落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

おもしろくても笑えないこともある

2019年08月27日 | book
『むらさきのスカートの女』 今村夏子著

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近所で「むらさきのスカートの女」と呼ばれる女性が気になってしょうがない「私」。
定職に就かず昼間からブラブラしていることもある彼女をつけまわし、いつも座る公園のベンチに求人情報誌を置いて、アルバイトの面接会場までついていく。
やがて自らの職場に彼女を誘導することに成功するのだが…。
第161回芥川賞受賞作だそうです。

あらすじだけ書いちゃうとものすごく気味の悪い話だけど、実際読んじゃうと全然そんな印象じゃない。一種のファンタジーみたいなものかな?不思議なタッチの物語です。
でもやっぱりよく考えたらムチャクチャ気持ち悪い話だ。友だちになりたいという理由で他人を尾行して行動を記録し、仕事先から近隣の子どもたちとのやりとりまで克明に観察し続ける「私」のような人が実際にいるとしたら、そんなもん恐ろしくてしょうがない。
そもそもタイトルにあるように「むらさきのスカートの女」として周囲の注目を集める日野まゆ子その人よりも、「私」を含む他のキャラクターのほうがずっと奇妙で、怖い人たちだと思う。職場の消耗品を誰もが隠れて流用していることを新人に向かって冗談交じりに吹聴したり、よく知りもしない同僚の噂をあることないこと並べたてていじめて追い出しては「最近の人はすぐ辞める」と居直ったり、それでいて当人にはまったく罪の意識がない。
でもこの程度の無意識に攻撃的で非常識な人々って、どこにでもいるんだよね。それが非常に怖い小説です。

文体は軽妙だし文量としてもあっさり読めてしまうお手軽な作品だけど、よくよく考えたらむしろホラーに近いぐらいブラックなコメディ。
この作家の作品は初めて読みましたが、レビューを見ると旧作も評価が高いので、機会があれば読んでみたいと思います。


ワルシャワ国立博物館にて。

ありふれた怪談の恐怖

2019年08月18日 | book
『残穢』 小野不由美著

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怖い話は好きですか。

実をいうと、「目がない」。
子どものころからラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がお気に入りで、著書を集めたり、松江や熊本やアイルランドなどゆかりの地を訪ね歩いたり雑司が谷の墓所をお参りしたりするけど、氏の作品は怪談ばかりではないし、世間一般に怪談といわれる作品も、大抵は悲しい話やせつない話、因縁ともいえるような運命的な話が多い。
厳密には、現代的な価値観ではわりきれない、人智をこえた世界を感じさせる物語に惹かれる、といった方が正確かもしれない。

そういえるのは、私自身に霊感とか第六感といったものがまったくなく、霊体験がほとんどないからだろう。
戦前に朝鮮半島から日本に渡ってきて言語に絶する苦労をしてきた祖母は「化け物なんかちっとも怖くない。いちばん怖いのは生きている人間」といっていたが、現実に数限りなく恐ろしい思いをしながら人生を戦い抜いた彼女のこの言葉には、えもいわれぬ含蓄がある。
彼女の娘である私の母も、だから幽霊の類をまったく信じていなかったのだが、つい最近、不思議な体験を話してくれた。

私の妹が中学時代に部長をしていた部活の後輩に、ゆみちゃん(仮名)という子がいた。
妹が部活を引退し中学を卒業するころ、彼女は病を得て部活を続けられなくなっていた。
その年の秋、母は地元の神社の祭りでゆみちゃんを見かけた。父とふたりで、見物客でごった返す広場の端で喧嘩神輿を眺めていると、神輿の向こうの人ごみのなかに「ゆみちゃん」が立っているのが見えた。黒髪のおかっぱ頭におとなしそうな幼な顔は、応援に行った部の試合会場で何度も会ったゆみちゃんのそれだった。手を振ると、彼女も母に気づいて、微笑んで会釈を返した。母は父に「ゆみちゃんがいるよ、ほら、あそこ。元気になってよかったね」と声をかけたが、人波に紛れて、もう彼女の姿は見えなかった。だから父はゆみちゃんを見ていない。
夕方、自宅に電話がかかってきた。闘病中のゆみちゃんが、その朝、病院で亡くなったという知らせだった。
つまり母がゆみちゃんに遭遇した時間には、彼女はすでにこの世の人ではなかったことになる。
母が驚いて、その日、神社の広場で彼女に会ったと妹に話すと「なんで私じゃなくてお母さんが会うんだよ」とおかんむりだったという。

ありふれた話だ。
亡くなった人が、親しい人や縁のあった人に別れを告げにやってくる。姿形は生きているときとまったく変わらないように見える。でもその人は実際にはもう死んでいる。

『残穢』はとにかく怖いという評価の高い作品だが、怖さの種類が非常に特異である。題材がごくありふれた都市生活の死角にあるからだ。
この小説の怖さは、地方であれ都会であれ、代々ずっとそこに暮らし続けている定住者にはなかなか理解できないものかもしれない。だが現代では大多数の人間が折々に住む場所を変え、土地を移りながら暮らしている。そうなると必然的に当事者は自分の住んでいる土地のいわく因縁に疎くなるし、地域コミュニティといった横のつながりも希薄になる。不動産業者は契約者に物件の「心理的瑕疵(過去に自殺・殺人・事件や事故による死亡・火災の発生があったか、周辺に嫌悪施設や指定暴力団等の事務所がある)」の有無を告知する義務があるが、不動産業者が把握できないほど時間が経っていれば告知されないこともあるし、だからこそ大島てるのようなウェブサイトが重宝されるわけである。
たとえば私が長年住んでいる地域は誰に聞いても「治安がいい」「泥棒や火事なんか聞いたこともない」といわれるが、このサイトで検索してみると徒歩10分圏内だけでも出るわ出るわボロボロ掲載されまくっている。サイトを信頼するなら、地域の人たちの目に映っている「泥棒や火事なんか聞いたこともない」くらい安全な街という評価が根拠のないただの思いこみということになる。それはそれで極論だろう。日常生活を送る範囲内ではほんとうに平和な街だから。

『残穢』の主人公は小説家で、読者からの手紙をきっかけに都内のあるマンションで起きた怪異の因縁を訪ね歩く。久保さんという読者は問題の部屋に転入して間もなく、自室で畳を擦るような物音を耳にするようになり、ある夜、物音のする畳の上で金襴の帯らしき物体が動くのを目撃する。久保さんは、晴れ着をまとって帯を引きずりながら縊死した女性の霊ではないかと推察する。
ホラー小説を書いている「私」は久保さんの訴えを冷静に客観的に受けとめようとするのだが、過去に届いていた読者の手紙の中に、久保さんと同じマンションの別の住人からの体験談をみつける。調べていくと、問題の土地は住人の出入りが異常に頻繁なだけでなく、不気味な体験をした人はマンションの入居者だけではなかった。
ところがマンションが建つ以前からの近隣住民に訊いても、この土地で事件や事故や自殺の過去はでてこない。「あればさすがに忘れません。絶対に覚えていると思います」と彼女はいう。「泥棒や火事なんか聞いたこともない」くらい安全な街というわけである。

日本の多くの都市は、戦災や高度経済成長期、バブル期という大きな‘民族大移動時代’を経ている。
だからこの小説に登場する都内の住宅地に限らず、そうした大移動=土地開発を経た地域はどこでも、似たような‘表層的で曖昧な平和’という仮面の下に、たいていの住民の与り知らない歴史と因縁を隠している可能性があるといえる。
この物語は小説だから、主人公たちが因縁を辿れば辿るほど加速度的に残虐で陰惨な歴史がずるずると白日のもとに晒されていく。
読んでいて、そんなもの知りたくなかった、という気持ちになる。
でてくる因縁のどれもこれもが陳腐で、実にありふれているからだ。誰もがどこかで必ず一度は耳にしたような怪異や事件や事故や自殺ばかりが連なった挙句に、事情を知らない赤の他人を脅かし、不幸に陥れ、あるいは命を奪っていく。
どんなに残虐で陰惨でも、一歩ひいて他人事として受けとめてしまえば「陳腐」になる。その凡庸さが、現実社会の下に普遍的に横たわっている恐ろしさなのかもしれない。

「私」と久保さんは、因縁を辿る旅の末に、過去の日本では当たり前におこなわれていた搾取や人権侵害の歴史に行き当たる。
具体的にいうまでもなく、かつてそれらは日本のどこでも、罪でもなく犯罪でもなく、人々の安全な暮らしや豊かな生活をまもるために必要な犠牲と捉えられてきた。だが当事者にとってはどうだろう。
あなたの不幸は、あなたの不運は、他の人たちのため、街のため、国のために必要なんです。だからこらえてください。みんな我慢してるんですといわれて、はいそうですかとするっと納得できるものだろうか。納得する人もいるかもしれない。できない人もいるだろう。そうしたやりきれない怒りや悲しみの感情はどこへいくのか。
そんな犠牲が、いまも、目に見えにくいところで、人知れず支払われている。そういう社会の残酷な利己主義に、生きている人間はもっと畏怖すべきなのだろう。

本を読んだ後に、映画化された『残穢―住んではいけない部屋―』を観ていて、学生時代に部屋で「あずきとぎ」の音を聞いたことがあったのを思い出した。
深夜に自室で作業をしていて、部屋の隅の天井に近い何もない空間から、大きくはないがくっきりとした音で、小豆のような小さなつぶつぶした固いものを、さらさらとかき回すような音が、断続的に長く聞こえた。1時間か2時間か、正確にはわからない。その音があまりにはっきりしていたので、怖いと思う余地もなかったのをよく憶えている。

映画では、問題の土地が小平市に設定されていた。
私が「あずきとぎ」に会ったのも、小平市である。

一瞬、ぞっとしないでもなかったです。



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