落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

宇宙服は蝶の夢を見る

2013年12月18日 | movie
『ゼロ・グラビティ』

ロシアが自国の不要な衛星を爆破破壊した作戦が失敗、大量の破片が猛スピードで軌道上に散乱、同じように地球の軌道を周回している宇宙設備や通信網を破損させてしまう。
スペースシャトルで船外作業をしていたライアン(サンドラ・ブロック)と彼女をサポートしていたコワルスキー(ジョージ・クルーニー)は地球との交信も途絶え、ふたりきりで空気もない宇宙空間で生き残るために戦わなくてはならなくなり・・・。

宇宙ものの映画といえばSFだけど、SFには1ミリもキョーミないワタシ。
これももしかしたら一種のファンタジーかもしれないけど、SFではないですね。いま現在、実在するシチュエーションが題材になってるから。まあホントにこんな状況になったら生き残るもクソもないと思うけど。
それくらい怖かった。だって空気ないんだよ。無理だよ。ふつう即死でしょ。つうか身体が死ぬ前に精神的に死ぬよ。絶望する以外にないでしょ。凡人ならね。それでも誰も責めないよ。だって空気ないんだもん。

ぐりは「これは絶対に今日死ぬな」と確信するような状況に(いまのところ)陥ったことはないからまったく想像がつかないんだけど、実際にそういう状況になったら、ライアンやコワルスキーのように「何が何でも生きて還ろう」と自らを奮い立たせられる人はどれくらいいるのだろう。
観ていてずっとそのことばっかり考えていた。「もう無理だよ」「絶対ダメだよ」と何度も何度も思うし、ライアン自身もそう思うのに、ほんの僅かな望みにもそれこそ必死にしがみつき、生きよう、還ろうと渾身の力を振り絞ってもがく。
そこには何の理屈もなく、素直に、人の生命力の美しさを感じる。宇宙空間では死は恐れるようなものではない。むしろこんな状況で生き残ろうとすることの方が怖い。死ぬのは簡単だ。一瞬で終わる。そんなすぐそばにある結論をはねのけ、遥か彼方に輝く地表の故郷を目指そうとする主人公たちの戦いは確かに美しい。

ライアンは決して強い主人公ではない。経験はないくせに妙に意固地だし暗いし、クールなようでいざとなればすぐ取り乱す。彼女に対比すれば、しょうもない小咄ばっかりのべつまくなしに喋り続けるザ・おっさんなコワルスキーは、ベテランの軍人だけあって非常時でも常に冷静沈着で、しかもどんな状況でも明るさを決して失わない。
しかしライアンの弱さはそのまま強みでもあることが、この物語の大きなテーマにもなっている。状況的には誰よりも弱く孤独だったはずの彼女だが、戦いの中で自分自身に向かいあい、どんなに孤独でも人はひとりではないことを、たとえそばにいられなくても、心から愛する存在に自らが生かされていることを少しずつ悟っていく。
人の弱さや心の傷は生きていくうえで障害ではない。人はそれぞれに背負った重荷があるからこそ生きていける。そのことを、空気も重力もない、自分自身しか頼るもののない宇宙空間で、ライアンは初めて知るのだ。

ぐりは宇宙にもあんまり興味がないので、この映画の宇宙表現がどれだけリアルなのかはわからないんだけど(臨場感だけはスゴイ)、無重力のはずの宇宙空間での、地球の重力で生じる遠心力の強烈な表現がとにかく物凄く恐ろしかった。
無重力だから人間の動作は緩慢で、移動したくてもモノを動かしたくても、とにかく何もかもがまどろっこしい。衛星の破片が軌道上を周回してるから避けなきゃいけない、たったそれだけのことがムチャクチャ難しい。目の前の何かにしがみつきたい、扉を開けたい、たったそれだけのことがいちいちなかなかできないだけでなく、じっとしていることすらできずに遠心力に振り回されまくる。
なんでまたそんなところまで人間が行かなきゃなんないんだろう。地上、便利じゃん。空気あるし。手を離せばモノは下に落ちるだけで、時速数百キロで飛び回ったりしない。いやマジで。心から力いっぱいそう思う。それくらい生々しかった。宇宙空間の描写が。

サンドラ・ブロックとジョージ・クルーニーの二人劇なのでどことなく戯曲っぽかったけど、舞台が無重力の戯曲って無理だよね。そういう意味では非常に映画らしい映画でもある。3Dで観たけど、今回ほど自分の視力が悪い(乱視がキツいので3D映像が目にしんどい)のを恨んだことはなかったです。
あとオウンビュー(主観映像)が多かったので、観ててなんとなく『潜水服は蝶の夢を見る』を思い出しました。あの主人公ジャン・ドー(マチュー・アマルリック)は左目のまぶた以外何も動かせない、まどろっこしいどころじゃなく自分で動くことも声を発することもモノを動かすこともできないロックトイン・シンドロームの人だったけど、その不自由さが宇宙空間の不自由さに重なりました。あの作品も、何もできない状況でもできることを見いだす命の輝きが題材になってたね。また観たいです。
けど『グラビティ』はもういい(爆)。だって怖いもん・・・。

劇場政治安土桃山編

2013年12月05日 | movie
『清須会議』

1582年、本能寺の変での織田信長(篠井英介)死去後、織田家の跡目相続問題を戦いではなく家臣の合議で決定した、それまでの争乱の時代の転換点の端緒となった清須会議を、三谷幸喜自ら小説化、監督した作品。
実をいうと三谷作品を劇場で見たのはこれが初めて。テレビでは古畑任三郎シリーズが好きでよく観てたんだけどね。おもしろいとは思うんだけど、わざわざ劇場で観たいとは思ったことなくて。
正直いって観てもその感覚には変わりなかったです。わざわざ劇場で観ることなかった。たぶんもう三谷作品を観に映画館には行かないと思う。

わざわざ劇場で観るべきものにしたくて、いろいろと工夫してるのはわかる。でも、だから何?って感じなの。
確かにキャストは豪華です。けど豪華なキャストでもあれだけうじゃうじゃ出てこられたらひとりひとりの出番が少な過ぎて、それぞれの持ち味も何もなくなる。だいたい後でキャスト表見てもどこに出てたんだかまったく思い出せない人もいる。天海祐希なんか顔一回しか映ってない(爆)。そこまでして豪華キャストにこだわる意味がわからない。
それと同じ意味で特殊メイクも超いらなかった。女優陣の眉なしお歯黒メイクは別として、男性陣のつけ耳やらつけ鼻やら不自然な異相にばっかり注意が向いてしまって、気が散って芝居に集中できなかったです。はっきりと目障りだった。キャラを強調するためなのか、出演者がみんな主演級の有名人だから変な顔にして観客に笑ってほしかったのかもしれないけど、そこは全然おもしろくもなんともなかった。
それにしてもこれだけすごい人ばっかり集めといて主役が大泉洋ってバランス悪いよ。大泉洋自体はいい役者だしキャラクターにもハマってるけど。

ストーリー自体は悪くはない。ちゃんと楽しめる。
清須会議では、最終的には大泉洋演じる秀吉が光秀(浅野和之)討伐の手柄をかさに着て、信長の長子・信忠(中村勘九郎)の幼い遺児・三法師(津島美羽)を擁立して終結することは歴史が証明している。では、そもそもは一介の草履取りで後ろ盾も何もない彼になぜそんなことができたのか、というところが物語の軸になっている。
三谷幸喜はそれを、「武家の魂」なる既成の固定概念と、オーディエンスの無自覚な感情論を操るアジテーションの力との拮抗として描いた。
誰もが一目置く筆頭家老の柴田勝家(役所広司)や丹羽長秀(小日向文世)、お市の方(鈴木京香)などは「武家の魂」側の人間である。既成の固定概念であれば、彼らの発言力よりも大きな影響を持つものはいなかったはずである。
その体制を秀吉は「場の空気を動かす」ことでひっくり返した。もちろん、光秀討伐という大手柄も、彼の発言力を膨らませるのに大きく役立ったには違いない。だがそれだけで大勢は彼に同調はしなかったはずである。なぜなら、物心もつかない幼児を秀吉の意志で跡継ぎにするということはすなわち、誰の目から見ても、早晩織田家を彼に売り渡してしまうことと同義であることは明らかだからだ。
それをそうは思わせず、あたかも「武家の魂」なる既成の固定概念上の跡目相続であるかのように周囲に納得させてしまったのは、秀吉の語る物語の説得力などではない。ただなんとなく「こいつに同調しておけば損はないだろう」という感覚に大勢を陥れる力が彼にあったからだ。かつ、秀吉はそれをまず有力家臣ではなく、政治的影響力をほとんど持たない下級の家臣たち=オーディエンスに浸透させた。そして場の空気を動かした。
誰ひとり三法師が織田家を継ぐことになんか本気で賛成してはいない。ただ「秀吉に同調しておいた方が身のため」という保身からそうしただけだ。しかもその判断に根拠はない。みんな秀吉になんとなくのせられただけ。
こんなに怖い話はないし、滑稽な話もない。

思いっきり裏を読めば、これは今の日本の政治構造にそのまま受け継がれているともいえるのかもしれない。
ほんとうにどんな政府運営をしたいのか、どんな社会を築き守っていくべきなのか、そんなごく当り前の論理やビジョンよりも、誰に同調すれば自分の身のためかを考えている人間だけが権力にしがみつき、行く先のあてもないまま国政を転がしている。
民主主義なんかじゃないね。いまも日本は戦国時代のままなのかもしれない。それでこれから鎖国でもするのかなあ。
映画観ながらそんなことごちゃごちゃ考えちゃいました。

孤独は怖くないですか

2013年12月01日 | movie
『ハンナ・アーレント』

1961年、イスラエル諜報部は元ナチス親衛隊のアイヒマンを拘束、「人道に対する罪」「戦争犯罪」などの容疑で起訴した。
ドイツ系ユダヤ人でアメリカに亡命していた哲学者ハンナ・アーレント(バルバラ・スコヴァ)は周囲の反対を押しきってイスラエルでの裁判を傍聴、ニューヨーカーに記事を書くが、猛烈なバッシングに遭い、友人すら失ってしまう。

果たして戦争犯罪はいかにして裁かれるべきなのか。戦争犯罪は誰の責任で起こるものなのか。
この映画にはアイヒマンの裁判の実際の映像がそのまま使われている。おそらくはたぶんどこかで観たことがあるはずなのに、どことなく「再現映像」のような、フィクションのように見えるのは、裁判そのものが演劇のようなフィクション性を持っているからではないだろうか。
現にアイヒマンに罪の意識はない。戦争中だったから、仕事だったから、立場上するべきことをしただけ。悪意も善意も何もない。だから裁判で裁かれることそのものを受け入れる意志もない。しかたなく裁判につきあっているだけ。判決は最初から決まりきっている。
そんな裁判で「真実」など導きようもない。まして人を裁けるわけもない。

ハンナはその事実を告発した。思考停止こそが人類最大の悪を生み出すのだと。
人間には考える能力がある。自らの倫理観をもって物事を判断する能力がある。
命令だから、政府の方針だからと、人が集団で思考停止したらどうなるか。その結果引き起こされるのが戦争の悲劇だ。
そこに敵と味方のはっきりした境界線はない。ホロコーストではナチスドイツがユダヤ人を迫害したが、迫害したのはドイツ人だけではない。ナチスに占領されたオーストリア人やポーランド人やフランス人やオランダ人やベルギー人の多くが迫害に加担した。もちろんユダヤ人を支援した人も多くいたし、ユダヤ人の中にもナチスに協力した人はいた。ナチスが迫害したのはユダヤ人だけではない。ロマも、身体障害者も、精神障害者も、性的少数者も、芸術家も政治活動家も迫害を受けた。その中にも、やはりナチスに協力することで保身を図った人はいた。
それが戦争なのだ。誰もがゾフィー・ショルのように命をかけて清廉潔白を貫けるわけじゃない。

問題は、清廉潔白を貫けるか否かではない。
起こってしまった事実をいかに受け止めるべきか、どれだけ真摯に向きあい、葛藤し続けられるかという点にある。
ハンナはそこにいっさいの妥協を許さなかった。
ホロコーストの責任をナチスにすべて被せるのではなく、そのような絶対的な悪をつくりだした「思考停止」は、被害者であるはずのユダヤ人側にも起きていて、それがさらに悲劇を拡大したとさえ書いた。
人々の怒りに火をつけたのは、彼女の主張が正しかったからではない。ユダヤ人としていわれたくなかったこと、どこかで気づいてはいても直視したくなかったことを指摘されたからだ。事実はどうあれ、気持ちの上でだけは、ユダヤ人だけはそんなことはしないと信じたかったからだ。

ハンナはそもそもナチスとユダヤ人の関係を前提に記事を書いたつもりはなかったのだろう。
彼女は、決して起きてはいけない悲劇が現実となる要因を、人として決してしてはいけない「思考停止」であると定義した。でも当時の読者の多くはそうは解釈しなかった。誰もが彼女のように事実にまっすぐに向きあえるわけではない。どこかで自分で自分に言い訳をして、事実と自分との間に折り合いをつけて生きている。そういう二度と癒されることのない傷を抱えた人たちの気持ちを、彼女は逆撫でしてしまったのだ。
しかし、人を傷つけてでも真実を追究する思想革命が、人類の歴史にはどうしても必要だとも思う。でなければ何度でも人は同じことを繰り返してしまう。
彼女は、どれだけつらくても事実と向きあい葛藤し続けることの大切さを、身を以て証明しようとした。誰が悪くて誰が被害者でという、簡潔な二元論や固定概念に逃避することがどんなに危険なことか、それこそが人として許されない罪であることを証明しようとした。
彼女は同朋との絆や共感よりも、学者として哲学者として、あるべき道を選んだのではないだろうか。意識的にか、無意識的にかは別として。

冒頭30分くらいはやたらに台詞が多くてちょっと難しそうな雰囲気ではあったけど、終わってみれば非常にしっかりとわかりやすくまとまった映画でした。
善くも悪くも女性映画らしい個性的な作品でもあるけど、そういう“偏り”はぐりは嫌いじゃないです。
ハンナのことは名前は知っていても本は読んだことなくてあんまりよくわかってなかったけど、ぐりが常日頃から考えているような台詞がいっぱい出てきて、ものすごく共感しました。感動さえした。
彼女のように、折れることなく自ら導きだした結論を主張し続けられる強さがほしいと思う。たいていの人間には、どれだけ望んでも手に入れることの叶わない力だ。
人間は誰でもひとりぼっちになるのが怖い。彼女は怖くなかったのだろうか。


関連レビュー
『敵こそ、我が友 戦犯クラウス・バルビーの3つの人生』
『カルラのリスト』
『愛を読むひと』
『ボッシュの子』 ジョジアーヌ・クリュゲール著 小沢君江訳