落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

無責任な第三者としてなるべく東北の人たちのそばにいたいと思っている人間の意見

2013年06月25日 | diary
福島県南相馬市の津波被災地(海岸部)に行くたびに、身の危険を感じます。公道で写真を撮っていただけで住民に言いがかりをつけられ、囲まれ、殴られ、つばをかけられる

これまでにも書いているけど、ぐりは震災の日から今まで、東北のことを忘れたことは一度もない。
毎日毎日、東北のことを考えて暮らしている。なにもできなくても、できる範囲で復興のためにできることを探したい、できるだけ、気持ちだけでも東北の人のそばにいたい、と思って日々を生きている。
それはたぶん、これからもずっと変わらない。すくなくとも、しばらくは変わらないと思う。いつまでかはわからないけど、東北の復興の道はまだまだ遠い。その道のゴールが見えるようになるまでは、できるだけこういうスタンスでいたいと思っている。

それはそれとして、ボランティアに通い始めてもう2年余り、いままでいろんなことがあったし、いろんな人に出会った。中にはもちろん他人にいえないことも数限りなくあった。
あの未曾有の大災害のあとの大混乱の中にいて、不用意に人にいうことでどんな影響がどこに波及するかわからなくて、どうしても必要以上に言葉を選んでしまう自分がいる。
誰が正しくて誰が悪くて、という単純にわりきれない事態に置かれたとき、社会への影響に責任をもてない個人として、その判断をただ先送りにするしかできない。それで納得してるわけじゃないし、内心忸怩たる思いもある。心底苦しんだこともある。悲しい思い、悔しい思いもした。いまも悩むことはたくさんある。

でもひとつだけいえることは、ぐりはいつでも逃げることができる立場にいるということだ。
気持ちの上ではどんなに東北の人たちのそばにいたくても、現実にはぐりは当事者じゃない。関係を断とうと思えば断てるし、責任なんか放り出して逃げたければいつでも逃げられる。他人のふりをするのもぐりの勝手だ。
どれだけ東北の人に寄り添っているつもりでも、あくまでも自分はよそ者、第三者であるという客観性は忘れるべきじゃない。つい知っているつもり、わかっているつもりで傲慢になりがちな自分を、戒めていたいと思う。
被災された地域にお住まいの方々、そこで働いている方々、そこでの出来事を日々の糧として関わっている方々はそうはいかない。逃げも隠れもできないし、いつまでも見て見ぬふりもできないし、あったことをなかったことにすることもできない。そこは当り前に弁えるべきだと思う。

今回の災害と事故では、日本のマスメディアは大きな痛手を被った。逆にインターネットメディアは大きな力を得た。ネットニュースや動画配信サイトなどのオルタナティブメディアが、多くの人に公平な真実(あるいはその一側面)を公にし、世間を驚かせ、勇気づけもした。あらゆる人が自由に発言できるメディアだから、広告業界や経済界の意図には無関係な共通認識をつくりだすこともできる、そういう力を多くの人が得ることができたのは良いことだと思う。
その一方で、個人的には、インターネットを始めて17年、意外に日本人のインターネットの使い方はあのころとほとんど変わりがないということに、ぐりは正直にいって少し残念な気持ちでもいる。
まだPCも携帯電話も普及してなくて、インターネットは一部の人が電話回線で使うものだったあのころ、ほんとうにこんなものが世の中の役に立つようになるのか疑心暗鬼でとりくんでいたあのころ、日本のネットに飛び交う言葉や情報は偏っていて不完全で深みがなくて、ぐりはしょっちゅう国会図書館や大宅文庫に通い、雑誌や新聞などの既存メディアを情報源にサイトをつくるしかなかった。どれだけ真剣につくっていても期待するほどの反応はなくて、結局ぐりの中で「ネットはオモチャ」「媒体に関係なくどの情報も話半分」という従来の認識に落ち着いてしまった。事情があってインターネットの仕事をしていた期間は長くはなかったから、これも偏見なのだろうと思うけど。

でも、この認識はいまもそれほど変わらない。
確かに、インターネットは情報を素早く幅広くキャッチするのにとても便利なツールだ。だが便利ゆえに困ることもある。
いったんネットにこぼれた情報は誰にも収拾はつかない。だから情報を発信するにしても、受取るにしても臆病にならざるを得ない。ただ誰もがそういう認識でいるわけではないから、「炎上」などという現象が簡単に起きてしまう。
ぐりは誰かの味方をしたいわけではないし、できるとも思わない。だけど、事実とはその当事者にすら完全にはわからないものなのに、ネットの限られた情報だけでどう判断することもできるものじゃない。何度東北に通おうと、ぐりが東北のこと、被災した地域のこと、地域の人たちについてわかっていること、語れることなんかそうそうない。
それでいったい誰の何を批判できるというのだろう。すくなくとも、ネット上では何もいえない。

ひとつたとえ話をしよう。
昔、地震が起きて、大火事になった街があった。
火災で全焼した家もあり、半焼した家もあった。
それから数日過ぎて、半焼・半壊した家が何軒か、また火事になった。そして今度は全焼してしまった。
まだ地震保険も普及していなかったころ、火災保険の支払額には全焼か半焼かでもちろん差がある。被災した地域全体が殺伐としていた中で、あれは放火だという噂があっという間に広まった。半焼・半壊だってもう住めない。どうせ壊して建て直すんなら、みんな燃えちゃった方がもらえるお金も増えるからと。保険会社の調査結果なんか絶対に公開されないから、多くの人がこの噂を信じた。報道されないことがあまりに多過ぎて、却って報道にない流言飛語が簡単に信じられてしまった。
その後、このあとで起きた火災が通電火災だったことが広く知られるようになった。地震などで断線した電力線に、電気の供給が復帰したときに発火が起こり、延焼して火災になる。誰が火をつけなくても、火事は起きていた。しかし放火したと後ろ指を指された人の名誉はもう回復されない。災害の直接の被害だけじゃない、一度壊された地域社会の信頼関係も二度ともとには戻らない。

この話を聞いたのは今回の震災の何年も前のことだ。
そしていま、こんな話はまったく特別じゃない、どこにでも転がっているありふれた話になってしまった。とても寂しいことだけど、事実だ。
ここから学べるのはひとつだけ、自分が見たり聞いたりしたことだけで、簡単に誰かの肩を持ったり、信じたり、判断したりすることがどれほど危険なことか。許せることは、許せるうちにできる限り許し、受け入れ、そのあとで考えてもいい。
ぐりの基本姿勢としては、できるだけ、少ない人の声に耳を澄ませていたい。声の大きい人、数が多い側ではなく、得るもののない人、すぐケンカになっちゃいがちな人の声は、あんまり無視したくないし、勝手に評価したりはしたくないと思っている。
無責任な第三者として、そう思っている。

親密な敵

2013年06月22日 | movie
『いのちの戦場 ─アルジェリア1959─』
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原題は『L'ENNEMI INTIME』。
1954年に始まったアルジェリア独立戦争の前線でゲリラの指導者を探していた小隊の中尉が戦死、後任のテリアン(ブノワ・マジメル)が赴任。
ゲリラに襲われた村で生残りの少年を保護したテリアンだが、その後の戦闘で敗ったゲリラの戦死者の中から少年の親族を発見。後送される負傷者まで襲うゲリラをあぶり出すため、テリアンの小隊は近隣の村の住人を皆殺しにしてしまう。
1999年までフランスが公式に認めていなかった戦争を題材に、人道や倫理を破壊する暴力を描く。

19世紀からフランスの支配を受けていたアルジェリア。
第二次世界大戦と前後して帝国主義が排斥される国際感情の中で、フランス領だったカンボジア、タイ、ベトナム、ラオス、チュニジア、モロッコなどが次々と独立していき、アルジェリアでもフランス支配からの独立を求める動きが活発化、1954年に武力闘争が始まる。
映画で描かれる独立戦争というと、どうしても被支配国側から描かれるのが一般的だ。そこには自由と独立を求めるための闘争という、ゆるぎない大義名分があるからだ。この映画はその逆、フランス側からの視点で描かれている。

風土や地理を含めて土地柄をよく知るゲリラとの戦術の違い、倫理観の違いに苦戦するフランス軍。
主人公になっているテリアンは理想論者で違法な兵器の使用や拷問、非武装市民への攻撃命令に激しく抵抗する。敵の死にも味方の死にも動揺し、深く悲しむ。彼の感覚は戦場には似つかわしくないが、それ以外の平和時にはごくごく健全な、人として当り前の反応でしかない。それが決して受け入れられない苛酷な戦場で、テリアンも少しずつ変化を強いられていく。
ごく健全な当り前の感情が許されないのが戦争なのだ。そこに正義などどこにもない。信頼も忠誠も仁義も何の役にも立たないし、敵も味方もない。裏切りが横行し、同胞人同士が殺しあい、死者を冒涜する。血で血を洗うとはまさにこのことだが、実際にこれまで世界中で繰り返されてきた紛争では、どこでも同じことが起こっていた。いったん暴力が持ち込まれ、それが正当化されてしまったら、それをやめて人の道を取り戻すのは生易しいことではない。

どんなに身を律しても戦争に英雄などいないことを、ごく地味にストレートに描いた、とても好感が持てる映画でした。
フランスの戦争映画ってほとんど観たことなかったと思うけど、これまでに観た戦争映画の中でも、訴えるべきことに非常に共感できる作品でした。

ロングアイランドの残念祭

2013年06月20日 | movie
『華麗なるギャツビー』

第一次大戦後の好景気に沸くニューヨーク。中西部出身の証券マン・ニック(トビー・マグワイア)は隣家の豪邸で毎週末ごとに開かれるパーティーに招待され、館の主ギャツビー(レオナルド・ディカプリオ)に、ロングアイランドの向かい側に住むニックのいとこ・デイジー(キャリー・マリガン)をお茶によんでほしいと頼まれる。
ふたりは戦前恋仲だったが、ギャツビーが戦後オックスフォードにいる間にデイジーは富豪のトム(ジョエル・エドガートン)と結婚し、娘をもうけていた。
アメリカ文学史が誇る文豪スコット・フィッツジェラルドの傑作を原作に『ロミオ+ジュリエット』『ムーラン・ルージュ』のバズ・ラーマンが史上5度目となる映像化。

5度目だけど一本も観たことないし、今回くらい観てみようかなと思い3Dで鑑賞。
自分で観にいっといてこんなこというのも何ですけど、やっぱあたし3D苦手みたいです。半分くらいで頭が痛くなっちゃって、もう途中からは「はよ終わってくれ」としか思ってなかった。原作も何回も読みまくっちゃってるしさ。
3Dによる錯覚のせいか、シネコンでいちばんおっきいスクリーンなのに画面は小さく狭く見えるし、目の焦点はあいにくいし、画面は暗いし。そもそも3D映画ってそんなに観てないけど、いうほど臨場感ないよね?てかむしろより作り物感・ハリボテ感が強調される気がする。確かに立体感はなんとなくあるけど、だいたいの作品は飛び出す絵本?書き割り?みたい感じ。却ってリアリティが損なわれてる。そもそも全部ちゃんと3Dカメラで撮影してんのかな?してないよね?チープな3D映像は逆に見た目ちゃっちく見えて逆効果だと思うんだけど。
だからぐり的には今のところ3D映像はライドアトラクションや広告、ライブアートのためのテクノロジーであって、総合芸術たる映画のためのものじゃないです。とりあえず。

たぶんこのバズ・ラーマンて人は映画=映像、しかもゴージャスじゃなきゃいけない、みたいな観念が必要以上に強いんだよね。
それはそれで趣味として尊重するけど、そこにこだわるんなら他のディテールも同じくらいこだわってほしいと思うの。
とくにこの原作小説の魅力は、当時の富裕層の無反省に空虚な浪費ぶり─まさに“バブリー”─と、その影にある真実の悲哀とのギャップ、そこから導きだされるカタストロフにあるわけで、どちらか一方だけ頑張っただけでは決して表現できない。ぐりの記憶にある限りでは、原作でもこの両者に置かれるウェイトは半々か、むしろしんどい、イタい部分の方が大きいくらいな印象がある。
それがこの2013年版『ギャツビー』では完全にお留守、おざなり、誰がどう見ても手抜き、という体たらくで(たとえばラストシーンにギャツビーの父は登場しない)、明らかにこれはただただアホみたいに金のかかった大味なアールデコ映像のためだけの映画になっちゃってる。それで世紀の傑作の心髄を感じろといわれましても無理でっしゃろ。象徴的なのが例の「緑色の灯火」の表現。なんかやたらに鋭く眩しい閃光で、もはや色とか距離感とか光の持つ生命観とかどうでもよさげです。明るくすりゃいいってもんではないでしょう。
一応やりたいことはわかるんだけど、これじゃレオさんの熱演があまりに可哀想でむしろ痛々しい。気の毒です。

かと思えば文字通り蛇足なパートまであったり。
この映画は、後年アルコール中毒になったニックが療養所で過去を回想するという原作にない形式になってるんだけど、これ完璧いらなかったです。超わざとらしい。こういうところに労力を割くくらいなら、ギャツビーの過去やデイジーとの出会いの部分に頑張ってほしかったです。
表現したいことを十分に観客に伝えるためにも、ほんとに大切なほかの部分もちゃんとつくりこんで、相対的に世界観を構築して初めて、総合芸術の再現性って達成されるもんじゃないかと思うんだけど、そういう点でこの映画のバランスはとても評価できる完成度とはいえない。
まあここまでゴージャスゴージャスいってますけど、実際映画全体は期待したほどゴージャスでもないです。
セットはけばいし衣装もジュエリーも確かにオシャレだけど、映像としては予告編以上の豪華さはない。ほんの数分かそこらの予告編の豪華さを2時間以上に引き伸ばしてより豪華になるかっつったら、そら数学的に考えて無理ですわね。当たり前の話。
あとこの映画、予告編と本編で使用カットが違いすぎ。本編よりもさらに演出過多な予告編にしたかったんだろうけど、その微妙な違い方が妙に気になって気になってしょうがなかったです。

それと、やっぱしぐりはデイジーのことはどうしたって好きになれないし、この感覚に男女のどうしようもなく絶望的な溝を感じて寂しくなってしまった。
ひたすらおっとりと愛らしく美しく、何事においてもたよりなく主体性のないお嬢様。ひとりでは何もできずどこにもいけないけど、ただ黙ってそこにいるだけで男性をうっとりさせてしまうお姫様。こんな女のために危険な人生を選びとんでもないお祭り騒ぎを延々と繰り返すからこそ、ギャツビーは悲しい。あるいは彼女は、彼の茶番ともいえる悲劇をよりひきたたせるための装置なのだろう。
男性にとってこういう女性ってたまんないんだろうなってことはわかるんだけど、個人的には絶対に友だちにはなりたくない。同席するだけでも超イライラしちゃいそう。こういう意味不明にふわふわした女性って苦手なの。ごめん。
原作には彼女の声をして「それは金にあふれた声だった。高く低く波動する尽きせぬ魅力があった」という独特な表現があって、それだけで圧倒的に納得させられたもんだけど、この映画にはそのセリフもなかったよね。そこも大減点でした。

月の銀の林檎と太陽の金の林檎

2013年06月19日 | movie
『マディソン郡の橋』
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アイオワ州の片田舎に住むフランチェスカ(メリル・ストリープ)は、近所の屋根のある橋を撮りに来たフォトグラファー・ロバート(クリント・イーストウッド)と激しい恋に堕ちる。
離婚歴があり孤独を恐れないロバートの熱い求愛に陶酔するが、彼女には夫と築いてきた家庭と子どもたちへの親として責任があった。
ロバート・ジェームズ・ウォラーのベストセラーを原作に、1995年に世界中で大ヒットしたイーストウッド主演・監督作品。

超今さらですがTVでやってたのを録画。おもしろかったです。
1995年といえばぐりは社会人になったばっかりのころですね。大ヒット映画とかベストセラーとか、そういうのに素直にとびつけなかったころです。
実際観てみたら意外に感動できたけど、たぶん、あのころ観ても何が良いのかぜんぜんわかんなかったと思う。40過ぎて、ヒロインとだいたい似たような年齢になって来たから、うまく共感できたんだと思う。
まあぐりは主婦じゃないし、家庭もないし、子どももいないけど、それでも。

イタリアで米軍兵士だったリチャード(ジム・ヘイニー)と出会い、結婚してアメリカにやってきたフランチェスカ。
当時も今もずいぶん勇気のいる選択だったはずだと思う。当初はなんでも初体験だったろうし、子どもが小さいうちは自分の選択の是非について考える余裕もなかったのに、中西部の農村の生活に慣れ、子どもたちが成長して思春期を迎え自立し始めたとき、急にひとりぼっちになってしまったような孤独に襲われる。
ほんとうに自分の人生はこれでよかったんだろうか。ほかに正解があったんじゃないだろうか。
人生の残り時間を意識する年齢になれば誰もが一度は抱く疑問だ。
ひっそりとあたためてきた幸せ、ひとつずつ積み重ねてきた日々の平和、自分がしてきたことに自信が持てなくなる。何かが間違っていたような気がしてしょうがない。

フランチェスカはロバートに出会うことで、自分が手にしているものの価値を、自らの存在意義を改めて評価し直すことになる。
ロバートのストレートな愛情表現には飾りがなく、誰もが一度はこんな風に求愛されたいと思うほど誠実だけど、互いの思いを大事にしたいからと別れを選ぶふたりの恋を、ぐりはメロドラマだとは思わない。
この映画がつくられた90年代、アメリカ映画は今よりももっと自由で寛容で豊かだった。何も古き良き時代だったなどと懐かしむつもりはない。でも、ごく少人数の登場人物たちの、家庭内のごくささやかな、日常的なシンプルな言葉のやり取りだけで、誰もが共感できる愛情の奥深さと味わいを表現できたというだけで、これが世界的大ヒットになり不朽の名作となっただけの理由になる。
この映画には暴力もなければ露骨な性表現もない。メリル・ストリープとクリント・イーストウッドは確かに大物だけど、いわゆるセクシー女優もイケメンもでてこない。CGもなければアクションもないし、ゴージャスなセットも衣裳もない。それでもこれだけのことがちゃんといえる。いま、アメリカ映画にこういう映画をつくってヒットさせることはできるのだろうか。最近あんまり観てないからよくわかんないけど。

この映画に引用されるイェーツの詩だけど、確か『ミリオンダラー・ベイビー』にも『イニスフリー』が出てきたよね。原作にも出てくるのかな?イーストウッドが好きなだけ?
ぐりも好きだけど。

THE SONG OF WANDERING AENGUS
by: W.B. Yeats

I went out to the hazel wood,
Because a fire was in my head,
And cut and peeled a hazel wand,
And hooked a berry to a thread;

And when white moths were on the wing,
And moth-like stars were flickering out,
I dropped the berry in a stream
And caught a little silver trout.

When I had laid it on the floor
I went to blow the fire a-flame,
But something rustled on the floor,
And some one called me by my name:
It had become a glimmering girl
With apple blossom in her hair
Who called me by my name and ran
And faded through the brightening air.

Though I am old with wandering
Through hollow lands and hilly lands,
I will find out where she has gone,
And kiss her lips and take her hands;
And walk among long dappled grass,
And pluck till time and times are done
The silver apples of the moon,
The golden apples of the sun.


さまよえるアンガスの歌

頭がほてっていたので
ハシバミの林に出かけた。
そしてハシバミを切り剥いで棒をつくり
イチゴの実を糸につけ
白い蛾が羽ばたき
星が蛾のようにまたたくころ
イチゴの実を流れにおとして
小さな銀色の鱒をつりあげた。

それを床に置くと
火をおこしにかかった。
そこで床にさらさらと音がして
誰かが私の名前を呼ぶのだ。
それは林檎の花を髪に差した
輝く少女になり
私の名前を呼んで駆け出し
暁の光に消えていった。

私は窪地や丘を
さまよい歩いて年老いてしまったが
彼女の行方をみつけ
その唇にくちづけし、その手をとりたい。
丈高いまだらな草地をめぐり
時がついに果てるまで
月の銀の林檎
太陽の金の林檎。
(ぐり訳)

Aal izz well

2013年06月17日 | movie
『きっと、うまくいく』

大学の同窓生チャトゥール(オミ・ヴァイディア)に呼び出されたファルハーン(R・マドハヴァン)とラージュー(シャルマン・ジョシ)は、かつて万年2位だったチャトゥールが主席のランチョー(アーミル・カーン)に一方的にふっかけた「卒業後10年でどちらが成功しているか」という賭けの結果を知るために、長年音信不通だったランチョーの行方を探すことに。
名門工科大ICE在学当時、頭脳明晰、成績優秀なランチョーだったが、彼は教師に無理難題を吹っかけては自由に学識を身につけることこそが教育と主張し、仲良しのファルハーンとラージューを巻き込んで問題ばかり起していたのだった。
2009年にインドで歴代興行成績ランキングナンバーワンとなった大ヒットボリウッド映画。

原題『3idiots』=3馬鹿トリオってとこか?コメディです。そしてミュージカル。そして長い。170分だよ。長いよ。
でもその長さをいっさい感じさせない。ムチャクチャおもしろかったです。ここ数年では一番のヒットかも。
笑えるという点ではそこまで大爆笑というのではない。工科大学が舞台ということもあって登場人物のほとんどが男性(女性はファルハーンとラージューの母親の他は2名のみ)、若い男しか出てこないから笑いの質も自然とお下劣になる。とはいえそこは信仰深いお国柄のせいか、エロネタというよりは純粋に下ネタ、下半身ネタばっかり、日本でいうと小学生が喜ぶようなジャンルの笑いである。ニヤっとは笑えるけど、さすがに腹を抱えてゲラゲラというわけにはいかない。むしろここまで低レベルのギャグをこれだけのバリエーション連発できるってのはある意味スゴイけど。
おもしろいのは、とにかく二転三転とぐいぐい凄まじいドライブで観客を引っ張っていくストーリーテリング。決して完成度が高いというのではないんだけど、観てる方を一瞬も飽きさせない、気を抜かせない、考えさせない。冷静に考えたら突っ込みどころがあり過ぎるんだけど、そこもなんぼか狙ってる感じもする。狙われてる感じが悔しい。

とくにこれはスゴイと思ったのが、物語の始まりが大学卒業10年後の設定だから、画面に登場するチャトゥール、ファルハーン、ラージューの結末はある程度わかっている。にも関わらず、在学中のパートでは劣等生の彼らが一体どうなるのか、いかにしてランチョーたちが学生生活の困難を乗り越えていったか、いちいち手に汗握らされるのだ。
荒唐無稽なほど極端に競争社会化した現代のインド。とくにカーストによって職業選択の自由が阻まれる中、ITや工学系の職業は身分に関係なく出世が見込めることから、親は誰もが男の子の教育に期待をかける。就職率の高い大学の入試倍率は年々異常に上昇し、極度のプレッシャーの中で若者の自殺件数も増えている。
そんな歪んだ社会システムに、ランチョーは正面から異論を唱える。ただ情報を詰めこんだり、優劣だけを競うのは教育ではない。学問を愛すること、楽しむこと、優秀になることは結果、成功することもその結果だという。正論である。

競争教育と権威主義という固定概念の権化として登場するのがICEの学長(ボーマン・イラニ)なのだが、いってみれば彼は悪人で、ラージューは完全無欠な神様みたいな正義の味方という、勧善懲悪のような図式になっている。
どの登場人物も現実には絶対に存在しないようなキャラクターだから、ストーリーがどんなに奇想天外でも罪がない。それでも考えさせられるのが、ランチョーが求めて断じて妥協しようとしない理想が、今の世の中で誰もが求めてなかなか手が届かないものだからだ。
競争至上主義が正しくないことはみんなわかっている。愛するが故に学問は大成するもので、愛のためにはまず楽しくなくてはならないこともわかっている。要領よく成功を得たとしても、それはほんとうの成功じゃないこともみんな知っている。わかってるのに、それを誰もがランチョーのように体現できないのはなぜなんだろう。誰もがみんな、ランチョーのように優秀じゃないからだ。残念ながら。

ぐりはボリウッド映画をまったく観ないので、この映画の出演者を誰も知らなかったんだけど、ランチョー役のアーミル・カーンてすごいスターなんだってね。ごめん、トム・ハンクスにしかみえなかったよ。似てない?そっくりだよ。
邦題の『きっと、うまくいく』はランチョーの口癖の「All is well!」からきてるみたいです。なぜか「オールイズウェル」ではなく「アールイズウェル」というのがずっと謎だったんだけど、なんか意味あるのかな?どっちせよ「あ~るい~ずうぇ~る」という語感がなんかバカっぽくて非常に気に入りましたけど。字幕の「うまーくいーく」の字面も良い。なんかお気楽で。
個人的には学長の娘ピア(カリーナ・カブール)の婚約者(名前わからん)のキャラクターがすんごい気になり。やたらに高級品が好きでモノの尺度が全部金額、というその一面しか表現されない可哀想な人。見た目すごいかっこよかったから、よけいなんか哀れでした。
あと宇宙専用ペンのくだりはとってもためになりました。ぐりも学生のころにランチョーみたいなのに出会ってたら、もっと勉強好きになったかな?どうかなー?