落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

只要這樣就足夠了

2015年07月29日 | movie
『共犯』

同じ高校の夏薇喬シャー・ウェイチャオ(ヤオ・アイニン)の転落死に偶然居合わせた黃立淮ホアン・リーファイ(ウー・チエンホー)、葉一凱イエ・イーカイ(チェン・カイユアン)、林永群リン・ヨンチュン(トン・ユィカイ) 。学校でいっしょにカウンセリングを受けるうち薇喬の死に好奇心をかきたてられた三人は彼女の葬儀に出席、生前、友人も恋人もなく、亡くなってさえ興味を持ってくれる級友すらいないことを知る。

ぐりも小中学生のころにいじめにあっていて、友人らしい友人がまったくいなかった時期がある。
殴られたり蹴られたりもしたしカツアゲにもあっていたけど、いちばんしんどかったのは無視されていたこと。ぐりの中学は一学年500人以上生徒がいた。その全員が、何を話しかけても決して答えてくれない。そしてもっときつかったのは、そのしんどさを誰にもわかってもらえなかったことだった。
子どもというのは無心なだけにいくらでも残酷になれる。そんな風に無視しておいて、一方で根も葉もない噂話をひろめておもしろがることもできる。
そういうときに最も被害者を深く傷つけるのは、直接的な虐待の加害者ではなく、なんの罪の意識もなくいじめに同調し、いっしょに無視したり噂をひろめあって楽しむ、無数のオーディエンスの想像力の貧しさだ。

観ていてものすごくデジャヴュを感じた。同じ学校でも見ず知らずの他人だった薇喬の死の真相を知りたいというだけで団結し、探偵ごっこにはまりこむ三人の少年。確たる目的もなく死んだ美少女のSNSのアカウントを盗みみたり留守宅に忍び込んで遺品を漁ったり、彼女のお気に入りの場所だった学校の裏山をぶらついたり、三人だけの秘密の冒険という非日常にただ興奮する。なんだか不朽の名作『スタンド・バイ・ミー』みたいだがあれは小学生の話だし、この映画の三人は同学年だが事件前にはとくに面識があったわけではない。
やがてあっさりと“犯人”らしき人物が発覚、三人は証拠を探すことも裏付けをとることもしないまま、なんの躊躇もなく私的制裁を試みる。そこに正義はない。ただ単に人を陥れて自分も楽しみたいというカタストロフ願望しかないことを、彼らは自分で気づこうとはしない。
そしてそうなるべくして、彼らが制裁を受けなくてはならない状況にまで陥る。そこで初めて、彼らは何がほんとうに薇喬を死なせたのかを身をもって知るようになる。
これ以上はネタバレになるのであえてここには書きませんが、まあさほど意外性のあるような話ではないです。ふつうです。

VFXやハイスピード撮影を駆使し、ノンリニア編集独特の可変カットを多用したまるでMVのような映像は中島哲也の『告白』そっくりだし、いじめを題材に少年少女たちを麻薬のように惹きつける死をとりまく学園ドラマといえば『リリィ・シュシュのすべて』にも非常にトーンが似ている。とくにスクールカウンセラー(アリス・クー)のズレたキャラはものすごく見覚えがある印象を受けてしまった。図書館のエピソードの元ネタは『耳をすませば』か。
前に『花蓮の夏』を観たときに若い陳正道(レスト・チェン)監督が『リリィ・シュシュのすべて』にすごく影響を受けたといってたけど、この作品に関しても、影響どころかいろんな日本映画や韓国映画のそれも青春映画・学園映画をガーッとまとめて混ぜ合わせたハイブリッドにすら観えてしまう。
とはいえ、じゃあ台湾映画らしさってなんだと訊かれても困っちゃうんだけどね。いま見返したら劇場で台湾映画観るのなんか5年ぶりだった。ひえー。5年て。

十代の自殺やいじめって普遍的な題材だし、個人的には、こういう映画を当事者である十代の子に観てほしいとは思うけど、果たして実際にいじめに関わっている子や、かつて関わった人がこういう作品によって何かに気づいたりすることはあるのだろうか。そこが常々疑問です。
とくに意識もせずに他人を貶めてそしてそのことをきれいさっぱりと忘れてしまえる残酷さは、きっと大なり小なり誰の心にもあるものなのだろう。問題は、それを客観的に顧みる能力が大抵の人間にはないというところだと思う。
どうしてないんだろう。なんでだろうね。



Liebe ist kein Verbrechen

2015年07月20日 | movie
『ザ・サークル』

1958年、チューリヒ。教師を目指すエルンスト(マティアス・フンガビューラー)はパーティーで歌う若いドラァグ・クイーン、ロビー(スヴェン・シェーカー)に魅了される。エルンストの不器用だが誠実なアプローチで結ばれるふたりだが、ゲイであることを家族に受け入れられているロビーは、恋人が両親になかなか紹介してくれないことが理解できずにいた。
戦前に発刊し1960年代まで欧米のゲイ・コミュニティの中心を担った地下雑誌「ザ・サークル」の歩みを背景に、スイス初の同性結婚を果たした実在のカップルの愛の軌跡を描く。東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で鑑賞。

よく考えたらスイス映画ってあんまり観る機会ない。記憶にある限りでは、ドキュメンタリーを別にしてスイス映画って初めてかもしれない。
そのなかでもゲイのための地下雑誌の話ですからまあ地味です。マニアック。
それを現代の本人インタビューを交えながら淡々と描いてるんだけど、この手法がなかなかおもしろい。スイスでは同性愛は犯罪とはされていなかったものの、それでも当時は世間に知られればたちどころに社会的地位を失うほど差別意識は充分に根強く、美容師のロビーはまだしも教師のエルンストにとって「ザ・サークル」の仲間たちとの繋がりは生き甲斐でもありながらリスクでもあった。エルンストは一本気な堅物ではあっても決して要領がいい方ではないから、観ていてものすごくドキドキする。いつバレる、どこからバレるんだろうと常にはらはらさせられる。
その一方でかわいいロビーとのあつあつぶりは観ていて微笑ましい。客席全体がなんだかにやにやさせられてしまうくらいである(見たわけじゃないけど)。地下雑誌のアイドルだった若い歌姫とマルチリンガルのインテリ。きっとお互いに自慢の彼氏だったんだろーなー。

性的少数者であるというハンディキャップを抱えて孤独に生きるゲイたちの心を支えあたため、互いを結ぶ重要な役割を果たした地下雑誌の歴史は、そのままスイスのゲイたちが市民権を獲得していくまでのまがりくねった長い道程に重なっている。違法ではないにも関わらず当局の弾圧を受けながら2,000人の会員たちの拠りどころであり続けた「ザ・サークル」だが、やがてその役目を終えるときがやってくる。残酷ないい方だが自然な時代の流れの結果だし、ある意味では決して悪いことではない。
しかしいちばん大切なことは、いまを含め、後の時代に生きる人々は決して、彼らの苦しい闘いの年月を、その嵐の中で燃やし続けた魂の灯火を忘れるべきでないということだろう。そうして流されて来た血と汗と涙のうえに、われわれは暮しているのだから。

劇中、インタビューで「ザ・サークル」を主催したロルフ(シュテファン・ヴィチ)についてインタビューで語られる部分がとても印象的だった。ゲイの自由や権利だけでなくゲイたるプライド、ゲイのあるべき姿を真摯に追求していたロルフは「ホモ・セクシュアリティ(同性愛的指向)」という表現を嫌い、「ホモ・エロティック(同性愛)」といいたがったという。同性愛は指向のひとつではあっても決して特異ではない。相手が誰であれただ愛する人のそばにいたいという、人としてごくふつうの愛情だからといったそうだ。
確かにそれはその通りで、インタビューに登場する現在のエルンストとロビーは長年連れ添ったごくふつうのカップルでしかない。ロビーが果物をきり、エルンストがテーブルを整える。何十年もそばにいていろいろなことをともに乗り越えてきて、いっしょにいるのが当たり前、それぞれの役割によって相手を支えあいながら暮している家族であって、性別は特に問題じゃない。昔、香港の映画監督・關錦鵬(スタンリー・クァン)が自分とパートナーとの話をしていたのを思いだして懐かしくなった。彼もパートナーがいるオープンリー・ゲイだ。食事中にテーブルクロスが汚れたら、監督が汚れを拭いて、パートナーが汚れを拭いたティッシュをかたづけるといっていた。ふつうだ。

ふつうの人たちの地味にふつうの話なのに、劇中では大勢の人がばたばたと命を落とす。暴力もある。弾圧もある。悲しい。
彼らは何のために死ななくてはならなかったのか。何が彼らを死なせたのか。
人は違いを理由に簡単に人を誹り蔑むことに躊躇しないけど、そのことで、これまでにどれだけの人が無惨に殺されて来ただろう。彼らにも人生があり、夢があり、大切にしているものがあった。当たり前に、ふつうに。
現在のエルンストとロビーの笑顔が幸せそうなだけに、亡くなってしまった人たちにも、こんなふうに幸せになる権利があったのになと思えて、せつなかったです。



窓辺の天使

2015年07月19日 | movie
『ガーディ』

レバノンの下町に生まれ育った音楽教師レバ(ジョージ・カッバス)は、同級生のララ(ララ・レイン)と結ばれ幸せな家庭を築くが、3人めにして待望の男の子だったガーディ(エマニュエル・カイラッラ)はダウン症だった。窓辺で歌うガーディの声に悩まされた近隣住民は、レバに長男を施設に預けるよう迫り・・・。
SKIPシティ国際Dシネマ映画祭で鑑賞。

6年ぶりのSKIPシティ。
今年で12回めだそうです。前は毎年のように行ってたんだけどね。ひさびさ行ったら入場料が値上がってた。
あとこれ開始当初は映画の大半がまだフィルム撮影で、デジタル撮影を映画に普及させたいというのも開催目的のひとつだった気がするんだけど、もういまは逆にフィルムで撮る映画の方が少ないくらいになって来てるはず。だからいろいろ事情も変わってるはずだと思うんだけど。
今年は今日一日だけのつもりで行ってみたけど、相変わらず盛況でしたよ。レビューが一本しかないのは単なる怠慢です。

上映後のQ&Aでプロデューサーが語るところによると、この物語のテーマは「多様性を受け入れる」ことだそうである。
レバノンは多民族多宗教の国だが、この映画にも多種多様な人々が登場する。ごく狭い路地沿いの小さなコミュニティーを舞台にしているが、商売人がいて公務員がいて弁護人がいて、娼婦がいていかず後家(っていい方イヤだね)がいて、それぞれに抱えた問題があって生活に不満がある。それを互いになすりつけあったり誤摩化しあったりして、どうにかこうにか肩寄せあって生きている。
彼らは知的障害をもつガーディにそのストレスのはけ口を見いだし、彼さえ排除すればなんとかなるだろうと勝手に決めつける。そのことに決して感情的に反応せず、意識的に冷静に対処しようとするレバやリロ(サミール・ユーセフ)の企みが楽しい。まあ一種のファンタジーである。

設定は奇想天外だが、基本的にモノローグに映像がついていてときどき会話、という紙芝居形式が世界観にマッチしていて、全体にバランスのとれた娯楽作品になってました。プロダクションデザインの完成度が高くて、映像がとても綺麗。小道具の使い方がすごくオシャレで全体にちょっとガーリーなのが意外でした。レバノン行ってみたくなった。
レバノンでは4ヶ月間ものロングランヒットを記録したそうです。うん、いい映画でしたよ。ハートウォーミングで。

Q&Aでも出てたけど、レバノンて日本では馴染みのない国で、どうしても20~30年前の内戦のイメージしかない。前に東京国際映画祭に『ファラフェル』が出品されたときもゲストがいってたけど、レバノンの人にとってそういう国際感情ってやっぱちょっと微妙なんだろうな。
このあとに上映された『モンテビデオの奇跡』のユーゴスラビアなんて内戦で6ヶ国に分離した。そういう激しい内戦を経験した国の人の気持ちなんて、日本にふつうに住んでいるとなかなかわからない。ぐっといろいろ訊いてみたい気分にはなったけど、いきなり訊けるもんでもないし、迷うよねえ。



괜찮아요

2015年07月18日 | movie
『夜間飛行』

中学時代の同級生ギウン(イ・ジェジュン)に密かに想いを寄せるヨンジュ(クァク・シヤン)だが、進学校で成績トップの彼にとって、誰からも恐れられる番長グループの中心人物になってしまったかつての級友はあまりに遠かった。個人面談で親友ギテク(チェ・ジュナ)がいじめられていることを担任(ヒョンソン)に相談したところ、成績以外のことは考えるなと一蹴されてしまい・・・。
『後悔なんてしない』のイソン・ヒイル監督2014年の作品。東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で鑑賞。

『後悔なんてしない』を観たのは2008年。そんなに前だった気がしないのは印象があまりにも強烈だったからか。
韓国映画といえば個人的な最大の特徴はクドさ。こんなにクドい映画つくれるの韓国人だけでしょってくらい、クドい。しつこい。たまにホ・ジノみたく(比較的)あっさり系の監督もいるにはいるみたいですけど、だいたいがコテコテである。そしてそのコテコテ具合が韓国映画にしかない良さでもある。と思う。
この『夜間飛行』に関していえば、途中まではそこまでクドくない。純朴だけどハンサムな優等生が、学校をサボって怪しげな深夜バイトに明け暮れるアウトサイダーに淡い恋心を抱く、ありがちな青春映画風である。やたらに教師が高圧的なわりに、バカみたいにタバコばっかり吸いまくる番長グループが幅を利かせる学校の荒廃ぶりは寒々しいけど、主人公がなんだかいつもニコニコして気楽そうな態度を貫こうとするのがいいコントラストになっている。母(パク・ミヒョン)ひとり子ひとりの家庭でさえ、苦労は絶えないはずなのに、常に軽口ばかりたたきあっていて深刻さがない。

だが儒教の国=絶対的家父長制の国である韓国で、同性愛者として生きるのは厳しい。どんなに仲が良くても、ヨンジュは親友はおろか親にもほんとうの自分をさらけ出すことができないでいる。唯一本心を打ち明けることができたチュヌ(イ・イクチュン)も学校を去りいよいよ孤独になっていくヨンジュだが、一方のギウンにも誰にも心を開くことができない重い過去があった。
つまりこの物語はセクシュアルマイノリティの話というよりは、人生を勝ち負けだけで評価する社会から排除され差別されることを恐れる若者同士が、互いの孤独感によって引き寄せあい、信じあっていく友情の物語といった方があっているかもしれない。
そういう図式でいうと、互いに社会的弱者である少女とチンピラの心の交流を描いた『息もできない』とよく似ている。観ててすごくデジャヴュを感じました。

韓国映画なのでこの作品も途中からお約束的にだんだんクドくなってくる。そもそも物語の展開が全然読めない。とくに主人公であるヨンジュが目立って意外性のある行動をしないのに対して、ギウンの背負っているらしい重荷の設定がなかなかみえてこない。クレヨンしんちゃんがなにを示唆しているのかもわからない。ヨンジュとギウンの出会いもかなりあとの方になってわかってくる。
勉強に追われる大抵の十代と同じように、彼らの世界もとても小さい。学校と家族と友だちだけの要素で、よくここまでひねりまくれるものである。このストーリーテリングのしつこさはマジ上等です。
そしてクライマックスのやり過ぎ感はやはり期待通り。やってくれちゃってるね。スゴイね。素晴らしいよ。気持ちいい。

演技がうまいなあと思って観てたけど、あとで調べたら主役ふたりはモデル出身で演技経験はあまりないみたいです。全然そんな感じしない。目の動きやさりげない仕草で心情を表現する繊細な演技が非常に魅力的でした。人の良さそうな笑顔が印象的なクァク・シヤンは雰囲気が妻夫木聡によく似てます。ショートヘアに無精髭を生やして、ぱっと見ワイルドなイ・ジェジュンは意外に幼い口元の寂しそうな表情に萌えます。スラッと手脚が長くてアクションが超キマッてた。
音楽の使い方も素敵だったし、ライティングも凝ってるし、途中ときどき挟まれる情景描写がまた絶景で、映像も芸術的な映画。物語は複雑だけど、いいたいことはものすごくストレートに響いてくる。
ちょっともう一回観たいですね。一般公開されないかなー。