落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

泥の中

2012年05月23日 | 復興支援レポート
5月18日(金)~20日(日)震災ボランティアレポートIndex

実は震災ボランティアで泥出しをしたのは今回が初めての経験だったんですが。

行く前から、やることは泥出しと瓦礫撤去とゆーのはわかってて、やりたくて参加した。
参加する前に、「被曝を気にする人は参加しないで」「作業中にご遺体が見つかることもある」という注意は受けていた。現場の南相馬市では今も7人の方が行方不明のままだ。津波で遠く流されるご遺体もあり(300km流されたケース)、まだ被災地全体で3000人以上がみつかっていないのだから、捜索が充分に行われていない警戒区域で見つかる可能性だって高い。
それはわかっていたけど、実際にその場にいくまであまり実感はわかなかった。作業を始める前にリーダーが「ご遺骨やご遺体が見つかったら、作業を止めて警察を呼ぶ」「どんな状態であれ帰りを待っている人がいる」などの注意事項を口にしたとき、やっと、「ああここでたくさんの人が亡くなったんだ」と改めて思い出した。
短い作業中には実際にそういう場面に出会うことは結局なかったけど、そういう場所なんだと思いながら注意深く泥を掘った。

この震災で亡くなった人は、津波に流されて溺死した人がもっとも多いといわれている。
この他に、地震で倒壊した建物の中で圧死した人、火災に巻き込まれて焼死した人もいる。そして凍死者もいた。
3月上旬、雪が降るほど寒かったあの日、なかなか救助の手が届かないなかで寒さに耐えられずに命を落とした人たちがいた。
今年の3月11日の夜、宮城県の宿の主が窓を開けてちらつく雪を眺めながら、津波から避難できたのに、何日も屋外で助けを待たされているうちに死んでしまった人が少なからずいることを話してくれた。
宮城県にいたのだから、原発事故で震災直後の救助・捜索が満足に行われなかった福島県にはもっとたくさんの犠牲者がいたに違いない。
警察も消防も自衛隊も頑張ってたけど、助けられないままむざむざ死なせてしまった人がいる。亡くなった人も、その家族も、助けられなかった人たちも、どれほど無念だっただろうか。悲しかっただろうか。

東京にいると、震災や原発事故が起こったあの日の悲劇から、日常はどんどん遠ざかっていく。
でも、被害に遭った人たちにとっては月日はそう簡単には流れていかない。
前を向いて歩き出している人たちもいる一方で、そうはいかない人たちもたくさんいる。大切な人を失った人ならなおさらである。
なかなか前を向けない人のすぐ傍で、新しい人生を踏み出している人がいるという状況もまたつらい。焦りもあるだろう。孤独感もあるだろう。
死んでしまった人の手前、簡単に次にいけないという気持ちもある。それでは死んでしまった人に申し訳ないと思っている人もいる。
残された人は生きていくしかないけど、どう生きるべきかという正解はない。あったとしてもぐりにはわからない。
けど、できるなら、そういう人の心の傍にいつもいたいと思っている。


福島県名物の桃のジュース。桃100%。

2012年5月2日(水)~6日(日)震災ボランティアレポート
2012年4月14日(土)~15日(日)震災ボランティアレポート
2012年3月16日(金)~21日(水)震災ボランティアレポートIndex
2012年3月10日(土)~13日(火)震災ボランティアレポート
2012年2月9日(木)~2月15日(水)震災ボランティアレポートIndex
2012年1月18日(水)震災ボランティアレポート
2011年11月1日(火)~6日(日)震災ボランティアレポートIndex
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2011年10月6日(木)~10日(日)震災ボランティアレポート
2011年8月26日(金)~9月4日(日)震災ボランティアレポートIndex
2011年8月11日(木)~15日(月)震災ボランティアレポートIndex
2011年4月29日(金)~5月7日(土)震災ボランティアレポートIndex
Googleマップ 震災ボランティアレポートマップ(ver.3.5)

ろうととバケツ

2012年05月22日 | book
『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録』 NHK「東海村臨界事故」取材班編

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1999年9月30日、茨城県の核燃料加工施設JCOで起きた臨界事故で大量の放射線を浴びた従業員の治療記録を放送した番組の書籍版。
こないだ読んだ『原発のウソ』に出てきたので早速読んでみました。

この事故で亡くなられた従業員はおふたり。この本では事故当時35歳だった大内久さんの治療の経緯を主に紹介している。
大内さんは身体の前面に16~20Svという大量の放射線を浴びた。急性被曝の致死量は4Svといわれているので、大内さんは初めから回復は見込めないだけの被曝量だった。にもかかわらず、治療の陣頭指揮を執った前川和彦東大医学部教授は「治せるかもしれない」という希望を持って全力で臨んだという。
なぜなら、事故当初大内さんはふつうに話せるほど元気で、皮膚の状態も見た目にはちょっとした日焼け程度にしかみえなかったからだ。
しかし、骨髄細胞をとって顕微鏡で染色体を調べたところ、大内さんの染色体はすべてがバラバラに破壊されつくしてしまっていた。
人は染色体に記録された遺伝子によって日々新しい細胞をつくり循環させながら生きている。その遺伝子が働かないということは、もう二度と新しい細胞はつくられないということになる。身体中を構成している細胞がただ死んでいくだけで、新しいものと入れ替わることはない。
理屈の上では大内さんの生存は絶望的だった。なのに医師団は諦めなかった。最新の再生医療を駆使すれば、大内さんの回復にも望みがあるとかたく信じていたのだ。

看護師たちも大内さんの特異な状態に驚いていた。
たとえば点滴の針を大内さんの肌にテープで貼りつけてはがす。すると皮膚もいっしょにはがれてしまう。健康な人であればそこに新しい皮膚ができて、傷は塞がる。だが大内さんの皮膚ははがれたままだった。やがて被曝した身体の前面の皮膚は自然にぜんぶだめになってはがれ落ちてしまった。
被曝から3週間を過ぎたころには人工呼吸器がつけられ、鎮痛剤が大量に投与され、大内さんは意識が戻らなくなった。表皮だけでなく腸の粘膜もなくなり、身体の内外を問わず絶えず体液が流れ出し、出血するという状態になってしまった。
鎮痛剤を投与されていたとはいえ、こんな風に全身の細胞がただ死んでいくのを待つだけという死に方がどれだけの苦痛を伴うものなのか、ぐりにはまったく想像がつかない。
逆に、こんな状態になっても大内さんの生存を諦めようとしなかった医師団の気持ちもわからない。
確かに大内さんはまだ若かった。死にたくない、生きたいと願っているなら全力でそれに応えるのが医療だといわれてしまえばそれまでだ。
けど、ぐりにはここまでして大内さんの苦痛を引き延ばした彼らの意図に、最新の医療の力への驕りがあったように思えてならない。
逆にいえば、それだけ医療の力を信じたい、希望に賭けたいという強い思いがあったともいえるのかもしれない。
だがそれでほんとうに正しいのだろうか。

大内さんは亡くなったあと司法解剖された。
あらゆる臓器が激しい損傷を受けているなかで、心臓だけは健康だったという。
35歳の死だった。
まだ話せたころ、妻に「愛しているよ」と告げているのを、看護師が聞いている。小さな息子さんもいた。
どれほど無念だったかはもう誰にもわからない。
それでも、彼の死から学ぶべきことは数多い。
日本は原発ばっかり建てて原発事業にばっかりお金をかけてきたけど、事故が起こったときにどう対応するかという安全策がぜんぜんできてないことは、福島第一原発の事故で世界中の知るところとなった。
被曝者を治療する医療面も遅れている。現場の救急隊員や医師や看護師でさえ、二次被曝の危険性がわからないで躊躇するくらいなのだ。あまりにも情報が不足し過ぎている。
これでは原発というおいしい事業のために、国が国民の安全を無視して騙しているとしかいえない。
そんなもの、許せますか。
ぐりは許せません。

仮設の告白

2012年05月21日 | 復興支援レポート
5月18日(金)~20日(日)震災ボランティアレポートIndex

今まで宮城県で仮設住宅での支援活動には何度か参加してきましたけれども。

ひとくちに仮設住宅といってもそれぞれに事情はさまざまに異なる。団地全体が同じ地域出身でまとまっているところもあれば、さまざまな地域の方が混ざっている団地もある。
全体でとても仲のよい団地もあれば、複雑な事情を抱えた団地もあるし、各方面からたっぷりと支援を受け取っているところがあればそうでないところもある。
唯一共通していえることは、もともと広いお宅にお住まいだった方が多いので、せいぜい2DKではあまりにも狭すぎるというところだろうか。

今回は初めて福島県の仮設住宅にお邪魔したが、ここの仮設住宅は他のどことも大きく異なっていた。
まず建物がキレイ。何種類かタイプはわかれるものの、木造のログハウス風だったり、メタリックグレイの高級感のある壁材が使われていたり、ダークグレイのシックな色使いだったり、一見してちょっと小奇麗である。いわゆるプレハブっぽい、俗にわれわれがいう「バッテン仮設」は見かけなかった。
敷地も団地ごとにかなりたっぷりスペースに余裕を持って建てられているし、棟数も大規模な団地が多い。
1本の通り沿いに集中して仮設が建てられている地域もあり、半ば「仮設住宅村」のようになっているエリアもあった。

入居者の事情もまたぜんぜん違う。
地震や津波で家や仕事を失った人ももちろんいるが、中には地震でも津波でもなんともないのに自宅に住めなくなった人もいる。放射能である。
ボランティアは、瓦礫撤去や泥出し、家財運びや田畑の復旧作業などを主にお手伝いしているが、この手の被災者の方々にはお手伝いしてあげられることは、当面ない。残念ながら、手も足も出ない。
そういう事情を聞いたときには、「今じゃなくてもいいから、お引越しや模様替えで人手が必要だなと思ったときに声をかけて欲しい」と伝えていたが、そもそもそんな境遇の人に「お手伝いしたい」と能天気に声をかけていいものなのかどうかすらよくわからなかった。
どこにどの地域からどういう事情で避難された方が入居しているか知らないまま調査にいくこと自体が間違っていたのだろう。

津波や地震の被害に遭い、何もかも失ったうえに放射能のせいでそこに住めなくなったという人もいたし、大切な人を失いまだご遺体もみつかっていないという人もいた。避難区域で被災され、捜索も満足に行われていないからだ。
震災から、原発事故から1年がたったが、ここでは年月は止まったままになっている。
そういう人たちがいつ家に帰れるのか、前を向いてこれからに踏み出していくにはどっちを向いてどうすればいいのか、指針は何もない。
誰もそんなものは提示してくれない。
国際基準ではこういう人たちを「国内難民」とよぶが、そもそも難民政策で国際基準から大きく遅れている日本政府には、この人たちを助けるためのノウハウはない。
でも、じゃあ、誰に何ができるというのだろう。
ぐりにはよくわからない。だけど、わからないからといって黙って手をこまねいているというのも何か違う気がする。


南相馬市産のたまねぎ。道の駅で購入。みっつ入って¥130也。

2012年5月2日(水)~6日(日)震災ボランティアレポート
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被災地の風

2012年05月21日 | 復興支援レポート
週末に福島県南相馬市にいってきた。
金曜日の夜に出て土曜日の朝に到着、土曜終日/日曜午前に活動に参加して、日曜の夜に帰京しました。
活動内容は仮設住宅でのニーズ調査と、被災地域での泥出し。土方です。

現場は4月に警戒区域が解除され、一般の出入りが可能になった地域東洋経済Online)。それまでボランティアや地域住民の復旧活動がまったく行われていなかったので、津波直後の状況のまま完全に時が止まっている。
警察の捜索が終わった建物や車輛には赤いペンキで印がつけられ、自衛隊によって道路だけは通行可能なように整理され大きな瓦礫はなんとなく集めてかためてあるようだが、路面の破損はそのまま、折れ曲がり倒れたガードレールや電柱や道路標識も、壊れた車輛もそこらじゅうにほったらかされている。地震で倒壊し津波に押し流され壁を割られた家々は泥にまみれたまま、5月の風にカーテンがひらひらと踊るようにはためいている。田畑では青草が鬱蒼と生い茂り、カエルや鳥たちが元気に鳴き声を響かせている。

警戒区域は解除になったが、ここでは電気・ガス・水道などのインフラはいっさい復旧しておらず、除染もされていない。
ボランティアや地元住民が徐々に復旧作業を始めたものの、泥や瓦礫の集積場もなくその後の処分のめども立っていないので、結局集めて積み上げておく以外にどうしようもない。積んだ瓦礫の上に不法投棄のゴミを持ってくる不届き者がいたり、家財を盗む泥棒も横行しているそうで地元の人はとても怒っていた。
しかし本当に怒るべきは、安心して暮らせる準備をまったくせずに無責任に警戒区域を解除しただけで、あとのプロセスを何ら提示していない行政である。
確かにこの辺りの線量は0.2~0.5μSv/hと、成人が一時的に滞在するだけならさほどの害はないレベルにはなっている(かもしれない)。だが、今だってここに来ることはできても泊まることはできない。広大な田畑が広がるこの地域の人たちが、いつ再びここで農作物を育てて暮らしていけるようになるかなんて、誰にもまったくわからない。
ほんとうにここに住めるかどうか暮らせるかどうか、そのために何からどう手をつけるべきかもわからないのに、何のために警戒区域を解除するのか、まったく意味がわからない。

ぎっしりとヘドロが詰まったまま1年を過ぎた溝を掘り返しながら、この作業に何の意味があるのか、ぜんぜんわからなかった。
わからなくても、せめてここの人たちに、みんなが被災地のことを忘れてないこと、少しでも元気を出してほしい、勇気を出してほしいと願う気持ちが伝わればいいと思っていた。
それしかできなかった。
活動中は素晴らしい天候で、空は真っ青に晴れ渡り、爽やかな風が気持ちよく吹き渡っていた。
その風には乾いたヘドロから舞い上がる細かなホコリが濃く混じり、目や鼻や耳の粘膜を刺激する。宮城県では去年の活動中に吹いていた、あの風だった。
去年からずっと津波の傷跡がそのままに残された場所でその風に吹かれながら、胸が痛くて仕方がなかった。
その気持ちを語る言葉をいくら考えても浮かんでこない。
ただ情けなく悲しかったというのではない。腹はたつがそれだけでもない。
これまで宮城県に通って何度も感じた気持ちとは、また別の感情だった。

ニーズ調査については別に書きます。

仮設の告白
泥の中


東北でのボランティアにずっと使ってきた安全長靴。数回凍結してしまったせいもあり、ゴムが劣化してついに穴が数ヶ所あいてしまった。
いよいよ2代目導入です。1年間お疲れさんでした。
今回携帯を忘れていったので画像の記録はナイです。ごめんなさいまし。

2012年5月2日(水)~6日(日) 震災ボランティアレポート
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Googleマップ 震災ボランティアレポートマップ(ver.3.5)

海温め装置伝説の終末

2012年05月11日 | book
『原発のウソ』 小出裕章著

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原発研究者でありながら40年も前から原発の危険性を訴え続けてきた京大助教・小出裕章氏が昨年の福島原発の事故で何が起こったのか、そしてその背景にある危険きわまりない原発産業の実情を暴露した著書。
今頃読んじゃいました。図書館で予約したらなかなか順番まわってこなくてさあ。買えばよかったんだよね。
ぐりは中学でチェルノブイリ原発事故を経験して以来ずっと反原発派ですけど、原発についてはなんにも詳しくない。だから知らないこともいっぱいわかってすごくためになりましたが、これ逆に原発推進派の人は読んでどう思うんだろう。

タイトルにある“原発のウソ”をざっくり列挙しますと
*政府は福島原発事故を国際原子力事象評価尺度の「レベル5」としたが、実際には「レベル7」に相当している。
*原発事故が起きれば被害が甚大過ぎて電力会社は補償ができないので、国が国民の税金で補償する法律がある。

*原発は低コストでもなければエコでもない。核分裂時は確かに二酸化炭素は排出されないが、それ以外のプロセスでは常に大量の二酸化炭素を排出する。
*原子炉を冷却するために大量の海水を使用し、7℃暖まった水をそのまま海に流している。日本の年間降水量は6500億トンで、川から海に流れる水は4000億トン。日本の原発が海に捨てている7℃高い水は1000億トン。そりゃ海水温も上がるわな。地球も温暖化しますわね。
小出さんの恩師・水戸巌東大原子核研究所助教授は「原発は発電所ではなく『海温め装置』」といった(スミマセン、ぐりこの表現好きです。おもしろい・・・)。

*まだ1000年単位で採掘が見込まれる石炭・天然ガスなどの化石燃料よりも、ウランの方が埋蔵量が少ない。再生不能エネルギーが枯渇するから原発に頼るしかないというのは完全なフィクション。
*核燃料サイクル計画は破綻している。実用化の見込みもないまま予定は70年も延長され、既に1兆円もの巨費がドブに捨てられている。
*まだ試運転中の再処理施設に運び込まれたまま放置されている使用済み核燃料は3000トン。ぜんぜん処理できてないのに既に2兆2億円がつぎこまれている。これは当初の計画の3倍の額。
*リスクもコストも高過ぎる原発から先進国が続々と撤退している。廃絶されていない国でも(たとえばアメリカ)縮小傾向にある。

ぐり的には、原発が事故を起こしてなくても環境を破壊し続けるものであることや、まだ実用化もされない段階でめちゃくちゃお金を使っちゃってるってところが数値でわかってよかったです。
これたぶんインタビューや講演の内容をまとめてあるんだと思うんだけど、言葉も易しくてすごく読みやすかったです。量も大したことないです。超文系のぐりでもラクに読めました。
これから小出さんの他の本も読んでみよっかな。