落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

愛について、ふたたび

2005年09月23日 | movie
『アバウト・ラブ 関於愛』
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正直な話、今日が休日出勤じゃなかったら、そして上映館が仕事場の近くじゃなかったら、たぶんこの作品映画館で観ることはなかったと思います。
というのはこのムービーアイという会社が前に手がけた『最後の恋、初めての恋』という日中合作映画がどうしても好きになれなかったから。日本映画のよくないところをわざわざ外国まで持ってってそのまま標本にしたみたいにしか見えなかった。だからこの『アバウト・ラブ 関於愛』にもまったく期待はしてませんでした。失礼な言い方だけど。
でも台北篇の易智言(イー・ツーイェン)監督の『藍色夏恋』はすごく好きだったし、上海篇の張一白(チャン・イーバイ)にも注目しているので、一応、まぁついでだし・・・という感じで観てみました。

結果としては予想通り。
東京篇、惨敗。カタイ。古い。陳腐。出来の悪い連続ドラマみたい。盛り上がりも意外性もなにもなく、ただ退屈なだけ。全然ダメ。
伊東美咲は思ったよりいい芝居してたと思うし、陳柏霖(チェン・ボーリン)も相変わらずチャーミングだ。
だがいかんせん脚本がさっぱりイケてない。東京という舞台にこだわりすぎていて、3本の短編オムニバスという時間の枠にも縛られすぎ。その割りには話が冗長でメリハリもなにもない。なんですかあのサブいモノローグは?あんなの全然いらないし。大体こんなストーリーではヤオ(陳柏霖)が外国人である必然性がまったくないではないか。必然性はないのに、彼が留学生であるという設定には無意味に囚われている。
あとコレ全編ハイビジョン撮影なのだが、東京篇に限ってそれが活かしきれていない。大島渚ならきっと「画に思想がない」といっただろう。

いちばんおもしろかったのは台北篇。
画面に台北の町は全然出てこない。出てくるのはヒロイン・アスー(范曉萱メイビス・ファン)の部屋と、海、その2箇所の間を疾走するバイクだけ。最後の1シーンだけが鉄ちゃん(加瀬亮)の部屋。
ストーリーもとてもシンプルだ。夜中に眠れなくて大きな本棚をつくったアスーだが、完成した本棚が重くて持ち上がらない。そこで日本から来た鉄ちゃんを呼び出す。鉄ちゃんはアスーにちょっと気があって、真夜中に電話なんかかかって来るとホイホイとやって来てしまう。ワインなんか買って、さりげなくめかしこんだりなんかして。
物語はこのふたりのファニーな一夜と、夜が明けて海に行き、帰るところまでの短いひとときを淡々と描いている。それでもきちんと起承転結がなめらかにかつダイナミックに流れていくし、そこにはしっかりと観客の心に訴えかけてくる力がある。脚本が秀逸なのだ。恋のときめきとせつなさ、涙のあたたかさと孤独の心許なさがとてもストレートに描かれている。そして的確でムリのない自然な演出。エンターテイメント性だってちゃんとある。
加瀬亮もいい味出してたけど、范曉萱がコケティッシュでかわいかった。むちむちしてて、なのにすらっとしてて、女の子女の子した雰囲気が嫌味じゃない。演技もいい。他の出演作も是非観てみたい。

上海篇は微妙でしたね。
致命的なのは塚本高史の演技に奥行きがない上に、撮る方にも彼に対する愛情がまったくないというところ。
ヒロイン・ユン(李小[王路]リー・シャオルー)は自宅の2階に下宿している日本人留学生の修平(塚本高史)に淡い恋心を抱くのだが、ユンの目線の先にいる修平の描き方になんの感情もこめられていないので、そのせつなさがさっぱり表現されていない。なかなか感情移入できない。
なのであのラストシーンにもなんのカタストロフも感じない。せっかく劇的なお話なのに、すごくもったいない。
ただし「中国人と日本人の恋」と「(舞台となる)街」のふたつのテーマがいちばんうまくクリアされてたのはこの上海篇だと思います。多少展開にギクシャクしたところもあるし、いささか型にはまったストーリー展開ではあるにせよ。
ところで作中ユンがちゃんとした英語を喋ってたのに驚き。中国人のふつーの女子高生が英語・・・。ほー。
しかし李小[王路]は周迅(ジョウ・シュン)そっくりやな。うりふたつです。

このオムニバスは少しずつ互いに関係性があるのだが、そこへなぜか登場するのがスペインという第三者的な国。
東京篇の美智子(伊東美咲)の元彼が留学していたのはスペイン、上海篇の修平の恋人が滞在しているのもスペイン。ユンもスペインの地理や言葉を勉強している。
これがなぜスペインでなくてはならないのかがよくわからない。台湾でも中国でも日本でもない別の国を出す必要があるとして、それをスペインに統一する必要はまるでないような気がする。本当はあるのかもしれないけど、ぐりにはわからなかった。

映像は台北篇がいちばん綺麗でした。上海篇はお金かけてるなーという印象。
全体を通していえるのは、出演者含め演出家・脚本家含め日本は中華系(特に台湾)のクリエイターにかなり負け気味な傾向がはっきり作品に出てしまっているということ。もう火を見るよりも明らかです。情けないことに。
映画界の偉い人は、なんでこうなったのかよく考えてもらいたいと思います。マジで。
それと愛に関するオムニバス映画といえば『愛の神、エロス』が日本でも今年公開されたけど、この『アバウト〜』は3本とも「愛」と呼べるなにほどのものも描くに至ってないとゆーのがキビシイ。辛うじて画面から「愛」らしきものが伝わってくるのは、台北篇くらいだろうか。他の2本は愛どころか「恋」さえ始まらずに物語が終わってしまう。
それはそれでいいのかもしれないけど、じゃあそれならタイトルに「愛について」などとつけるのはどうかと思う。
最近はアジア各国での合作が盛んだけど、やっぱり日本主導の合作はどーもイマイチでんな。それも映画界の偉い人はきちっと認識してほしいです。

今日の収穫としては上映前に11月公開の『魅惑の影絵アニメーション ロッテ・ライニガーの世界』の予告を観たこと。
こういうの実はすごく好きなんです。11月ね。観るぞ。絶対。

無免許で公道レースの話とは知らなんだよ

2005年09月17日 | movie
『頭文字D』
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って知らなすぎ?そりゃもう思いっきりファンタジーですわ。
でも原作もアニメもぜんぜん興味なかったし。主人公が中2からクルマで豆腐の配達してたってエピソードにはマジで「うそーん」とか思っちゃったよー。
ストーリーはごくごく単純で凡庸な青春ドラマ。出演者なんかホント誰でもいい。けどさすがにカーアクションはスゴイ臨場感です。ところどころどーやって撮ってんのか一瞬見当つかないとこもあったし、しかも何度も繰返し出てくるコースなのに毎回絶対に飽きさせない。カースタントのテクニックもスゴイんだろうけど、カメラワークがほんとに気持ちいいです。
この作品の撮影監督は麥兆輝(アラン・マック)と共同演出の劉偉強(アンドリュー・ラウ)が兼任だけど、サブは黎耀輝(ライ・イウファイ)と伍文拯(ン・マンチン)。黎耀輝は王家衛組も長くやってた人ですね。『ブエノスアイレス』で梁朝偉(トニー・レオン)の役名に使われてて覚えちゃったけど。最近は『インファナル・アフェア』シリーズや『2046』で評価されてる立派なチーフ。伍文拯の方はずっと劉偉強組の人らしい。
この映画の主役は俳優じゃないです。カメラと、クルマ。ぐりはクルマにゃちーとも興味ありませんが、観てるうちになんとなくカーキチくんたちのクルマに対する「愛」が伝わってくる。クルマがかわいく見えてくる。
だから総合してみればこれはなかなかよく出来た映画なんじゃないか?みたいな気はします。編集はちょっとくどくて微妙にサムかったけど、音楽なんかはよかったです。
あと鈴木杏の脚が細くて長いのに驚き。こんなスレンダーな子だったんだ。それも知らなんだよ。にしてもこの役も彼女がやる意味はあんましなかったかも。つうかもったいないし。実力派なのにこんなふつーのギャル役。最近仕事の選び方おかしいよなこの子・・・。

今日朝イチで新宿の上映館に行ったんだけど、予定のシネマミラノじゃなくて隣の新宿東急に変更になってました。こっちのがスクリーンも倍近くおっきいし音もいいです。Hong Kong Addict Blogによるとこの連休のみ新宿東急での公開だそうです。より良い環境条件で字幕版を観たい方はお早めに新宿へ。

開場時には配給関係の人がやたらめったらいっぱい来てたけど、あれは一体なんだったんだろー。

虞姫再見

2005年09月11日 | movie
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今日はホントは投票の後仕事の予定があったのだが天候悪化のためキャンセルに。
なので『舞劇 覇王別姫 ある愛の伝説』上演に併せた映画『さらば、わが愛 覇王別姫』のレイトショーに行ってきました。

記憶にある限りではぐりはこの映画をスクリーンで観るのは初めてだ。
93年だかの日本公開時はまだ学生で、世間でやんやと騒がれてるものにいちいち反発する生意気なガキだったために劇場では観なかったのだが、のちのちビデオやLD(持ってるんだなこれが)で観ては「スクリーンで観ればよかった」と後悔した。
断っておくがぐりはこの映画は決して好きではない。好きにはなれない。だが世間で批判されているほどイヤな作品でもないと思う。ぐりは時代考証や舞台背景の再現といった些末なリアリズムには正直ほとんど興味はないし、そうしたトリビア的な映画の見方に何の意味があるのかまったくわからない。なのでこの映画のあれこれが史実に反しているとかどこそこの表現が乱暴だとかそういうことは問題ではない。単に、各場面の演出過多なあざとさとディテールの粗雑さが大味に感じるだけだ。
あざとくはあっても確かにこの映画は美しい。映像も綺麗だし音楽もいいと思う。今回初めてスクリーンで観て、改めて、もっとフィルムの状態がよかった時に観ておくべきだったと思った。

それと何度めかの鑑賞で思い当たったのだが、やはりこの映画はいわゆる「同性愛映画」ではないと思った。
主人公・程蝶衣は男性でありながら兄弟子の段暁樓との関係に異様に固執し、暁樓の妻・菊仙にも露骨に嫉妬するが、その感情はいわゆる単純な恋心ではない。というか恋心でないからこそ本人も苦しんだのだ。
暁樓はそんな蝶衣にことごとに芝居と私生活はべつものだと諭すが、蝶衣はまるで耳を貸さない。それもそのはずで、彼にとっては芝居が全て、芸が全てだから、そもそも人間らしい「私生活」になどなんの価値も見いだせはしなかったのだ(だからこそアヘンに溺れたりパトロンと関係を持ったり、破綻した生活に陥るのだ)。そして彼の芝居には暁樓が欠かせなかった。暁樓を支えにして彼は芸術家として生きて来たのだ。彼は暁樓にもそうした価値観を求めたが、なぜか暁樓はそういう人間にはならなかった。いつもいっしょにいて支えあって育ったふたりの価値観がなぜそこまでかけ離れていたのかはわからないが、蝶衣が本心から暁樓との関係を発展させたいとは望んでいなかったことだけは確かだと思った。ただ現状維持だけを熱望していたのではないだろうか。むしろ仮に彼の感情が恋であったなら、一生を報われない恋に捧げつくすよりもっと劇的な展開もあり得たのではないだろうか。

前にも少し書いたが、この映画が撮影された当時の張國榮(レスリー・チャン)の北京語は発音に問題があり、完成した映画の台詞はほとんどが別の役者の吹替えになっている。
だが陳凱歌(チェン・カイコー)監督の意図なのかこだわりなのか、部分的にレスリー本人の声が残されているシーンもあって、観ていてそこだけがふと「程蝶衣」ではなく「張國榮」に見えてドキッとした。それでまた「ああこのひとはもういないんだ、死んでしまったんだ」とさみしくなった。
そらおそろしいほどの熱演が、今となってはあまりにせつない。芝居の役と自分を混同していた程蝶衣が、芸能人・張國榮と私人・張發宗とを器用に分けて生きられなかったレスリーにくっきりと重なってみえてしまう。
今日の観客の中にはすっごい号泣してた人もいたけど、正直ぐりは涙も出なかった。映画には感情移入できないし、映画と似たような末路を辿ったレスリーのために泣くには、ぐりは彼の苦悩をまるで理解してはいないし、理解したいとも思えない。
何年かたてばいずれわかるようになるのかもしれないけど、今はまだわかりたくないのだ。

アーサー・ゴールデン著『さゆり』

2005年09月05日 | book
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章子怡(チャン・ツィイー)主演の映画『SAYURI』の原作小説。1年くらい前、一度読みかけて放ったらかしてたんだけど今回改めて挑戦。
ぐりは基本的に観たい映画は事前情報をなるべく排除して先入観なしで観る習慣なんだけど、『SAYURI』にはとくになんにも期待してないし(爆)、小説はおもしろいみたいなので読んでもいいかなと思い。

おもしろかったですよ。うん。時間も手間もしっかりかけて練りに練り上げた工芸品のような小説です。
ぐりは花柳界にはまったく不案内なのでここに描かれた世界がリアルなのかそーでないのかは皆目わからない。わからないけどちゃんとリアルには感じます。不思議なことに。それだけ構成力はしっかりしている。
ストーリーとかキャラクター描写とかは日本人が読んでもそんなに新鮮味はないけど、これをアメリカ人が書いたってのはスゴイかもしれない。よくこんなに日本人がわかるなー、と感心してしまう。
てゆーのが、ほぼ同じ時代背景で高知を舞台にした宮尾登美子の花柳小説は何冊か読んでるんだけど、それとかなり通じるところがあるのね。はっきりいって人物描写はそっくりかもしれない。宮尾作品の物語そのものは女の不幸な側面がもっと強調されてるけど。

お話はNHKの朝の連続テレビ小説になりそーな話です。そんなとこも宮尾登美子的。
舞台は昭和初期。田舎の漁村に生まれた少女が芸妓の置屋に売られて舞妓になり、芸妓になり、戦争が来て旦那を失い、終戦後花柳界に戻ってほんとうのしあわせをつかむまでの一生を、NYに移り住んだ老妓の回顧録として描いている。
だから全編一人称の語り言葉で、いきいきとなめらかにあざやかにかつやさしい文体で物語が運ばれていく。この文体がぐりの大好きな小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)に似ている。彼の作品は再話文学といって小説ではないが、その多くは妻や使用人や近所の人などから語り聞かせられた日本の昔話を英語で構成しなおしたものだ。それらはみな、現象のひとつひとつを指先でゆっくりと撫でては、撫でたところから片目でそっと覗きこむような、やわらかくたおやかな繊細な文体で描かれている。
だから結果として、「史学者による老妓のインタビュー」形式で書かれた『さゆり』のスタイルが八雲作品に似ているのは当り前といえば当り前のことかもしれない。あるいは、著者ゴールデン自身が直接八雲の影響を受けていてもおかしくはない。八雲の著書は英語圏における日本文化研究の専門書としては古典中の古典だからだ。

そんな文体のせいもあって最後までとても楽しく読むことができた。
大好きな小泉八雲は明治37年に54歳という若さで亡くなっていて、『さゆり』に描かれた時代には既にこの世の人ではなかったし、亡くなるまでに日本を舞台にしたオリジナルの長編小説は1作も書かなかったけど、もし生きていたらこんな小説を書いてくれたかもしれない、そんな気分で読んでました。ゴールデン氏にはとても申し訳ないけど。
ちなみに八雲は芸者を主人公にした短編は書いている。「きみ子」という文庫本で10ページ程度のほんの小品で、聡明な売れっ子芸者が心から愛する人の幸せのために自分自身の人生を捨てて姿を消すという、悲しいが美しい物語だ。

だがさゆりは愛する人を決して最後まで諦めはしなかった。
彼女はしなやかにたくましく逆境を乗り越え、したたかに祇園という戦場を生き抜いていく。彼女は愛する人に一歩でも近づくために芸妓の道を自ら選びとり、その目的のためだけに全てを耐え忍び、何もかもを犠牲にして厭わない。
予定調和といってしまえばそれまでの話だ。彼女独特の瞳も、初恋の人に最初から地位があったことも、その結末のためだけに用意された設定でしかない。
それはそれとして、やはりこの作品の魅力はさゆりという主人公にして語り手の言葉そのものにつきるような気がする。作中に描かれる若きさゆりではなく、それを語って聞かせてくれる老いたさゆりが、その世界観のなかで最も美しく魅惑的なのだ。不思議なものだけれど。

ゴールデン氏はこの小説に10年近い歳月を費やしたという。今はまた次回作を執筆中らしいが、またもしこんな文体で書いているのなら是非読んでみたいと思う。
そう思う自分がちょっと申し訳ないけどね。
でも一流の工芸品は芸術には違いない。見た目に綺麗なだけじゃなくてつくりがしっかりした工芸品は普遍的に人に愛されるものだし、ぐりもそういうのは大好きです。

愛について

2005年09月04日 | movie
『愛についてのキンゼイ・レポート』
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ぐりは不勉強ながらこのキンゼイさんについてはなーんにも知らなかったんだけど、この映画に出て来るよーなエピソードは自分でも経験してるから、かなり共感しました。
前にも書いたと思うんだけど、ぐり自身がその方面に異常に鈍かったのと躾が厳しかったせいで、ぐりは大人になってからも相当なかまととでした。何が普通で何が正しくて、自分は正常なのか異常なのかぜんぜん分からなかった。幸いにも鈍感だったのでそれほど真面目に悩まなかったけど、大学生のころ「マルコポーロ」という雑誌(のちにホロコーストを否定する記事がもとで廃刊になった)に連載されていた清水ちなみさんの「大えっち」というアンケートコラムを読んで、「ああ人間ってみんな違うんだな、みんなといっしょでなくったっていいんだ」とスッキリした気持ちになったのをよく覚えてます。
「大えっち」は単行本にもなったので読んだ方もいると思うんだけど、女性だけを対象にしたセックスに関する詳細なアンケートで、それこそ初体験や不倫経験などの単純な設問から相手の肉体に抱いた印象やオーガズムの感覚の具体的な比喩などといったユニークなのもあって、普通に読み物として楽しいし、読んだ誰もがかなりホッと出来る内容なんではないかと思います。機会があったら是非お手にとってみて下さい。

人はいつからこんなにセックスに否定的になったのだろう?
これはぐりが勝手に思ってるんだけど、人類がセックス=恥ずかしいという風に感じるよーになったのって、大航海時代以降じゃないかと思うんだよね。つまり性病の蔓延が原因。それ以前はカトリック世界でだってセックスはもっとオープンなものだったし、日本も江戸時代までは庶民の性生活は今よりもアナーキーだった。そこへ性病が登場した。まだ医学が発達していなかった時代、人が性病から健康を守る手段は「純潔」しかなかった。それはそれで間違ってはいなかったんだけど、人間は誰もがそこまで意志が強いわけではない。かくして人の性的幻想を抑圧するためにあらゆる事実無根の迷信が生み出された。その結果やがて人は「セックスは恥ずかしいもの、子づくり以外のセックスは反道徳的なもの」と思いこむように洗脳されていってしまった。

キンゼイ氏は医学の発達した現代においてそうした無意味な呪縛に苦しめられる人々を救うために、科学的にセックスを研究したひとだ。彼の研究は素晴しかったし、この映画にもそのことはちゃんと描かれている。
だがこの映画のおもしろいところは、そうした美しい面/かっこいい面だけではなく、キンゼイ氏を含めた科学界のありようの不自然な部分もさりげに描かれているところだ。
キンゼイ氏やスタッフたちは純粋に研究にのめりこむあまり、やがてセックスに対して傲慢な感覚を抱くようになっていってしまう。自分はセックスを知り抜いているから、自分や伴侶のセックスのみならず感情までも完全にコントロール出来ると思ってしまうのだ。まぁそれが人情というものだろう。だが人は自分で自分を100%制御出来るほど完璧な生き物ではない。

キンゼイ氏の本に助けられた人はたくさんいるだろう。だがあれから60年近くが経とうというのに、性知識の不十分さによって起こる不幸は決してなくならなかった。未成年が犠牲になる性犯罪や性的マイノリティに対する差別、性病感染者の低年齢化は今の方が当時よりも深刻になっている。それどころか、世界には完全に誤った性認識のために反人格的な慣習が堂々と行われている地域も存在したままだ。
あの当時「原子爆弾よりも衝撃的」といわれたキンゼイ・レポートだが、結局は全人類を救うところまでにはいたらなかった。果たしてこの重荷から全ての人が解放される日は現実に訪れるのだろうか。

ところでこの「キンゼイ・レポート」は日本語訳は出てるのかな?読んでみたーい。