『チョコレートドーナツ』
1979年、カリフォルニアのゲイバーでショーダンサーとして働くルディ(アラン・カミング)は、薬物所持で逮捕された隣人(ジェイミー・アン・オールマン)の長男マルコ(アイザック・レイヴァ)を引き取りたいと願い、恋人ポール(ギャレット・ディラハント)のアドバイスで暫定監護権の承諾を得る。三人は愛情深くあたたかい絆で結ばれたが、その幸せは長くは続かなかった。
脚本家ジョージ・アーサー・ブルームと同じアパートに住んでいたというカップルをモデルにした、実話に基づく物語。
4月に公開されてずっと観たかったんだけど、やっと。やっと観れました。
いろいろいう前にひとつ断っておかなくてはならないことがある。
ぐりは最近あんまり映画館で映画を観ていないのだが、もともと観たい映画についてはなるべく前情報なしで観る習慣なので、この映画に関してもほとんど何も知らなかった。知らないで映画館に行った。
ところがどういうわけか、「ハリウッド映画でこれだけ感動作だ泣ける映画だなんて騒がれてるんだから、きっとハッピーエンドに違いない」と勝手に思いこんでいた。なんでかはわからないけど。
ハッピーエンド。マルコが大好きなハッピーエンド。
友だちは人形のアシュリー、ディスコダンスが得意でチョコレートドーナツに目がないマルコが好きだった、ハッピーエンドのおとぎ話。
しかし現実はおとぎ話じゃない。
ベースになった実話がどの程度物語に反映されているのか詳しいことはわからない。だが長くはないこの映画が突然終わるとき、観る者は残酷な現実に否応なく直面させられることになる。差別と偏見と心ない悪意と暴力に満ちた、厳しい現実世界。
映画が終わって映画館を出て歩きながら、涙が止まらなくて困ってしまった。悲しくて涙が出るのではない。怒りと悔しさで涙が流れた。
これは個人的な見解かもしれないけど、この映画はそもそも観客を感動させたり涙を流させたりするためではなく、怒りに火をつけ、すぐさま行動させるためにつくられたのではないかという気がした。
もしこんなことがほんとうにあるとしたら(実話なんだからだいたいほんとうなんだろう)、絶対に許されるべきではない。守られるべき存在を守るためにできること、やるべきことはなんだろうと、観客それぞれの胸に問いかけてもらいたかったのではないだろうか。
法廷ドラマでもあるこの作品で唯一残念に思ったのは、ルディ側の主張の背景は丁寧に描かれるのに対して、行政側の主張が非論理的な差別と偏見の側面でしか語られなかったことだ。これでは公平ではないだけでなく、現実の差別や偏見がどれだけ誤った論理に裏づけられていて、差別や偏見と戦うには何が求められているかという具体性が完全に抜け落ちてしまっている。
ルディとポールとマルコはただただいっしょに暮らしたいと願い、決して贅沢とはいえない望みのために必死で戦うが、行政側が彼らを引き離そうとする目的が不明確なために、物語が必要以上に感情論に傾いて見えてしまうのがもったいなかった。
ポールは法廷で「背が低くて太った障害児なんて誰も欲しがらない。とるに足らない子ども」でも、本気で彼の幸せを願う親のもとで暮らす権利があるはずと訴える。病気にかかりやすく、大学進学も就職もひとりで外出することもままならないマルコのためを思えば、ポールの主張は受け入れられて当り前のように聞こえるし、法廷もそれを認める。なのに結果的に彼らが引き裂かれてしまう合理的な理由が、行政側がいったい何のためにあれほど卑劣な手段まで行使しなくてはならないのか、なにひとつ語られないのだ。
マルコを演じたアイザック・レイヴァが素晴らしい。泣いたり笑ったりする表情がとにかく愛くるしくて、守ってあげたい、幸せになってほしいと思わず願いたくなるキャラクターを生き生きと表現している。子どものような声もとてもかわいらしい。
ルディ役のアラン・カミングは歌がスゴイです。劇中でも彼の歌がまわりを感動させるシーンが何度か出てくるけど、スクリーンを通しても軽く鳥肌がたつくらい、熱くせつなく訴えかけてくる歌声。サントラ欲しくなってしまった。
たぶんコレ、ハリウッド映画としてはどっちかといえば低予算の小規模作品ではあるんだろうけど、それにしてもどのキャストもものすごくよかったし、ひとりひとりの演技から、こういう物語を演じることで許されざる差別問題を世に伝えたいという気概が画面からひしひしと感じられて、観ていて勇気づけられる映画でもありました。
しかしモデルになったというカップルはその後どうしているだろう。せめて今は幸せでいてほしいと、心から願わずにいられない。
1979年、カリフォルニアのゲイバーでショーダンサーとして働くルディ(アラン・カミング)は、薬物所持で逮捕された隣人(ジェイミー・アン・オールマン)の長男マルコ(アイザック・レイヴァ)を引き取りたいと願い、恋人ポール(ギャレット・ディラハント)のアドバイスで暫定監護権の承諾を得る。三人は愛情深くあたたかい絆で結ばれたが、その幸せは長くは続かなかった。
脚本家ジョージ・アーサー・ブルームと同じアパートに住んでいたというカップルをモデルにした、実話に基づく物語。
4月に公開されてずっと観たかったんだけど、やっと。やっと観れました。
いろいろいう前にひとつ断っておかなくてはならないことがある。
ぐりは最近あんまり映画館で映画を観ていないのだが、もともと観たい映画についてはなるべく前情報なしで観る習慣なので、この映画に関してもほとんど何も知らなかった。知らないで映画館に行った。
ところがどういうわけか、「ハリウッド映画でこれだけ感動作だ泣ける映画だなんて騒がれてるんだから、きっとハッピーエンドに違いない」と勝手に思いこんでいた。なんでかはわからないけど。
ハッピーエンド。マルコが大好きなハッピーエンド。
友だちは人形のアシュリー、ディスコダンスが得意でチョコレートドーナツに目がないマルコが好きだった、ハッピーエンドのおとぎ話。
しかし現実はおとぎ話じゃない。
ベースになった実話がどの程度物語に反映されているのか詳しいことはわからない。だが長くはないこの映画が突然終わるとき、観る者は残酷な現実に否応なく直面させられることになる。差別と偏見と心ない悪意と暴力に満ちた、厳しい現実世界。
映画が終わって映画館を出て歩きながら、涙が止まらなくて困ってしまった。悲しくて涙が出るのではない。怒りと悔しさで涙が流れた。
これは個人的な見解かもしれないけど、この映画はそもそも観客を感動させたり涙を流させたりするためではなく、怒りに火をつけ、すぐさま行動させるためにつくられたのではないかという気がした。
もしこんなことがほんとうにあるとしたら(実話なんだからだいたいほんとうなんだろう)、絶対に許されるべきではない。守られるべき存在を守るためにできること、やるべきことはなんだろうと、観客それぞれの胸に問いかけてもらいたかったのではないだろうか。
法廷ドラマでもあるこの作品で唯一残念に思ったのは、ルディ側の主張の背景は丁寧に描かれるのに対して、行政側の主張が非論理的な差別と偏見の側面でしか語られなかったことだ。これでは公平ではないだけでなく、現実の差別や偏見がどれだけ誤った論理に裏づけられていて、差別や偏見と戦うには何が求められているかという具体性が完全に抜け落ちてしまっている。
ルディとポールとマルコはただただいっしょに暮らしたいと願い、決して贅沢とはいえない望みのために必死で戦うが、行政側が彼らを引き離そうとする目的が不明確なために、物語が必要以上に感情論に傾いて見えてしまうのがもったいなかった。
ポールは法廷で「背が低くて太った障害児なんて誰も欲しがらない。とるに足らない子ども」でも、本気で彼の幸せを願う親のもとで暮らす権利があるはずと訴える。病気にかかりやすく、大学進学も就職もひとりで外出することもままならないマルコのためを思えば、ポールの主張は受け入れられて当り前のように聞こえるし、法廷もそれを認める。なのに結果的に彼らが引き裂かれてしまう合理的な理由が、行政側がいったい何のためにあれほど卑劣な手段まで行使しなくてはならないのか、なにひとつ語られないのだ。
マルコを演じたアイザック・レイヴァが素晴らしい。泣いたり笑ったりする表情がとにかく愛くるしくて、守ってあげたい、幸せになってほしいと思わず願いたくなるキャラクターを生き生きと表現している。子どものような声もとてもかわいらしい。
ルディ役のアラン・カミングは歌がスゴイです。劇中でも彼の歌がまわりを感動させるシーンが何度か出てくるけど、スクリーンを通しても軽く鳥肌がたつくらい、熱くせつなく訴えかけてくる歌声。サントラ欲しくなってしまった。
たぶんコレ、ハリウッド映画としてはどっちかといえば低予算の小規模作品ではあるんだろうけど、それにしてもどのキャストもものすごくよかったし、ひとりひとりの演技から、こういう物語を演じることで許されざる差別問題を世に伝えたいという気概が画面からひしひしと感じられて、観ていて勇気づけられる映画でもありました。
しかしモデルになったというカップルはその後どうしているだろう。せめて今は幸せでいてほしいと、心から願わずにいられない。