落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

子どもの日に

2018年05月05日 | 復興支援レポート
大川小学校児童津波被害国賠訴訟を支援する会



震災や原発事故の被害にあった地域に通っていてもいなくてもいつも感じることなのだが、人はなぜ、災難が自分に起きてからしかことの重大さに気づくことができないのだろう。
災難はいつ誰にでも起きうるものだ。もちろん。いうまでもなく。だから問題なのは、起きてから人としてどうあるべきなのかという対応策ではなく、「どの災難もいつ誰にでも起きうる」という感覚を平時からもっておくことだし、それはさほど難しいことではないはずだと思う。単純な想像力の問題だから。
想像力があれば災難にあわないとか被害を小さくできるとか、そんな飛躍的なことがいいたいわけではない。少なくとも、想像力があれば、災難をめぐって無駄に人が傷つけあう二次被害だけは軽減できるのではないかと思う。災害や大事故のあと、長く尾をひいて社会問題化するのは、むしろそうした二次被害の方だから。

前置きはさておいて先月末に判決が出た大川小学校児童津波被害国賠訴訟の報道とそれに対する反応に関して、いくつかいいたいことがたまったので列挙しておこうと思う。
自戒の意味をこめて。

よくある誤解その1▶︎
2万人も亡くなった大災害。犠牲者は大川の子どもだけじゃない。不可抗力だ。しかたがないじゃないか。
落穂日記的見解▷
内閣府の発表によれば、東日本大震災で亡くなった未成年者の総数は885名、文科省の発表では石巻市の死亡者のうち児童は125名・教員は12名とされている。大川小学校で死亡・行方不明となった児童は74名、教職員は10名。
数のことをあまり云々したくないのでデータの話はこれくらいにしておくが、少なくともいまわかっている範囲内では、学校管理下で児童が亡くなった事例は東日本大震災では大川小学校ほぼ一校のみといわれている(他に避難中に津波にさらわれて亡くなった中学生が1名)。他校では教職員や地元住民の誘導によって子どもたちは安全に避難して難を逃れた。
やることやってればよかっただけの話、という見方もできる。

よくある誤解その2▶︎
現場の教職員もほとんど亡くなっている。死者に鞭打つのはかわいそう。
落穂日記的見解▷
今のところ判決文の全文(朝日新聞に掲載された判決要旨のそのまた“要旨”)がネット上で見られないので無理もない誤解だが、二審判決では「現場の教職員の判断に対する責任」は問われていない。
一審の争点が地震発生後の予見可能性=現場の教職員が津波の発生を予測して適切な避難行動をとることができたかという点で、判決として震災当日15時30分にそれは可能だったという判断がなされたことに対して、被告側はその判断を不服として控訴したのだが、高裁はなぜかその点をはなから完全にスルーして、地震発生前の平時の安全対策が適切であったかを争点として審理し、学校保健安全法にもとづいてあるべき対策をしていれば地震発生から6分後の14時52分には適切な高台への避難行動が開始できたという結論にいたった。
なので現場の教職員が地震発生後にしたこと・しなかったことの責任に関しては、控訴審判決では触れられていない。今回の判決で責任が問われたのは、石巻市教育委員会と大川小の幹部職員=校長・教頭・教務主任。校長は当日年休で不在・教頭は死亡・教務主任は唯一の生存教諭となった。

よくある誤解その3▶︎
亡くなった教職員も被害者。彼らにも家族はいる。
落穂日記的見解▷
控訴審では児童の安全をまもるのは学校の責任と規定した学校保健安全法をもとに司法判断が下された。
教職員の安全については労働基準法労働安全衛生法にもとづいた判断が要求されるものと思われるが、大川小学校は公立の義務教育の学校なので教職員は地方公務員である。よって公務災害での死亡として遺族にはすでに補償金が支払われている(唯一の生存教諭となった教務主任にも療養補償・休業補償が支給されているものと思われる)ため、よしんば国賠訴訟となっても相殺される可能性がある。

よくある誤解その4▶︎
地震発生後、津波到達まで51分もあったのなら、保護者が児童をひきとりにいけばよかった。いかなかった親の責任。
落穂日記的見解▷
大川小学校は石巻市の学校だが、市内から20km余り離れており、運転に慣れている人でも平常時で40分程度かかる距離にある(ちなみに2011年4月末時点では、道路景開はほぼ完了していたにも関わらず1時間弱かかっていた)。
通学区域周辺には大きな事業所がなく、地震発生時、多くの保護者が石巻市内か近隣の別の地域で就業中だった。つまり、たとえば地震発生直後にすかさず車に飛び乗って運良く順調に学校に到着できたとして、ぎりぎり津波が来る前に子どもに会えるかどうかという地理がまず背景にある。
かつ、地震発生直後は避難する車で被災地のいたるところで大渋滞が起こっていた。停電で信号機が動作せず、電話もつながらないパニックの中で学校にたどり着けなかった場合も、職場での災害対応を迫られすぐにその場を放り出せない場合もあった。職場そのものが水没し、何日も足止めされた家族もいる。
逆に、迎えに来た保護者に引き渡されいっしょに帰宅・避難した児童は助かっている。迎えに来て引きとめられ(「学校にいた方が安全」と発言し引きとめた教諭がいたことが保護者の証言でわかっている)、避難できないまま子どもといっしょに学校で津波にのまれた保護者もいる。この混乱も、学校側が災害時の児童引き渡しについてマニュアルを策定・周知・訓練しなかったことが原因であると高裁は判断した。
生き残った保護者も、それぞれに自分を責めている。

よくある誤解その5▶︎
学校は忙しい。しかも教職員は災害の専門家ではない。裁判所の要求が高すぎる。
落穂日記的見解▷
その通り。だが学校には子どもの安全をまもる法的義務があることが学校保健安全法に規定されている。なので文科省も県も市教委も学校安全のための調査をし報告書を発行し研修・会議もしていたし、その事実については控訴審で被告側から証拠として提出されている。大川小学校の幹部職員=校長・教頭・教務主任は当然それら研修・会議に出席し、教委の指導を受けている(判決で認定済)。いうまでもないがコストはすべて市民の税金である。であるからには、そこで共有された知識・情報・認識をもって実効的な安全対策を構築する法的義務が幹部職員にはあった、というのが高裁の判断である。もし無理があったなら教委に申告し助力を仰ぐのも校長の義務だし、各校の実情に応じて必要な安全対策が構築されるよう対処するのも教委の責任だが、そういった対応が少なくとも震災が起きた平成22年度中に実施された事実はない。

よくある誤解その6▶︎
千年に一度の大災害。誰にも予測なんかできなかった。だから誰も責任なんかとれない。
落穂日記的見解▷
宮城県沖ではこれまでにも周期的に地震とそれにともなう津波が発生しており、仙台市の発表によれば、2011年1月1日時点で、10年以内に70%程度、30年以内に99%の確率での発生予測が公表されていた。こうした予測に基づいて、県も市も学校の安全対策を強化するようさんざん防災計画を改訂したり資料を発行したり研修をしたりしてたんだから、それで自ら「予測はできなかった」とはいえないはず(と高裁も認定)。
ただし、市教委が実施した研修や会議の成果を評価・フィードバックし、実際の安全対策に反映させるためのとりくみが大川小でなされていたかどうか、となると控訴審での証人尋問を聞く限りでは不透明。というかやってなかった可能性大。

よくある誤解その7▶︎
損害賠償って結局カネじゃん。
落穂日記的見解▷
それがなにか。だったら何。
先述の通り、亡くなった教職員の遺族は公務災害として補償金をうけとっている。そして国家賠償請求は国民の権利である。誰にでも行使することができる。東日本大震災ではほかにも訴訟が行われているケースはいくらもある。
遺族は真実が知りたかった。だから自分の手で資料をあつめ、証拠を集め、不毛な第三者検証委員会も最後まで傍聴した。それでも真実にたどり着けなかったから、最後の手段として裁判にふみきった。提訴は時効成立の前日。
いまのところ、遺族が求めた唯一の生存教諭の証言など、核心に迫る事実までは解明されていないが、今後も真実を追求するとりくみは続いていく。
真実を求め続ける7年間のたたかいのなかで、子どもの命を救うためにできることがあったはずだという証拠を彼らはいくつもみつけている。「もう二度とこんなことがおきてほしくない」、という彼らの言葉、生存児童の言葉ほど重いものはない。
それを、誰にも否定することはできない。

これから他にも出てきたら随時追記します。
いうまでもないが私は大川小とは縁もゆかりもない他人だし、災害や教育の専門家でもない。単に何度か地域を訪れ、裁判を傍聴しただけの第三者である。上記はあくまで個人的見解です。念のため。実をいえば判決文全文は私もまだ入手できてないので読んでない。要旨と骨子を読んで、記者会見を見ただけです。

それとよく見かける見解に「あとだしだ」「結果論だ」「ムチャいうな」なんてのがありますけど、そもそも民事訴訟なんかあとだしの結果論で争うものでは。判決出てから論ずるべきは、ではなぜいま問われた責任が事前に果たされなかったのか、果たすためにはこれからどうすればいいかであって、いちいち無理だひどいなんて愚痴るのは非生産的だし、ましてや原告を批判するのになんの意味があるのか、正直理解に苦しみます。そういう話じゃないんだってば。


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大川小学校裏山ののり面の上から見た校舎。手前は体育館と円形劇場の跡。
この斜面の上に100名ほどが上がれるスペースがあり、野外授業もここで行われていた。
この場所は津波の浸水を免れている。

復興支援レポート



窓のむこう

2018年05月01日 | 復興支援レポート
大川小学校児童津波被害国賠訴訟を支援する会



宮城県石巻市立大川小学校で、2011年3月11日、74名の児童が津波の犠牲になった事件で遺族が行政を相手に起こした訴訟の控訴審判決の傍聴に行ってきた。
といっても7倍を超える抽選に外れて、裁判そのものは傍聴できなかったんだけど。仙台くんだりまでいって。ええ。

判決は一審に続いて原告勝訴。被告である宮城県と石巻市に対し、総額14億3617万4293円の賠償金の支払いを命ずるものだった。
実をいうと、これまで控訴審を傍聴してきて(前回の結審=原告意見陳述は大雪で行けなかったんだけど)あまりなワンサイドゲームぶりに却って不安を感じていた。なにしろ被告側はほぼノーガードといってもいい状態で、証人尋問では原告側代理人だけでなく陪席裁判官のこれでもかといわんばかりに鋭い追及に無抵抗にただただなすがまま、議論らしい議論もろくにできない状況が続いていたからだ(傍聴記録控訴審第7回口頭弁論控訴審第6回口頭弁論)。
専門家ではないのでちょっと自信はないけど、証人が裁判官にまでこれほど厳しく詰問されるのは稀なことではないだろうか。遺族すら見落としていた観点を丁寧に指摘する質問が裁判官からあったことに驚いた方もおられたという。

今回の判決文は300数十ページにも及ぶという。入手できていないので要旨(21ページ)と骨子(7ページ)しか読めていないが、記者レクでの説明によれば、賠償金の総額にこそさほどの差はないものの、全文の量は一審の70数ページの4倍以上、また内容もかなり踏みこんだ画期的なものになったという。
まず一審では、地震発生時に校内にいた教職員が津波の到達を予測してじゅうぶんな時間的余裕をもって避難行動をとることが可能だったかどうか(予見可能性)が争われ、少なくとも3時30分つまり津波到達7分前には予測・避難開始が可能だったことが認められたが、控訴審ではこの点については議論せず、震災前の平時の防災体制が適切であったかどうかが争点となった。
そこで議論の中心になったのが震災前の2009年に施行された学校保健安全法である。この法のもとで控訴審を争うことが第一回口頭弁論で裁判長から提示され、実際にこの法のもとで判決が言い渡された。施行されて間もない法律ということもあるが、代理人の斎藤弁護士によればこの法律で司法判断が下されたのは今回初めてではないかということだった。東日本大震災では他にも津波訴訟と呼ばれる裁判が行われているが、これまでわかっている範囲で、事前の防災体制の責任が問われた判決がでたこともないらしい。
すなわちこの判決によって、被災地のみならず日本全国の教育現場での危機管理体制の見直しが迫られるだけでなく、現在係争中の津波訴訟、これから提起される可能性のある災害関連の訴訟にも大きく影響が及ぶ可能性があるのだ。

具体的には、学校保健安全法で策定・運用が義務づけられ、震災前年の2010年4月30日に提出期限が設けられていた危機管理マニュアルに津波発生時の二次避難場所(判決文では“三次避難場所”)と安全な避難経路が記載されていなかったことが校長・教頭・教務主任・教育委員会の落ち度であり、少なくとも防災行政無線が津波発生を放送した14時52分時点には、かつて子どもたちが植樹をした「バットの森」(校庭から700メートル・標高20メートル)への避難行動を開始すべきだったと、判決では指摘している。裁判所は去年10月の現地調査でこの高台を訪問していた。
一見すると原告側の主張がほぼそのまま反映された判決になったようにも思えて、個人的にいささか拍子抜けした感は否めない。案の定、被告側は上告を検討しているらしい。上告されれば最高裁ではほとんど公開での裁判は行われない。となれば訴訟そのものでは世論を動かしようがない。そこで結果的にせっかくのこの判決がひっくり返されたらたまったものではない。

印象に残ったのは、判決後の記者会見で代理人の吉岡弁護士が判決の中の慰謝料の認定理由について読み上げたときのことだった。

『被害児童は死亡当時いずれも8歳から12歳の小学生であり、一審原告を含め祖父母両親の愛情を一身にうけて順調に成長し、将来についても限りない可能性を有していたにも関わらず、本件津波によって突然命を絶たれてしまったものである。また、被災児童は本件地震発生直後は大川小学校教職員の指導に従って無事に校庭に二次避難し、その後も校庭で二次避難を継続しながら、教職員の次の指示をおとなしく待っていたものであり、その挙句、三次避難の開始が遅れて本件津波にのまれて息をひきとったものであり、死に至るのはたいへん悼ましいものであり、被災児童の無念の心情と恐怖と苦痛は筆舌に尽くしがたいものと認められる』
『一審原告にとって被災児童はかけがえのない存在であって、日々の生活は被災児童を中心に営まれていたといっても過言ではない。一審原告は被災児童に愛情を注ぎ、その成長に目を細め、その将来に期待を抱いていた。そのような被災児童を本件津波によって突然奪われてしまった一審原告らの苦痛や無念さは計り知れず、本件津波から7年以上の月日を経ようとも、なお一審原告らはつらく苦しい日々を過ごすことを余儀なくされている。また、本件津波後、一審原告らは大川小の周辺がぬかるんだ土砂と瓦礫に埋めつくされたなか、自らスコップ等を手に必死にわが子の姿を捜しもとめ、変わり果てた姿と対面し、遺体を清拭することもかなわずに葬らざるを得なかった。また被災児童の鈴木巴那、永沼琴は未だ発見されていない。その保護者である鈴木義明・実穂、永沼勝は現在もなお見つからないわが子の姿を追い求め、捜索活動を続けており、わが子の遺体が発見された遺族にまさる辛苦を味わっていることが認められる』(音読から聞き取り)

読み上げながら、吉岡弁護士は涙を流されていた。
訴訟前から7年にわたって遺族とともにたたかってきた彼にとって、断じて許されざる不条理の高い高い壁のへりに、やっと指先が届いた、その感触を初めて得た瞬間だったのではないだろうか。
ちなみに吉岡・斎藤両弁護士は、この裁判では原告から弁護費用をうけとっていないと聞いている。

亡くなった子どもたちと遺族の心情をじゅうぶんにくみとった画期的な判決でもあると同時に、原告がもとめた事後対応での行政の不法行為については二審でも争われなかった。
通常こうした訴訟で事後対応が争われることはあまりないともいわれるが、この大川小学校の事例で起きたいわゆる“事後的不法行為”はいままさに政府を大きく揺るがしている最中の公文書の隠蔽・改竄とまったく同じ次元のできごとである。なにしろ親たちが風雪に凍え泥にまみれながら血眼で子どもたちを捜しまわっていたあいだ、生き残った教職員─校長・教務主任・校務員─も石巻市教育委員会も捜索活動にいっさい協力しなかっただけではない。生存教諭の手紙を隠蔽・改竄し、生存児童や保護者たちが重い口を開いて協力した聞き取り調査のメモを廃棄し証言の内容すら勝手に“修正”し、都合の悪い証言は「信憑性がない」として切り捨てた。訴訟にいたるまでの行政との軋轢に深く傷つき心折れた遺族も大勢いる。これが罪でなくてなんだろうか。
ひたすら責任逃れに汲々としていた彼らにも、立派ないいぶんはあるだろう。もちろん。
だがどんな言い訳がいえたにせよ、彼らがしたことは、はっきりと犯罪なのだ。それは決して見過ごしにされていいものではない。

あの日、あのとき、いったい何が起きたのか、真実を知る人が、少なくともひとりいる。
生存児童4人も震災直後は行政の聞き取り調査に応じてはいるし、そのうち今年大学生になった只野哲也くんは自らメディアの取材にも対応し、語り部活動にも参加している。しかしなんといっても彼らは子どもなのだ。どれほど怜悧であっても起きていた事実を客観的に把握するには限界がある。
遺族の多くが、津波が来たときなぜかすでに裏山の上にいたといわれている教務主任の証言を望んでいる。2011年4月9日の第一回説明会を最後に公の場から姿を消した彼は“公務災害”の認定を受けて休職中のまま、この春の大川小学校の閉校に伴って同じ石巻市内の小学校に転勤になった。

子どもたちを助けられなかった罪の重さがどれほど彼を苦しめているか、想像することはできない。
ゆるすゆるさないの問題ではない。でもせめて、できることをしてほしい。できることがあるはずだと思ってしまう。
どうすればそれがかなうのか、それを阻むものはもしかしたら、彼の背負っている罪よりもはるかに巨大なのかもしれない。


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大川小学校校舎2階から北上川を臨む。
2011年3月11日3時37分のほんの一瞬まえ、この窓から津波が襲来するのを見た生存者がいる。
そのひとが口を開くのを、多くの人がまっている。

復興支援レポート



愚かさという名の凶器

2018年02月04日 | 復興支援レポート
小さな命の意味を考える会 座談会



2011年3月11日、地震が起きて、津波が来た時、被災地には小雪がちらついていた。
地域によって証言によって雪が降りはじめた時間には多少のズレはある。津波がくるまえにはもう降っていたというケースもあれば、命からがら津波から逃れて避難した高台から動けずに野宿した夜に降ったというケースもある。
いずれにせよ、その日は寒い日だった。
まして彼の地は北国、春はまだ遠かったあの日の夜、津波に濡れ、冷たい風に凍え、電気もガスも電波もすべてのライフラインが途絶えろくに暖をとる手段もないなか、多くの人々が凍死した。地震からも津波からも助かったのに、生きて夜を明かすことができなかった。
見知らぬ者同士、かき集めた木片で起こした焚き火の前で、救助を待ちながら息絶えた人を、なすすべもなく見守るしかなかった生存者もいる。「あんなに寒い思いをしたのは後にも先にもあの時だけ」と、彼はのちに語ってくれた。

1月28日午前10時から石巻市大川小学校跡地で遺族を中心にした地元の方々が催した語り部の会には、150人ほどの参加者が集まった。
晴れてはいたけれど前日からの雪が積もり、遮るものもなく川風にさらされた学校跡地はとにかく冷える。
そこに多くの市民と報道関係者が集まって、大川小学校被害児童の遺族や生存者の体験談にしんと耳を傾ける。
大気は冷たいのに、集まった人たち、語る人たちの胸の中に流れる感情の熱さを感じる。

特別なものなどないごくふつうの田舎の小学校の、特別ではないふつうの日に起きた惨劇。
災害無線もラジオも広報車の警告も、津波がくるから逃げてほしいと懇願する保護者も無視した教職員への怒り、せめて最後の1分間、堤防ではなく山に逃げてくれていたらという悔恨、我が子の訃報を耳にした時の絶望、自分の手で愛娘の遺体を冷たい泥の中から掘り出した時の悲しみ。

語り部の会でも、午後から開かれた座談会でも、毎回集まる参加者は違うから主催者側が話すことや質疑応答で語られることはいつも似通っている。
そこに繰り返し通い、当事者の講演会にも何度か参加し裁判も傍聴してみて、毎回痛感することがある。
74人の子どもたちと10人の教職員、子どもの帰りを待ちながら自宅で津波にのまれた高齢者たち、学校が避難しないなら大丈夫と判断してその場にとどまった地域住民たち、この大川で起きた災害の犠牲者の命を奪ったのは、「くさいものにはとにかく蓋をしてみないふり」で先送りにしてしまう無責任主義という、現代社会そのものが抱えた病なのではないだろうか。

海抜は低いし、人が住んでいなかった大昔には津波が来たかもしれないけど、最近はきてないみたいだから「これからもこない」ことにしてしまおう。
津波はくるかもしれないけど、行政がこないといっているんだから、真剣に対策なんてしなくても許される。
大地震はきたし裏山にも逃げられるけど、あとのことを考えたら面倒だから、とりあえず校庭で津波警報が解除になるのを待ってればいい。
保護者は避難しろなんていってるけど、こういう非常時だから学校は落ち着いてなくちゃ。

結果論からいえば、彼らの判断はきれいさっぱりすべてが間違っていた。
そして多くの命が失われた。
もちろん九死に一生を得た人もいる。だが彼らは彼らで、文字通り地獄のような被災体験と、その一瞬まで傍らにいた友人や隣人や親族を喪いながら生き残ったという言語に絶する思いを抱えたまま、これからの一生を生き抜いていかなくてはならない。
その事実は、これから何をどうしようと決して覆りはしない。
あったことは、決してなかったことにはできない。

しかし、あのときの判断が間違っていたとして、では他の誰が、どうやって、もっと正しい判断ができただろうか。
二度と取り返しのつかないことが起きて、しかもその責任を誰もとらないまま7年もの歳月が過ぎたいま、われわれがもっとも深刻にとらえるべきはその点であることに疑いの余地はない。
もしもう一度同じことが起きたとき、今度こそ間違いなく、子どもたちと地域の人たちをまもるためには、いったい何が必要なのだろうか。
その障害になる「病」とは、いったいどんな病なのか。
おそらくは人間なら誰もが持っている愚かさ、それが集団になったときには凶器にも変わってしまう社会性動物であるからこそ犯しやすい過ちに、たちむかうべきときが、いま来ているのだろう。
その戦いに立ちはだかる壁の厚さ、高さがどれほどのものなのか、少なくとも、私にはわからない。
でも、その壁に背を向けて逃げる道も、もうないような気がする。


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復興支援レポート


北上川の夕日。



羅生門のバケツリレー

2017年11月14日 | 復興支援レポート
大川小学校児童津波被害国賠訴訟を支援する会



宮城県石巻市立大川小学校で、2011年3月11日、74名の児童が津波の犠牲になった事件で遺族が行政を相手に起こした訴訟の控訴審第7回公判の証人尋問の傍聴に行ってきた。

今日のひとりめの証人は震災当時、石巻市教育委員会の教育総務課課長補佐だった飯塚千文氏。前回の証人・当時学校教育課長だった山田元郎氏と同じく、教育行政側の防災担当だった人物である。
まず被告側代理人から、石巻市や宮城県の各種資料数点と実施された学校防災関連の研修や会議の実績が提示され(二審になってから被告側から提出された50を超える新証拠資料の一部ではないかと思われる)、平成21年の学校保健安全法の施行やおよそ37年周期で発生している宮城県沖地震の予測を受けて、市教委側が当時いかに積極的に学校防災にとりくんでいたかが懇切丁寧に説明された。

だが原告側からの反対尋問で、それがどれだけ穴だらけの防災対策だったかが前回同様に追求されていく。
飯塚氏は平成20~22年の3年間、石巻市本庁から教育委員会に異動し教育総務課課長補佐として勤務したが、それ以前の職歴は建設部や産業課など、教育とも防災とも直接関わりのない分野であり、とくに学校安全に明るい人材ではなかった。それがいきなり大きな川と海に面した広い石巻市の公立小中学校64校の防災を担当するわけで、着任後まもなく新たに施行された学校保健安全法で「学校安全の責任は設置者=市にある」とされたところで、やはり無理があるように思われる。

現にこの法律では、学校の危機管理マニュアルは法律に適合するよう策定し、毎年見直すよう定められているというのだが、飯塚氏自身にはそうした認識はなかったと証言している。飯塚氏本人が見直しをしたり、学校側に見直したかどうかを確認したことはなく、学校保健安全法の施行前と後でもそのルーティンに変更はなかったともいう。
すなわち前回証言した山田氏同様、学校の防災対策は各校に完全におまかせ状態で、その機能性や実効性など内容については100%ノータッチだったという点でほぼ同じ証言をしたといえる。

異なるのは、各校が策定した危機管理マニュアルにばらつきがあったために、飯塚氏が作成した災害対応マニュアルを学校安全対策研修会で参考例として提示していたことだった。
教育にも防災にも特に知見のなかった飯塚氏は、同僚から提供されたりネットで調べたりした資料をもとに参考例を作成したというが、そこで参照したのが山梨県の災害対応マニュアルだったという。理由はわかりやすかったから。
山梨県に、海はない。
だから飯塚氏が提示した参考例に、津波の項目はない。
彼の参考例をうけて各校が策定した危機管理マニュアルに津波が記載されているとすれば、それはすべて各校の独自の努力義務で追加されたものとなる。

飯塚氏の証言によれば、策定にあたって石巻市のハザードマップを参照するよう要請はしていないという。
学校そのものが津波の浸水域にはいっていようがいなかろうが、通学域がはいっていようがいなかろうが、そこは市教委の責任の範囲ではないという認識だったことになる。
いうまでもないが、学校を設置するのは教育委員会、通学域を決めるのも教育委員会である。
その一方で、学校とそこに通う子どもたちの安全をまもる責任はすべて、学校に丸投げ同然だった。もし、山田氏や飯塚氏の証言がすべて事実であるとするならば。ちょっと信じられないことですけれども。

原告側の反対尋問のあと、前回も山田元学校教育課長を厳しく尋問した裁判官からいくつか質問があったが、傍聴席がどよめいたのは、災害時に避難所に指定された学校の安全を確認するのは市建設部の役割であることが明らかにされたやりとりだった。飯塚氏の前任部署である。
つまり、飯塚氏は64校もある石巻市立の小中学校が災害時に安全な場所かどうかを、職務上知りうる立場にいたということになり、それまでの法廷での証言の真偽に疑問符がつく。
実際の尋問ではその点を詳しく追求することはなかったが、この短い会話で、それまで証人がどれほど繊細に言葉を選んでいても、その信頼性がまるごと台無しになったように感じた瞬間だった。

次の証人は柏葉照幸氏。大川小学校の震災当時の校長である。
念のため書き添えておくと、彼は震災当日、年休で学校を不在にしていた。

今回の証人尋問は一審に続いて二度目ということだったが、ここで被告側代理人となんとも奇妙なやりとりが繰り広げられた。
曰く、震災があった年の2月、6月に予定されていた河北地区の避難訓練の打合せのため、河北総合支所職員(市職員)3名が大川小学校を訪問した。この際の会話では危機管理マニュアルについての言及はなかった。避難場所は校庭でよいとの認識が示され、校長が二次避難先について尋ねたところ職員は想定していないと答えた。校長の「津波は堤防を越えないのか」という質問にも、職員は「計算上こえない」と回答したという(ちなみにこのとき訪問したのがいったい誰なのかという個人名および議事録は提示されていない)。
またこのあとの3月9日(震災2日前)に地震があったが、危機管理マニュアルの内容について担当職員(教頭・教務主任)と話しあうこともなかったとしている。
前年の一学期には市教委の指導主事の学習指導訪問があったが、このときも危機管理マニュアルについて指示も言及もなく、学校安全についての指摘は文書でのみ行われたという。
つまり柏葉校長は当時、大川小学校に津波が来ることを想定していなかったし、学校職員を含め周囲もそういう共通認識でいたということを印象づけたかったらしい。

ところが反対尋問ではこれらすべてがことごとく覆されていく。
山田氏や大沼指導主事との会議で、平成22年度の大川小学校の危機管理マニュアルについて柏葉校長は「津波襲来時には校舎2階に避難」と回答したという記録がある。震災直後のメディアの取材にも、2階か裏山に避難することになっていたと話したことが記事に残っている。震災の年の1月23日の石巻市学校安全対策連絡会では平松危機管理官から「前年のチリ津波の際の避難者が少なかった(=もし津波が大きかった場合の被害が甚大になるから対策が必要)」という総括があったことが、出席した石坂教頭(故人)からあったはずだが、柏葉校長は「避難者用のストーブや座布団が足りないという話はした」というものの、職員会議では議題にならなかったと証言している。
3月9日の震度5弱の地震の後、避難先とする裏山にPTAの助けを得て階段を設置しようという職員室での会話について市教委やPTAに具体的に連絡・相談したか質問され、最終的には「そこまで詳しく話したわけではない」と回答、そうした会話があった事実は認めた。
大川小学校に5メートルをこえる津波がくるともたないという認識はあったこともメディアの取材で判明している。理由は学校の前の堤防が5メートルだったから。
これら原告側代理人の指摘に対し、柏葉元校長はすべて「記憶にない」「覚えていない」「(教職員と議論)しなかった」「聞いていない」「認識していなかった」とのみ答え、それ以上の追求には口をつぐむばかりだった。

彼が誰かの責任について認めたのはたった一点、災害時の保護者への児童引渡しについての質問のときだった。
前任の教頭(学校安全の学校側の担当者)が作成した防災用児童カードが校内の金庫に存在していた(個人情報を記載するため)が、柏葉校長着任以降、記入・回収が行われていなかったことに関して、ただひとこと「私の落ち度です」と発言したのだが、理由についてはとにかく沈黙(「認識していなかった」)。
地震発生時の児童引渡しについては、震度6弱以上の場合は引渡しと着任以前から決まっていたという。しかし震災直後の聞き取りでは「津波警報の発令中は引き渡さないことになっていた」という証言が残されている。矛盾している。
大川小学校の通学域には津波発生時の浸水域が含まれている。校区内でももっとも海沿いの尾崎と長面である。この方面にはスクールバスも運行している。災害時にスクールバスがどう運行するかは決まっていなかった。着任したその年に尾崎・長面周辺には環境確認で訪問していた記録はあるから、状況は把握していたと考えるのが自然である。何度その点を追及されても、校長は「津波の来る方にはいかず学校にもどることになっていた」とのみ繰り返した。

先述通り、震災前日前々日には地震が何度もあった。9日には校庭に避難した後、教室で待機し、いつも通り下校させている。
そのときは津波注意報が解除されたかどうかの確認はしていない。
そして11日の休暇届を、彼は10日に出している。不在中に地震があった場合の引継ぎはしなかった。
尋問では、当時それほど地震が繰り返されたことを「覚えていない」と回答した。

個人的な見解になってしまうのだが、柏葉校長の証言は他の証人と比較しても突出して信頼性が低く感じる。山田氏にしても飯塚氏にしても、信頼性があってもなくてもなぜそういう証言をするのかという意図が読みとれる。それが柏葉校長にはない。だから聞いていてものすごく疲れた。彼がいったい何をまもろうとしているのかが、わからないのだ。あるいは彼自身、わかっていないのかもしれない。わからないままに下手な嘘を漫然と繰り返す意味はいったいなんなのだろう。単に決められた時間を証言台でやりすごせば、それで責任は果たしたことになるとでも考えているのだろうか。
それをより強く印象づけられたのは、やはり裁判官からの質問で、大川小学校は津波の浸水域ではないが、洪水の浸水域であることを指摘されたときだった。
津波は地震によって起こる。ということは地震で堤防が損壊してしまった場合、そこに津波が来たら学校が浸水する危険性があることは火を見るよりも明らかである。
大川小学校がそもそも現実に直面していたそのリスクを突きつけられても、柏葉校長はただ弱々しく、「考えたことがなかった」とつぶやくだけだった。

前回も感じたことだが、子どもの命を預かる学校の安全をまもる責任を、学校も行政も真剣には考えていなかったとしか思えない。
その事実を、お互いにかくし誤魔化し、うやむやにすることだけに汲々としている。

子どもの命をまもるための学校安全の責任を、バケツリレーよろしく押しつけあっていた、学校と行政。
74人もの子どもたちと、10人の先生たち、スクールバスの運転手さん、学校が避難しないから大丈夫と避難を見送った近隣の人たち、子どもがバスで帰宅してからいっしょに避難しようと自宅で帰りを待っていた家族、そうした多くの人びとの命が失われたその責任を、嘘に嘘を塗り重ねながら闇に葬ろうとしている、学校と行政。

こんなに情けなく、恐ろしい話があるだろうか。
むちゃくちゃ怖いと思うんだけど。


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第1回 小さな命の意味を考える勉強会
「小さな命の意味を考える会」座談会
講演会「小さな命の意味を考える~大川小事故6年間の経緯と考察」
『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』 池上正樹/加藤順子著
『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』 池上正樹/加藤順子著


仙台にて。

復興支援レポート



あれは避難だったのか

2017年10月30日 | 復興支援レポート
小さな命の意味を考える会 第3回勉強会「何が起きたのか」



東日本大震災の津波で、全校児童108名中74名の死者・行方不明者を出した宮城県石巻市大川小学校のご遺族・関係者による語り部の会と、恒例の勉強会に参加してきた。
今回は遠方からの参加者や報道を含めた有志数名で、前日から泊りでの交流会もあって、交流会にもご遺族・関係者の方々が交代で出席してくださり、震災前後の詳しい事情を聞かせていただいた。

6年以上、震災復興支援の活動を続けているけど、正直にいうと、震災でご親族を亡くされた被災者の方の体験をここまで詳細に、長時間、何人も続けてうかがうのは初めての経験だった。
というのは、災害ボランティアの鉄則として「当事者が自ら語らない限り、ボランティアの立場から震災体験を訊きだしてはならない」という不文律があるからである。

ひとくちに被災者といっても事情はひとりひとり違う。被害の大きさも、受けとめ方も、ご自身の中での時間の流れ方も、誰ひとり他と重なるものはない。
もちろん、つらい体験を言葉にして第三者に伝えることで、なんらかの癒しになるケースもある。しかし逆に、話すことで心の傷を自らなぞってしまうケースもある。
相手が遠くから来てくれたボランティアだから、あるいは取材に来てくれたメディアだからといった理由で、サービスのつもりで、話したくないことを話そうとしてしまう方もなかにはおられる。
話してくださることは何でもうけとめたい、と思う。
でも、ほんとうは好きこのんで話したくないことを無理に聞きだしたいとは思わないし、これまでにもそうしたことはない。

今回お話を伺った方々全員が、お子さんや親御さん、ご兄弟やパートナーといった、日々の生活をともにしていたご親族を、津波で喪っていた。
地震が来て、津波が来るまでの間に交わした言葉のこと。
逃げなさいといったのに。逃げるよといったのに。ほんとうは助けられたはずなのに。
行方がわからなくなって、ものいわぬ遺体になってから再会した時のこと。
眠ってるみたいだった。呼べば、つかんで揺すれば、目を開けて起き上がりそうだった。
火葬場がなくて、遺体安置所も足りなくて、あちこちたらいまわしにされてるうちに、綺麗だった肌の色がかわっていってしまったこと。
仮土葬のとき、遺族に連絡が行き届かなくて、最後のお別れもできないまま埋められてしまった子がいたこと。
遺体捜索現場のにおい。損傷した遺体が流す血。
遺族である前に、地域の安全をまもる役目を全うするために、毎晩飲み明かしては早朝から捜索現場に出かけ続けた日々。

まるで昨日のことを話すみたいに細密であざやかな記憶の言葉のすべてが、津波が家を浸水するように、全身を満たしていく。
あの春先の、冷たく巨大な津波の感触を、改めてありありと感じる。
どんなに寒くて、怖くて、苦しかっただろうと。

勉強会にも複数のご遺族と関係者が参加され、一般参加者やメディアも含めて会場全体から募った疑問点をもとに、当日、小学校で起きていたことを時系列に検証した。

そこで明確になってくるのは、やはり小学校の危機管理意識の甘さだった。
地震発生時、校庭に集合した後の二次避難場所が決まっていなかったことはすでに過去の記事で紹介しているが、決まっていなかったのはそれだけではない。
災害発生時の教職員それぞれの役割分担さえ決まっていなかったか、決まっていても教職員本人が把握していなかった可能性があるのだ。
たとえば、2011年3月11日にさかのぼること2日前にも同じ地域で地震が起こっていたが、その際に近隣の幼稚園では保護者に園児引き渡しの緊急連絡があった。連絡を受けた保護者は、下の子の幼稚園からはあるのに上の子の小学校からはないことを不審に思って問合せをしたというが、回答は「そういうものは小学校にはない」だった。もちろん、同じルールは他校には当然存在している。
引き渡しの担当者が教頭だったり、他の教諭だったり、途中でころころと変わっている。教頭は家族にしか引き渡せないとし、家族が迎えに来た児童の名前も記録していたが、他の教諭では記録もせず、家族以外にも簡単に児童を引き渡している。教頭が近所の級友の家族に対し引き渡しを許可しなかった児童は、そのまま津波の犠牲になっている。
引き渡しの際に使用されるはずの記録用カードは金庫の中にあったが、校長は震災後に遺族にその資料を見せられて「初めて見た」と発言している。

教員だという一般参加者によれば、文科省の方針で1年前から学校の危機管理体制が強化され、避難マニュアルの整備や避難訓練の実施が全国各校に対してつよく求められていたという。
だが2日前の地震の後にも、大川小学校ではマニュアルを再確認した形跡すらない。保護者からの問合せがあってさえ、して当たり前のダブルチェック、トリプルチェックは行われなかった。
個人的に今回もっとも衝撃を受けたのは、津波到達1分前に始まったとされる避難のとき、避難後に子どもを迎えにくる保護者対応のためにと、学校に居残った教職員がひとりいたことだった。
いうまでもないが、彼女は津波で命を落とした。

それもう、避難じゃないよ。
違うよ、それ。

例によってかなり繊細な議論になってしまうため、これ以外の詳細は省略するが、聞けば聞くほど、74人の子どもたちと10人の先生たち、スクールバスの運転手さんは助かったはずだったと強く感じるし、だからこそ、こんなことは二度と繰り返されるべきじゃないと思う。
そしてこれだけの過ちが起きてしまった事実は、きちんと解明されて責任が追及されるべきだし、その実現のために為されるべきことはすべて為すべきだと思う。
その重さを、再確認した2日間だった。

語り部と勉強会の前日は、大川小学校の最後の学芸会だった。
今年度いっぱいで閉校になる大川小学校の子どもたちに、「あの悲惨な事故の学校の子」である以前に、「大川の子」としてここで生まれてよかったと思ってほしいとご遺族は語られた。
会の終わりに、児童と保護者と招待された遺族みんなで合唱した校歌を録音して聴かせてくださった。
歌っている皆さんの胸のうちを、私は理解することなどできない。想像するしかない。
でも、聴いていたときの胸の痛みは、決して忘れたくないと思う。


石巻市立大川小学校校歌「未来をひらく」
作詞:富田博 作曲:曽我道雄 

風かおる 北上川の  
青い空 ふるさとの空             
さくら咲く 日本の子ども           
胸をはれ 大川小学生             
みがく知恵 明るい心             
くちびるに 歌ひびかせて           
われらいま きょうの日の           
歴史を 刻む  

船がゆく 太平洋の
青い波 寄せてくる波
手をつなぎ 世界の友と
輪をつくれ 大川小学生
はげむわざ 鍛えるからだ
心に太陽 かがやかせ
われらこそ あたらしい
未来を ひらく




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『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』 池上正樹/加藤順子著
『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』 池上正樹/加藤順子著


台風の影響で大雨が降る中で行われた語り部の会。

復興支援レポート