大興さんは殺された染谷の人ではなかったが、持ち物から身元が判明している。
これが何を意味するかは火を見るよりも明らかではないだろうか。
つまり、彼らの他の犠牲者のほとんどは、名前も人格もある“人”としてみられていなかったということではないのだろうか。

埼玉で起きた大きな虐殺事件はどれも、当局によって県を縦断して朝鮮人を移送する道筋で発生している。
政府は震災の被災者となった朝鮮人をまとめて、鉄道やトラックや徒歩などで栃木の金丸原陸軍飛行場(大田原市)に運ぼうとしていた。その道々に、「朝鮮人が暴動を起こそうとしているから警戒せよ」という当局の通達を受けた地域の自警団が待ち構えていた。
すなわち、加害者と被害者の間にはほとんど面識がなかった。加害者にとって、汚れ、疲れ、縄や針金でくくられて引きずられていく人々は、名前も人格もない、ただ“朝鮮人”というレッテルを貼られただけの見知らぬ外国人だった。
たったそれだけの理由で、わかっているだけで200人近い朝鮮人が埼玉県内で殺害された。

地震による大きな被害がほとんどなかった埼玉県で起きた事件の背景には、前述の通達のような行政のミスリードが大きく影響しているのではないかと加藤氏はいう。
そういう意味では、先日フィールドワークに参加した横浜の事例とは事情がやや異なるかもしれない。
だが個人的には、やはりそこには少数者を人として認識せず、差別意識で判断してしまう固定観念が、より大きくはたらいているのではないかとも思う。虐殺に加わった多くの市井の人々のほかに、決して加わろうとしなかった人々もいたはずなのだ。間違っていると明確に自覚していた人もいただろうし、疑問に思いながら何もいえなかった人、怖くて遠巻きに見ているしかなかった人、さまざまな人がいただろう。
いずれにせよ、こんなときせめて、主体的な判断力を失わないでいられる人をもっと増やせる社会をつくることが、ヘイトクライムをなくすためのまず一歩のような気がする。差別はだめです、おかしいです、こんな事件残虐すぎます、悲しすぎます、というだけでいいとは、私には思えない。

具学永さんの墓所にお参りしたあと、少なくとも57人が殺害されたという熊谷市(ブログ「9月、東京の路上で」前編後編)の慰霊碑も訪問することができた。
この碑は、当時誰もかえりみなかった犠牲者の遺体を自ら集めて埋葬した新井良作さんという助役が、熊谷が市になって最初の市長に就任してから建てたという。碑文には「朝鮮人」という単語がない。戦時下という特殊な時代に、それでもこれを建てねばならないと決めた彼の心のうちを、とても知りたいと思う。
そういう人たちの声がもっと、聞きたいと思う。

お寺の方によれば、具学永さんのお墓には月命日にきまってお参りにくる人がいるといい、稀に韓国から自前の卒塔婆をもってこられる人もあるそうだ。どんな人なのか詳しいことはわからないが、都内から電車を乗り継いで2時間ほどもかかる田舎のお寺までわざわざ来られるからには、故人本人所縁の方には違いないだろう。姜大興さんにも、近年になって韓国に住む遺族がみつかっている。
そうした方々の心に、若くして謂れのない暴力によって命を奪われた故人を悼み、忘れまいとした当時の人々の思いはどんな風にうつっているのだろうか。
寄居町の具さんのお墓にせよ、姜さんのお墓や、熊谷や本庄、四ツ木橋など関東各地に散らばる慰霊碑の多くが、惨事を拡大した行政ではなく民間や個人の意志でこれまで受け継がれてきた。これからも事件の教訓とともに受け継いでいくことは、言葉でいうほど容易くはない気がする。
その見えない行先が、少し怖い。


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熊谷市の慰霊碑。