落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

永久に残存する瑕の話

2019年02月23日 | diary
かれこれ5ヶ月以上更新を怠ってましたが、昨日「権利侵害申し立てに関するご連絡」というメールがGMOメディア(このブログの運営会社)から届いて、つらつら考えることがあったのでリハビリがてら書いてみようと思います。

と言ってもメールの内容は転載禁止なので、要点を改めて書きおこす。

GMOの用件は、約9年前に投稿した記事で紹介している裁判傍聴記録の中の元被告の個人名の記述が、すでに刑期を終えた元被告の社会生活の平穏を害し更生を妨げられない権利を侵害すると元被告の代理人から申し立てがあったため、該当部分を削除すべし、というものだった。
通報が続けば利用を停止しますよ、との(大袈裟にいえば)脅しつきで。

代理人の申し立ての意味はとてもよくわかるし、私個人としてもわざわざ故意にどなたかの人権を侵害したいとは思わないので、ご要望通り元被告の個人名は削除し、ついでに共犯者の個人名も消しました。

そこまでは別にいいんだけど。

この当時はなぜこの裁判を傍聴し記録を公開したかの事情には触れられなかったけど、もう時効なので書いちゃうと、私はこの事件の刑事告発にほんのちょっと関わっていた。というかカスっていた。
事件の経緯は該当記事に詳しいけど、簡単にいえば児童買春事件で、元被告と共犯者が十代前半の少年を繰り返し買春しそのとき映像も撮ってDVDに焼いて販売していた。
当たり前の話だけど、小児性愛者全員が子どもに実際の性行為を求めるわけではない。子どもを性の対象としながら厳しく己を律する善意ある当事者のひとりが、市場に出回っている児童ポルノを「なんとかこの子たちを助けてほしい」と某国際組織に持ちこんだ。そこに私が所属していた。

某国際組織では持ちこまれた児童ポルノを慎重に分析し、しかるべき捜査機関との連携ののち、そのうちの1点を撮って販売した容疑者が特定・逮捕され、起訴された。それがこの裁判になった。
きっかけになったDVDがこの事件の証拠となったので、それに何が映っていたのかもなんとなくではあるが具体的に把握して裁判を傍聴した。私の文章が被告に対して厳しく読めるとしたらそのせいだろうと思う。

あれから9年、元被告は実刑判決を受けて服役後すでに出所し、事件とは無関係に暮らしているので再犯の危険性は低い、と代理人は書いている。
そんなことはわからない。
実際に元被告の名前で検索してみれば、うちのブログ以外にも当時の新聞記事のアーカイブはごろごろヒットするし(共犯者の当時の職業のせいである)、ご本人と思しきSNSアカウントもあっさりみつかる。そこには隠し撮りと思われる児童の画像が数点アップされていた(いうまでもないが出所後の投稿)。代理人の申し立て文には、ブログの記事に書かなかった私の傍聴記録の細部とは食い違っている部分もあり、代理人が事実を申し立てているかどうかが不明確でもある。

意地悪くいえば、1日数件しか訪問者のいないうちのブログの個人名部分をどうこうしたぐらいでは、ご本人の社会生活がスカッと平穏になったり、更生が圧倒的にスムーズになったりはしないかもしれない。
でも私は捜査関係者でもなければ子どもの人権の専門家でもないから、勝手な正義感をふりかざしてそのことについてとくに意見なんかいいたくはない。

私が気になるのは、この事件の被害者になった子の「社会生活の平穏」は、いま、いったい誰がどうやってまもってあげているのだろうということだ。

事件で彼がされた行為は映像に記録され、記録媒体が児童ポルノ市場に流出したことはすでに書いた。
一旦市場に出た映像、それも一般の流通ルートではなく個人間取引の裏ルートに出ていった映像はまず半永久的に回収不可能となることは誰にでも想像がつく。
いまはもう成人だから十代前半の映像とは同一人物にはみえなくなっているかもしれないけれど、それでも、その映像が決して消えてなくなることなく何十年も裏ルートに流れ続けるという事実は変わりはしない。事件当時、例の某国際組織に持ちこまれた映像の中には、明らかに数十年前に撮影されたものと判断される映像も混じっていたのだ。その児童ポルノ環境が、9年経って劇的に改善されたとは到底思えない。とりわけ、日本では。

私自身は裁判を傍聴しただけだから、その子には実際に会ったことはない。どんな子かは全然知らない。
事件のことを、彼自身がどう思っていたのかもわからない。
だけどどうしても、元被告の「権利」が主張されるその反対側で、その子の「権利」はどうなったんだろうと、深く考えざるをえない。
変に憶測で同情的になったりしたくはない。だけど、元被告が刑期を終えて更生し、事件が世の中から忘れ去られたとしても、そのことと、被害者が被害の経験を克服することはまったく別の話だし、そこに必要な手助けが当事者にちゃんと届くような世の中だとは、私には思えない。手助けがあれば克服できるものなのかも、わからない。
だから、性犯罪を簡単に「なかったこと」「済んだこと」扱いしようとすることに、うまく納得することができない。
とても残念だとは思うのだけれど。


関連レビュー:
『スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪』 ボストン・グローブ紙〈スポットライト〉チーム編 有澤真庭訳
『スポットライト 世紀のスクープ』
『欲望のゆくえ 子どもを性の対象とする人たち』 香月真理子著
『児童性愛者―ペドファイル』 ヤコブ・ビリング著
『子どもと性被害』 吉田タカコ著
『ミスティック・リバー』 デニス・ルヘイン著
『家のない少女たち』 鈴木大介著
『ハートシェイプト・ボックス』 ジョー・ヒル著
『永遠の仔』 天童荒太著
『エディンバラ 埋められた魂』 アレグザンダー・チー著
『薔薇よ永遠に―薔薇族編集長35年の闘い』 伊藤文學著
『子どものねだん―バンコク児童売春地獄の四年間』 マリー=フランス・ボッツ著
『アジアの子ども買春と日本』 アジアの児童買春阻止を訴える会(カスパル)編
『13歳の夏に僕は生まれた』
『闇の子供たち』


最近の仕事机。
1ヶ月ぐらいかけてがっちり断捨離したら、逆にモノがなくなりすぎてやや不便に。