落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

一家総出

2006年04月23日 | movie
『欲望』
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B000060NFM&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

マーサ(デブラ・ウィンガー)は軽い知的障害をもつ内気な女性。勤め先のクリーニング店で窃盗の疑いをかけられ解雇されてしまうが、家を修理に来たマッキー(ガブリエル・バーン)と心を通わせるようになり、やがてそれは肉体関係へと発展する。
監督はスティーブン・ギレンホール。マギー&ジェイク姉弟のおとうさん。脚本はおかあさんのナオミ・フォナー。
子どもふたりもチラッとですが出てます。93年の作品なのでマギーは15歳くらい。既にかなり背が高くて今とあんまり変わりません。ジェイクの方は12歳くらいのはずだけど見た目は8つか9つくらいに見えます。小柄で髪もブロンドで、今の面影はほとんどない。しらないでみたら気づかないですねこれは。やっぱりすっごくかわいいけど、ほぼ別人だもん。クレジットも本名のジェイコブになってます。しかしこんなちっこい一見女の子みたいのが、10年かそこらであんなマッチョセクシーなデッカイにーちゃんになってしまうとわー。詐欺みたいだ。

ビデオのパッケージはもろにエロ!サスペンス!というデザインだし、邦題もコピーも原題(『A DANGEROUS WOMAN』)もいかにもだけど、実際みてみると全然まるっきりそういう映画ではない。けっこうシリアス。社会派ドラマというほど大袈裟なものではないけど。
周囲の人は障害のせいでヒロインを憐れんだり嘲ったりするけど、かといってじゃあお金や社会的地位を備えた彼らが幸せかというとそうでもない。生きている限り人はみなそれぞれに問題を抱えてるし、悩みもある。親兄弟も友だちも恋人もいないヒロインだけが孤独なわけじゃない。当り前だけどね。逆に、世間で当り前とされてる「ふつうの生活」「ふつうの人生」のどこがステキなの?ちょっと違うんじゃない?ホントにそんなことがそんなに大事?とゆーシニカルな視点が生々しい。東洋でいうところの「塞翁が馬」ってやつかなあ。
要はバクゼンと「幸せになりたい」なんて幻想を追いかけるのではなくて、自分は一体どうあるべきなのか?とゆー主体的な意志をちゃんともつことがいちばん大切なんだよね。

全体に地味だし微妙にくどいところもあるけど、ストーリーはわかりやすいし非常にマジメにきちっとつくられた映画だと思います。キャラクターの人物設定に偏りはあるし、世界観にひろがりがなくていささか個性には欠けるし、アメリカ映画らしい説教臭さやご都合主義もあるし、欠点もなくはないですが。R指定だそーですが、性描写自体はまったくアッサリしたもの。デブラ・ウィンガーは胸すらみせません。バーバラ・ハーシーはチラみせ。とーぜんボカシなんかが入るとこもナシ。そーゆーの期待してみた人は騙された気分になるかもねー。
ギレンホール氏が監督だとゆーことは知ってても作品を観たことがなくて好奇心で借りてみたけど、なかなかおもしろかったです。なるほどね、こういうのつくる人なのね。
『グッドナイト&グッドラック』でオスカー候補になったデヴィッド・ストラザーンが悪役で出てました。この人も顔濃ゆいな〜(笑)。

ランチワイン

2006年04月22日 | movie
『ぼくを葬る(おくる)』
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B000GRTSUU&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

映画を観ていてふと、数年前に亡くなった知人を思い出した。
仕事上の知りあいで個人的にはさほど親しくはなかったが、お別れのときにみた、棺の中の静かな死に顔はよく覚えている。少し痩せてはいたけど綺麗にお化粧をしていて表情は穏やかで、ちょっと呼べばすぐに起き上がって喋りだしそうだった。でも翌日その人は焼かれて灰になってしまった。もう会えない。
その人は同性愛者で、ガンで死んだ。
まだ30代だった。最後にみたその顔を、ぐりは忘れないだろう。たぶん。

この物語の主人公は31歳の若さで余命3ヶ月の末期ガンを宣告される。
余命宣告を受けた若年者の姿を描いた映画といえば『死ぬまでにしたい10のこと』が最近ヒットしているが、ぐりはこの映画をみていない。もともと人が死ぬ話があまり好きじゃないから(そのわりにはちょくちょくみてる気もするな)。
じゃあなぜ『~葬る』はみたかったか?というとそりゃもう売れっ子監督フランソワ・オゾンが人気俳優メルヴィル・プポーのためにアテ書きした話だからです。日本でいえば是枝裕和と浅野忠信みたいな取りあわせ。みるでしょフツー。ミーハーでけっこう。

非常にいい映画でした。ぐりはこの映画すごく好きだ。あざとくはないけどちゃんと映画的だし、それでいてリアルで無駄がなくて、描写のひとつひとつがとてもしっかりしていて、かつバランスがよくとれている。確信的なのだ。
主人公ロマン(プポー)は死に対してあくまでも素直だ。ベンチに座ってひとりで泣く。両親に会いにいくが病気のことは告白できない。不仲の姉と懲りずに喧嘩する。痛みが怖くて化学療法が受けられない。倦怠期の恋人を家から追い出す。仕事を休んで部屋に閉じこもり、タバコを吸い、酒を飲み、ドラッグをやり、嘔吐する。男漁りをし、さびしさのあまり別れた恋人を呼び出してセックスに誘う。
ひとり気まま勝手に生きてきたロマンだが、死に際して改めて自分の生き方をみつめなおしたりはしない。死を受けいれたり、残りの人生を有意義に生きようとしたりもしない。どんなかたちであろうと死は死だ。それをそのまま、ありのままの自分として迎えるだけ。わかりやすいし、実際すごくわかる。

予告編でみたときはロマンが同性愛者である設定の意味がわからなかったけど、本編をみるとなるほどなと納得させられる。同性愛者は子どもがつくれない。そういう意味では「生」に対して閉じたセクシュアリティだ。だが死を前にした人間にとって、「生」に対して閉じたままでいることは、「死」に対して無防備に開いてしまっているようなものだ。ロマンだけでなく、健康に生活している人間はふつう、「生」に対しても「死」に対しても自分が開いているか閉じているかなんて意識はしない。しかし「死」を前にすれば誰だって意識しないわけにはいかない。
ロマンは病の進行と同時に激しい欲望に苛まれるが、死期を知らない元恋人は「(セックスしたからって)それがなんになるの?」という。そこで彼は悟る。「死」に向かっている自分、生き物としての本能で「死」に抵抗している自分を、性という感覚によって知り、知ることによって「死」を認めるのだ。

祖母(ジャンヌ・モロー)と主人公のシーンは泣けて泣けてしょうがなかったです。死を介して心を通わせる肉親。ロマンと周囲の人々とはいずれも微妙な距離がある。この祖母とだってそうだ。距離があるからこそ通うもののあたたかさがしみる。ロマンの職業はファッション・フォトグラファーでプライベートでもカメラを持ち歩いているが、被写体とは決して向きあわない。相手に気づかれないようにそっとシャッターをきるのが常なのだが、祖母にだけは正面からポーズを頼んでいる。そこに彼と祖母のみえない絆がさりげなく表現されているような気がした。
祖母も含めて人物描写にそれぞれ奥行きがあって、監督の「人」に対する愛情をすごく感じた。都会を舞台にしたドライな若者の話だが、単純にクールを気取っているわけではないところがいい。『8人の女たち』ぐらいしか観た記憶がないけど、これから他の旧作も観てみたい。
それにしてもメルヴィル・プポーの痩せ方は怖かった。完全に順撮りで撮影中に10キロ体重を落としたそーですが、もともとスリムなので最後のほうはシャレならんくらいガリガリに痩せこけて、ホントに死にそーでした。それでもきれいな人だけど。

映画を観たあと、どうしてもお酒がほしくなって昼間からワインを飲んでしまった。
そういう映画です。

魔性の男

2006年04月15日 | book
『ジョヴァンニの部屋』ジェームズ・ボールドウィン著 大橋吉之輔訳
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4560070571&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

1950年代のパリ。アメリカ人旅行者のデイヴィッドは求婚中のヘラがスペインにいっている留守に、イタリア人ウェイターのジョヴァンニと出会ったその日に恋に堕ち同棲生活を始める。だがジョヴァンニが彼に夢中になるにつれてデイヴィッドは罪悪感に苛まれ始め、ヘラの帰りを待ちわびるようになる。
パリを舞台にしたアメリカ人の恋愛小説、といえばぐりにとっては『日はまた昇る』(ヘミングウェイ)や『バビロンに帰る(旧題「雨の朝、パリに死す」「バビロン再訪」)』(フィッツジェラルド)なんだけど、これも居場所を見失ったアメリカ人の自己愛による悲劇をベースにした物語という点では似たようなジャンルの作品かもしれない。
デイヴィッドは思春期のころにジョーイという幼馴染みの美少年と肉体関係をもった経験があったが、自分自身の同性愛的性向を肯定も否定もすることができない。それどころか、自分自身以外の誰も愛せない人間であるという事実さえも直視しようとはしないし、自分が一体何者でどこへ行こうとしているのかもまるでわかっていない。
読んでいて強く共感をおぼえさせられるのは、こうした誰にでもある恐ろしいほど巨大な「迷い」に身を委ねつつも目を背けつづける彼の姿が、読み手自身の「迷い」という鏡の中の反映そのものにみえるほど、生々しくも率直に描かれている点ではないだろうか。

てゆーかぶっちゃけデイヴィッド、ダメすぎ。
ダメ加減もここにきわまれり。ありえないくらいダメ。ダメの極致。このヒトっていわゆる「魔性子」ってヤツ(笑)?もしかして?相手をその気にさせるだけさせといてなかなかヤレそーでヤレない、ヤッても絶対に本気にはなってくれない厄介なヤツ。ただダメなだけじゃないから手がつけられない。みるだけ・遊ぶだけなら楽しめるけど実際つきあうとイタイんだよな~こーゆーの。あたしも経験あるさ(爆)。
こういうダメ人間が主人公で許されるのは昨今じゃもう文学の世界だけでしょう。ビバ文学(笑)。
でもホントに彼がダメであればあっただけ、我々が日々生きている現実の世界の厳しさ、人生の不安定さ、生き方の難しさを改めて痛感しちゃいます。彼が抱えてるような欺瞞は、大なり小なり、誰もが抱えてる種類のものだから。

デイヴィッドがダメになったのは、多分に彼がアメリカ人で金髪の若い白人、つまりパリでもどこでも男にも女にもモテるという、もって生まれた魅力のせいもあったかもしれない。
気が向けば誰とでも寝られる。自分から何をしなくても、そこにいるだけで誰彼となくちやほやしてくれて、みんながお金やお酒や食事をタダで差し出し、家にもベッドにもカンタンにいれてくれる。みんなが彼に好かれようと躍起になり、彼を心から熱愛し、孤独から救済しようと精一杯の手をさしのべてくれる。
しかし彼本人はそれをごく当り前のことぐらいにしか考えず、自分の態度ひとつでどれほど周囲の人間が激しく傷つき、打ちのめされるかなど思いもよらないし、誰の愛にも報いることがいっさいできない。彼は誰に対しても─たとえ相手が血をわけた親であっても─決して誠実になれないのだ。それは根源的には、どうしようもなく男性の肉体に惹きつけられる本当の自分を抑え、隠匿することで自己を保ってきたために破綻した彼の人格による矛盾なのだろう。哀れだが同情はできない。
やがて人々は彼から去っていく。彼がジョヴァンニを棄てたように、ヘラもまた彼の元を去る。だがおそらくまたいつかの夕刻になれば、誰かしらが彼の隣に座ってやさしくほほえみかけるのだろう。
いつの日か、デイヴィッドも誰かを心から愛するような人間に変わるだろうか。それとも、一生そうした悲しい恋を繰り返し続けるのだろうか。老いさばらえて誰にも顧みられなくなり、自分でさえ自分自身を愛することができなくなるまで。

ギリシャ神話の女神の名を冠された恋人ヘラの人物描写が非常に緻密で素晴らしかったです。ええ女や。
50年代が舞台だが物語にはまったく古さを感じさせないし、これは舞台を現代に置き換えても完全にあてはまるんではないかと思う。ただ惜しむらくは訳出が60年代なので表現に古くさい、妙に気取ったところが目立つ。機会があればもう少し自然な訳文で再読したい作品ではあります。

逃げるが勝ち

2006年04月09日 | movie
『変態村』
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B000H4W91M&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

老人ホームやイベント会場で歌をうたって全国を巡業している青年マルク(ローラン・リュカ)。クリスマスも近い雨の夜、田舎道でクルマが故障してしまい近所のペンションに一泊することに。翌日クルマの修理中に散歩に出たマルクは村の人々の異様な行動を目撃し慌てて宿へ戻るが、今度は宿主のバルテル(ジャッキー・ベロワイエ)になぜか逐電した妻・グロリアと混同されて監禁されてしまう。
こういう映画みると「やっぱトシくったわ・・・」という気がひしひしとしますね(爆)。
いやおもしろいよ。べつに難しいということもない。すごくわかりやすいし、ストレートだ。けど楽しいか?と訊かれると「・・・・・・」となってしまう。おもしろいんだけどねえ。でもシュミじゃないです。残念なことに。20代のころならもっと楽しめた・・・かもしれない。

この映画には冒頭の老人ホームのシーン以外にはいっさい女性が登場しない。
舞台背景が老人ホームと**村しか出て来ないし、村には女性が存在しないからだ。というかこの映画にはふつうの世界にあるべきものがいろいろナイ。その象徴が母や妻や娘といった女性の存在で、彼女たちの欠落によってこの村の異常性がわかりやすく表現されることになる。
だがよくよく考えてみれば、なにもかも揃った完璧な世界なんてありえない。どこの村も、どこの街も、どこの国にも、欠けているものは必ずある。欠けているものによって、そのコミュニティはアイデンティファイされる。

さて。女のいない**村では一体なにが起きるのか?もうこれが筆舌に尽くしがたいとはまさにこのこと、としかいいようがないくらいおぞましい。
このおぞましさは女がいないから起きることなのか、それともおぞましいからこそ女が消えたのか、どっちなのかまではよくわからない。だが親子らしき者もいるのでかつては母や妻といった役割の人間がいたはずで、いつの時点からかいなくなったのだろうということだけは推測される。どうして彼女たちは姿を消したのだろう。あまりにそこが人里離れて寂しい場所だったからだろうか。確かに村のまわりは沼が点在する深い森が取り囲んでいて、非常に寂しいところである。一見すると自然が豊かで風光明媚にみえるのだが、そこに住むものにとっては「綺麗で気持ちのいいところ」では済まされない現実もあるのだろう。

この映画はただのホラーかもしれないけど(途中から観客はマルクの無事脱出以外の何も考えられなくなる)、ぐりには、人が狂い、コミュニティが狂うのにはさまざまなきっかけがあり、そうした狂気はどこにでも潜んでいるのではないか?という暗喩が非常に強く印象に残った。
ぐりのアタマはまだまともかな?東京は狂ってないですか。日本はおかしくないですか。

1990、砂漠にて

2006年04月06日 | book
『ジャーヘッド アメリカ海兵隊員の告白』アンソニー・スオフォード著 中谷和男訳
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=475720972X&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

映画『ジャーヘッド』の原作。
これはえーと・・・ノンフィクション小説なのかな?エッセイ?まあジャンルはどうでもいいですね。非常におもしろかったです。
映画で主役を演じたジェイク・ギレンホールが、連続して撮影した『ブロークバック・マウンテン』と今作の役を比較して「(『ブ山』の)ジャック・ツイストとアンソニー・スオフォードはとてもよく似ている」とインタビューで語っていて、正直それを聞いたときは「え?そう?なんで?」と疑問に思ったものです。そりゃ同じ人が演じてんだから少しは似てるとこもなくはないけど、でも「よく似てる」ってほどのことはないんじゃん?とゆー。
けどこの原作読むとすごいわかりますね。それ。かなりカブってます。ジャックとスオッフ。
それも奇妙なことに、『ブ山』のジャックは原作小説の人物造形と結構違ってて、映画のジャックは半ばオリジナルのキャラクターになっているのだが、その“映画版ジャック”と“原作版スオッフ”に重なりあう部分がかなりある。繊細で知的で情熱的で大胆かつドライで、ある部分では相当合理的なものの考え方もする。いつもちょっと高いところから昂然と状況を見下ろしているようで、意外ときっちり地に足が着いてたり、かと思えば年齢相応にお調子者なとこもあり。
そんなスオッフくん(ハタチ)の目からみた湾岸戦争を描いたのが『ジャーヘッド』である。

湾岸戦争が起きたのは1990年8月。てことは彼は1970年生まれかな?大体?つーことはぐりとは完全に同世代か。
ぐりは実をいうとこの湾岸戦争のことをほとんど覚えてません。なぜか?受験だったから。8月とゆーと夏期講習中ですね。予備校の近所のビジネスホテルに住んで、毎日TVも新聞もみず朝は7時から夜8時までひたすら絵を描いて、あとは英語の勉強をするか酒を飲むかデートするか、それしかやってなかったです。よその国どころか日本のどっか別な場所でどーゆーことが起ころーがいっさい知ったこっちゃなかった。そうやってぐりが来る日も来る日も何十枚という木炭紙を真っ黒に塗りつぶし、キャンバスを張っては描いて剥がし、組み立て直してまた張って、を繰り返してた間に、戦争は始まって、終わってました。
その一方で、大学に行こうかどうしようか悩んだトニー青年は、スオフォード一家の男たるべき義務感から海兵隊に入り、イラクに送られ、砂の上を這いずり回ってた訳だ。
ぐりがえんえん戦争当時の自分のことを書いたのは、この本がどうしてもそのことを思いださせるからだ。ぐりも同時期に家族から離れて受験という戦争を戦ってたから、なんてアホなことをいいたいのではない。そうじゃなくて、ここに描かれた戦争が、徹頭徹尾、個人的な人間の感覚を綿々と綴ることで表現されてるからだ。この本/映画をしてよく「等身大」なんて陳腐な比喩が用いられるけど、もうもうそんなもんじゃない。この本のページの上には、トニーが流した汗、もらしたおしっこ、頭の皮までじゃりじゃりにする砂、ヤッた女のおっぱいの湿り気、飲んだ酒と吐いたゲロ、霧雨のように降り注いでいた重油の粒、イラク兵の死体の焼け焦げetc.etc.、読み手の末梢神経に直接触れてくる分子たちがそのまま、細密なモザイク画のようにぎっしりと植え込まれているのだ。
そこから浮かんでくる戦争の情景は、あまりにもあざやかで、生々しくて、かぐわしく、そして痛い。まるで1990年のぐりの思い出、そのものであるかのように。
スオフォードは一時沖縄に派遣されてた時期があって、そのころ交際した日本人の女の子は彼を「アンソニー王子」と呼んだそうだ。彼女の好きなマンガのキャラクターと同じ名前だからと。『キャンディキャンディ』のことですね。この一文を読んで「そうか、スオッフとぐりは同世代なんだっけ」と強く思った。ぐりも『キャンディキャンディ』毎週みてたから。そういえばあのアニメには第一次世界大戦が出てきたな。

本作はニューヨークタイムズの書評で「戦争文学の最高峰」とまで絶賛されたらしいけど、それ確かに全然誇張じゃないです。すごーくよく描けてる。いい本です。
文体にはごく簡潔な断定調で独特のリズム感があって、暗喩が多用されてて、雰囲気としてはとても詩的だ。文学的。と同時にクールでもあり情緒的でもあり、かつまたわかりやすいし、読みやすい。中高生なんかとってもオススメです。
あと訳もいいですね。ぐりは原文と比較したりはしてませんが、読んでてひっかかるような安直な語彙も解釈に迷うような表現もまったくなくて、とてもナチュラルな訳文という印象はもちました。

映画との比較としては、つくづくあの脚本はよく出来てたんだなと改めて思い。
この本はイラクのクウェート侵攻から始まって、トニーの生立ちや訓練生活など過去の経験も織りまぜて時制を前後しながら語られるんだけど、描写がストイックなぶん盛りこまれてる要素の量がハンパではない。映画はその膨大なエピソードの中からいくつかを効率良くピックアップして時系列に並べかえ、間に映画として必要な説明を新たに加え「ひとりの男の子が海兵隊に入って訓練を受けて湾岸に行って帰ってくる物語」としてシンプルに再構成している。たとえば口でトランペットのマネをするシーンや泥水の中を這う訓練、クリスマスの馬鹿騒ぎなどは映画のオリジナル(海兵隊の伝説に基づいてるそうだ)だし、他にも似たようなエピソードの登場順序を替えたり物語上の意味を変換したりしている箇所も多い。
それでいて、原作の呼吸、空気、肝心の軸の部分の一方─戦争がどれだけ人間の人格を荒廃させ、消耗させるか─が非常にうまく再現されているのには改めて感心。ただパンチ力としてはやっぱ原作の方が強いけどね。