落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

迷子なの?

2015年06月28日 | movie
『真夜中のゆりかご』

真夜中、生まれて間もないアレクサンダーが息をしていないことに気づいたアナ(マリア・ボネヴィー)。刑事の夫アンドレアス(ニコライ・コスター=ワルドー)は「救急に通報したら、息子を引き離したら自殺する」と激昂する妻に鎮静剤を与え、過去に自ら逮捕した薬物中毒者トリスタン(ニコライ・リー・コス)のアパートに密かに侵入、アレクサンダーの遺体を代わりに、トリスタンの息子ソーフスを我が子として育てようと連れ帰るのだが・・・。
『悲しみが乾くまで』『ある愛の風景』『アフター・ウェディング』のスサンネ・ビア監督作品。

スサンネ・ビアの作品ていっつも設定はかなりムチャクチャなんだよね。なんというか非現実的というか、ちょっと飛躍してる。そんなことあるワケないでしょーが、ってところから話が始まる。でも展開がものすごく生々しい。どの作品にも共通してるんだけど、ほとんどの登場人物が感情で行動してるからだと思う。理屈で動いてない。理屈では絶対そんなことできない、けどどうしても我慢できない、そういう衝動で行動することで物語が転がっていく。
彼らの衝動はどこまでも根源的で、誰もがつい共感してしまうような、ごくストレートな感興として描かれる。いいとか悪いとか、損得の問題じゃない。ちゃんとした理由もない。なのに、なぜかそうするのが正しいような気がしてしまう、そんな登場人物たちの成りゆきまかせの彷徨に、知らず知らずのうちにつりこまれていってしまう。

アンドレアスはなにもアナのためだけにソーフスを誘拐するのではない。それ以前に、トリスタンのアパートを捜索したときに出会った我が子と同じくらいの乳児の境遇に必要以上に同情し、児童虐待で保護できないか画策してもいる。
人は子育て中、子どもとの接触によって特殊な脳内物質を分泌することで父性もしくは母性という感情を得るという。アンドレアスは自らの過剰な父性に気づかず、喪ったアレクサンダーをソーフスで埋めることだけが正解だと思いこむ。その嘘を覆い隠すことで頭がいっぱいで、ソーフスの母親サネ(リッケ・メイ・アンデルセン)や、自分の妻の心の裡を垣間みようともできずにいる。
客観的にみればおかしな話かもしれない。だがぐりの身内にも乳児がいる。自分の身に同じことがもし起こったら、アンドレアスと同じことを、アナと同じことをしないとは100%いいきれない気がする。それほど赤ん坊の影響力は絶大だからだ。自分ひとりではなにひとつ出来はしないのに、周囲の人間すべてを支配する不思議な力。その圧倒的な力はときに理不尽で、人の理性を奪うこともあるし、人を人でなくさせてしまうことさえある、おそろしいものだ。

またこの映画のもうひとつのテーマは、自分の立場や社会的な表層からみえる現実の儚さなんじゃないかと思う。
アンドレアスは優秀な刑事だし、美人の妻がいて、きれいな海岸の家に住んで、元気な男の子が生まれたばかり。非の打ち所もなく幸せいっぱいのはずだった。それがある日突然消えてしまう。アンドレアスはもちろんそんなこと受け入れられない。アナも受け入れられない。しかしそういう「目に見える幸せ」がどんな犠牲のうえに立っていたのか、少なくともアナは知っていたはずである。
ソーフスの環境にしても、アンドレアスは薬物中毒の両親にろくに世話もされていないと勝手に判断するが、そもそも彼はサネのことをなにひとつ知らない。とはいえ、自分が何を知っているかはわかっても、何を知らないかを知ることは意外に難しいことなのかもしれない。

赤ちゃんを中心にした物語なので、劇中ずっと赤ちゃんの泣き声や言葉にならない喃語が聞こえてるのがとても楽しかった。赤ちゃんを抱いている出演者はとにかくいつも嬉しそうで幸せそうで、観ているだけで、乳児のやわらかくてあたたかい身体の感触や、ミルクっぽい匂いを思いだしました。
最近ちょっとご無沙汰。赤ちゃん、会いたいな。

ふつうの家

2015年06月12日 | book

『絶歌』 元少年A著

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神戸連続児童殺傷事件が発生したのは1997年。
思えばあれから18年もの歳月が過ぎた。14歳だった少年Aもじき33歳になる。もう“少年”ではない。
その間、被害者遺族はどんなに苦しんだだろう。そしてこの手記が刊行されたことでまた、さらなる苦しみを味わっておられるだろう。
でもぐり自身は、この本そのものを批判する気にはなれない。少年法改正や犯罪被害者保護法に大きく寄与した、日本の犯罪史上でも重大な少年犯罪の当事者が、自らの犯した罪を綴った彼自身の言葉を、同時代に読んで真意を感じとる機会というのはそれほどない。その意味で、少年犯罪とは何なのか、歪んだ欲望によって他人を殺めた罪を背負ったその人の心の中を知り、人の生死の危うさや心の脆さを知るのに、これほど適した書物もないと思うからだ。

事件の舞台となった地域はぐりの地元にも近く、被害者遺族のひとりは間接的な知人でもあり、事件後に刊行された関係資料はほとんど読んでいるので、一応の基礎知識はある。
少年Aは1982年生まれ。著名人でいえばイギリスのウィリアム王子や水泳選手のイアン・ソープ、俳優の小栗旬と同い年に当たる。両親と父方の祖母、ふたりの弟との6人家族。どちらかというと口数が少なく感情の起伏に乏しい、学校では目立たない子だったという。成績は芳しくなかったが、記憶力がよく手先が器用で絵や工作が得意、何かに集中するとまわりが見えなくなることがあった。事件後に「直感像素質者」だったことがわかっている。
家族仲はよく周囲にはごくふつうの家庭のように受け止められていたが、Aは理由もなく友人や弟たちに暴力をふるうことがあり、いったん攻撃的になると加減ができなかった。そのために学校の教師たちは早くから彼を警戒していた。
小学5年生のとき、Aを溺愛していた祖母が亡くなったのをきっかけに死に強い関心を抱き、やがて死そのものに接することで性的な高揚を感じるようになり、密かに小動物や猫を殺して解体する行為に耽り始める。早晩その衝動は動物を殺すだけでは満たされなくなり、中学2年の春休みから見知らぬ小学生の女の子4人を相次いで襲いひとりを死なせ、その年の5月には末の弟の同級生を殺して遺体を損壊した。
3件めの事件から1ヶ月後に逮捕。家裁での審判で医療少年院への送致が決まり、7年間矯正教育を受け、2004年に仮退院。

これまでに読んだ資料でも、今回のこの手記でも、少年A本人やその家庭背景にとりたてて変わったところはほとんどみられない。少なくとも本人たち自身はそう感じているように思える。
凶悪な少年犯罪者といえば虐待や家庭崩壊や育児放棄などといった生育環境に要因を見いだしがちだが、どのケースでも決まってそうとは限らない。逆に、どんなにひどい環境に育ったとしても全員が犯罪者になるわけでもない。確かにAの家庭には他とは少し違うところはあったかもしれない。しかしどの家にもよそとは違うところがあって当り前だとも思う。もし彼の家庭に問題があるとするなら、家族の誰もが、長い間、Aの暴力性に気づくことなく、事が起きても真剣に向きあっては来なかったことではないだろうか。Aが級友に怪我をさせても、弟を袋叩きにしても、両親はとくに深刻にとらえることなく、彼が本気で反省するまで追求しようとはしていない。Aが動物を虐待していることを近隣住民は知っていたのに、両親は事件後までいっさい知らなかったと語っている。だがその程度のことなら、どこの家庭でも起こり得る範囲内の出来事のような気がする。3件目の事件当時、Aは不登校で児童相談所のカウンセリングを受けていたが、そうした行政支援すら彼の凶行を止める役には立たなかった。実際に彼を取り調べた捜査官は「もっと早くつかまえてやれなくて悪かった」とA本人に謝罪している。
この事件のほんとうに大切な部分は、そこにあるような気がしてならない。誰ひとり思いもかけないようなふつうの子どもが、突然殺人鬼になってしまうことがある。不幸な偶然の連鎖の結果ではあるが、その境界はほんの紙一重でしかない。

この本では、審判で明らかになった彼の発達障害、性的サディズム=性障害についてかなりストレートに書かれている。
その部分は読んでいて不憫だった。発達途上にある性衝動があらぬ方向に向かっていってしまうのはよくある事故だ。それがアニメやゲームのキャラクターならまだわかりやすい。ところが彼にとってそれは死という概念と感覚に向かっていってしまった。思春期の少年の性衝動はコントロールが難しい。健全に同じ生身の人間を対象としていてさえ苦しむのに、死と直結したそれがどれほどの重荷だっただろう。殺してしまった末弟の同級生・土師淳くんに対する感情については、ぐりも今回初めて知った。
少年院で読書家になった彼の文章は読みやすく丁寧に整理されていて、記憶力のいい彼らしく克明な情景描写が全編にわたってふんだんに盛られている。パートによっては盛り過ぎてバランスを欠いてもいるが、むしろそこから書き手自身の心のバランスもよく伝わってくる。
その反面で、他人の心情を汲むことがまったくできなかったAが、少年院での教育を経て人間性を取り戻し、被害者や遺族だけでなく自分の家族や彼の周囲の支援者たちの気持ちを知るようになり、毎日自ら己の罪に向かいあえるようになっていく成長過程も読みとることができる。
医療少年院では、彼の性的サディズムという発達障害を矯正するべく、彼を赤ん坊から育て直すプログラムが組まれたという。その意味でAは事件当時のAとは既に別の人間になっているともいえる。しかしその結果A本人は日々罪の意識に責め苛まれ、周囲の人とふつうの人間関係を築くことができなくなっていることも書かれている。事件のことを誰にも話せないことで、どんなに親切にしてくれた人にも常に嘘をつき、騙し通さなくてはならないことに苦しむA。一人きりの殻にひたすら閉じこもり、あれほどの罪を犯した自分に、その罪から逃れることなど生涯許されないというA。少年院の記録では、教育の過程で指導官を好きになったことがあったと書かれていたように記憶しているが、彼が果たしてもう一度誰かに恋をしたり、家族を含めて他者に心を開いたりすることはできるようになるのだろうか。
そんな孤独を抱えて、人は果たして生きていけるものなのだろうか。

個人的には、この本は単独で読むべきではないと思う。事前に彼の供述調書(文芸春秋に全文掲載されたことがある)や両親の手記、被害者遺族の手記など、多角的に事件を知ったうえで読むべきかなとも思いました。
被害者遺族も含め、彼が手記を出したことやこの手記そのものに対する批判もある。ぐり個人は、そもそも贖罪に正解などあるはずがないのに、どこをどうもって批判すべきなのかもよくわからないのだけれど。

関連レビュー:
『淳(土師守著)』『「少年A」この子を生んで・・・・・・父と母 悔恨の手記』
『少年A 矯正2500日全記録』 草薙厚子著
『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』 今枝仁著
『福田君を殺して何になる 光市母子殺害事件の陥穽』 増田美智子著
『僕はパパを殺すことに決めた 奈良エリート少年自宅放火事件の真相』 草薙厚子著
『BOY A』(神戸連続児童殺傷事件の被疑者少年を想定して製作された)


I have nothing to move to, and nowhere to go.

2015年06月03日 | movie
『追憶と、踊りながら』

ひとり息子カイ(アンドリュー・レオン)を事故で喪い、孤独に介護施設に暮すジュン(チェン・ペイペイ)。英語を話せない彼女の身を案じたカイの友人リチャード(ベン・ウィショー)は、通訳のヴァン(ナオミ・クリスティ)を連れて施設を訪問、ジュンとボーイフレンドのアラン(ピーター・ボウルズ)の仲をとりもとうとする。

冒頭、施設にジュンを見舞うカイとの親子の親密な会話から、物語は始まる。
バスの話やCDの話など、話題はごく他愛もない、なんでもない短い会話だ。なのに、たったそれだけでこの親子の抱えた問題が如実に伝わってくる。
言葉の壁とセクシュアリティの壁、そして世代間ギャップの壁。
イギリスに住んでいながら英語を覚えようとしない母親。ふたりきりの家族なのに、親にいえない秘密を抱えている息子。息子の同居人がどうしても気に入らなくて、ことごとに皮肉ばかりいってしまう。
愛しあい、求めあっているのに、どうしても越えられない壁がそこにある。

映画は、カイが亡くなったあとの“現在”と、彼の生前とを行ったり来たりしながら進行していく。
どちらのパートにもあたたかい愛情が満ちあふれている。ジュンはカイを溺愛しただけでなく、依存してもいた。リチャードにとっても、カイは大切な自慢の恋人でもあった。
その大きな喪失感を埋めたくて、むしろ埋められるはずと信じて、リチャードはジュンに会いにいく。嫌われていることを知りながら、カイとの関係を隠しながら、いつか彼女が心開いてくれるものと願うのは、おそらくリチャードがまだ若いからだと思う。
口ではジュンが孤独だから、助けたいからというリチャードだが、実際にジュンを必要としているのは明らかにリチャードの方だ。愛しあっていた親子を引き離したのは自分ではないのか、愛する人を喪った苦しみを誰かと分かちあいたい、そんなセンチメンタリズムに本人はなかなか気づかない。

だが、ジュンはもう若くはない。
新しいことを覚えたり、環境を変えたり自分自身を変えたりして何かを求めて生きていくことよりも、いま手の中にあるもので満たされるように自分をコントロールしていくことの方が楽だと考えてしまう。
そんな生き方は寂しい、幸せじゃないなどと思う人もいるかもしれない。でも、年をとれば人は誰でも分相応を知る。それはそれで成熟ととらえてもいいのではないだろうか。
英語を決して話そうとしない中国人のジュンだが、そもそも彼女は中国生まれですらない。カンボジア系で北京語以外に5言語を操る。多くの華僑がそのようにして中華人としてのアイデンティティだけを信じて世界中で暮して来たのだろう。良い悪いの問題ではない。

李香蘭の「夜来香」など、中華電影好きには馴染み深い中華歌謡が物語のキーとして使用されているのが嬉しかった。もう一曲は趙衛平の「月兒彎彎照九州」だったかな?
カイ役のアンドリュー・レオンがなんかめちゃめちゃいいかんじでしたが、実は座席が最前列の一番端(そこしか空いてなかった。最後の一席だった)だったのでちょっと自信がないです(笑)。てか若干首痛い。明日大丈夫かなあ。