『共犯』
同じ高校の夏薇喬シャー・ウェイチャオ(ヤオ・アイニン)の転落死に偶然居合わせた黃立淮ホアン・リーファイ(ウー・チエンホー)、葉一凱イエ・イーカイ(チェン・カイユアン)、林永群リン・ヨンチュン(トン・ユィカイ) 。学校でいっしょにカウンセリングを受けるうち薇喬の死に好奇心をかきたてられた三人は彼女の葬儀に出席、生前、友人も恋人もなく、亡くなってさえ興味を持ってくれる級友すらいないことを知る。
ぐりも小中学生のころにいじめにあっていて、友人らしい友人がまったくいなかった時期がある。
殴られたり蹴られたりもしたしカツアゲにもあっていたけど、いちばんしんどかったのは無視されていたこと。ぐりの中学は一学年500人以上生徒がいた。その全員が、何を話しかけても決して答えてくれない。そしてもっときつかったのは、そのしんどさを誰にもわかってもらえなかったことだった。
子どもというのは無心なだけにいくらでも残酷になれる。そんな風に無視しておいて、一方で根も葉もない噂話をひろめておもしろがることもできる。
そういうときに最も被害者を深く傷つけるのは、直接的な虐待の加害者ではなく、なんの罪の意識もなくいじめに同調し、いっしょに無視したり噂をひろめあって楽しむ、無数のオーディエンスの想像力の貧しさだ。
観ていてものすごくデジャヴュを感じた。同じ学校でも見ず知らずの他人だった薇喬の死の真相を知りたいというだけで団結し、探偵ごっこにはまりこむ三人の少年。確たる目的もなく死んだ美少女のSNSのアカウントを盗みみたり留守宅に忍び込んで遺品を漁ったり、彼女のお気に入りの場所だった学校の裏山をぶらついたり、三人だけの秘密の冒険という非日常にただ興奮する。なんだか不朽の名作『スタンド・バイ・ミー』みたいだがあれは小学生の話だし、この映画の三人は同学年だが事件前にはとくに面識があったわけではない。
やがてあっさりと“犯人”らしき人物が発覚、三人は証拠を探すことも裏付けをとることもしないまま、なんの躊躇もなく私的制裁を試みる。そこに正義はない。ただ単に人を陥れて自分も楽しみたいというカタストロフ願望しかないことを、彼らは自分で気づこうとはしない。
そしてそうなるべくして、彼らが制裁を受けなくてはならない状況にまで陥る。そこで初めて、彼らは何がほんとうに薇喬を死なせたのかを身をもって知るようになる。
これ以上はネタバレになるのであえてここには書きませんが、まあさほど意外性のあるような話ではないです。ふつうです。
VFXやハイスピード撮影を駆使し、ノンリニア編集独特の可変カットを多用したまるでMVのような映像は中島哲也の『告白』そっくりだし、いじめを題材に少年少女たちを麻薬のように惹きつける死をとりまく学園ドラマといえば『リリィ・シュシュのすべて』にも非常にトーンが似ている。とくにスクールカウンセラー(アリス・クー)のズレたキャラはものすごく見覚えがある印象を受けてしまった。図書館のエピソードの元ネタは『耳をすませば』か。
前に『花蓮の夏』を観たときに若い陳正道(レスト・チェン)監督が『リリィ・シュシュのすべて』にすごく影響を受けたといってたけど、この作品に関しても、影響どころかいろんな日本映画や韓国映画のそれも青春映画・学園映画をガーッとまとめて混ぜ合わせたハイブリッドにすら観えてしまう。
とはいえ、じゃあ台湾映画らしさってなんだと訊かれても困っちゃうんだけどね。いま見返したら劇場で台湾映画観るのなんか5年ぶりだった。ひえー。5年て。
十代の自殺やいじめって普遍的な題材だし、個人的には、こういう映画を当事者である十代の子に観てほしいとは思うけど、果たして実際にいじめに関わっている子や、かつて関わった人がこういう作品によって何かに気づいたりすることはあるのだろうか。そこが常々疑問です。
とくに意識もせずに他人を貶めてそしてそのことをきれいさっぱりと忘れてしまえる残酷さは、きっと大なり小なり誰の心にもあるものなのだろう。問題は、それを客観的に顧みる能力が大抵の人間にはないというところだと思う。
どうしてないんだろう。なんでだろうね。
同じ高校の夏薇喬シャー・ウェイチャオ(ヤオ・アイニン)の転落死に偶然居合わせた黃立淮ホアン・リーファイ(ウー・チエンホー)、葉一凱イエ・イーカイ(チェン・カイユアン)、林永群リン・ヨンチュン(トン・ユィカイ) 。学校でいっしょにカウンセリングを受けるうち薇喬の死に好奇心をかきたてられた三人は彼女の葬儀に出席、生前、友人も恋人もなく、亡くなってさえ興味を持ってくれる級友すらいないことを知る。
ぐりも小中学生のころにいじめにあっていて、友人らしい友人がまったくいなかった時期がある。
殴られたり蹴られたりもしたしカツアゲにもあっていたけど、いちばんしんどかったのは無視されていたこと。ぐりの中学は一学年500人以上生徒がいた。その全員が、何を話しかけても決して答えてくれない。そしてもっときつかったのは、そのしんどさを誰にもわかってもらえなかったことだった。
子どもというのは無心なだけにいくらでも残酷になれる。そんな風に無視しておいて、一方で根も葉もない噂話をひろめておもしろがることもできる。
そういうときに最も被害者を深く傷つけるのは、直接的な虐待の加害者ではなく、なんの罪の意識もなくいじめに同調し、いっしょに無視したり噂をひろめあって楽しむ、無数のオーディエンスの想像力の貧しさだ。
観ていてものすごくデジャヴュを感じた。同じ学校でも見ず知らずの他人だった薇喬の死の真相を知りたいというだけで団結し、探偵ごっこにはまりこむ三人の少年。確たる目的もなく死んだ美少女のSNSのアカウントを盗みみたり留守宅に忍び込んで遺品を漁ったり、彼女のお気に入りの場所だった学校の裏山をぶらついたり、三人だけの秘密の冒険という非日常にただ興奮する。なんだか不朽の名作『スタンド・バイ・ミー』みたいだがあれは小学生の話だし、この映画の三人は同学年だが事件前にはとくに面識があったわけではない。
やがてあっさりと“犯人”らしき人物が発覚、三人は証拠を探すことも裏付けをとることもしないまま、なんの躊躇もなく私的制裁を試みる。そこに正義はない。ただ単に人を陥れて自分も楽しみたいというカタストロフ願望しかないことを、彼らは自分で気づこうとはしない。
そしてそうなるべくして、彼らが制裁を受けなくてはならない状況にまで陥る。そこで初めて、彼らは何がほんとうに薇喬を死なせたのかを身をもって知るようになる。
これ以上はネタバレになるのであえてここには書きませんが、まあさほど意外性のあるような話ではないです。ふつうです。
VFXやハイスピード撮影を駆使し、ノンリニア編集独特の可変カットを多用したまるでMVのような映像は中島哲也の『告白』そっくりだし、いじめを題材に少年少女たちを麻薬のように惹きつける死をとりまく学園ドラマといえば『リリィ・シュシュのすべて』にも非常にトーンが似ている。とくにスクールカウンセラー(アリス・クー)のズレたキャラはものすごく見覚えがある印象を受けてしまった。図書館のエピソードの元ネタは『耳をすませば』か。
前に『花蓮の夏』を観たときに若い陳正道(レスト・チェン)監督が『リリィ・シュシュのすべて』にすごく影響を受けたといってたけど、この作品に関しても、影響どころかいろんな日本映画や韓国映画のそれも青春映画・学園映画をガーッとまとめて混ぜ合わせたハイブリッドにすら観えてしまう。
とはいえ、じゃあ台湾映画らしさってなんだと訊かれても困っちゃうんだけどね。いま見返したら劇場で台湾映画観るのなんか5年ぶりだった。ひえー。5年て。
十代の自殺やいじめって普遍的な題材だし、個人的には、こういう映画を当事者である十代の子に観てほしいとは思うけど、果たして実際にいじめに関わっている子や、かつて関わった人がこういう作品によって何かに気づいたりすることはあるのだろうか。そこが常々疑問です。
とくに意識もせずに他人を貶めてそしてそのことをきれいさっぱりと忘れてしまえる残酷さは、きっと大なり小なり誰の心にもあるものなのだろう。問題は、それを客観的に顧みる能力が大抵の人間にはないというところだと思う。
どうしてないんだろう。なんでだろうね。