『バビロンに帰る―ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック2』 スコット・フィッツジェラルド著 村上春樹訳
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「ジェリービーン」「カットグラスの鉢」「結婚パーティー」「バビロンに帰る」「新緑」の5編の短編にそれぞれ村上氏のノート(コメント?)と、晩年に軽い結核を患ったフィッツジェラルドが静養したアッシュヴィルでの出来事を取材したエッセイを巻末に収めた本。これも再読。
フィッツジェラルドがアメリカ文学史上最も重要な作家であることは疑いの余地がないが、同時に、華々しいデビューの後の大恐慌時代、小説は売れず借金に追われ病気の妻を抱えてアルコールに溺れた中年の彼が、日本語で昨今いうところの「負け組」、英語でいうところの「ルーザー(loser)」(フィッツジェラルド本人はfailureと表現している)だったことも紛れもない事実だ。詩人のドロシー・パーカーは彼の葬儀の席で、代表作『グレート・ギャツビー』の一文を引用して“The poor son-of-a-bitch(可哀想などうしようもないやつ)”と故人を評したそうだが、そんな憐れささえも、彼の波乱の生涯に効果的に添えられた陰影のように感じられる。
この短編集はそんな「イケてないフィッツジェラルド」特集ともいえる本だ。
書かれた年代はそれぞれ違うが、どれも一級品の傑作というタイプの作品ではない。あるいはフィッツジェラルドの作品でなければ大して印象にも残らない程度の、平凡なメロドラマばかりである。これがフィッツジェラルド作品だからこそ、「なるほど、フィッツジェラルドもこんなのを書くんだな」と楽しむこともできる、そういう短編小説たち。
まあそれでも5編ともなかなか魅力的ではあるし、感動とまではいえなくても、どれもふと考えさせられるところのある作品ではある。とくにこの5編に共通しているのは、フィッツジェラルドだけでなくアメリカ文学によく見受けられる「人間にはどうしても逃れようのない宿命」の前に敗北する人々の姿である。ジム(「ジェリービーン」)は“ジェリービーン”たる宿命に囚われ続けるし、イヴリン(「カットグラスの鉢」)は若い崇拝者がカットグラスの鉢にかけた呪いに一生苦しめられる。マイケル(「結婚パーティー」)は求婚した女にフラれっぱなしで終わるし、チャーリー(「バビロンに帰る」)はアル中だった過去を引きずり続け、ディック(「新緑」)は結局ろくでなしのままである。
フィッツジェラルドの小説のおもしろいところは、こうした人々の果てもなくみっともない負けっぷりを、いささか理不尽なほどたっぷりと愛情をこめた表現をしているところではないかと思う。人間なんてみんな弱くて不完全な生き物で、そうした欠点はそれだけでは決して罪ではない、そういうことがいいたかったのかなという気がしてくる。まあそれでときどき話全体がちょっと言い訳がましく感じたりもするんだけど。
フィッツジェラルドや村上氏のファン以外の読者にとっては大した本ではないかもしれないけど、あれこれ本を読みつかれてるときや、文章を書いていて行き詰まったときに、息抜きに読むにはいい本かもしれないです。ぐりはこの中では「カットグラスの鉢」と「バビロンに帰る」がお気に入り。両方とも家庭が舞台になってるんだけど、フィッツジェラルドの描く家庭ってすっごくスカスカな感じがするんだよね。このスカスカ感が妙に生々しくて好きなのです。
しかしフィッツジェラルドの作品は書き出しだけはどれもこれも素晴しい。全体はイマイチでも、ツカミだけは“ばりっ”とびしっとキマッている。さすがでございます。
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「ジェリービーン」「カットグラスの鉢」「結婚パーティー」「バビロンに帰る」「新緑」の5編の短編にそれぞれ村上氏のノート(コメント?)と、晩年に軽い結核を患ったフィッツジェラルドが静養したアッシュヴィルでの出来事を取材したエッセイを巻末に収めた本。これも再読。
フィッツジェラルドがアメリカ文学史上最も重要な作家であることは疑いの余地がないが、同時に、華々しいデビューの後の大恐慌時代、小説は売れず借金に追われ病気の妻を抱えてアルコールに溺れた中年の彼が、日本語で昨今いうところの「負け組」、英語でいうところの「ルーザー(loser)」(フィッツジェラルド本人はfailureと表現している)だったことも紛れもない事実だ。詩人のドロシー・パーカーは彼の葬儀の席で、代表作『グレート・ギャツビー』の一文を引用して“The poor son-of-a-bitch(可哀想などうしようもないやつ)”と故人を評したそうだが、そんな憐れささえも、彼の波乱の生涯に効果的に添えられた陰影のように感じられる。
この短編集はそんな「イケてないフィッツジェラルド」特集ともいえる本だ。
書かれた年代はそれぞれ違うが、どれも一級品の傑作というタイプの作品ではない。あるいはフィッツジェラルドの作品でなければ大して印象にも残らない程度の、平凡なメロドラマばかりである。これがフィッツジェラルド作品だからこそ、「なるほど、フィッツジェラルドもこんなのを書くんだな」と楽しむこともできる、そういう短編小説たち。
まあそれでも5編ともなかなか魅力的ではあるし、感動とまではいえなくても、どれもふと考えさせられるところのある作品ではある。とくにこの5編に共通しているのは、フィッツジェラルドだけでなくアメリカ文学によく見受けられる「人間にはどうしても逃れようのない宿命」の前に敗北する人々の姿である。ジム(「ジェリービーン」)は“ジェリービーン”たる宿命に囚われ続けるし、イヴリン(「カットグラスの鉢」)は若い崇拝者がカットグラスの鉢にかけた呪いに一生苦しめられる。マイケル(「結婚パーティー」)は求婚した女にフラれっぱなしで終わるし、チャーリー(「バビロンに帰る」)はアル中だった過去を引きずり続け、ディック(「新緑」)は結局ろくでなしのままである。
フィッツジェラルドの小説のおもしろいところは、こうした人々の果てもなくみっともない負けっぷりを、いささか理不尽なほどたっぷりと愛情をこめた表現をしているところではないかと思う。人間なんてみんな弱くて不完全な生き物で、そうした欠点はそれだけでは決して罪ではない、そういうことがいいたかったのかなという気がしてくる。まあそれでときどき話全体がちょっと言い訳がましく感じたりもするんだけど。
フィッツジェラルドや村上氏のファン以外の読者にとっては大した本ではないかもしれないけど、あれこれ本を読みつかれてるときや、文章を書いていて行き詰まったときに、息抜きに読むにはいい本かもしれないです。ぐりはこの中では「カットグラスの鉢」と「バビロンに帰る」がお気に入り。両方とも家庭が舞台になってるんだけど、フィッツジェラルドの描く家庭ってすっごくスカスカな感じがするんだよね。このスカスカ感が妙に生々しくて好きなのです。
しかしフィッツジェラルドの作品は書き出しだけはどれもこれも素晴しい。全体はイマイチでも、ツカミだけは“ばりっ”とびしっとキマッている。さすがでございます。