落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

in dubio pro reo

2009年04月29日 | book
『それでもボクはやってない―日本の刑事裁判、まだまだ疑問あり!』 周防正行著
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一昨年公開され各映画賞を総ナメした『それでもボクはやってない』の監督・周防正行氏による、シナリオ・解説・対談を収録した本。
周防監督はこの作品をつくるにあたって4年間もリサーチを重ね、シナリオを書くにも相当な呻吟をしたそうで、自身が感じた日本の裁判制度への疑問と怒りをすべて映画に盛り込むわけにいかなかったことは、インタビューなどでも折りに触れて語っている。
映画の公開時も映画監督としてこのテーマには継続的に関わっていきたいと述べていて、この本ではとりあえず、『それでもボクはやってない』という1本の“裁判映画”で表現した範囲内で、映画の中だけに収めきれなかったディテールについて書かれている。

ぐりは映画は2年前の公開時に一度観たきりだけど、非常によく練られた無駄のない劇場映画であり、かつきちんとした社会派ドラマとしても完成していて、監督の手腕と情熱には心から敬服したものだけれど、今こうしてシナリオを読んでも、ほんとうにこれはすごいなと改めて畏れ入ってしまう。
無駄というものがいっさいない。それでいて説明不足なところもない。いうべきことはきちっというし、それでいてくどくない。ものすごくわかりやすいのに、押しつけがましさはまったくない。よくこんなシナリオが書けるなと思うと同時に、映画はやっぱりシナリオだなと思う。
この映画の撮影期間は約2ヶ月間、通常の映画の撮影よりもスケジュール的には結構余裕があったという。というのも、主要シーンは裁判所や警察署など登場人物の動きに制約のある設定が多く、技術的にはどちらかといえば「簡単」な作品だからである(いうまでもないが、俳優の動きが大きければ大きいほど技術的には難易度が上がり、撮影そのものにも時間も手間もかかる)。
周防監督はもともとそれほどフレキシブルなカメラワークや凝ったカットバックを駆使してショーアップされた映像をつくるタイプではないし、だからうっかりすると映像的には退屈になりがちなのだが、この作品は観ていて退屈する、集中力が削がれる、ということがまるでない。始まるや否やぐいぐいと引き込まれ、はっと気づけば判決のシーンになっていて、ああそういえば映画を観ていたんだっけ、と我に返るくらい。
やはりこれはひとえに、この完璧なシナリオのなせるわざだと思う。

解説は完成稿のまま撮影をしたにも関わらず、編集段階で削ったシーンに関する解説。
監督はストーリーの背景となる裁判制度のそのまた背景、検察や裁判所の舞台裏など、各パートを公平な目で観客にみてもらうためのシーンを用意していたのだが、実際に撮ってつないでみると観客の意識はどうしても主人公の被告(加瀬亮)に集中する流れになっている。そこでその流れを阻害する、その流れに必要がないと判断されたシーンはボツにすることになったという。
ここでも監督の「日本の裁判制度に対する疑問と怒り」というテーマへの情熱が溢れている。監督は法律家じゃないから裁判制度に関しては素人だけど、だからこそ「これはおかしいんじゃない?」「ヘンでしょ!」と思った素直な気持ちを、一般の観客、すなわち国民としっかりと共有したいと強く感じたのだろうと思う。
それをただそのまま表現するんじゃなくて、一旦消化して、ある程度オブラートに包んで(当り前のことだが、実際の裁判は映画よりもずっと厳しい)多面的に表現することで、観客自身の感受性に訴えようとしている。オトナやわあ。

対談は元裁判官・木谷明氏に監督が映画の中の裁判について疑問を投げかけ、木谷氏が答えるというもの。
ここでも監督、熱いです。熱い。熱すぎる。でもおもしろい。
監督はシナリオを書くにあたって木谷氏の著書『刑事裁判の心―事実認定適正化の方策』を参考にし、木谷氏に強く影響を受けた裁判官として大森光明裁判長(正名僕蔵)を設定している。映画の冒頭にも登場する「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」という法格言は、この木谷氏の現役時代のモットーでもあったという。モットーもなにも、「疑わしきは被告人の利益に」は刑事裁判の原理原則なんだけどね。
でも今の日本では「疑わしい人はとりあえずとっつかまえて、どっかにしまっちゃっといてください」ってことになっている。結局みんなよそ事なんだよね。もしあんたがその「疑わしき被告人」の立場だったら、「とりあえずとっつかまえて、どっかにしまっちゃって」でほんとに済みますかね?って話です。自分自身じゃなくてもいい、家族や友人や身近な人がそういう立場に立たされたら?
映画『それでもボクはやってない』はまさにそういった視点から描かれている。来月から開始される裁判員制度、この機会にまたもう一度観ておいてもいいかなー、と思いましたです。

関連レビュー:
『お父さんはやってない』 矢田部孝司+あつ子著
『僕はやってない!―仙台筋弛緩剤点滴混入事件守大助勾留日記』 守大助/阿部泰雄著
『冤罪弁護士』 今村核著
『東電OL殺人事件』 佐野眞一著(※木谷明氏が現役時代最後に関わった事件)

足のない鳥

2009年04月28日 | book
『ぼくは日本兵だった』 J・B・ハリス著
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大正5年、イギリス人ジャーナリストと日本人女性の間に神戸で生まれ、自身もジャーナリストとして活躍中に徴兵され日本軍兵士として中国線戦で戦い、戦後は英語のラジオ講座講師を長年務めたジェームズ・バーナード・ハリス氏の回顧録。
ぐりは学生時代、英語に限らず勉強全般が大の苦手だったので、このハリス氏のことは名前どころか存在もまったく知らなくて、この本も今回偶然手に取ったんだけど。どーなんでしょーね?80年代までに大学を受験された世代の方なら、みなさんご存知なんでしょーか?ご子息はラジオ・パーソナリティのロバート・ハリス。

J・B・ハリス氏は日本に生まれ育ったが、イギリス人の父親は家の中では完全にイギリス式の生活をしていたらしい。その父の転勤でハリス氏は初等教育をアメリカで受けることになり、帰国後もカトリック系のミッションスクールに通った。だからこの時代の“日本人”としては珍しく、軍国教育をまったく受けていない。
そう、ハリス氏は“日本人”だった。見た目は完全なヨーロッパ系で通称名もJ・B・ハリスという英語の名前だったが、早くに父親を喪い、母子ふたりきりで日本で暮すにあたって帰化したのだ。平柳秀夫という日本語の名前もつけた。
ところが日本語教育を受けていないハリス氏は日本語の読み書きができない。日常会話に不自由はないが、漢字は理解できないし、当時の日本人なら誰もが教わるような軍国主義下での一般常識もよくわかっていないところが多い。でもクィーンズ・イングリッシュなら完璧にあやつれるし、帰国子女だから国際感覚にも長けている。
たぶん、彼のような人は少数派ではあるけれど、世界中どこへ行ってもどんな世代の誰にでも共感できるという、特殊な感覚をもっているのではないかと思う。それはどこにも属することのない不確かなアイデンティティに振り回されたマイノリティ特有の共鳴力とでも呼ぶべきものなのだろうか。
そんな出自をハンディキャップだととらえる人もいるかもしれない。でもハンディキャップは本人次第では武器にもなる。

だからなのか、ハリス氏の戦争体験には何かどことなしに楽天的な空気に満ちている。
この時代にヨーロッパ人に嫁いだ母親もそうとうに苦労したはずだし、ハーフとして生まれたハリス氏本人もさぞかしイヤな目にも遭ったはずである。だが本文には不思議とそういう不運なめぐりあわせに付き物の暗さがまったくない。それどころか、貧しさや苛酷さの中から幸運だったこと、心楽しかったことをピックアップして、塗り重ねるように書き連ねてある。
たとえばハリス氏は日米開戦直後にスパイ容疑で逮捕され、敵国人収容所に拘束されてしまう。ようやく釈放されると同時に徴兵。つまり、戦時中はほとんど日本の自宅で生活する時間はなかったことになる。この間、もちろん母子は離ればなれだったわけだが、ふたりは必ず生きて再会できるものと当り前のように信じあっていた。これはやはりハリス家が軍国主義にほとんど染まっていなかったからこその楽天主義なのではないだろうか。
軍隊ではお約束のように理不尽に暴力的な上官がいて厳しいしごきを受け、彼らに対する感情も素直に述懐しているが、それよりもハリス氏自身が強く共感した日本兵についての記述の方が印象的である。数にしてみればそれこそものすごい少数派だったはずだけれど。

そんなコスモポリタンの目から見た日中戦争記といえばかなりのレアものといえる本だが、暗さと同じく古さもいっさいなく、誰にでも非常に読みやすいやさしい本になっている。20年以上前の刊行だけど、おそらく今の10代の子が読んでも問題なくはいりこめるんじゃないかなあ。
軍事的な専門的描写もないし、その手の本がお好きな向きにはちょっと物足りないかもしれないけど、逆に戦争ものの本が苦手という人にはオススメの本だと思います。

幸せってなんだっけ

2009年04月27日 | diary
こないだ町山智浩氏のコラム集『キャプテン・アメリカはなぜ死んだか 超大国の悪夢と夢』を読んだんですがー。

内容は大体がブログ「ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記」かmixiに書かれるか、ラジオ番組やポッドキャストで語ったネタと重複しているので、とくに新鮮な項目はそんなになかった。ってか読んで改めて「あたしってけっこう町山さんファンなんだなあ」って気づいたくらいで。自分ではそんなつもりなかったけど、そういえば番組もブログも定期的にチェックしてるもんね。雑誌は買わないし、単行本も全部図書館で借りてるけど(爆)。そんなのファンじゃないか。すいません。

そんななかで目についたのが「レン・フェア」の話。
「レン・フェア」とはルネッサンス・フェア、要は中世ヨーロッパのコスプレをしてバロック音楽を演奏したり、ダンスや演劇を上演したり、馬上競技をして見せたりして全米を巡業する、いわば旅芸人一座(って表現も古過ぎるな)のようなもの。
「レン・フェア」のクルーにはべつに本業を持って趣味でフェアに参加している人もいるが、完全に中世ヨーロッパ人になりきってフェアの中だけで暮らしている人もいるらしい。日本的にたとえていうと、お侍さんの格好をして衣食住から言葉遣いまで完全に江戸時代の通りに再現して暮してるってことか?
そんなの無理だろう、と思いきや、アメリカではなんとなくどうにかなってしまうらしい。未だにヒッピーがいる国だからね(レン・フェアが生まれたのは1960年代、ヒッピー全盛の時代だそうだ)。
まあたぶん、そーゆー人ってちょーディープな中世ヨーロッパフリークなんでしょー。つまりオタクってことだよね。好きな世界にどっぷり浸って暮せるって幸せなんだろーな。

話は全然変わりますが。
先日、うちの大家さん(隣に住んでる)に「連休はどうするのー?」と訊かれて、素直に「××といっしょに○○に出かけます」と答えたところ、「あら、お幸せね」と羨ましそうにいわれた。
そのときは「ええ、まあ」と流したのだが、はて?と後になって気になりだした。気になりだすと止まらない。
休日にどこかにいっしょに出かける相手がいる、とゆーのはそれだけで「幸せ」なことなのだろうか?「幸せ」なんてそんなささやかなものなんだよ、とかなんとかいうのはいかにももっともらしいまとめ方だけど、そんなもの結局は無内容な一般論でしかない。
実際のぐりにも、そのいっしょに出かける予定の相手にも現実的な問題は山積み状態で、とりあえずは休みくらいは気晴らししないと、と半ば逃避で予定を立てた。ぶっちゃけ、われわれの「幸せ」には泣きたくなるほどの長さの但書きがしっかりとくっついている。だとしても、われわれはかなり大雑把にかつ強引にいえばだいたい「幸せ」なんだろう。そう思わないとほんとに泣きたくなるから。

じゃあ今まで「幸せ」なんてものはまったく経験なかったか、といわれればそんなことはない。何の留保もなく「わたしは幸せです」といえたときも何度もあった。
そのうちのいちばんの頂点は、間違いなく学生時代、ノー天気に恋愛なんかしていたころだろう。
一年の浪人生活を経て東京の大学に入学したばかりのころ、「これからは本格的に思いっきり恋愛をしてやろう」と決心して、サークルで知りあったある男の子にロックオンした。無口でおとなしそうな可愛い子だった。専門課程は違うけど、小さな大学だからアプローチするのにいくらでも口実はつくれる。何とかどうにかしてうまく仲良くなるところまでこぎつけた。
仲良くなった後のすったもんだについては、お読みいただいても楽しいお話ではないので今回は割愛する(爆)。でも十年以上を経た今思い出しても、寝ても覚めてもその子のことを考えていた日々の楽しさは、まず二度と味わえないだろうなというくらい強烈だった。その男の子自体は客観的にみればとくに大した男でもなかったんだけど(本当)、自分で「恋愛してやるぞ!」とわざとテンションをひっぱりあげて浮かれていたときの楽しさったらなかった。だって受験が終わって親元から離れて東京で一人暮らし、恋愛するでしょ!するしかないでしょ!今でしょ!みたいなノリだったんだよね。われながら天晴れな計算高さです。お陰様で楽しゅうございました。

でもその「幸せ」を今、もう一度味わわせてくれると誰かが薦めてくれたとしても、たぶんぐりの答えは「ノー」だと思う。
あれはあのときだったから楽しかったんであって、今、同じことをやったとしても絶対に楽しくないことがわかっているから。恋愛の楽しさだってあれはあれなりに疲れるし、体力も消耗する。もう無理です。
余談だが、例の男の子はいつも水色のミレのバックパックを担いでいて、ぐりはそのリュックを目印に毎日彼の姿を探していたのだが、この癖は別れたあともなかなか抜けなくて難儀した。実をいうと、未だに水色のリュックを背負った男の子を見かけると、反射的にびくっとしてしまう。いわゆるパブロフ状態である。今となってはあの子ももう「男の子」じゃないし、もう一度会いたいなんて夢にも思わないのに(つかむしろ絶対会いたくない)。
困ったもんです。

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Our lives are defined by opportunities, even the ones we miss.

2009年04月26日 | book
『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』 F・スコット・フィッツジェラルド著 永山篤一訳
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デヴィッド・フィンチャー監督、ブラッド・ピット主演で映画化された『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の原作を含む短編集。表題作を含めファンタジーやミステリーなど娯楽色の強い未訳作ばかり計7作品を所収。

ぐりがフィッツジェラルドを読み始めたのは高校生くらいのころだったかな?最初に読んだのはたぶん『グレート・ギャツビー』で、その後も続けて『ラスト・タイクーン』や『夜はやさし』、『雨の朝パリに死す』『マイ・ロスト・シティー』など、手近に邦訳で読めるものはひととおり読んだ。
フィッツジェラルドは派手な放蕩のためにいつも莫大な借金を抱えて生活に追われ、大衆雑誌が払う原稿料目当てにほいほいと短編を書き散らしてもいて、そういう短編の中には文学的評価のあまり高くない作品もままあるという。それらの多くは日本ではこれまで熱心に紹介される機会がなかったらしい。
今回の短編集に紹介された7本はその手のいわゆる“B級”フィッツジェラルド作品ばかりである。大しておいしくはないけど珍味、みたいな。

だから読んでてなんとゆーか、ちょっとせつない「残念」感は常につきまとう。
作品全体には魅力的なフィッツジェラルド特有の華麗な空気は感じられるんだけど、どれももうひとつまとまりに欠けるというか、イマイチ印象的じゃない。フィッツジェラルドの熱狂的なファンならこれでも読んで楽しいんだろうけど、そうでもなければ「・・・だから?」「・・・それで?」的な困惑が後に残ってしまうだけである。
ただそれだけに強烈な個性はくっきりと輝いていて、表題の『〜バトン』は映画とはまったく別のストーリーながら(「老人として生まれて年齢とともに若返る」という設定以外は完全に別もの)、現代社会が人に求めるイメージの虚しさを暗喩し続けるという語り口のトーンなどは、さすが巨匠フィッツジェラルドと唸らされる巧みさで表現されている。
逆に『最後の美女』『ダンス・パーティの惨劇』『異邦人』の3本は、他の短編にもよく登場するモチーフを扱っているだけに不完全さが目立つようで歯痒い。

もうひとつ残念だったのは、翻訳がイマイチだったこと。
なんちゅーか思想がない?ビジョンがない?ただ英文を日本語に移替えてるだけ?みたいな訳なんだよね。リズムとか世界観とかカラーとか質感とか、そーゆー感覚的なものがほとんど再現されてない気がする。文章そのものもえっらいぎくしゃくしてて、日本語として既におかしい。『ダンス・パーティの惨劇』なんかムチャクチャ。なんだこれは。
こーゆー翻訳読むと原著で元の文章を確かめたくなる。もしかして翻訳のせいでおもろないんか?とか疑っちゃったりもして(なんぼかはそーなのであろー)。
つかそのまえにあたしの英語力の問題が。おおうっ・・・。

お酒はこわいよ

2009年04月25日 | diary
草なぎ心境包み隠さず…会見完全掲載

これはもうホントに気の毒とゆーしかないよねえ・・・警察もやり過ぎだと思うんだけど。だって酔っ払って脱いで騒ぐなんて、男の人なら結構経験あるって人いるんじゃないの?しかも夜中の公園だし、時間にすればそれほど長時間でもなかったみたいだし。近所の人は迷惑しただろうけど、ものを壊したとか暴力をふるったとかして誰かを直接傷つけたってこともないし。たったこれだけで逮捕・家宅捜索なんてどー考えても芸能人・著名人だからってゆー、一種の見せしめとしか思えない。そんでまたどっかの大臣はわけのわからんこと吠えてるしー(撤回したけどさ)。マスコミも騒ぎ過ぎ・・・ってブログに書くのもおんなじことか。けど公共のメディアはもっと騒ぐべきことが他にもあるはずでないかい?

でもさ、草彅くんに同情的な意見も多いのは、やっぱり彼の人徳とゆーか、ふだんのお行儀がいいからだよね。きっと。
酒癖は前からよくなかったらしいけど、それでも今まで20年以上もスキャンダルのひとつもなく常に品行方正、芸能人らしい派手さに欠けるくらい真面目に地道に努力して来たことをみんなが知ってるから、こうして優しく擁護してもらえる。
どんな人にも失敗はあるし、草彅くんくらいきちんとした人でも前後不覚になるほど酔うのは怖いことだけど、それでもふだんがきちんとしてるから同情してもらえる。
そういう意味での影響を、ぐりは期待したいです。彼がしてしまったことは決して褒められたことではないけど、絶対に許されないようなことでもない。CMやTVやラジオの放送には少なからぬ影響はあるだろうけど、これまでのこともあるしこれからのこともあるし、大したことじゃないよ、ちょっとくらい大目にみてあげようよという、寛大な判断がされるといいなと思います。
その方がきっと、たったこれだけのことで犯罪者扱いした警察の行いよりも、世間的にはいい結果になるんじゃないかな?と思います。

しかしお酒はほんとに怖いよね。
ぐりもお酒好きだし、若かりしころはそれなりに飲みましたけど、今はそれほど飲みませんです。量にするとビールは生なら2杯(おなかがいっぱいになるから)、カクテルなら4〜5杯まで、ワインならボトル1本まで。日本酒・焼酎・ウイスキーの類いは悪酔いしやすいので基本的に飲まないです。
だって酔っ払っちゃうとお酒やお料理の味がわかんなくなって、お金がもったいないんだもん(爆)。せっかく飲み食いするならおいしくないとね。ゆっくりのんびり飲めるお酒が好き。
ただ草彅くんのことはまったく他人事じゃなくて、20代半ばくらいのころにはぐりも記憶を失うくらい酔っ払ったことがあります。会社の先輩にムチャクチャからんだことを綺麗サッパリ忘れてたり(滝汗)、気づいたらなぜか自宅に戻ってたんだけど、いつどーやって帰って来たのか覚えてなかったり。記憶はなくさなくても、自力で立ち上がれないくらいフラフラになって、誰かに担いでタクシーに乗っけてもらったなんて醜態をさらしたこともございますです。ええ。
ご迷惑をおかけした皆様、まことに申し訳ありませんでした。どれももう10年以上前のことなんで勘弁してください。もうしません(当り前)。

ぐりが酔っ払ってやらかした最大の失敗は、全治1ヶ月の大怪我をしたこと。
あれは20歳の夏休み。夜中の11時に近所の居酒屋に別れた元彼(とその悪友)に呼び出されて、「遅い」と叱られていきなり日本酒3杯を一気飲みさせられ、閉店後にボーリングに連れて行かれた。その途中でやはり酔った元彼に小突かれてよろめいて、足首を軽くひねった・・・と思ったら捻挫していて。
明け方ボーリング場が閉まるころには左足がパンパンに、それこそボール状に腫れ上がって、痛いの痛くないのってムチャクチャ痛い。病院で診てもらったら、内出血で足の裏の靭帯が断裂していて即ギプス装着、要1ヶ月の安静。酔うと毛細血管が開くから、たかが捻挫でもこれだけの大事になってしまう。怖いことです。
ってかあたしのオトコの趣味が悪いってことか?この話は?まあそうなんだけどさ。

ぐりの周りには、この元彼もふくめてあまり酒癖のよろしくない人が今までけっこういましたが(「からんで→噛みついて→泣く」とゆーフルコース男もいたし、男5人がかりで押さえ込まなきゃいけないくらい暴れる酒乱もいた)、極論をいえば脱いでわめくなんてのは全然害がなくておとなしい方なんではないでしょーか?
真面目そうな人だけに、本人が誰よりもいちばん傷ついて、ショックも大きそうだけど。記者会見なんて痛々しくて見てらんなかったさー。べつにぐりは草彅くんファンでもなんでもないけど、才能のあるいい俳優さんだと思うし、早く元気になって復帰してほしーなーと思います。
余談ですが、SMAPの事件といえば2001年の稲垣吾郎の道路交通法違反・公務執行妨害事件。
ぐりはたまたま当時放送中(リニューアル再放送だったかも)だった主演ドラマに関わっていて、事件の影響で番組が打切りになったことがあった。けどまあだからってどーとも思いませんでしたけどね。そんなに影響受けるような立場じゃなかったってこともあるけど、不測の事態で仕事がお蔵になるとか制作中止になるとか、そーゆーことはとくに珍しいことでもないので、何とも思わないです。そんなことでいちいちわいわいいってたら神経何本あっても足りゃしませんて。


祖母の家のガレージ。
人は住んでないけど、まだそこまで荒れてなくてほっとした。

永らく更新休んでましたが、ぼちぼち、ゆるーく、再開してみたいと思います。
またよろしくお願いしまーす。