落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

『だめだこりゃ』いかりや長介

2004年03月31日 | book
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先日お亡くなりになった長さんの自伝。昔気質であくまで謙虚と云うイメージから自伝を出してるとは思いもよらなかったんですが、もともとはご本人も自ら書く意志はなかったようです。それが書く気になったのは2000年に荒井注さんと若い頃のバンドメンバーを相次いで亡くされたことがきっかけだと、冒頭に書かれています。

ぐりは小学生の頃、いじめられっ子だった頃に、「いかりや長介に似てる」とからかわれてひどく傷ついたことがあります。前にも書いたようにぐりはドリフの番組を見てなくて、いかりやさんと云えば当時は 人形劇『飛べ!孫悟空』の極端にデフォルメされたユーモラスな風貌の方が本人よりもハッキリした印象にあったのでそれこそ本気で憤慨したものです。
まぁ今思い返しても女の子に向かって「長さんに似てる」なんてひどいと思うけど、冷静に考えてみればなるほど似てなくもない。カオが特にそっくりと云う訳ではなくて、行儀が良くて勉強も出来て大人にはウケる優等生のくせに同級生には愛想なし、どこか気取って変に偉そうに見えるキャラクターが、ドリフターズのリーダーでコントでは強面で威張っている長さんのイメージに重なったんだろうと思います。

自伝には子ども時代を戦中に過ごした生い立ちからバンドマンになったいきさつなど、いわゆる「自伝」らしい記述もありますが、最も紙数を割いているのはやはりドリフターズのこと、『8時だヨ!全員集合』のことです。
その記憶力の細かさもさることながら、当時の情熱の傾け方には圧倒されます。もう正気の沙汰じゃないねこれは。この本を読んで初めて、『全員集合』が観たくなりましたよぐりは。DVD欲しいなぁ。
そして文面にはやさしさや律儀さや男らしさが溢れています。常に“リーダー”としてグループをまとめていく苦労、コント上の役柄=コワイと云うイメージの束縛、それを直接的な言葉では決して語らないけど、さぞ大変だったろうと思います。

これは想像だけど、いかりやさんは人前で涙を見せたり他人に甘えたりする人ではなかったんじゃないかなぁ。世代的にも、男はとにかく強くあるべしと教えられて育った人だったんじゃないかと思います。
だからと云って頑固だったり保守的だったりってことは決してなくて、仕事に対していつも前向きで柔軟な姿勢でいられたから、これだけの評価と尊敬を集める俳優になれたんじゃないかなぁ。

そう云う生き方はかっこいいけど、きっと本人はいろいろしんどかったろうと思います。
お疲れ様でした。
改めてご冥福を心よりお祈りいたします。

バトンルージュ

2004年03月26日 | book
『海をこえて銃をこえて──留学生・服部剛丈の遺したもの』坂東弘美・服部美恵子著
『アメリカを愛した少年──「服部剛丈君射殺事件」裁判』賀茂美則著
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ぐりはアメリカに行ったことがありません。
バカンスでハワイに行ったことはあるけど、アメリカ本土には今まで行く機会がありませんでした。高校2年の時に(天然記念物時代だ)姉妹校との交換留学で渡米する予定がありましたがある事情で行けなくなり、その後本格的に美術の勉強を始めてヨーロッパに憧れを持つようになったせいもあり、以降は一度も「行きたい」とも考えたことがありません。
アメリカと云う国にも、アメリカ人と云う人々にも興味はありません。

この2冊は92年にルイジアナ州バトンルージュで起きた日本人留学生射殺事件について書かれた本です。
『海をこえて銃をこえて』は被害者の母親の幼馴染みで市民運動家の坂東氏による、遺族のいわば身内として体験した事件の経緯と事件後の銃規制運動についての記録、『アメリカを愛した少年』は刑事裁判を傍聴する被害者の父親のボランティア通訳を勤めた社会学者の賀茂氏による裁判記録です。
『海をこえて…』の方は日本の女性から見た被害者を含めた事件当事者の人物が中心に描かれ、『…少年』の方は地元在住の学者らしい冷静な視点から裁判そのものが中心に描かれています。

ぐりのイメージでは、事件当時服部くんのご両親はマスコミの前で決して感情を露わにすることなく常に淡々とした態度でおられたように記憶していますが、『海をこえて…』によればそうしたポーカーフェイスはマスコミ向けに装われた“よそいき”の顔ではなく、ご夫妻がおふたりとも元来平生からクールで穏やかな方であったそうです。
顔に出さないからと云ってご両親が悲しんでいない訳がありません。悲しいに決まっています。それなのに、裁判はもとより日米での報道でも、亡くなった服部くんを含めご遺族の心情はほとんど顧慮されることがなく、むしろいわれのない非難さえ浴びせられたと云います。
この2冊の本には、愛する息子を突然奪われた遺族と異国から預かった大切な留学生を死なせてしまったホストファミリーのやり場のない怒りと悲しみは勿論、過剰なまでに暴力に頼るアメリカの銃社会の悲しみ、常に犯罪に怯えて暮らさなくてはならないほど荒んだ市民社会の悲しみ、ルイジアナ州を含めたアメリカ南部の根強い人種差別問題、そうしたアメリカの現状と日本とのギャップの深さによる悲しみ、さまざまな悲しみが満ちあふれています。

賀茂氏はあとがきでこう書いています。
服部夫妻に初めて会った剛丈くんの追悼式の席上、おふたりが英語でスピーチをしました。最初はおかあさんひとりで読む予定だったのを(おかあさんは英語教師)、おとうさんもどうしても一緒に読みたいと云ったそうです。
賀茂氏はおとうさんの慣れない英語を聞きながら、それをホテルの部屋で練習する父の辛さを考えたと云います。
ぐりは銃撃によって誰かを亡くしたり死なせたりしたことがないので、正確に遺族の心情をイメージすることは出来ません。ただその不条理を恨まずにはおれないだけです。
どこの世界に、訪問先を間違えただけで銃殺されるために子どもを育てわざわざ留学に送りだす親がいるものか。でもそれがアメリカなのです。夜見知らぬ人が家に近づいて来たら銃で撃って死なせても構わない、その権利が市民に認められている国なのです。

ぐりは最初に書いたような経緯もあってもともとアメリカに対して良い感情は持っていませんが、この2冊の本は読めばまず確実に誰でも「アメリカとはなんと厄介な国であろう」と云う印象を持つことは間違いないです。誰もが、服部夫妻のように前向きで冷静であれる訳ではない筈です。
勿論、どの国にだって大なり小なり問題はあるし、どこに住んでいてもその場所固有の問題は誰もを悩ませ苦しませるものです。そうだとしても、アメリカ以外の国ではホームパーティーに出かけた高校生が訪問先を間違えただけで問答無用で撃ち殺されたりはしません。少なくとも日本ではそうですね?ところがアメリカではごく自然なアクシデントとしてそうしたミステイクが起こりうるのです。
どっちの国に住みたいか選べと訊かれたら、答えは決まっていませんか?
それにしても事件の加害者夫婦のアタマの悪さは特筆に値します(暴言)。遺族にひとこときちんと自分の言葉で謝る誠意くらいあって然るべきだろうに、それどころか堂々と面と向かって全ての責任をそっくり被害者に擦りつけるとは、人ひとり死なせた人間の尋常な精神構造とは思えません。うーんこういう人間がしかも銃を持って住んでるとこにはぐりはやっぱ行きたくないですな。なんと云われても。君子危うきに近寄らず。

『遺言─桶川ストーカー殺人事件の深層』清水潔

2004年03月16日 | book
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先日読んだ『桶川女子大生ストーカー殺人事件(鳥越俊太郎&取材班)』の中で、鳥越氏が事件に興味を持ったきっかけがフォーカスの記事だったと云う記述があり、その後フォーカスでこの事件を担当した記者の手記があることを知り、読んでみました。
犯人逮捕後に埼玉県警の不正を暴く過程を書いたのが『桶川女子大生ストーカー殺人事件』とすれば、『遺言』には事件発生から被害者の元交際相手の死までが書かれています。

参考までに事件の経緯を日付で追ってみると以下のようになります。

99年10月26日 事件発生
99年12月19日 実行犯逮捕
99年12月21日 フォーカス、実行犯のスクープ写真掲載
2000年1月27日 被害者の元交際相手の遺体発見
2000年3月4日 「ザ・スクープ」“桶川女子大生殺害事件の真相 第1弾”放送
2000年4月6日 埼玉県警、不正行為に関与した警察関係者を処分
2000年5月18日 ストーカー規制法成立

すなわち99年10月26日から2000年1月27日までを中心に主に加害者である被害者の元交際相手周辺を取材した記録が『遺言』、それ以降被害者遺族と警察を取材したのが「ザ・スクープ」と云うことになります。
フォーカスが第一走者、ザ・スクープは第二走者、ってカンジです。

この事件では警察よりも先にフォーカスが実行犯を特定していたことが既に知られていますが、この本を読む限りでは、清水記者はとりたてて特別なことは何もしていません。あっと驚くようなトリックもなければ、政治力を駆使したり大金を積んで誰かを買収したりもしない。書いてないだけで本当は何か“マジック”を使ったのかもしれないけど、さっと読んだ印象ではそんな風には感じない。取材に応じてくれた関係者の話に真摯に耳を傾け、元交際相手とその仲間をひたすら地道に追い続けた、それだけのことです。非常にマトモにごくフツウに事件と向き合い続けた結果辿り着くべくして実行犯に辿り着いた、その決して華麗とは呼べない、苛酷で壮絶な軌跡がこの本には書かれています。
と云うことは、一介の週刊誌記者の能力の範囲内で出来たことが、なぜか大手新聞社にも百人体制の捜査網を敷いた警察にも出来なかったことになる。そこに記者は怒っている。そんなんどー考えてもおかしいやんけ、と。

ところどころでヒロイックに流れつつも臨場感に溢れた文章には怒りが漲っています。
文中、記者は「何がこの事件に自分をこれほどのめりこませるのか」何度も自問していますが、それはやはり“怒り”なのではないかとぐりは思います。
金を使って罪もない被害者を責め苛み容赦なく殺した元交際相手への怒り、自らの保身にのみ汲々としてロクに捜査しない警察への怒り、被害者側の証言よりも警察発表に踊らされるマスコミへの怒り。
記者は事件直後、被害者の親しい友人にインタビューし、被害者がどんなに酷いめに遭っていたか警察がどれだけ頼りにならなかったか、事件に至るまでのいきさつを記録を元にした克明な証言として得ています。その証言を読むだけでこちらまで真剣にハラが立って来るくらいですから、取材した記者だって相当アタマに来た筈です。こんなことが許されてたまるか、このままで済ませるワケにはいかない、と。怒りゆえに、同情でも正義感でもなくただただ事件に解決して欲しい、被害者の無念を晴らしてあげたい、改めて声高に主張するまでもなく人としてごく当たり前の感情ゆえに、記者は事件を追いかけたんじゃないかと思います。

考えてみれば、こんなことが許されてたまるか、このままで済ませるワケにはいかない、と云う怒りこそがこれまでの人間の歴史を動かして来たのかもしれません。階級制度、人種差別、人権運動・・・、それらの歴史の1ページに、フォーカスの記事はストーカー規制法と報道被害問題と云う大きな足跡を残したのかもしれません。
清水記者の取材自体はヒジョーに地味ですが、読み物としては大変面白い本です。思いもかけない、驚くようなことがいろいろと書かれています。それらの情報は勿論他のメディアでは報道されてない筈です。強いて『桶川女子大生ストーカー殺人事件』(「ザ・スクープ」)とどっちがお薦めかと云えば『遺言』の方かなぁ。出来れば両方、「ザ・スクープ」の方から読むと分かりやすいと思います。

夢のなか

2004年03月12日 | book
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昨日、群馬県で小学生の女の子が、同じ団地の隣人に殺害されると云う事件がありました。
容疑者の自室からは少女のビデオやDVDが発見されていると云う報道もあります。

たぶん、世間ではこの報道を見て宮﨑勤幼女連続殺人事件を連想した人も多いのではないでしょうか。
その宮﨑勤の著書として98年に発行されたのが『夢のなか─連続幼女殺人事件被告の告白』です。
実際には、被告と編集部との書簡によるインタビューや裁判に関わった識者の評論をまとめた本で、被告自身の著作とは云いにくいです。

事件当時、非力な幼女を次々に殺害すると云う事件そのものの残忍さもさることながら、センセーショナルな「犯行声明文」や宮﨑被告がビデオのコレクターだったことが大きな話題を呼び、それまではほんの一部で使われていた内輪の表現だった“オタク”と云う言葉が一人歩きしたり、残酷なスプラッタホラーや幼児ポルノの存在が事件に深い関わりがあるかのような報道もさんざんされていました。
現に当時高校生だったぐりも、「宮﨑勤は小さな女の子が裸にされてバラバラに切り刻まれ、血飛沫や内臓が飛び出すようなビデオが好きな変質者」という風な印象を持ち、それが事実だと受け止めていました。

ところがこの本を読んでみると、そうした報道のほとんどが真っ赤なウソであることが分かって来ます。
例えば、何度も何度もメディアに登場した被告の部屋にぎっしりと積み上げられていた5783本のビデオテープのコレクションのうち、死体などが登場する残虐なシーンを含むもの=ホラーと警察が規定したものは39本少女が登場するもの=ロリータと警察が規定したものは44本と云う数字が裁判で明らかになっている、と云う記述があります。この規定はあくまで警察の判断なので、見る人が違えばその本数はまた変わって来るでしょう。ちなみに他で最も多いのは被告自身が幼少時代に見ていた子ども向け番組を録画したものだそうです。
5783分の83=約1.4%。数字だけを見れば、被告が「小さな女の子が裸にされてバラバラに切り刻まれ、血飛沫や内臓が飛び出すようなビデオ」の世界に現実感が失くなるまで陶酔していたとは考えにくいんじゃないかと思います。
なので被告の“オタクで異常性愛者”と云うイメージはほぼ報道によって捏造されたと云っても過言ではないようです。

また、インタビューを読む限りではその真偽を一切問わないとすれば、被告が決して「成熟した正常な大人」ではないことがハッキリと分かります。
何が正常で何が異常かと云う線引きこそ非常にあやふやなものですが、このインタビューでは被告の異常性は疑う余地が全く無い。そして、彼の成育状況にはかなり大きな欠陥があったにも関わらず、家族や学校など周囲の人間が誰ひとりそれに何の対処もしなかったことが彼の人格障害を生み出したかあるいは助長させ、事件に至る大きな要因となっていると云うことが「裁判で明らかになっている」と書かれている。
ビデオの内容に関しても家族のことに関しても裁判で明らかにされているにも関わらず、それがきちんとした形で、それまでの「宮﨑勤=オタクで異常性愛者」と云う報道を矯正する形で報道された形跡はありません。少なくともぐりの記憶にはない。みなさんはどうでしょう。

先日読んだ『桶川女子大生ストーカー殺人事件』でも思いましたが、実は報道とは、事実かそれに近い情報を伝えるモノではないらしいですね。
新聞だって週刊誌だって売上げがかかってるしテレビだって視聴率がいちばん大事です。商売ですから。
そのためには分りやすかったり、視聴者の興味をそそるような刺激的な要素が大切になる。そうすると自然に同時代の流行に沿う形に表現が歪められていく。桶川の場合は“被害者はコギャル”、宮﨑勤の場合は“容疑者はオタクの異常性愛者”と云う風に表現した方がより分りやすく刺激的な報道になる。
それが、事実とは明らかに異なっていたとしても、一旦分りやすく刺激的な情報が流れてしまった後では、どれだけ正確な情報が公開されたところで誰もそんなもの見向きもしません。

ぐりは宮﨑勤がオタクであろうがなかろうが、死刑になろうがなるまいが、そんなことはどうでもいいです。
でも、なぜ宮﨑勤や酒鬼薔薇聖斗が無抵抗な子どもを殺害しなければならなかったのか、子どもたちはなぜ殺されなければならなかったのか、そのことに、社会全体が真剣に正面から向き合わない限りは、去年長崎男児殺害事件が起き、昨日群馬での事件が起きてしまったように、宮﨑被告のような人間はまた現れ、同じような事件が繰り返されるだけだと思います。それではあまりに救いがなさ過ぎる。
そんな未来を避けるために、報道は報道のあり方、社会的存在意義をしっかりと考え直すべきだし、受け止める側の我々にもそれ相応の姿勢が必要だと思います。

真実の家

2004年03月11日 | book
『桶川女子大生ストーカー殺人事件』鳥越俊太郎&取材班著
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神戸連続児童殺傷事件の加害少年A、いわゆる“酒鬼薔薇聖斗”が昨日、収容されていた医療少年院を仮退院しました。
事件当時14歳だった彼ももう21歳。改めて7年と云う歳月の重さを感じます。

ぐりは以前ある事情でこの事件について書かれた本を何冊か同時に読んだことがありますが、その時強く感じたのは「人が事実を事実として他人と共有しながら、あくまで個人として生きていくことの難しさ」でした。
例えば被害者の父の手記と、加害者少年Aの両親の手記には同一の出来事がそれぞれに書かれている箇所がいくつもあります。これは被害者である土師淳くんと少年Aが普段から家を行き来する間柄だったからで、それぞれの本にはそれぞれの親が感じたこと、覚えていることが当然書かれている訳ですが、それがことごとく異なった見解になっている。場合によっては180度違う、全く逆の見解として書かれている。ひとつひとつは些細なことだけど、こうした「事実を事実として受け入れ認めることの難しさ」の積み重ねが、形を変えて事件へと繋がっていくような気がしました。
ぐりはこの『淳(土師守著)』『「少年A」この子を生んで・・・・・・父と母 悔恨の手記』の2冊以外のルポルタージュも何冊か読みましたが、この2冊に関しては同時に読まれることを特にオススメしたい本です。2冊とも、親としての子に対する愛情にあふれた感動的な本です。愛してさえいれば何もかもが赦される訳ではないと云うことがこれほど悲しく感じられる本は、他に無いかもしれません。

この神戸連続児童殺傷事件以降、想像を絶して残忍な少年犯罪が続発し2000年に少年法が改正されるきっかけになりましたが(この法案成立に際し土師守氏も国会で参考人として答弁している)、一方で同じ年に成立したストーカー規制法のきっかけになったのが桶川女子大生ストーカー殺人事件です。

実はぐりもストーカー被害に遭ったことがあります。何年も前のことで、期間もそれほど長くなかったし、桶川の被害者ほど深刻な事態には至りませんでしたが、それでも何度も警察のお世話になりましたし、その時味わった恐怖感は今も忘れることが出来ません。これからも忘れられる日が来るとは想像しにくいです。
ストーカー被害の難しいところは、その苦しみ、恐怖が第三者に非常に伝わりにくいと云うことです。ただひとつ云えるのは、どんな人間にとっても健康で平和な生活が最も大切であり、何者にもそれを脅かす権利は断じてないと云うことです。たとえどんな事情があるにせよ、人が人を脅迫したり嫌がらせをしたりしても構わないと云う法はどこにもない。

この事件が起きた時、被害を訴えた猪野さん一家に対して警察は「嫌がらせを受けるにはそれ相応の理由があるに違いないのだから、そこに介入するのは警察の権限ではない」と云う姿勢でしか対応しませんでしたし、その結果として詩織さんが殺害されてしまった後も、マスコミは「あれだけ酷い殺され方をするには被害者の方にも理由があるに違いない」と云う見解の報道をしました。曰くブランド好き、男好き、派手好き、遊び好き、キャバクラ嬢だった・・・。これらの報道の多くは事実無根のデマでしかなかったにも関わらず、事件の謎が深まるに連れ報道はますます加熱していき、遺族は最愛の娘を奪われたばかりか報道被害によって著しく名誉を傷つけられると云う二重の災禍を背負うことになってしまいました。

この本では、テレビ朝日の『ザ・スクープ』と云う番組取材班の尽力によって、マスコミに対して固く心を閉ざしていた遺族の信頼を得て警察の初動捜査の不備と不正を告発し、さらにはストーカー規制法を成立させる原動力ともなった関係者たちの“戦い”の経緯がかなり分りやすく読みやすくレポートされています。
むしろちょっと分りやす過ぎる、ドラマティックすぎる印象も拭えませんが、それまでの警察、報道のあり方を大きく変えることになった“時代の分岐点”を知るには充分良い資料だと云えるかもしれません。

『桶川女子大生ストーカー殺人事件』、『淳』、『「少年A」この子を生んで』にはそれぞれ、ありふれた平凡な家庭が登場します。どの本の親も子どもを精一杯愛していたし、どの子どももどこにでもいる普通の子でした。
本当は、「どこにでもいるありふれた普通の家庭」なんて存在しないのかもしれません。そんなものは所詮夢幻なのかもしれない。現にこの3家族は、事件によってそれまでの生活を永遠に失ってしまった。でもそのきっかけは日常的な、ほんの些細なことだったし、そのために「ささやかな普通の生活」を奪われることになるとは当事者の誰もが想像もしなかった筈です。
逆に云うなら、ここに描かれたような事件は今や誰の身に起こっても不思議はない、今はそんな時代なのかもしれない。
イヤな世の中になった、と云う言い方はフェアではない。そんな世の中になるだけの理由が、これまでにも確かにあった筈なのに、我々がそれに気づこうとしなかっただけのことだと思います。