落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

飴売りの墓

2017年09月18日 | lecture
加藤直樹さんと一緒に、埼玉から関東大震災・朝鮮人虐殺を考える

関東大震災当時、埼玉県寄居町の隣にある桜沢村というところに、具学永(グ・ハギョン)さんという28歳の朝鮮人の若者が住んでいた。
「朝鮮飴」と呼ばれる飴を街の子どもたちに売って生計を立てていたが、1923年9月5日、埼玉県内で起きている朝鮮人虐殺事件の知らせを耳にして、自ら警察に出頭し留置所に保護された。
といっても寄居町そのものは地震の影響もさほどなく、平穏だったともいう。街でたったひとりの朝鮮人だった彼は、ただで泊めてもらうのはわるいからと、警察署の庭の草引きなどして過ごしたその日の深夜、隣の用土村からつめかけた100人以上の自警団の手で、署内で惨殺された。4人しかいなかった警官たちにはなすすべもなかった。
その墓所が、現場となった寄居警察署跡の目の前の正樹院にある(ブログ「9月、東京の路上で」)。
今回は『九月、東京の路上で』の著者・加藤直樹氏といっしょに彼の墓にお参りするフィールドワークに参加した。

加藤氏の案内によれば、数千人単位ともいわれる虐殺の犠牲者のほとんどは氏名不詳となっていて、墓碑に名が刻まれた墓があるのはこの具学永さんと、さいたま市常泉寺の姜大興(カン・デフン)さんのたった2名である。具学永さんはこの地域に2年ほど住んでいて、墓を建てて埋葬してくれる日本人の友人がいた。姜大興さんは殺された染谷の人ではなかったが、持ち物から身元が判明している。
これが何を意味するかは火を見るよりも明らかではないだろうか。
つまり、彼らの他の犠牲者のほとんどは、名前も人格もある“人”としてみられていなかったということではないのだろうか。

埼玉で起きた大きな虐殺事件はどれも、当局によって県を縦断して朝鮮人を移送する道筋で発生している。
政府は震災の被災者となった朝鮮人をまとめて、鉄道やトラックや徒歩などで栃木の金丸原陸軍飛行場(大田原市)に運ぼうとしていた。その道々に、「朝鮮人が暴動を起こそうとしているから警戒せよ」という当局の通達を受けた地域の自警団が待ち構えていた。
すなわち、加害者と被害者の間にはほとんど面識がなかった。加害者にとって、汚れ、疲れ、縄や針金でくくられて引きずられていく人々は、名前も人格もない、ただ“朝鮮人”というレッテルを貼られただけの見知らぬ外国人だった。
たったそれだけの理由で、わかっているだけで200人近い朝鮮人が埼玉県内で殺害された。

地震による大きな被害がほとんどなかった埼玉県で起きた事件の背景には、前述の通達のような行政のミスリードが大きく影響しているのではないかと加藤氏はいう。
そういう意味では、先日フィールドワークに参加した横浜の事例とは事情がやや異なるかもしれない。
だが個人的には、やはりそこには少数者を人として認識せず、差別意識で判断してしまう固定観念が、より大きくはたらいているのではないかとも思う。虐殺に加わった多くの市井の人々のほかに、決して加わろうとしなかった人々もいたはずなのだ。間違っていると明確に自覚していた人もいただろうし、疑問に思いながら何もいえなかった人、怖くて遠巻きに見ているしかなかった人、さまざまな人がいただろう。
いずれにせよ、こんなときせめて、主体的な判断力を失わないでいられる人をもっと増やせる社会をつくることが、ヘイトクライムをなくすためのまず一歩のような気がする。差別はだめです、おかしいです、こんな事件残虐すぎます、悲しすぎます、というだけでいいとは、私には思えない。

具学永さんの墓所にお参りしたあと、少なくとも57人が殺害されたという熊谷市(ブログ「9月、東京の路上で」前編後編)の慰霊碑も訪問することができた。
この碑は、当時誰もかえりみなかった犠牲者の遺体を自ら集めて埋葬した新井良作さんという助役が、熊谷が市になって最初の市長に就任してから建てたという。碑文には「朝鮮人」という単語がない。戦時下という特殊な時代に、それでもこれを建てねばならないと決めた彼の心のうちを、とても知りたいと思う。
そういう人たちの声がもっと、聞きたいと思う。

お寺の方によれば、具学永さんのお墓には月命日にきまってお参りにくる人がいるといい、稀に韓国から自前の卒塔婆をもってこられる人もあるそうだ。どんな人なのか詳しいことはわからないが、都内から電車を乗り継いで2時間ほどもかかる田舎のお寺までわざわざ来られるからには、故人本人所縁の方には違いないだろう。姜大興さんにも、近年になって韓国に住む遺族がみつかっている。
そうした方々の心に、若くして謂れのない暴力によって命を奪われた故人を悼み、忘れまいとした当時の人々の思いはどんな風にうつっているのだろうか。
寄居町の具さんのお墓にせよ、姜さんのお墓や、熊谷や本庄、四ツ木橋など関東各地に散らばる慰霊碑の多くが、惨事を拡大した行政ではなく民間や個人の意志でこれまで受け継がれてきた。これからも事件の教訓とともに受け継いでいくことは、言葉でいうほど容易くはない気がする。
その見えない行先が、少し怖い。


関連記事
『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』 加藤直樹著
関東大震災時の朝鮮人虐殺地のフィールドワーク
『朝鮮の歴史と日本』 信太一郎著
『空と風と星の詩人~尹東柱の生涯~』


熊谷市の慰霊碑。

鏡の間の風景

2017年09月13日 | movie
『三度目の殺人』

30年前に父(橋爪功)が裁判長をつとめた殺人事件の犯人・三隅(役所広司)が強盗殺人で逮捕され、弁護人となった重盛(福山雅治)。
犯行を認めてはいるものの減刑をもとめる依頼人のために、強盗殺人ではなく単純殺人で公判に臨もうとする重盛だが、接見するたびに三隅の供述は二転三転し、真実は一向に見えてこない。
『そして父になる』でコンビを組んだ是枝裕和監督・主演福山雅治による法廷サスペンス。

上映時間125分が、とても短く感じた。
大きくジャンルわけするなら法廷サスペンスにあたるこの映画だが、実際の法廷シーンは全体の1割程度なのではないかと思う。構成としては、重盛(と同僚弁護士たち)と三隅との接見シーンが都合6~7回あって、その合間に、重盛が事件関係者や同僚や自身の娘と話しあうシーンが挿入される。福山雅治でずっぱりです。
一方の三隅さんは接見シーン以外にはほとんど画面には登場しない。勾留されてるんだから当たり前なんだけど、ここでもう年間に公開される日本映画の半数には確実に出演しているのではと思われるくらいあらゆる映画にでまくっている役所広司の役所広司っぷりが炸裂します。
役所さんといえばとにかく芝居がうまくて、何をやってもその役そのものにしか見えない万能俳優だけど、口を開くたびにころころと供述を変え表情を変え、本心どころか実像さえ曖昧に見えてしまうほど不気味に空虚な三隅さんというキャラクターが、そのまま、“役の器”たる役所広司そのものにぴったりとハマっているのだ。それこそ隙間なくぴっちぴちに。
こわいですね。おそろしいですね。

三隅さんのいうことが信じられなくなるのと同時に、重盛は自分自身や周囲の人間さえうまく信じられなくなっていく。果たして人は、いつ“ほんとうの自分”を正直にさらけ出すものなのだろう。誰もが常に、己の役割をどこかで演じながら生きている。生きていく環境にあわせて人間性を変えるのは、人が社会性動物たる本能ゆえなのだが、それならばその社会を支えまもるはずの“真実”はいったいどこにあって、人はなんのためにそれを、これほどまでに切実にもとめるのだろう。
結局は夢まぼろし、ただのないものねだりなのだろうか。

イタリアの巨匠ルドヴィコ・エイナウディの音楽がとにかく素晴らしく、そしていつもの是枝作品らしく映像がとてもオシャレだった。とくに今回は一番最後の接見シーンのカメラワークが圧巻です。映像技術に鳥肌がたったのってけっこう久しぶりなんじゃないかな。それくらい衝撃的だった。
福山雅治は『そし父』の良多とまんま同じ役ですね。ほぼ同一人物です。しかし万年モテ男キャラのましゃが吉田鋼太郎と同期という設定にビックリ(実年齢は10歳違い)。ただその人物造形には意外に無理がなくて、吉田鋼太郎演じる摂津弁護士のお調子者ぶりと、百戦錬磨のやり手・重盛弁護士とのバランスが非常に自然に見えました。映画って不思議なものです。
被害者のミステリアスな娘役の広瀬すずは『海街diary』に続く不幸少女役だけど、個人的にどうもこの子にこういう役柄というのが毎度しっくりこなくて、もんのすごく嘘くさく感じる。ビジュアル的には確かにめちゃめちゃインパクトあるとは思うんだけど。

三隅は30年前と今回と殺人を犯したのは都合2度なので、タイトルの「三度目」は死刑のことを指しているのだろうと思う。元裁判長である重盛の父が死刑反対論者という設定が一瞬だけセリフで語られるが、それ以外では死刑制度の是非を直接的に訴えることなく、真実とはいったい何なのか、人が人を裁くことの意味、社会をまもる司法制度の実像を、物語の本筋を補強するべきディテールやリアリティはざっくりと排除した上で、ただただ静かに穏やかに問うてくる独特の是枝節に、思わず唸らせられる作品でした。こんな社会派映画の主演が福山雅治ってのが贅沢です。
とはいえ、これが一般的に劇場用映画としてどの程度オーディエンスに受けとめられるかは、ちょっと未知数ですけどね。

関連レビュー
『海よりもまだ深く』
『そして父になる』
『空気人形』
『歩いても 歩いても』
『花よりもなほ』
『誰も知らない』
『藁の楯』
『死刑弁護人』
『休暇』
『カポーティ』
『さよなら、サイレントネイビー 地下鉄に乗った同級生』 伊東乾著
『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う。』 森達也著



名もなき壁

2017年09月12日 | 復興支援レポート
小さな命の意味を考える会



東日本大震災の津波で74名の児童と10名の教職員が犠牲になった石巻市立大川小学校の事故を考える「小さな命の意味を考える会」の座談会(3回目の勉強会)に行ってきた。
最初の回は事故と事後対応の概要について、2回目は事故後2年経って行われた検証委員会についてのプレゼンと質疑応答があって、3回目は周辺全体の事情も含めて参加者全員が質問を書いて、それらに主にご遺族が回答した。

例によってかなり繊細な話になりがちなので詳細はここでは控えたいが、こうして皆さんのお話を聞く機会を何度か繰り返すことによって痛感することがある。
それは、この事故があまりにも特異であるがために、誰にもどう向きあうべきかという正解がない。それぞれの認識の一種の“エアポケット”のために、あらゆる人と人との間に目に見えない溝のような壁のようなものが無意識に出来上がってしまっているということである。

まず地域の人とご遺族の間にもすでにそれはある。震災で身内や親しい人を亡くされたり、家や財産や仕事を失った被災者は大川小学校のご遺族だけではない。だとしても「同じ被災者同士」という共感がどこにでも簡単に生まれるわけではない。
54家族いるご遺族にしても、全員がまるっきり同じ方向、同じ姿勢で事故に向きあえるわけではない。語り部活動に参加される方もいればされない方もいるし、訴訟に参加されるご家族もあればされないご家族もある。それぞれに事情もある。
被災地の外からくる人間は、この事故に第三者としてどう関わっていけるものなのかをどうしてもはかりかねてしまう。どんなに意識するまいとつとめても、無関係な人間がこれほどの大事故に関わることへの無駄な“斟酌”“忖度”に、つい立ち止まってしまいがちになる。

今回とくに参加者が繰り返し口にしたのは、そこに影響するメディアの姿勢だった。
どういうわけか今回は2回目にはほとんどいなかったメディアが何社か出席していたせいかもしれないが、やたら中立を装わんがためにご遺族や地元の方々それぞれの異なる事情や背景をいちいち対立構造としてとりあげたがる傾向に、幾人もが苦言を呈していた。たとえば訴訟や大川小学校の校舎を遺構として残すことや語り部活動に対して、あたかも現実に「賛成派と反対派がいる」かのように世論が誤解して戸惑ってしまうのは、安易に客観的立場に拘泥する報道の責任なのではないかと。
それらの指摘に抗弁するメディアは誰もいなかった。
私個人は、そこで毅然と自分の意見がいえるメディアがひとりくらいいたっていいと思ったのだが、残念ながら、この問題にジャーナリストとして根性いれてとりくんでますよという矜持を正面きって示せる人は、今回はたまさかいなかったのかもしれない。

この発言中に、6年前、被災地でのボランティアに参加するかどうか悩んで、何度も参加した説明会で耳にしたあるフレーズを思い出していた。
現地の様子を報告してくれた人の言葉だった。

「被災地」という地名はどこにもない。
「被災者」という名前の人もいない。
状況もご事情もお気持ちも、ぜんぶそれぞれです。
そして復興の主役は、被災された地域、被災された方々ご自身です。

当たり前のその言葉は、いまも私の根幹にある。
だがおそらくは、こうした認識は人が望むほど一般的には浸透してはいない。
その責任の一端は、6年間ずっと関わり続けてきた、私のような人間にあるのかもしれないと、思った。


関連記事:
第2回 小さな命の意味を考える勉強会
第1回 小さな命の意味を考える勉強会
講演会「小さな命の意味を考える~大川小事故6年間の経緯と考察」
『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』 池上正樹/加藤順子著
『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』 池上正樹/加藤順子著


9月10日の夜、石巻市内で行われたイベント。著名なアーティストがこの日のためにつくった曲を生演奏して、みんなで踊った。
6年前の震災直後の街の惨状を思い出して、胸がいっぱいになった。たくさんの人が、この美しい土地の復興を心から願って心血を注いできたこの6年。
でもまだ、この輪に加われない人もいる。長い長い道のりはいまも続いている。

復興支援レポート



丘の上の朝鮮人

2017年09月02日 | lecture
何度もここに書いているが、私は在日コリアン3世である。
祖父母は戦前に来日し、両親は戦後に日本で生まれた。いまは鬼籍に入った祖父母はほとんど日本語を話さず、私自身は朝鮮語を解さないため、私たちの間には一般的な親族同士のようなコミュニケーションは成立しなかった。子どもたちが日本社会に馴染むよう、両親は言葉も含めた朝鮮にかかわる情報を、家庭内から(ほぼ)排除して暮らした。なので私は朝鮮語がわからないだけでなく、朝鮮のアイデンティティにつながる何ものも手にしてはいない。朝鮮や在日朝鮮人の歴史につながる出来事についても家族間で話したことはない。

関東大震災で起きた朝鮮人虐殺について初めて知ったのは、小学校か中学の授業だったと思う。といってもそれほど細かく教わった印象はなく、教科書に簡単に掲載されたのをそのままさらっと触れただけだったのではないだろうか。そのとき自分がその出来事に対してどんな感興を覚えたか、まったく記憶していないくらいだから。
この事件を含め、朝鮮や在日コリアンの文化や歴史についての私の知識のほとんどはだから、日本人や在日コリアンが日本語で書いた書物や、日本国内で行われたセミナーなどで得たものである。
外国人の住みにくさや難民申請の厳しさなど、多様性を受け入れようとしない閉鎖性が日本社会にあるのは事実だが、一方で、何代にもわたって外国にルーツを持つ人がこうして暮らし、その経緯や背景について語り継ぎ伝えあおうとする人々も当事者以外にちゃんといる。そのことにはいつも心から感謝しているし、幸運だとも思っている。たとえそうした社会的な寛容さが量的に十分でなくても、決してゼロではないのだから。

今年、墨田区両国の横網町公園で毎年行われる朝鮮人犠牲者追悼式のあと、横浜での関東大震災時の朝鮮人虐殺地のフィールドワークに参加してきた。
直前に小池東京都知事が毎年送っていた追悼文を今年見送ったことが報道された反動か、どちらも参加者は例年の2倍ほどになったという。こうした反動があることを、他の在日コリアンがどうとらえるかはさておき、私個人はとても嬉しかった。歴史的にすでに起きてしまったことをいまからなかったことにはできない。その当たり前の事実をちゃんとうけとめ、まもろうとしてくれる人がこんなにたくさんいるということに、ほんとうにあたたかい気持ちになった。
確かに当時日本人社会が犯した過ちは何年経とうが決して許されるものではない。だがその罪深さを語るとき、同時に、その罪を犯すまいとたたかった人々の存在や、罪を認めて二度と繰り返さない努力をこれまで続けてきた長い時間の積み重ねの意味も、評価してもらいたいとせつに願う。

横浜でのフィールドワークでは、南区の久保山墓地を起点に横浜橋商店街・横浜遊郭跡を経由して中村町を見学したあと、オプショナルツアー的に平楽の丘の上まで歩いた。
横浜は地震と火災の被害が甚大で市内だけで2万3千人以上が亡くなった。と同時に地震直後から流れ出したデマによって朝鮮人虐殺が多発した地域でもある。横浜市役所が震災3年後に発行した横浜市震災誌には「全市近郊隈なく暴状を呈し、暴民による多数の殺害を見、大なる不祥事を惹起するに至った」と書かれている(当日配布資料による)。その発生源と目されているのが、今回訪れた平楽の丘だった。
地震直後に発生した火災から逃れた真金町や中村町近辺の住人は、根岸町との間の高台に避難した。この平楽の丘だけで避難者数は数万人にも上ったという。中村川べりの簡易宿泊所で暮らしていた朝鮮人労働者たちも同じ丘を目指した。
そこで行われた立憲労働党の山口正憲の演説がデマの発端ではないかという説があるが、いずれにせよ2日にはすでに丘の上といわず麓といわず、周辺のいたるところで虐殺が始まった。それを目撃した子どもたちの作文が戦後まで残り、虐殺現場の貴重な証言となっている。未曽有の大火災を経て“復興小学校”として耐震・耐火構造で再建された校舎が、作文を太平洋戦争の空襲からまもってくれたのだ。

300点ほど残ったという作文で顕著なのは、書いている子どもたち本人のほとんどが、虐待され殺される朝鮮人に微塵の共感も示していないという点だそうである。あるいは彼らは、幼いながらに朝鮮人に対する差別意識をすでにもっていたのかもしれない。目と鼻の先に暮らしていながら、同じコミュニティに住む隣人としてみてはいなかったのかもしれない。だが皆無ではなかった。たったひとり、「私はいくら朝鮮人が悪い事をしたというが、なんだかしんじようーと思ってもしんじることはできなかった」と書いた少女がいた。彼女はこの平楽の丘で、必死に命乞いをしながらも自警団に虐待される朝鮮人を目撃していた。
作文を書いたのとはべつの小学生が、震災後51年を経て久保山墓地の中に私費で慰霊碑を建てている。それが関東大震災横死者合葬墓のすぐ隣にひっそりと建つ「殉難朝鮮人慰霊之碑」である。この碑を建てた人は震災当時小学校2年生。久保山の坂の電柱に縛られたまま、血を流して死んでいた朝鮮人を横目に見ながら避難した体験を、彼は半世紀を経て忘れることがなかった。
そして、誰も永久に忘れるべきでないとつよく思ったのではないだろうか。その思いは、いまもこの碑の前に集う市民に受け継がれている。

横浜は貿易港である。当時、長野~八王子~相模原を経て港まで輸出用の生糸を運ぶ“絹の道”があった。この絹の道を伝って、避難者の口伝えにデマは広がり、虐殺も広がっていってしまった。
いま、横浜でこの問題にとりくむ市民にとって、世界への玄関口たる横浜のアイデンティティさえも血で染めたという事実はとても重い意味をもっているのだろう。
その重みを重みとして感じることもとても重要だと思う。だがやはりそれだけでは、目の前にいる少数者を人としてみとめ共感し、いかなるときも偏見だけで判断しない人間性を育てる社会を築いていくのは難しいのではないかと思う。そうした社会を目指すことで初めて、どんな非常時にもヘイトクライムを許さない世界が実現可能となるのではないだろうか。
虐殺の残酷さを伝えることで若い世代に重荷だけを背負わせるのでは差別の歴史を断ちきることができないのなら、やはり、人としてこうありたいという姿、非常時にこそ弱者となる少数者の側にたとうとすることができる心のあたたかさや、まっすぐな気持ちをもっと、だいじに伝えてほしい。
少なくとも私自身は、そうした人たちに触れることができて、とても幸せな心地になれた。この感情を、これからずっと、たいせつに覚えていたいと思うから。

関連レビュー:
『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』 加藤直樹著
『朝鮮の歴史と日本』 信太一郎著
『空と風と星の詩人 尹東柱の生涯』


横網町公園内、復興記念館に展示されている震災時の火災で焼け焦げた自転車。