落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

愛されたくて

2013年09月26日 | movie
『そして父になる』

大手建設会社に勤めるエリートサラリーマン・良多(福山雅治)と妻のみどり(尾野真千子)は、ある日突然、6歳の息子・慶多(二宮慶多)が自分たちの子でないと聞かされて愕然とする。出生時の取り違えで当事者となった二家族の苦悩と葛藤を通じて、家族愛の真理を静かに描く。
『誰も知らない』『空気人形』『花よりもなほ』の是枝裕和監督がカンヌ国際映画祭で審査員賞を獲得したオリジナル作品。

ぐりは独身だし、結婚したことも子どもを持ったこともないから、親心とか、父性とか母性って正直よくわからない。
だから、この物語に登場する二組の家族の置かれた状況を、自分自身に重ねあわせることはできない。
6歳の男の子といえばかわいい盛り、食事や着替えや用便や入浴など自分の身の回りのことは一通りできるようになって、学校も始まる。少しずつ外の世界に、自立の第一歩を踏み出していく、これからが楽しみなとき。何もかも親がかりだった幼児期が終わって、親としてある程度の成果も見えて、少しは一段落するその一方でまだまだ子どもで、精神的には親の存在が世界の大半を占めている。
実際に映画に登場する子役はかわいい。ものすごくかわいい。慶多役の二宮慶多くんは小柄で華奢で、黒目がちの丸い大きな瞳がまるで子鹿のような男の子。もうひとりの当事者である琉晴役の黄升火玄(ファン・ショウゲン)くんは大柄で活発で元気いっぱい、はつらつとした男の子らしい少年だ。まったく正反対のようなふたりだが、それでもふたりともかわいい。
観ていて素直に、こんなのといっしょに暮らしたらさぞ楽しかろうと感じる。赤の他人でもそう思うのだから、育てた親ならなおのこと手放したくないだろう。

野々宮家(福山雅治/尾野真千子)と斎木家(リリー・フランキー/真木よう子)は結論の出ないまま交流を重ね、取り違え事故を起した病院を相手取って裁判に挑む。
またこの二家族の家庭環境が極端に対照的だ。都内の高級マンションに住みクルマは高級車、妻は専業主婦で子どもは私立の小学校に入学させ、ピアノを習わせている野々宮家。群馬県の田舎町で電器屋を営み、妻は弁当屋でパート、祖父と幼い弟妹がいっしょに暮らす賑やかな斎木家。良多は仕事にかまけて育児を含め家のことはいっさい妻に任せきりだが、しつけや習い事などは子ども本人の意志より自分の理想を一方的に押しつける。リリー・フランキー演じる雄大は、妻の実家の電器屋を経営してはいるものの、客はたまに電球を買いにくる地元の住人程度、品もなく吝嗇で甲斐性こそないが、子どもたちの遊びには身体を張って本気でつきあう。すべて夫中心にまわっている亭主関白な野々宮家と、頭がきれて度胸もあるかかあ天下の斎木家という面でも、両家は正反対である。
子どもにとってどちらがいいとか悪いとかの問題ではない。だが、人間として真正面から子どもの人格に向かいあっているか否かで判断するなら、良多は明らかに失格だ。良多はそのことに、斎木家との交流と子どもたちの苦しみを通じて初めて気づく。
父親らしさの何たるかを知らず、ただ自分なりにできる範囲で愛をこめて父親らしくあろうとしてはいたのだろう。それが結果的に子どもと向かいあうことからの逃避になっていたことが悲しい。

なんでも思い通りにしてこれた良多だが、そもそも人生すべてが思い通りになんかいくわけがない。まして子育てならなおさらだ。
しかし努力と強引さで常に思い通りにできてきた彼にはそれがわからない。それが、「そういうことだったのか」という台詞によく表れている。彼自身もはっきりと意識的に、慶多が思い通りに育たないのは血がつながっていないからで、琉晴なら思い通りになるかもしれないなどと考えたわけではないと思うけど。
それにしてもこの主人公は本当にやなヤツです。不器用なくせにやたら気取ってて自己中で独善的で、他人の気持ちなんかどうでもいい。意に染まないことはとりあえず頭から否定してかかり、なにかというと「オレがなんとかする」なんて根拠もなく強がるくせに、うまくいかなかったら言い訳だけはスラスラする。都合の悪いことはみんな誰か他人のせいだ。ぐりの大嫌いな尊大さの権化のようなこんな男、絶対関わりあいになりたくない。それが嫌味なくしっくりと物語の主人公として成立しているところに、是枝裕和の凄さを痛感する。
みどりは主体性がなくてめそめそくよくよしててイマイチ共感しにくかったけど、真木よう子演じるゆかりはかっこよかったな。3人の幼い子どもにそろそろもうろくし始めた父、そして夫はろくに働かない大きな子どものような人だ。その大家族をしゃきしゃきと切り盛りする肝っ玉母さん。粗忽で口は悪いけどとても優しくて、何事にも動じず、常に毅然としている。子どもたちにとっても自慢のお母さんなんだろうという感じがすごくする。

ステイタスとマニュアルに縛られた子育てしか眼中になかった良多が、子どもの取り違えという大事件を通じて父性に目覚めていく物語だが、画面の中ではドラマらしいドラマはほとんど起こらない。
とても静かに、穏やかに、そっと彼の心情が変わっていくのを、じわじわと丁寧に描き続けるだけ。だからストーリーそのものには120分もの上映時間をかけるほどの内容はない。それだからこそ、二家族のなんでもないささやかな日常生活の積み重ねの間に流れる感情が、自然に心にしみてくる。
インパクトはない。強い映画ではない。けど、優しくしか語れない物語もある。とても大事なことだからこそ、和やかに語りたい物語もある。
愛なんて、ほんとはこういう風に表現するべきなのかもしれない。

ハードボイルドから騒ぎ

2013年09月25日 | movie
『許されざる者』

明治13年の北海道。鷲路村で若い女郎(忽那汐里)が開拓民の兄弟(小澤征悦/三浦貴大)に顔を切られるという事件が起こる。警察署長(佐藤浩市)は兄弟に損害賠償として楼主(近藤芳正)に馬6頭を用立てるように命じるが、その裁きに納得のいかない仲間の女郎(小池栄子)らは貯えを集めて兄弟の首に賞金を懸ける。
かつて“人斬り十兵衛”と呼ばれた旧幕臣の十兵衛(渡辺謙)は、明治政府の目を逃れ、幼い子どもと荒れ地を耕す農民として暮らしていたが、はるばる訪ねてきた元戦友の金吾(柄本明)に誘われて賞金稼ぎの話に乗り、アイヌ人の青年・五郎(柳楽優弥)を供に旅立つ。
クリント・イーストウッドの1992年の同名映画のリメイク。

観たのは1週間前なんだけど。
そしてオリジナルの方は観たことないんだけど。
でも・・・・ごめん、なんかあんまり印象に残らなかった。
すっごい頑張ってる。いい映画だと思う。どこにも妥協はしてない。やれることは全部やってる。なのに、イマイチ残らない。響かない。
どうしてだろう?
もちろん欠点はある。主にキャスティングね。とりあえず小澤征悦は鬱憤に任せて女に暴力を振るうような人物にはとても見えない。よくも悪くもそういう狂気のある人物に描かれてるようには見えない。途中まで人違いか何か、別の伏線があるのかとまで思ってしまったよ。
柳楽優弥は完全に空回ってる。確かに新境地は開拓したかもしれない。けど役にも物語にもちゃんとハマってるようには見えなかった。はっきりと浮いてた。本人の頑張りが伝わるだけにこれは観ていてかなりツライ。
それから柄本明は渡辺謙の戦友にしてはじいさん臭すぎる。じいさん臭いのがいけないとはいわない。しかし賞金稼ぎの冒険をするような荒くれ者にしては、好々爺然とし過ぎている。
逆に忽那汐里や小池栄子は非常にハマり役だと思った。ふたりともとくに頑張ってる風には見えない。期待通り、ある意味しっかりそのままのタイプキャストだ。とはいえ実際に画面で観て説得力があるんだから、それはそれで正解なんだと思う。タイプキャストで何が悪い。

オリジナルは観てないけど、イーストウッドの後年の傑作『グラン・トリノ』にも描かれたような、「暴力の醜悪さを美学をもって追求する」というテーマだけは非常に共感できる。
渡辺謙演じる十兵衛は剣の達人というふれこみだが、その技の美しさを描写したシーンはいっさいない。彼が画面で犯す殺人はすべてが、ただただ凶暴で残虐なだけの暴力として描かれている。金吾の銃はなかなかあたらないし、柳楽優弥の剣さばきも鮮やかというにはほど遠い。十兵衛より先に賞金目当てにやってきた北大路(國村隼)の剣も結局はペテンだ。
人が人を傷つけるのに美しいも何もない。大義も正義もない、どこまでいっても殺人は殺人でしかない。その醜さのなまなましい再現性には文句はない。そこは素晴らしいと思う。
にしても、それ以外の要素がね・・・頑張り過ぎてうまくバランスがとれてないっていうかね・・・・ものごつ残念な感じなの。

衣裳もいいし美術もいいし照明もいいしカメラワークもいい。なにしろ巨匠ばっかりだもん。
正直、この映画を諸手を上げて「傑作」といえないことを、ぐり自身が一番残念に思っている。
ホント残念。もったいないね。
ただ、いま、こういう暴力の時代がもう過去のものになったということだけは心からめでたいと思うし、おそらくはこうした暴力の繰返しの結果として、現在の平穏があるのだろうとは思う。
そして、それは誰もが全力で守っていかなくてはならないものなのだろう。
ラストシーンで忽那汐里が決意するように、目の前にある命を、平和を守ることが、生きている人間すべての使命なのだろうということだけは、伝わりました。

色気の問題

2013年09月12日 | movie
『夏の終り』

1950年代。妻子ある作家・小杉(小林薫)と長い間愛人関係を続けてきた知子(満島ひかり)は、ある日訪ねてきた同郷の涼太(綾野剛)とも男女の仲に。かつて夫も娘もいた彼女が燃えるような恋に堕ち、家庭を捨てて選んだ涼太だが、今となっては小杉とも別れられない知子に業を煮やした彼は・・・。
瀬戸内寂聴の同名小説の映画化。

何を隠そう寂聴さんの本を一冊も読んだことがないぐり。『源氏物語』も円地文子版で読みました。
今回の映画が面白かったらいい機会なので原作も読んでみようかと思ったけど・・・うーんビミョー。
役者の芝居はいい。カメラワークも美術も音楽もいい。細やかな演出のディテールも好みです。なんとなく全体的にじめっとして王家衛(ウォン・カーウァイ)とか婁火華(ロウ・イエ)みたいな感じ。
なんでしょうな、構成かな?だるいのよ。観てて。冗長なの。眠かったわー。だってスゴイみえみえじゃん。イヤみえみえでもいいのよ、究極。でもどこを切り取ってもなんかどっかで見たなーって感じしかしないのよ。物語に広がりがない。どきどきしない。わくわくしない。なんだろう。けどそれって映画=エンターテインメントとしては致命的だよね。違うよこれは芸術だよとか、文芸作品なんだよとか、そういうのはぐり興味ないんでね、残念ながらさ。まず映画はエンターテインメントありき。それだけでもだめだけど。

下世話な話しちゃうと、メインキャラの3人に色気がないとこが最も致命的なんだと思うのよ。
実際には色っぽい人なんだと思うよ。満島ひかりにしても、綾野剛にしても、小林薫にしても。色気がないわけじゃないと思う。なのに画面にそれが反映されてない。なんでだろう?物語自体はすごいエロい話のはずなのに、さっぱりそのエロが匂ってこない。不思議なくらいカサカサ。だから観てる間中、「いつエロなフェロモンがでてくるんだろう」って待ちかまえちゃうの。無意識に。そして出てこないまま終了。脱力。疲労。
まるでぐりがエロしか興味がないみたいに聞こえてしまうじゃあないですか。それでもいいけど別にね。けどこのストーリーでエロなフェロモンなしって、それやっぱ観てて虚しくなるよ、誰でもさあ。あたしだけ?そりゃすいませんね。
申し訳ないけど、あまりに暇で後半はひたすら「知子が真木よう子だったら」「麻生久美子はどうか」「永作博美は違うか」「涼太が松田龍平だったら」「いや新井浩文でもいいな」「小杉がリリー・フランキーだったら」「浅野忠信もありか」とか置き換えて遊んでしまったよ。ごめん。それくらい暇だったの。ほんとすいません。そうひどい映画じゃないんだけどね(フォローになってない)。

この映画のメインのロケ地は兵庫県で、ヒロイン・知子の自宅とその周辺はこないだ観た『少年H』と同じく日本毛織加古川工場の社宅で撮影されている。
『少年H』では1~2回ちらっと映るだけだったけど、今回はがっつりと主要なシーンのほとんどはここで撮影されていて、かつ外景だけでなく、知子の自宅内のシーン(美術監督インタビュー。画像あり)や周辺の風景も実際の社宅と近隣地域を使って撮影されている。冒頭のファーストカットからあのタイムスリップでもしたかのような素晴らしい路地の夕景からですから、ニッケ社宅ファンにはたまらん映画です。マニアックすぎてごめん。ホントにセットじゃないの?ってくらい超レトロでいいのよこれがー。個人的には高校時代通学で毎日慣れ親しんだトロッコ道や運河沿いのレンガ塀がちょこちょこ出てきて、すごい懐かしかったです。
ぐりの記憶が正しければ、この撮影で使用された兵庫県加古川市から高砂市のあたりは戦災にあわなかったので、昭和初期のころの風景がそのままになった場所がわりとたくさん残っているのだが、長引く不況で自治体にも本格的に保存活動をする予算もなく、だいたいが老朽化するに任され、所有者の力が尽きたところで人知れず取り壊されていくという運命を辿っている。とてももったいない。観光地化もされず、ただのどかな当たり前の風景こそ貴重なのにね。どうにかならないものだろうか。

東京オリンピックも決まって、世の中はまた新しい建物を建てるために古いものをどんどん壊していくのがもてはやされるようになるのかもしれない。
けど、壊したものはもう二度と元には戻らない。古いからこそ価値のあるものも大事にしてほしい。大事にしたい。
そういう風景を楽しむには非常にいい映画でした(爆)。

ほんとうに空が飛べたら

2013年09月08日 | movie
『紅の豚』

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説明無用の宮崎駿1992年の傑作。
現在公開中の『風立ちぬ』と同じく模型専門誌「モデルグラフィックス」掲載の宮崎氏本人の連載が原作で、彼本人の飛行機への憧れが余すところなく表現されている。
観ていて心から気持ちよく、楽しく、心が温かくなる、正真正銘のファンタジーだ。映像はとにかく明るく美しく、どこまでも豊かな奥行きと広がりに満ちていて、そしてキャラクターの全員が善良で正直で、世の中に悪いことはなにひとつ起きていない。台詞では「仕事がない」「世界大恐慌だ」という社会背景を匂わせてはいるけど、それが物語の世界観に直接的な影響を与えるわけではない。主人公はあくまでもポルコ(森山周一郎)だが、彼を支える飛行艇設計技師のフィオ(岡村明美)や工場の職人たちがすべて市井の女性たちであったり、ジーナ(加藤登紀子)にはどんな悪党も勝てない設定になっていたり、作品の中の人物構成のバランスもいい。
これはぐり個人の見解なのだが、もしかしたら、宮崎氏本人が純粋に好きで表現したかったことがいちばん素直に描かれているのが、この映画のような気がする。作家としてとか、ビジネスとしてとか、社会的にとか、教育的にとか倫理的にとか、そういう理屈がほとんど前面に出てこない。だから観ていてとても気楽だ。なんだか頭がスッキリしてしまうくらい。

ぐりは飛行機にはぜんぜん興味がないけど、それでも、宮崎映画に常に登場する飛翔感の心地よさはほんとうに素晴らしいと思う。こんなふうに空が飛べたらどんなにいいだろうと夢見て心から願い、それをこれほどまでの芸術作品に表現できるなら、それはほとんど実際に空を飛んでいるのと同じではないかとも思う。
でも、宮崎さんは飛行機乗りではないし、自分でほんとうに空を飛べるわけではない。
宮崎さんは子どもに夢を、社会に平和と自由をと願って、身を削り魂を削って50年間アニメーションをつくって来られた。だがアニメや映画でほんとうに人を幸せにできるわけじゃないし、社会が変わるわけじゃない。大切なのは、オーディエンスが彼の作品を見た感動を心から大切に思い、それを忘れないでいられるかどうかなのだ。
すごく鮮明に覚えているのは、29年前、初めて『風の谷のナウシカ』を観たとき、「誰もがこの映画を観て、感じた気持ちを心から信じれば、世の中から戦争なんかなくなるんじゃないか」と強烈に感じたことだった。
宮崎さんが今まで、ひたすら自分を追いつめていくかのように作品を磨き続けてこられたのは、いつか、自らの思いが、ほんとうに世の中を動かしてくれるんじゃないかという気持ちを、どこかにもち続けていられたからじゃないかと思う。
勝手に思ってるだけだけど。

子どもに夢を、社会に平和と自由をと願い、身を削り魂を削って作品を世に送り出す芸術家は宮崎さんだけじゃない。多くの芸術家が同じことを願い、望み、信じた。
宮崎さんの映画は世界中に愛されてきたけれど、それらが果たしてどれほど世の中を動かしたかはまだわからない。
もう72歳だから引退するという宮崎さんだが、長編アニメーションはもう直接的にはつくらないとしても、ご本人本来の夢を決して諦めてほしくないと思う。
子どもに夢を、社会に平和と自由を。その願いはあまりに遠く、世界の未来にはあまりに重い課題が果てしなく積み上げられている。
われわれのゆくてに、ゴールを示す灯火を絶やさないためにも、宮崎さんには宮崎さんでいつづけてほしいと思う。



LE TEMPS DES CERISES(さくらんぼの実る頃)
作詞:J=B.クレマン 作曲:A.ルナール1868年発表

Quand nous chanterons le temps des cerises
Et gai rossignol et merle moqueur
Seront tous en fête
Les belles auront la folie en tête
Et les amoureux du soleil au cœur
Quand nous chanterons le temps des cerises
Sifflera bien mieux le merle moqueur

Mais il est bien court le temps des cerises
Où l'on s'en va deux cueillir en rêvant
Des pendants d'oreilles
Cerises d'amour aux robes pareilles
Tombant sous la feuille en gouttes de sang
Mais il est bien court le temps des cerises
Pendants de corail qu'on cueille en rêvant

Quand vous en serez au temps des cerises
Si vous avez peur des chagrins d'amour
Evitez les belles
Moi qui ne crains pas les peines cruelles
Je ne vivrai pas sans souffrir un jour
Quand vous en serez au temps des cerises
Vous aurez aussi des peines d'amour

J'aimerai toujours le temps des cerises
C'est de ce temps-là que je garde au cœur
Une plaie ouverte
Et Dame Fortune, en m'étant offerte
Ne saura jamais calmer ma douleur
J'aimerai toujours le temps des cerises
Et le souvenir que je garde au cœur

サクランボの季節を歌い
陽気なナイチンゲールやマネシツグミが浮かれる頃
乙女たちは不思議な思いを抱き
恋人たちは心に太陽を抱くだろう
サクランボの季節を歌い
マネシツグミがたくみにさえずる頃

サクランボの季節は短い
ふたり夢見ながら
イヤリングを摘みに行く時期は
揃いのドレスをまとった愛のサクランボ
血のしずくとなって葉の下に落ちる
サクランボの季節は短い
夢見ながら摘むサンゴのイヤリング

サクランボの季節になって
失恋の悲しみを恐れるのなら
乙女たちを避けよう
心の傷を恐れない私は
悩み苦しまずに生きられない
サクランボの季節になると
恋でつらい思いをするだろう

私はサクランボの季節を愛する
あの時以来、心に傷を秘めている
運命の女神にも
この苦しみを和らげることはできない
私はサクランボの季節と
心に秘めた思い出を愛する