落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

国境の川

2018年02月09日 | book
『本当の戦争の話をしよう』 ティム・オブライエン著 村上春樹訳

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Twitterで、少し前にこんな投稿があった。そこにこの短編集の表題作となった『本当の戦争の話をしよう』の一部が引用されていた。

本当の戦争の話というのは全然教訓的ではない。それは人間の徳性を良い方向には導かないし、高めもしない。かくあるべしという行動規範を示唆したりもしない。また人がそれまでやってきた行いをやめさせたりするようなこともない。もし教訓的に思える戦争の話があったら、それは信じないほうがいい。もしその話が終わったときに君の気分が高揚していたり、廃物の山の中からちょっとしたまっとうな部品を拾ったような気がしたりしたら、君は昔からあいも変わらず繰り返されているひどい大嘘の犠牲者になっているのである。そこにはまともなものなんてこれっぽっちも存在しないのだ。そこには徳性のかけらもない。だからこそ真実の戦争の話というのは猥雑な言葉や悪意とは切っても切れない関係にあるし、それによってその話が本当がどうかを見わけることができる。(文春文庫『本当の戦争の話をしよう』117p)

私自身にはもちろん戦争経験はないし、親族にもそういう人物はいない。だからいわゆる“戦争の話”というのは、基本的に報道や文学や映像といったマスメディアを通してしか耳にしたことがない。
中学時代に、父親が軍人だったときの経験談を授業中に自慢げに披露する英語教師がいたことは覚えている。正直に告白すれば、彼が具体的に何を語ったかはいっさい記憶にない。ただ間違いないのは、私が彼の話にひとかけらの教訓も感動も見出さなかったことだろう。プロフェッショナルな教師としての評価は別として、教壇でその手の話題がもちだされるたび、授業とは無関係な武勇伝(しかも教師本人のではなくその父親の)が一刻も早く終わらないものかとイライラしてばかりいたことだけは忘れられずにいるからだ。戦争の話が嫌いだったとか、興味がなかったわけではない。歴史の話は授業も含めて小さいうちから大好きだったから。だが戦争という言葉でくくりさえすれば勝手に何らかの大義名分がつくと思っている人間は世間に数限りなくいるけれど、そんなもの単に組織的な大量殺人でしかない。教師の父親は生きて帰って息子に武勇伝が喋れてよかったかもしれないけど、そうはできなかった人だってたくさんいた。死んでしまった人も、命は助かっても一生障害を抱えて暮らさなくてはならなくなった人もいたし、無事に帰れても語る言葉をもたなかった人もいた。家族や財産を失った人も、もっともっとひどい目にあった人だって無数にいる。
そんな巨大な犯罪行為を無視して、教え子に向かって親の戦争体験を自慢する意味がわからなかった。何のためにそんなことをしなくてはならなかったのか、いまもって理解に苦しむ。
いつからどうしてそんな風に感じるようになったのか、きっかけについてはまったく心あたりがない。以前、旧日本陸軍の軍服がとにかく怖い「軍服アレルギー」であることは書いたことがあるけど、これだって理由はわからない。意外に自分のことって自分ではよくわからない。
戦争文学や戦争映画がみんな欺瞞だとまでは思わないけど、たとえば戦争映画にヒーローが出てきたりなんかするともうちょっと無理ですね。観てられないです。

いずれにしても、組織的に戦略的に大量殺人が行われる状況を描いた物語をエンターテインメントとして表現するとき、そこに必要なメッセージは「こんなことは絶対に二度と繰り返されるべきではない」ということだけで、あとはそのメッセージをどんな形で読者・観客に伝えるかということになってしまうのではないかと個人的には思う。
言葉にすれば単純だが、これほど難しいこともないのではないだろうか。いうまでもないが、戦争文学を読み、戦争映画を観る人間の多くはその現実を知らない。経験のない人間が、戦時下の人間の心理状態や環境を、リアルに想像し共感することは容易ではない。だからこそ、とにかく微細な生活描写を無限に蓄積した『この世界の片隅に』があれほど大ヒットしたりするのだろう。日常生活のリアリズムになら、人は簡単に共感することができるから。
そういう意味では、この『本当の戦争の話をしよう』も、じつに微細なディテールの蓄積で「戦争の話」をしている。オブライエンが題材にしたのは広島の田舎の若い主婦の暮らしではなく、ベトナムの前線にいる/いた若者がいったい何を考え、何を感じていたかという純粋な個人感情である。何のためにどんな敵とどう戦う/戦ったといったような戦場の状況を再現することはほとんどなく、ただただ生々しい内面描写だけを淡々と積み重ねていく。

あくまでも内省的に率直な兵士たちの個人感情を読み進めていくと、不思議と、本の中で、蒸し暑いベトナムにいて20歳そこそこの戦友と一緒にどろどろの湿原を行軍しているのが、自分自身のような気分がしてくる。ミネソタ州で徴兵通知をうけとり戦地に行くかどうか苦悩している青年が、戦場でかけがえのない友人を失ったときの感情を誰にも打ち明けられずにひとりであてもないドライブを繰り返すしかない若者が、まるで自分自身のような気分がしてくるのだ。
現実の生活では、揃いの軍服を着てヘルメットをかぶり、リュックと兵器を担いで歩く兵士の姿には匿名性がある。むしろ匿名性は兵士のもっとも重要な能力のひとつでもある。その姿をみる私からは、彼/彼女のパーソナリティはとても遠くにあって、その人は単に軍隊という殺人を職務とする組織の一パーツに見える。名前も性格も出身地も問題ではない。とにかくそれは自分とはまったく別の、「兵士」というカテゴリーの誰かでしかない。
この短編集に登場する兵士たちは、その逆のようにみえる。制服や装備や戦場はずっと遠くの背景で、日々ひたすら己が恐怖と戦うために、ベトコンではなく自身の内面に立ち向かっている年端もいかない若い男の子の傷つきやすい無防備な心が、ページの上の文字の羅列から、読み手の胸の中にするすると忍びこんでくるのだ。
そしてやっぱり、戦争なんて馬鹿げている。こんなことやりたがる人間はどう考えたってアタマがおかしいし、そういう人間のやろうとしていることはどうあっても阻止しなくてはならないという気持ちを強く感じる。

『本当の戦争の話をしよう』には、ちゃんと教訓がある。
戦争の話に教訓なんかもとめるべきじゃない、ということだ。
教訓やら感動を戦争の話にもとめるのは、自分からわざわざ誰かに騙されにいくようなもので、それをいつまでたっても学べない人間は、救いようもなく愚かな生き物なのだろう。
我ながら書いててものすごい面倒臭い話だとは思うし、それが笑えるかどうかは人によるだろうけど、少なくとも、私はとても説得力を感じました。

関連レビュー:
『ジャーヘッド アメリカ海兵隊員の告白』 アンソニー・スオフォード著
『昨日の戦地から 米軍日本語将校が見た終戦直後のアジア』 ドナルド・キーン編
『ボーフォート ─レバノンからの撤退─』

What's the law on what ya can and can't say on a billboard?

2018年02月07日 | movie
『スリー・ビルボード』

アメリカ、ミズーリ州の田舎町。娘アンジェラ(キャスリン・ニュートン)を強姦殺人で亡くしたミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は、7ヶ月間手がかりもなく膠着状態が続く捜査に業を煮やし、事件現場の野立て看板に「レイプされて死亡(Raped while dying)」「犯人逮捕はまだ?(Still no arrests?)」「なぜ?ウィロビー署長(How come, Chief Willoughby?)」という真っ赤な広告を掲示。
人々の非難は警察にではなく、町の敬意を集める署長(ウディ・ハレルソン)を名指しで攻撃した被害者遺族であるミルドレッドに向けられるのだが、一市民から喧嘩を売られたウィロビー本人はガンで余命いくばくもない身だった。
各映画賞で高く評価されアカデミー賞でも最有力候補とされる注目のサスペンスドラマ。

わずかな住人か迷子しか通らない辺鄙な場所に建てられ、30年以上も広告が出されていなかった看板が巻き起こす、怒りと混乱の物語。
ミルドレッドは他でもない捜査責任者の名前をはっきりと広告に書いたが、物語が進むにつれ、彼女の怒り(徹頭徹尾ひたすら怒っている)の矛先が警察だけではないことがわかってくる。
犯人への怒りは当然のことながら、無惨に殺された娘のことを忘れようとしている周囲の人たちや、それぞれの悲嘆があまりに大きすぎて互いを支えきれずバラバラになっていく家族関係への怒り、親として子どもをまもってやれなかった自分への怒り、子どもが生きているうちに愛され敬われる親、自分でもこうありたいと思える親になりきれなかった怒り。彼女が怒れば怒るほど、母親としての亡き娘への愛情の熱さが感じられる。愛していればこそ、無限の怒りに彼女は自ら存分に身を任せることができる。
天晴れなのは、主人公が己が怒りから決して目を背けようとせず、正々堂々と社会に向けて「私は怒っているのだ」と主張しまくるやけくそ根性である。ふつうの人間は現実にはここまで精一杯怒れない。ふだんかなり短気なわたしでさえ、彼女を羨ましく感じる。
ましてアンジェラはレイプされて殺された。彼女の遺体は焼かれていた。おそらく体に火がつけられたとき、彼女はまだ生きていたのではないかと思われるシーンが一瞬ある。その事実を突きつけられた親の地獄を思えば、ミルドレッドには好きなだけ怒る権利があると思わざるを得ない。

しかし彼女の怒りの泉はどんなに怒っても決して涸れることがない。なぜなら、彼女が失ったのはほかでもない、わが子だからだ。
子どもを失った親は、その事実から生涯逃げることができない。その怒りと苦しみと悲しみは、親が親であることをやめない限りどこまでもついてくる。
私自身には、子どもをもった経験はない。だがその傷の深さについてなら、ほんの少し心あたりがある。
だから、映画を見ている間中、心あたりの人々の顔を思い、彼/彼女たちの胸の内を思い、息苦しさを感じていた。
生きてさえいれば、こんなこともしてあげられた、あんなこともしてあげたかった、どんなにぶつかっても失敗してもいつか何もかもが報われて「そんなこともあったね」なんて笑いあえる日がくると思ってたのに、親として達成したかったことは無限にあるのに、まだ続くはずだった長い道のりを突然断ちきられたあとの、なんの手触りもない暗闇。

非常に重い話なのだが、シナリオがとにかくものすごくよくできていて、やっぱり映画はシナリオだよと再認識させられる。
つねにどっちに転がるかわからないストーリー展開もさることながら、きつい南部訛りで下品なFワードとブラックジョークだらけのスパイシーなセリフ遣いが実に笑える。頻繁に言及される同性愛者やアフリカ系アメリカ人への差別への皮肉がとくに機知に富んでいて(「同性愛者が殺されるのはワイオミング」なんてセリフは明確にマシュー・シェパード事件のことを指しているものと思われる)、制作者側の差別や体制への厳しい批判がうまく表現されていて、観ていて非常に心地よかったです。
物語のテンポにも緩急・バランスにもいっさい無駄がない。はっきりいってミルドレッドを含め登場人物全員の行動は途中からかなり非リアリスティックになっていくので、トーンとしては西部劇に近いような一種のファンタジーでもあるのだが、その段階に至るまでの仕込みパートの描写に説得力がありすぎて、うっかり「そんなこともあるのでは」という気分になってしまうのだ。観終わってしまえば、ちゃんとそんなはずはないと冷静になれるんだけど。
とりあえず物語としてお芝居としてこれだけの完成度のある作品は滅多にないんではないでしょうか。個人的にはこの物語を舞台で観てみたい気もしました。



愚かさという名の凶器

2018年02月04日 | 復興支援レポート
小さな命の意味を考える会 座談会



2011年3月11日、地震が起きて、津波が来た時、被災地には小雪がちらついていた。
地域によって証言によって雪が降りはじめた時間には多少のズレはある。津波がくるまえにはもう降っていたというケースもあれば、命からがら津波から逃れて避難した高台から動けずに野宿した夜に降ったというケースもある。
いずれにせよ、その日は寒い日だった。
まして彼の地は北国、春はまだ遠かったあの日の夜、津波に濡れ、冷たい風に凍え、電気もガスも電波もすべてのライフラインが途絶えろくに暖をとる手段もないなか、多くの人々が凍死した。地震からも津波からも助かったのに、生きて夜を明かすことができなかった。
見知らぬ者同士、かき集めた木片で起こした焚き火の前で、救助を待ちながら息絶えた人を、なすすべもなく見守るしかなかった生存者もいる。「あんなに寒い思いをしたのは後にも先にもあの時だけ」と、彼はのちに語ってくれた。

1月28日午前10時から石巻市大川小学校跡地で遺族を中心にした地元の方々が催した語り部の会には、150人ほどの参加者が集まった。
晴れてはいたけれど前日からの雪が積もり、遮るものもなく川風にさらされた学校跡地はとにかく冷える。
そこに多くの市民と報道関係者が集まって、大川小学校被害児童の遺族や生存者の体験談にしんと耳を傾ける。
大気は冷たいのに、集まった人たち、語る人たちの胸の中に流れる感情の熱さを感じる。

特別なものなどないごくふつうの田舎の小学校の、特別ではないふつうの日に起きた惨劇。
災害無線もラジオも広報車の警告も、津波がくるから逃げてほしいと懇願する保護者も無視した教職員への怒り、せめて最後の1分間、堤防ではなく山に逃げてくれていたらという悔恨、我が子の訃報を耳にした時の絶望、自分の手で愛娘の遺体を冷たい泥の中から掘り出した時の悲しみ。

語り部の会でも、午後から開かれた座談会でも、毎回集まる参加者は違うから主催者側が話すことや質疑応答で語られることはいつも似通っている。
そこに繰り返し通い、当事者の講演会にも何度か参加し裁判も傍聴してみて、毎回痛感することがある。
74人の子どもたちと10人の教職員、子どもの帰りを待ちながら自宅で津波にのまれた高齢者たち、学校が避難しないなら大丈夫と判断してその場にとどまった地域住民たち、この大川で起きた災害の犠牲者の命を奪ったのは、「くさいものにはとにかく蓋をしてみないふり」で先送りにしてしまう無責任主義という、現代社会そのものが抱えた病なのではないだろうか。

海抜は低いし、人が住んでいなかった大昔には津波が来たかもしれないけど、最近はきてないみたいだから「これからもこない」ことにしてしまおう。
津波はくるかもしれないけど、行政がこないといっているんだから、真剣に対策なんてしなくても許される。
大地震はきたし裏山にも逃げられるけど、あとのことを考えたら面倒だから、とりあえず校庭で津波警報が解除になるのを待ってればいい。
保護者は避難しろなんていってるけど、こういう非常時だから学校は落ち着いてなくちゃ。

結果論からいえば、彼らの判断はきれいさっぱりすべてが間違っていた。
そして多くの命が失われた。
もちろん九死に一生を得た人もいる。だが彼らは彼らで、文字通り地獄のような被災体験と、その一瞬まで傍らにいた友人や隣人や親族を喪いながら生き残ったという言語に絶する思いを抱えたまま、これからの一生を生き抜いていかなくてはならない。
その事実は、これから何をどうしようと決して覆りはしない。
あったことは、決してなかったことにはできない。

しかし、あのときの判断が間違っていたとして、では他の誰が、どうやって、もっと正しい判断ができただろうか。
二度と取り返しのつかないことが起きて、しかもその責任を誰もとらないまま7年もの歳月が過ぎたいま、われわれがもっとも深刻にとらえるべきはその点であることに疑いの余地はない。
もしもう一度同じことが起きたとき、今度こそ間違いなく、子どもたちと地域の人たちをまもるためには、いったい何が必要なのだろうか。
その障害になる「病」とは、いったいどんな病なのか。
おそらくは人間なら誰もが持っている愚かさ、それが集団になったときには凶器にも変わってしまう社会性動物であるからこそ犯しやすい過ちに、たちむかうべきときが、いま来ているのだろう。
その戦いに立ちはだかる壁の厚さ、高さがどれほどのものなのか、少なくとも、私にはわからない。
でも、その壁に背を向けて逃げる道も、もうないような気がする。


関連記事:
『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』 リチャード・ロイド・パリー著
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講演会「小さな命の意味を考える~大川小事故6年間の経緯と考察」
『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』 池上正樹/加藤順子著
『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』 池上正樹/加藤順子著

復興支援レポート


北上川の夕日。



のろろ祭りの夜に

2018年02月04日 | movie
『羊の木』

市役所の上司から、新たに受け入れることになった6名の転入者の対応を極秘に任された月末一(錦戸亮)。やがてやって来た福元(水澤紳吾)、太田(優香)、栗本(市川実日子)、大野(田中泯)、宮腰(松田龍平)、杉山(北村一輝)は各々べつの殺人罪で懲役刑をうけ仮釈放中の身だった。
宮腰は年齢が近かった月末が高校時代から組んでいたバンドに加わるようになり、メンバーの文(木村文乃)と恋仲になるのだが・・・。
『紙の月』『桐島、部活やめるってよ』『クヒオ大佐』『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』の吉田大八監督最新作。

うん、力作エンターテインメント、という形容がぴったり。
更生した犯罪者を受け入れる制度を導入しようとする町の物語というとつい社会派ドラマを連想しがちだけど、ぜんぜんそんなことないです。むつかしいことは何にもない、誰もが頭カラッポにして楽しめるふつうのサスペンスドラマです。おもしろかったです。すごく。
けどその一方で、作り手側の真剣度がこれほどがっちりと伝わってくる映画もなかなかないんじゃないかと思う。
一度罪を犯した人を人は信じることができるのか、赦すことができるのか。社会はうけいれることができるのか。人の居場所とはなんなのか。奪われ二度と戻ることのない命の重み、償えない罪の重さといった普遍的なテーマを、一見主体性もなく周囲に流されるだけの月末という主人公の静かな背中を通して、淡々と真摯に描いている。
そこにありふれた正義論は存在しない。教訓も諦念もない。
人はひとりひとり皆違う。取り返しのつかないものは永遠に取り返しがつかない。それでも、生きてさえいれば人は(いくらかなら)前に進むことはできるかもしれないという、ごく当たり前の事実しかない。
そんなごく当たり前の事実を、飾らずにストレートにシンプルに伝えるために、作り手たちがどれほど繊細に緻密に隅々までとことん考え抜いたか、その気合はものすごくよくわかる。
頑張った。お疲れ様です。

作中に登場する「のろろ様」という神の存在がまた絶妙です。
海からやってくる異形を追い返すため、昔の人々は人身御供をふたり捧げた。崖から突き落とされた生贄のうち、ひとりは海の底に姿を消すが、もうひとりは無事に生還する。もちろんいまはそんなことは行われていないが、年にいちど、のろろ様を町に迎える祭りがある。海辺には巨大なのろろ像も建っている。町の人は滅多なことではその姿を見ようとしない。見てはいけないとされている。理由はどうあれ、昔からそういわれているから。
これって「人の罪」のメタファーだよね。人間は生きていれば誰もが何らかの罪を負っている。そして日常ではその罪から目を背け、あたかもそれが実在しないかのように暮らしている。まともに向きあうのが怖いから。だがくさいものに蓋をするからには、そこに犠牲がともなうこともわかっている。わかっているからこそ、ますます人々は目を伏せる。理由はなくて、単に以前からみんなそうしているから、そうするだけ。

出演者全員が却って笑えるくらいのはまり役だったのがこの作品最大の勝利だろう。
ただただ穏やかで凡庸な市役所職員そのものの錦戸亮や、見るからに恐ろしいくらい気弱そうな水澤紳吾、往年の五月みどりばりに無駄なフェロモンを炸裂しまくる優香も凄いんだけど、やはり誰をさておいても驚異的なのは松田龍平だと思う。どこか可愛らしく優しげな風貌なのに、画面に映っただけでそこはかとなく怖い。びっくりするくらいとくに何もしていないように見えるのに、そこにいるだけで演じる人物の語るべき物語が滝のように溢れ出てくる俳優ってそうはいないと思うんだけど、この作品の松田龍平はまさにそれです。圧倒的すぎて、観てて変な汗をかいてしまった。

よけいな説明がまったくない映画なので、観る人によって全然違う受け止め方をされる作品でもあると思う。
でも個人的には、観た人それぞれに観終わった後にゆっくり余韻に浸りながら、描かれた物語の意味を落ち着いて考えるための映画でもあるのではないかと思う。
そういうエンターテインメント映画があるということが、自由で豊かな社会の証だと思うし、こういう作品がこんな人気監督と人気俳優でつくられたことにも、意味があるのではないでしょうか。