落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

負け犬特集

2008年02月26日 | book
『バビロンに帰る―ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック2』 スコット・フィッツジェラルド著 村上春樹訳
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4120025616&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

「ジェリービーン」「カットグラスの鉢」「結婚パーティー」「バビロンに帰る」「新緑」の5編の短編にそれぞれ村上氏のノート(コメント?)と、晩年に軽い結核を患ったフィッツジェラルドが静養したアッシュヴィルでの出来事を取材したエッセイを巻末に収めた本。これも再読。
フィッツジェラルドがアメリカ文学史上最も重要な作家であることは疑いの余地がないが、同時に、華々しいデビューの後の大恐慌時代、小説は売れず借金に追われ病気の妻を抱えてアルコールに溺れた中年の彼が、日本語で昨今いうところの「負け組」、英語でいうところの「ルーザー(loser)」(フィッツジェラルド本人はfailureと表現している)だったことも紛れもない事実だ。詩人のドロシー・パーカーは彼の葬儀の席で、代表作『グレート・ギャツビー』の一文を引用して“The poor son-of-a-bitch(可哀想などうしようもないやつ)”と故人を評したそうだが、そんな憐れささえも、彼の波乱の生涯に効果的に添えられた陰影のように感じられる。

この短編集はそんな「イケてないフィッツジェラルド」特集ともいえる本だ。
書かれた年代はそれぞれ違うが、どれも一級品の傑作というタイプの作品ではない。あるいはフィッツジェラルドの作品でなければ大して印象にも残らない程度の、平凡なメロドラマばかりである。これがフィッツジェラルド作品だからこそ、「なるほど、フィッツジェラルドもこんなのを書くんだな」と楽しむこともできる、そういう短編小説たち。
まあそれでも5編ともなかなか魅力的ではあるし、感動とまではいえなくても、どれもふと考えさせられるところのある作品ではある。とくにこの5編に共通しているのは、フィッツジェラルドだけでなくアメリカ文学によく見受けられる「人間にはどうしても逃れようのない宿命」の前に敗北する人々の姿である。ジム(「ジェリービーン」)は“ジェリービーン”たる宿命に囚われ続けるし、イヴリン(「カットグラスの鉢」)は若い崇拝者がカットグラスの鉢にかけた呪いに一生苦しめられる。マイケル(「結婚パーティー」)は求婚した女にフラれっぱなしで終わるし、チャーリー(「バビロンに帰る」)はアル中だった過去を引きずり続け、ディック(「新緑」)は結局ろくでなしのままである。
フィッツジェラルドの小説のおもしろいところは、こうした人々の果てもなくみっともない負けっぷりを、いささか理不尽なほどたっぷりと愛情をこめた表現をしているところではないかと思う。人間なんてみんな弱くて不完全な生き物で、そうした欠点はそれだけでは決して罪ではない、そういうことがいいたかったのかなという気がしてくる。まあそれでときどき話全体がちょっと言い訳がましく感じたりもするんだけど。

フィッツジェラルドや村上氏のファン以外の読者にとっては大した本ではないかもしれないけど、あれこれ本を読みつかれてるときや、文章を書いていて行き詰まったときに、息抜きに読むにはいい本かもしれないです。ぐりはこの中では「カットグラスの鉢」と「バビロンに帰る」がお気に入り。両方とも家庭が舞台になってるんだけど、フィッツジェラルドの描く家庭ってすっごくスカスカな感じがするんだよね。このスカスカ感が妙に生々しくて好きなのです。
しかしフィッツジェラルドの作品は書き出しだけはどれもこれも素晴しい。全体はイマイチでも、ツカミだけは“ばりっ”とびしっとキマッている。さすがでございます。

夢は夢とて

2008年02月25日 | book
『偉大なるデスリフ』 C・D・B・ブライアン著 村上春樹訳
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4124035004&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

再読です。初めて読んだのは高校生の頃。その後も読み返した記憶はあるが、少なくとも社会人になってから読んだ覚えはない。
ひとつ訂正です。以前『グレート・ギャツビー』のレビューでこの小説を「“ギャツビー”たちの孫にあたる世代」の物語と書いたけど、間違ってました。『グレート・ギャツビー』の舞台は1920年代前半、『偉大なるデスリフ』の主人公アルフレッドとジョージは1936年生まれで、彼らの両親はフィッツジェラルドと同じく1920年代に青春期を過ごしたという設定になっています。だから孫じゃなくて息子の話でした。失敬。

この物語は前述のふたりの幼馴染みをそれぞれ主人公にした2部構成になっていて、前半の「アルフレッドの書」は1960年代前半、後半の「ジョージ・デスリフの書」は1970年頃が舞台とされている。
「アルフレッドの書」での登場人物たちは20代半ば、まさに青春真っ盛りである。資産家の跡取り息子ジョージは大物外交官の令嬢アリスと宿命的な恋に堕ち、結婚する。名家の出身だが財産はないアルフレッドは美しい人妻でファッションモデルのテディーと不倫の恋をし、そしてフラれる。アルフレッドは自分が追い求めていた幻影には現世では決して手が届かないことを失恋によって知る。幻影に生きるということは、時代の流れに背を向けて生きることだという事実を、愛の終末が教えてくれるのである。
「ジョージ・デスリフの書」では彼らは30代になっている。アメリカはベトナム戦争の時代に入り、世論はいくつかの態勢にぱっくりと分裂していた。小説家として成功しているアルフレッドはリベラルな反戦論者だが、コンサルタント会社を経営するジョージはこちこちのコンサバに成り果てている。そしてあれほど激しい大恋愛の末に結ばれたはずの夫婦関係は見事に破綻してしまっている。ジョージは愛する者を手に入れたがために、幻影は幻影でしかないことに気づかないまま大人になってしまった。彼も気の毒だがアリスも気の毒である。

10年以上の時間を置いての再読だけど、不思議なことにほとんどそっくり内容を覚えてました。
それなのに受ける印象が全然違う。まったく違う。おもしろいくらい違う。
まあそりゃそうだ。初めに読んだとき、ぐりは登場人物たちよりもずっと年下だった。今はもう彼らの年齢を軽く超えている。初めに読んだときは、ぐりだって「愛の終末」なんてものは知らなかった。かまととだったから。
それから十数年を経て、人並みには及ばないけど一応まがりなりにも恋愛経験を重ね、不倫だ結婚だ離婚だという周囲のすったもんだも目撃し、中年という世代にさしかかってからこれを読むと、読んだ感触のリアリティが当り前だがまるっきり違っている。たとえば作中では常に挑発的で不機嫌なアリスだが、最初に読んだときは彼女がなんでそんなにぶすくれてるのかが皆目わからなかったけど、今はわかる。同時に、ジョージがどんだけトンマなうすらボケかもすっごく身にしみてわかる(爆)。

恋愛は偉大なる誤解から生まれるともいうけれど、所詮、男と女は人類滅亡まで決して理解しあうことはできない。それが人間という生き物の原則だとぐりは思っている。
アルフレッドは愛という夢を捨て、現実に向かいあうことで人生をつかみとる。ジョージは愛という夢にしがみつくあまり、見なくてもよかったはずの幻滅を次々とみてしまう。
どちらが可哀想かは読む人それぞれに違うだろう。ぐりはやっぱアルフレッドに共感しちゃうけどね。淋しいやつかもしれないけど、生きてるってことは基本は孤独なものだからね。

余談ですが。
この小説の中でも何度も引き合いに出される『グレート・ギャツビー』はこれまでに4度映像化されていて、有名なのは1976年にロバート・レッドフォードが主演した『華麗なるギャツビー』だが、それ以前に製作された2本の邦題は『暗黒街の巨頭(1949)』に『或る男の一生(1926)』。暗黒街って、なあ。
いうまでもないがぐりは1本も観てません。ははははは。

空襲の下の夜

2008年02月24日 | book
『夜愁』 サラ・ウォーターズ著 中村有希訳
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4488254063&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

舞台は第二次世界大戦終結から間もない、1947年のロンドン。
主人公は元救急隊員のケイ、結婚紹介所で働くヘレン、ヘレンの同僚ヴィヴ、ヴィヴの弟ダンカン。それぞれに秘密を抱え、誰もが貧しく孤独だった時代の傷をひきずりながらひっそりと生きる彼女たちの心象風景を描いた、3部構成の戦争文学。
創元推理文庫という、本来はミステリ・SF・ファンタジー・ホラーなどを主に出している東京創元社の文庫だけど、この作品は意外にもその類いの娯楽小説ではないです。物語が1947年から始まって中盤で1944年に遡り、終盤でさらに1941年に再び3年遡るという構成が謎めいていて、演出的にいえば推理小説と無理くりいえなくもないけど。
1947年、登場人物は既にそれぞれに深い孤独を抱えている。彼女たちがなぜそのような人生にたどりついたのかを、小説は3年ずつ時間を巻き戻して描いていく。

この小説には、全体を通してはっきりとしたストーリーラインというものはない。
直接描かれるのは、激しい空襲とそれによって破壊されたロンドンの街で、実際に生きていた庶民の生活と人生そのものである。飛び交う砲弾とふりそそぐ瓦礫と粉塵の下で生きていた人々。食べ物も着るものも何もかもが不足し、愛する家族や恋人と離れ、自由を奪われながら生きていた人々。
そうなるとふつうは戦時下でのお涙頂戴メロドラマを連想しがちだが、この小説はちょっと違う。主人公の4人はいわゆる“一般的な善男善女”とは少し違うからだ。
ケイは男装のレズビアンで、ヘレンもレズビアンである。ヴィヴは妻子ある男性と交際している。ダンカンは戦時中服役していた過去があり、ヴィヴ以外の家族とは関わりを絶っている。つまり、戦時下であろうとなかろうと彼女たちには世を忍ぶ秘密があった。でも考えてみれば当然の話だ。戦時中だろうとなかろうと、セクシュアル・マイノリティはいつの世の中にもいるし、不倫する人にも時代は関係ない。逆にいえば、誰もが明日をも知れない戦時下だからこそ、彼らの“特異さ”が人間性のごく一部分に過ぎないことが、他ではありえないほど能弁に表現されている。

そんな中で最後まで物語を牽引していくのはダンカンである。
1944年パートでは刑務所にいるダンカンだが、彼がなぜどんな罪で服役しているのか、なぜ出所後マンディ氏などという老人と同居し、まるで彼自身も隠者のような生活を送っているのかは、1941年パートのクライマックスまで明かされない。
ここで効いてくるのが1944年パートの中心となるケイとヘレンとジュリアという3人の女性同性愛者の物語である。いうまでもないがこの時代、同性愛はイギリスでは犯罪行為で、発覚すれば風紀紊乱罪で実刑は免れなかった。ダンカンと同じ刑務所にも同性愛者が数人収監されている。
美しいヴィヴに似て若くハンサムな弟ダンカンにも、まるであざやかな灯りが反射するように、そんなセクシュアルな影が差している。しかし決して彼は罪と過去を自ら語ることはないし、物語の最後まで、彼自身がほんとうはどんな思いを抱いていたのかは描かれない。

ほんとうに心から大切にしていた思いなのに、口に出した途端に泡のように消えてしまう、どんな器にも盛ることのできない、せつない思い。
その思いも、ロンドン中を燃やした空襲の炎に照り映えるように明々と燃え上がる。それをなんと呼ぶべきかは読み手それぞれの自由だ。
この小説には、ほんとうに伝えたいことはおそらく、ひとことたりとも直接的には描かれていない。描かれないからこそ、その熱さと重さが響いてくる。
そういう物語でした。

再婚サンバ

2008年02月23日 | movie
『トゥヤーの結婚』

トゥヤー(余男ユー・ナン)は内モンゴルで羊を放牧して暮す農家の主婦。夫が事故で歩けなくなってしまった今は彼女が一家の大黒柱なのに、腰を傷めて医師から遊牧はむりだと宣告される。周囲は障碍者の夫と離婚して、子どもといっしょに養ってくれる男と再婚するよう奨めるが、トゥヤーは夫もいっしょに養ってくれる人とでないと結婚しないと宣言する。
ムチャな設定だが、どういうワケかヒロインには次から次へと求婚者が現れる。中国では一人っ子政策以前から人口の男女比がやや偏っていて、地方では慢性的な花嫁不足が深刻化している。現在ではこのままいけば数千万人単位の適齢期男性が結婚相手にあぶれるといわれており、すでにこの状況につけこんだ悪質な詐欺や人身売買などの犯罪も報告されていて、こうした犯罪はこれからも増加していくだろうと予想されている。男尊女卑思想が招いたこの現象はインドでも顕著で、とくに出産前に胎児の性別がわかるようになってから一気に加速した。医学の発展も痛し痒しどころではない。

そんなモテモテなトゥヤーですが。
あらすじだけだとなんだかコメディみたいだけど、実際の映画ではひたすら淡々と、次から次へと現れる求婚者や隣人センゲーなど身近な人々とのやりとりが描かれる。
トゥヤー本人の台詞も少ない。無駄口をたたくには彼女は忙し過ぎるのだ。家事をして育児をして羊を放牧して、片道30キロの道を一日2往復、ラクダで水汲みに行く。求婚者が来れば接待し、ウマで買い出しにも行く。実際こんな生活がどこまで可能なのかと首を傾げたくなるくらい、ひとりでいろんなことをやっている。
だから画面をみているだけで、彼女たちの暮している社会では、伴侶がいて働き手がいなければ人としての生活が成り立たないという現実がひしひしと伝わってくる。子どもを育てたり家庭を築いたりすることは、彼女たちにとっては人生の選択ではなく、生きていくうえでの必須事項なのだ。

景色もきれいだし羊やラクダやかわいい動物もいっぱい出てくるし、素人俳優たちもなかなかいい演技してるし、みどころはいろいろある映画だと思う。
けど、中国のこういう清貧礼讃映画はもうそろそろ飽きて来ました(爆)。べつに清貧礼讃そのものに罪はないけど、ぐり個人としてはあんましお好みではないです。
できれば、トゥヤーが最後に「彼」を選ぶだけの理由を、倫理とか建て前とか意地とかそういうものを超越して、生き物として女性としての目線で素直に表現してほしかったです。まったく表現されてないわけじゃないけど、ビミョーに弱いのよ。そこがいちばん惜しかった。

ところで今日は初日なのに映画館見事にガラガラ。ヤバいよ〜。
しかも。ぐうぐうぐうぐうイビキかいて寝るおっさんはいるわ、いちいち画面で起きてることを復唱する独り言おばはんはいるわ。なんですかこの映画館?てゆーかそーゆー人がなんでわざわざ初日にくるかな?

踊る供述調書

2008年02月20日 | book
『僕はパパを殺すことに決めた 奈良エリート少年自宅放火事件の真相』 草薙厚子著
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4062139170&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

2006年6月に起きた奈良医師宅放火殺人事件の加害少年とその家族の供述調書をまとめたノンフィクション。
本文の半分以上が調書と鑑定書の引用で、著者自身のテキストは引用した資料のツナギ、補完程度の内容にとどまっている。
この本をめぐっては、少年を鑑定した医師が鑑定資料を著者に提供したことによる秘密漏示罪で逮捕起訴されていて、草薙氏自身も非難を浴びている。
彼女の本はこれ以外に以前『少年A 矯正2500日全記録』を読んだだけだが、個人的には、この『僕はパパを殺すことに決めた』も含めそれほど大した本じゃないし、彼女自身に関してもさほど注目すべきジャーナリストに値するかは疑問だと思う。
題材や着眼点はセンセーショナルだがはっきりいってしまえばそれだけで、ノンフィクションとしては内容が薄すぎるのだ。ぐりはそれほどたくさんこの手の本を読む方ではないが、これまでに読んだこのジャンルの本と比較すれば、明らかに数段はレベルが落ちる。
しかし実をいうと、昨今はこういうノンフィクション本がけっこう増えてるような気もしている。タイムリーで題材や着眼点だけはショッキングなんだけど、内容は客観性に欠け、素人目からみても取材範囲が極度に限定的で専門知識も決定的に不足した、外見ばかり派手で中身はカラッポなノンフィクション。しかもそれがけっこう売れてて評判もいいらしいから恐ろしい。

この本では、加害少年には生まれつき「特定不能の広汎性発達障害」というごく軽い自閉症の症状があったが、幼いころから父親に厳しい体罰を加えられながら勉強させられていて、英語のテストの点数が平均より悪かったことで「このままでは父に殺される」と思いこんで犯行に至った、と結論づけられている。
広汎性発達障害に関しては少年犯罪の本を読んでいるとときどき目にする言葉だが、この症状をもつ人は相手のいっていることの裏を読むということができない。少年の父親は常日頃「成績が下がったら殺す」「ウソをついたら殺す」などと息子を罵倒していて、これが彼にとっては「ほんとうに殺される」という恐怖につながったのではないか、というのだ。
誤解のないように申しそえるが、広汎性発達障害そのものは単独では直接犯罪に結びつくものではないと思う。犯罪の要因はいくつもの条件が複数に連鎖して成り立つもので、そのうちのいくつかは人間誰でももっているような、ありふれた要件ではないだろうか。広汎性発達障害はたくさんの要件のひとつに過ぎず、そこへ不幸な条件が複数加えられた結果、たまさか犯罪に発展するケースがあるというだけのことだろう。

しかしこの父親の体罰はほんとうにひどい。
調書によれば虐待は少年が幼稚園のときから始まっていて、具体的にいえば、髪をつかんで引きずる、拳で殴る、本などモノで打つ、机や床や壁に頭を叩きつける、蹴る、踏みつけるなどといった実に凄惨極まりない行為が、放火までの10年以上の間、毎日のように行われていた。これでは「殺す」といわれるまでもなく「殺される」と子どもに思われてもしかたがあるまい。
父親本人は体罰だと思っていたらしいが、どう考えても感情のままに自分の所有物を玩弄していただけである。こんなものは愛でもなんでもない。
もちろん父親自身医師だから、子どもに暴力をふるえばどうなるかは医学的に理解していただろうし、学校の担任などは自宅での体罰に気づかなかったというから、大怪我をするほどの虐待ではなくある程度は手加減もしていたのだろう。
だが虐待のほんとうの被害は、肉体的医学的な被害にとどまらない。虐待されたことで踏みにじられたプライドが、心のバランスを狂わせ精神的な傷を生涯負わせることもある。現に、家庭訪問で体罰を注意された父親が教諭の前で「もうしない」などといっておきながらいっさいやめようとしなかったことなどは、少年が父親に対して子としての信頼を失うのに充分な出来事だったのではないだろうか。

けど、その父親にも言い分はあってしかるべきだとぐりは思う。彼は加害少年の父であると同時に被害者遺族でもある。
この本では父親など家族本人には取材できなかったと書いているが、ここまで父親の責任を声高に主張するならば、もっと公平な取材/分析が行われるべきではないだろうか。本人でなくても、友人や同僚、学生時代の級友や恩師、幼馴染み、旅行先やいきつけの店などなど、いくらでもソースはみつけられたはずだ。他の関係者に関しても同じことがいえる。少なくとも、事件の舞台となった奈良や関西の医学界、教育界の現実についてはもっと調べるべきこと、書くべきことはごまんとある。そこまでして初めて、一個人に書かれた本を「ある種の真実」として信頼することができるのではないだろうか。
少年犯罪の供述調書といえば確かに資料として貴重だが、供述調書そのものは断じて「真実」などと呼べるようなものではないことは誰でも知っている。文体が一人称なのでうっかりすると供述した本人の言葉のように読めてしまうが、あれは取り調べの警官が誘導してフォーマット通りに書いたものであって、あくまでも警官の言葉でしかない。
また、この本に関していえば草薙氏自身の観点にもかなりの偏りが見受けられ、文章には読んでいていささか不愉快になるほどの個人感情が濃く感じられる。著者本人が、供述調書や鑑定書など紙の資料に踊らされ過ぎているように読めてしまう。
そういう意味で、この本はノンフィクションとしてはどうみても片手落ちだし、片手落ちなノンフィクションほど危険なものはないとぐりは思う。こういう本が売れて、こういう本がノンフィクションとして当り前になってしまうのが怖い。怖すぎる。
ただ一点、少年犯罪の裁判制度に関して一石を投じたという部分では評価してもいいと思う。こういう違法行為はジャーナリズムの世界でも禁じ手の飛び道具であることに間違いはないけど、ルールの範囲内だけではわからない真実もある。でもだからこそ、もっと完成度の高い本にしてほしかったという気はしました。