『彼らが本気で編むときは、』
母親のヒロミ(ミムラ)が恋人と家出し、ひとり取り残された11歳のトモ(柿原りんか)。
ヒロミの弟マキオ(桐谷健太)のもとに預けられるが、叔父の家にはリンコ(生田斗真)というトランスジェンダーの恋人が同居していた。
ふたりとの穏やかで愛情深い家庭生活のなかで心を開いていくトモだったが・・・。
第67回ベルリン国際映画祭テディ審査員特別賞受賞。
映画が終わってエンドロールが流れ、最後に荻上直子監督の名前が画面に出てきたとき、全身の肌がびりびりびりっと微かに震える感覚がした。
いま自分が観ていたものが映画で、引き戻された現実とは全然違う世界の話なのだということが、なんだかせつなかった。
リンコとマキオはいつか結婚するのだろうか。トモはどんな大人になるんだろう。いやそれより前、マキオはなんといってリンコを口説いたのだろう。トモの父とヒロミはどうして離れることになったんだろう。トモの父以外にも、物語全体から排除された何人もの「父親」たちのひとりひとりは、ほんとうはどんな人たちだったんだろう。
映画には直接描かれないそういう部分が、気になって気になって仕方がない。観たくて観たくて仕方がない。
それくらい、愛おしい物語だ。
優しくてあたたかくて、少し悲しくて、すがすがしい。
物語の主人公は小学生のトモ。
子どもといってももう11歳、しっかりしていて生意気で、無駄にクールに落ち着いた少女。幼児ではないがといって大人でもない。女の子ではあるが乳房も生理もない、いってみれば人間としてまだ“ニュートラル”な彼女の目線で、物語全体が綴られていく。
性的少数者への理解なんかあるわけがないし、家庭のあるべき理想像も持ちあわせてはいない彼女にとって、リンコとの生活は驚きの連続である。確かに性別適合手術を受けた元男性というリンコの特異なバックグラウンドは新鮮ではあるが、トモ自身にとってもっとも大きな成長につながったのは「差別や偏見にさらされる悔しさを堪えて生きているのは自分だけではない」という現実を理解/消化した体験ではないだろうか。
家庭環境の悩みを同級生と共有できない孤立感はあっても、「ホモ」などと陰口を叩かれる親友カイ(込江海翔)の心情を慮る余裕はなかったトモが、終盤でみせる思いやりがいじらしい。
きっとこのふたりにはこの後、大人になるまでにも、大人になったあとも、さまざまな苦労が待っているだろう。でも、たとえ親兄弟でも恋人でもなくても、こんなふうに自然に受け入れあえる存在がいたら、まあまあけっこうなことでも乗り越えていける気がする。このふたりがもっと大きくなったあとの物語も、とても観てみたい。
なのでどうしてもフォーカスされがちなリンコの“トランスジェンダー”というセクシュアリティは、実は物語の本筋ではない。
実際に本筋になっているのは、世間が求める性差や社会的役割の矛盾だ。たとえば劇中にはリンコやヨシオ(柏原収史)やマキオがかっちりと台所仕事をするシーンはあるが、その他の女性キャラクターにそれはほぼない。サユリ(りりィ)は娘のヒロミには必要以上に厳しい一方で息子のマキオを溺愛するが、マキオにとって母の愛情は重荷でしかない。ナオミ(小池栄子)はよその子のトモに「あなたの味方だから」と偽善者ぶっておいて、やはり溺愛する息子のカイを「罪深い」などという。ヒロミは娘にコンビニのおにぎりやカップ味噌汁ばかり与え、生さぬ仲のリンコは手作りの家庭料理やお弁当を毎日トモに食べさせる。どれもいわゆる普通の設定とは少し違うが、現実にはごくありきたりな生活の情景でしかない。
こんな些細なエピソードを何気なく丁寧に積み重ねていくことで、女だから、男だから、母だから、親子だからこうでなくてはならないといった固定概念の無意味さが、ストレートにそして強烈に伝わってくるのだ。
だからなんだよと。どんな生き方だろうが今日この瞬間をただ生きてるだけでじゅうぶん素晴らしいじゃないかと。ましてたいせつな人がそばにいるなら、いうことなんか何もないじゃないかと。
いくつもの対比のなかでいちばん胸に刺さったのは「どうしようもない」という台詞だ。
リンコはマキオの子どもを生めないことを「どうしようもない」といい、ヒロミは母であることに耐えられなくなる自分を「どうしようもない」という。
人間生きていればどう足掻いても自分の力ではいかんともしがたいことはいくらでもある。だがなぜ、母親という年中無休24時間営業の仕事を投げ出したくなる心情はまるごと自己責任でかたづけられ、自然な出産で親になることが叶わない人々の切実な願いはわがままととらえられてしまうのだろう。
誰もがすべてをゆるし受け入れることができないとしても、「まあそんなこともあるだろう」程度になまぬるくそっと見守ることの何がそんなに難しいのだろう。どっちにしろどんな親も子どもに対してエゴイスティックにならざるを得ないのは世の倣いなのに、親であってもなくても親たる“理想”という不寛容なファシズムに支配されたがるのはどうしてなのか。
リンコたちが観客にほんとうに問うているのは、誰もが差別や偏見だと気づいてすらいない、現代社会の刺々しさの本質ではないだろうか。
なんといっても驚異的なのはリンコを演じた生田斗真のなりきりぶり。
ヴィジュアル的には予告編で観られる以上でも以下でもなく、女性そのものでもなく男性っぽくもない。しかしそこに数々の恋愛映画でヒロインの恋人を演じ続けてきた虚構のセックスシンボル・生田斗真はいない。清楚で純粋で、燃えるように熱く深い母性にあふれたリンコさんが、画面のなかにキラキラと生きていた。優しいのに毅然として、強いのに可憐な彼女を、他の誰もこんな風に演じることはできないだろう。匂うように色っぽい表情から、静かな喋り方から挙措動作の隅々まで神経の行き届いた演技は、あの『覇王別姫』のレスリー・チャン(張國榮)を思い出させる。大袈裟でなく、生田くんの将来がちょっと心配になってしまった。まだ30代そこそこでこんな名演やっちゃって大丈夫ですか。この先これを超えるのは生半可じゃなく大変だろう。
その名演技をさらに上回るのが子役の柿原りんかである。主張し過ぎることもなく抑制がきいているのに、等身大の11歳らしいのびのびとした演技で、瑞々しい生命力を存分に発揮してました。彼女の生き生きとした表現力によって、観客はトモといっしょにリンコたちとの暮しに幸福を見出し、この時間が永遠に続けばいいと儚い思いを抱いてしまう。せめてトモが、リンコのように強く優しく毅然として可憐な女性になってくれたらと、心から願ってしまう。
実をいうと荻上直子作品は今回観るのが初めてだったけど(映画に“癒し”は求めていない)、これは次回作も期待せねばと思いました。
実をいうと、リンコに扮した生田斗真に顔がそっくりな友人がかつていた。
かなり昔、仕事現場で知りあったその人は男性しかなれない職種ゆえに(映画業界にはいまも一部そういうしきたりが残っている)男性であることは自明なのだが、外見上は男性にも女性にもみえない。だからとくにバックグラウンドを確認するまでもなく「そういう人」だと周囲の誰もが自然に認識していた。そもそも性的少数者が珍しくない業界でもあったし、仕事場でわざわざそんな話題が持ち出されることはないけど、だから差別や偏見が存在しないということではない。差別や偏見のほんとうに厄介なところはそこだ。やってる本人には自覚がない。悪意すらない。そんなもの存在しないと思っている。そういう話を、ふたりで何度かしたのを覚えている。
映像の仕事をしている間は自宅が近いこともあって個人的なつきあいもあったけど、やめてからは会っていない。元気にしてるかな。
関連記事:
『小川町セレナーデ』
『どこに行くの?』
『私が私であるために』
『リリーのすべて』
『チョコレートドーナツ』
『プルートで朝食を』
セクシュアリティ・ジェンダー関連作品レビュー
<iframe style="width:120px;height:240px;" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" frameborder="0" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?ref=qf_sp_asin_til&t=htsmknm-22&m=amazon&o=9&p=8&l=as1&IS1=1&detail=1&asins=4865062033&linkId=cfb04a4c74d77d69bdcbf82e0ecdfdf1&bc1=FFFFFF<1=_top&fc1=333333&lc1=0066C0&bg1=FFFFFF&f=ifr">
</iframe>
母親のヒロミ(ミムラ)が恋人と家出し、ひとり取り残された11歳のトモ(柿原りんか)。
ヒロミの弟マキオ(桐谷健太)のもとに預けられるが、叔父の家にはリンコ(生田斗真)というトランスジェンダーの恋人が同居していた。
ふたりとの穏やかで愛情深い家庭生活のなかで心を開いていくトモだったが・・・。
第67回ベルリン国際映画祭テディ審査員特別賞受賞。
映画が終わってエンドロールが流れ、最後に荻上直子監督の名前が画面に出てきたとき、全身の肌がびりびりびりっと微かに震える感覚がした。
いま自分が観ていたものが映画で、引き戻された現実とは全然違う世界の話なのだということが、なんだかせつなかった。
リンコとマキオはいつか結婚するのだろうか。トモはどんな大人になるんだろう。いやそれより前、マキオはなんといってリンコを口説いたのだろう。トモの父とヒロミはどうして離れることになったんだろう。トモの父以外にも、物語全体から排除された何人もの「父親」たちのひとりひとりは、ほんとうはどんな人たちだったんだろう。
映画には直接描かれないそういう部分が、気になって気になって仕方がない。観たくて観たくて仕方がない。
それくらい、愛おしい物語だ。
優しくてあたたかくて、少し悲しくて、すがすがしい。
物語の主人公は小学生のトモ。
子どもといってももう11歳、しっかりしていて生意気で、無駄にクールに落ち着いた少女。幼児ではないがといって大人でもない。女の子ではあるが乳房も生理もない、いってみれば人間としてまだ“ニュートラル”な彼女の目線で、物語全体が綴られていく。
性的少数者への理解なんかあるわけがないし、家庭のあるべき理想像も持ちあわせてはいない彼女にとって、リンコとの生活は驚きの連続である。確かに性別適合手術を受けた元男性というリンコの特異なバックグラウンドは新鮮ではあるが、トモ自身にとってもっとも大きな成長につながったのは「差別や偏見にさらされる悔しさを堪えて生きているのは自分だけではない」という現実を理解/消化した体験ではないだろうか。
家庭環境の悩みを同級生と共有できない孤立感はあっても、「ホモ」などと陰口を叩かれる親友カイ(込江海翔)の心情を慮る余裕はなかったトモが、終盤でみせる思いやりがいじらしい。
きっとこのふたりにはこの後、大人になるまでにも、大人になったあとも、さまざまな苦労が待っているだろう。でも、たとえ親兄弟でも恋人でもなくても、こんなふうに自然に受け入れあえる存在がいたら、まあまあけっこうなことでも乗り越えていける気がする。このふたりがもっと大きくなったあとの物語も、とても観てみたい。
なのでどうしてもフォーカスされがちなリンコの“トランスジェンダー”というセクシュアリティは、実は物語の本筋ではない。
実際に本筋になっているのは、世間が求める性差や社会的役割の矛盾だ。たとえば劇中にはリンコやヨシオ(柏原収史)やマキオがかっちりと台所仕事をするシーンはあるが、その他の女性キャラクターにそれはほぼない。サユリ(りりィ)は娘のヒロミには必要以上に厳しい一方で息子のマキオを溺愛するが、マキオにとって母の愛情は重荷でしかない。ナオミ(小池栄子)はよその子のトモに「あなたの味方だから」と偽善者ぶっておいて、やはり溺愛する息子のカイを「罪深い」などという。ヒロミは娘にコンビニのおにぎりやカップ味噌汁ばかり与え、生さぬ仲のリンコは手作りの家庭料理やお弁当を毎日トモに食べさせる。どれもいわゆる普通の設定とは少し違うが、現実にはごくありきたりな生活の情景でしかない。
こんな些細なエピソードを何気なく丁寧に積み重ねていくことで、女だから、男だから、母だから、親子だからこうでなくてはならないといった固定概念の無意味さが、ストレートにそして強烈に伝わってくるのだ。
だからなんだよと。どんな生き方だろうが今日この瞬間をただ生きてるだけでじゅうぶん素晴らしいじゃないかと。ましてたいせつな人がそばにいるなら、いうことなんか何もないじゃないかと。
いくつもの対比のなかでいちばん胸に刺さったのは「どうしようもない」という台詞だ。
リンコはマキオの子どもを生めないことを「どうしようもない」といい、ヒロミは母であることに耐えられなくなる自分を「どうしようもない」という。
人間生きていればどう足掻いても自分の力ではいかんともしがたいことはいくらでもある。だがなぜ、母親という年中無休24時間営業の仕事を投げ出したくなる心情はまるごと自己責任でかたづけられ、自然な出産で親になることが叶わない人々の切実な願いはわがままととらえられてしまうのだろう。
誰もがすべてをゆるし受け入れることができないとしても、「まあそんなこともあるだろう」程度になまぬるくそっと見守ることの何がそんなに難しいのだろう。どっちにしろどんな親も子どもに対してエゴイスティックにならざるを得ないのは世の倣いなのに、親であってもなくても親たる“理想”という不寛容なファシズムに支配されたがるのはどうしてなのか。
リンコたちが観客にほんとうに問うているのは、誰もが差別や偏見だと気づいてすらいない、現代社会の刺々しさの本質ではないだろうか。
なんといっても驚異的なのはリンコを演じた生田斗真のなりきりぶり。
ヴィジュアル的には予告編で観られる以上でも以下でもなく、女性そのものでもなく男性っぽくもない。しかしそこに数々の恋愛映画でヒロインの恋人を演じ続けてきた虚構のセックスシンボル・生田斗真はいない。清楚で純粋で、燃えるように熱く深い母性にあふれたリンコさんが、画面のなかにキラキラと生きていた。優しいのに毅然として、強いのに可憐な彼女を、他の誰もこんな風に演じることはできないだろう。匂うように色っぽい表情から、静かな喋り方から挙措動作の隅々まで神経の行き届いた演技は、あの『覇王別姫』のレスリー・チャン(張國榮)を思い出させる。大袈裟でなく、生田くんの将来がちょっと心配になってしまった。まだ30代そこそこでこんな名演やっちゃって大丈夫ですか。この先これを超えるのは生半可じゃなく大変だろう。
その名演技をさらに上回るのが子役の柿原りんかである。主張し過ぎることもなく抑制がきいているのに、等身大の11歳らしいのびのびとした演技で、瑞々しい生命力を存分に発揮してました。彼女の生き生きとした表現力によって、観客はトモといっしょにリンコたちとの暮しに幸福を見出し、この時間が永遠に続けばいいと儚い思いを抱いてしまう。せめてトモが、リンコのように強く優しく毅然として可憐な女性になってくれたらと、心から願ってしまう。
実をいうと荻上直子作品は今回観るのが初めてだったけど(映画に“癒し”は求めていない)、これは次回作も期待せねばと思いました。
実をいうと、リンコに扮した生田斗真に顔がそっくりな友人がかつていた。
かなり昔、仕事現場で知りあったその人は男性しかなれない職種ゆえに(映画業界にはいまも一部そういうしきたりが残っている)男性であることは自明なのだが、外見上は男性にも女性にもみえない。だからとくにバックグラウンドを確認するまでもなく「そういう人」だと周囲の誰もが自然に認識していた。そもそも性的少数者が珍しくない業界でもあったし、仕事場でわざわざそんな話題が持ち出されることはないけど、だから差別や偏見が存在しないということではない。差別や偏見のほんとうに厄介なところはそこだ。やってる本人には自覚がない。悪意すらない。そんなもの存在しないと思っている。そういう話を、ふたりで何度かしたのを覚えている。
映像の仕事をしている間は自宅が近いこともあって個人的なつきあいもあったけど、やめてからは会っていない。元気にしてるかな。
関連記事:
『小川町セレナーデ』
『どこに行くの?』
『私が私であるために』
『リリーのすべて』
『チョコレートドーナツ』
『プルートで朝食を』
セクシュアリティ・ジェンダー関連作品レビュー
<iframe style="width:120px;height:240px;" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" frameborder="0" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?ref=qf_sp_asin_til&t=htsmknm-22&m=amazon&o=9&p=8&l=as1&IS1=1&detail=1&asins=4865062033&linkId=cfb04a4c74d77d69bdcbf82e0ecdfdf1&bc1=FFFFFF<1=_top&fc1=333333&lc1=0066C0&bg1=FFFFFF&f=ifr">
</iframe>