落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

宝石よりも美しく

2010年04月29日 | book
『プッシュ』 サファイア著 東江 一紀訳

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こないだ観た映画『プレシャス』の原作本。
ゲスト出演したレニー・クラヴィッツも好きだとゆーし読んでみましたが。うん、よかった。おもしろかった。
邦訳が出たのはもう12年も前だけど、どーなんやろ?売れたんかな?ぐりは今回初読だったんですけど・・・印象としては。うーんちょっと子ども向け?っぽい・・・大人向けの文芸作品って感じではないです。あ、でも子どもには読ませらんないか。言葉遣いが下品すぎ。

基本のストーリーは映画と全く同じで、随分忠実に映画化したんだなーと思ったけど、やっぱ文字と映像では違う部分もかなりある。
たとえばプレシャスと母親の体型。原作でもデブはデブだけど、映像のリアリティは原作にはない。読んでるとだんだん彼女がデブだってことを忘れてしまう。映像ではそうはいかない。常に「デブであること」が何においてもまず前提になる。すべてがそこを起点にして表現される。小説ではそうはいかない。
それから、原作では母親の方がデブで、しかも不潔ときている。具体的な体重値で比較はされないけど、バスタブに身体が入りきらないとか、長く立っていられない(ので家事ができない)、体臭がひどくておまけに服は破れているなどという描写は想像するだけでちょっとキツイ。映画の母親はむしろ娘より小綺麗なくらいで、アクション=虐待にも迫力があったので(原作ほど太っているとここまで機敏に暴力をふるえない)、この母子関係の違いが映画と原作の大きな違いのひとつになっている。
それからやっぱりディテールが小説の方が細かい。フリースクールのクラスメートたちのキャラ設定は映画ではサラッと流す程度の表現になってるけど、原作では巻末に彼女たちのエッセイの形で登場する。サブキャラである彼女らの苦難も小説の世界観の重要なファクターになっている。ヒロインと彼女たちの関わりも映画より密である。

逆に映画の方が細かかった部分もある。
まずはプレシャスの内面描写。映画では彼女が苦しいときにいつも妄想する華やかな映像が印象的だったけど、原作にはあのシーンはほとんどない。
レイン先生や福祉事務所職員の人物造形も映画の方が具体的だし、レニーが演じた看護士にいたっては原作には出てこない。名前はわからないけどプレシャスの隣人の少女も映画だけのオリジナルキャラクターらしい。
映画は映画で小説の質に頼らずに、映像として独立した表現にこだわって映画化されたのがよくわかる。アカデミー賞で脚色賞をとったのはなるほどなと思いましたです。

文体は一人称がメインで、プレシャスが文盲なために『アルジャーノンに花束を』を彷佛とさせる雰囲気がある。
80年代のニューヨークのどうしようもない荒廃ぶりが背景になってるけど、もしかしたらその後の現在にいたる治安改善との対比も、ヒロインの希望に重ねあわせて書かれてるのかもしれない。
この原作者はレズビアンなんですねー。映画観たときも、もしかしてそーかな?と思ったんですが、やっぱそーでした。登場する男がほんとに全員とんでもないろくでなしばっかりで、すんごい男性観ゆがんでるんだよね。それだけ彼女自身が男性で苦労したんだろうけど、この小説がアメリカで受け入れられてるのはそれもある意味「一般的」だからなのかなあ。


あるぺてん師の一生

2010年04月28日 | movie
『フィリップ、きみを愛してる!』

詐欺の罪で収監されたスティーヴン(ジム・キャリー)は刑務所内で運命の恋人フィリップ(ユアン・マクレガー)にめぐりあってひと目惚れ。彼と幸せになるために服役しつつ詐欺をはたらいて自由の身になり、フィリップも釈放させる。
恋人のためにも詐欺はこれきりと決心、経歴を詐称して保険会社の財務担当役員になったスティーヴンだが・・・。
驚きの実話をもとにしたラブコメディー。

もーーーーサ・イ・コー!
ムーチャークーチャーおもしろいっ!こんなに笑ったのいつぶりやろ?涙出るまで大・爆・笑!さしていただきましたよー。マジおもろかったあー。
しかしこれどこまで実話なんやろなー?ちょっと信じられないくらいおもしろいからさ。
てかやり過ぎやろスティーヴン。そこまでやるエネルギーと頭脳をなぜに他に使わんかなー?だって最終的には生命の危険まで冒して脱獄すんだよー。大学も出てないのに弁護士詐称できる頭脳も一生刑務所の中と思うと、あまりにもったいなすぎです。
だってどう考えてもそこまでやらんでええやろ?ってくらい、詐欺のスケールがハンパない。冷静に考えたら、フィリップといっしょになれた時点でそれ以上詐欺をやる必要なんかどこにもなかったのに。

スティーヴンはアタマの良さと根性は並外れてるけど、いってみれば何回もつかまっちゃう詐欺師のある種の典型でもある。
映画では彼が詐欺を働くのは全部フィリップのためってことになってるけど、現実にはたぶんそうじゃない。スティーヴンはフィリップと知りあう前から詐欺師だったしね。
おそらく彼は詐欺中毒なんじゃないのかな?嘘をついて、人を騙して、自分の創造したストーリーがリアルとして受け入れられる、その快感に取り憑かれてる。そして自分のもてる能力の全てを、常にそこに傾注していないと気が済まない。むしろ金や地位はそんなに大切だとは思ってない。真面目に保身を考えることができない。だから必要もないのにどんどん嘘をついてしまう。やらなくてもいい詐欺をはたらいてしまう。やがて早晩取返しがつかなくなる。一種の病気だと思えば気の毒です。不幸な人だ。
でもおかしい。おもしろい。笑える。恋人のフィリップにしたら笑い事じゃないと思うけど、笑っちゃう。
もしかしたら、それは人間なら誰もが嘘をつく生き物だからなのかもしれない。嘘をつき続ける生き方しかできないスティーヴンはバカかもしれないけど、ある意味ピュアでもある。無目的にピュアだから、笑えるのかもしれない。

ジム・キャリーがおもろいのは先刻承知だけど、ユアン・マクレガーも素晴し過ぎて笑った。
これがあのオビ・ワンと同一人物とは到底思えないほどのなりきりっぷりでマジ天晴れっす。フィリップは「金髪で青い目のゲイ=いわゆるトゥインキー」とゆー萌えキャラ設定なんだけど(アラフォーでそりゃないぜとゆーツッコミはさておき)、もう思いっきり!どっっっっぷり!はまりこんでます!おとなしくて控え目な、女の子でいうと愛され系?みたいな感じのぶりぶり演技なんだけど、これがもうホントーに、シャレなんないくらいかわいい。すんごいかわいい。
それが肩をすぼめて、おてて握りあわせて、おめめうるうるしながら「愛してる」なんてゆーたら、もーそらアンタたいがいの人間はコロッと「よっしゃコイツのために死ぬ気でやらねば」とか、そーゆー気持ちになってしまうのも致し方ない。かもしれない。くらい、めんこい。アラフォーですけど。
かわいいといえば、スティーヴンの前カレ・ジミーを演じたロドリゴ・サントロもすごいかわいいと思ったんだけど(ガエル・ガルシア・ベルナルをスマートにさせた感じ)、メジャー作品では『チェ』くらいしか出てないっぽいですね。カストロの弟役?イマイチ思いだせん。あの映画全員ひげもじゃのボサボサ無造作ヘアで見分けつかんかったしなー(爆)。

残念?とゆーか微妙に無念だったのは、公開前のどっかの記事で、この映画が決して「悲恋」ではないことを知ってしまっていたこと。すいませんネタバレ気味でー。
ぐりの周りの観客は知らなかったらしく、クライマックスでしくしく泣いてる人もけっこういて、帰りも「○○だかと思ったのに〜」なんてゆってたりしたので。知らなかった方がもっとさらに爆笑できたのかな??わかんないけど。
けどまあ充分笑かしていただきました。あーおもろかった。

私の愛する宝物

2010年04月25日 | movie
『プレシャス』

舞台は1986年、ニューヨーク・ハーレム。
16歳にしてほとんど読み書きのできないプレシャス(ガボレイ・シディベ)は、二度めの妊娠を理由にハイスクールを退学になり、フリースクールに通い始める。
家庭内でも虐待を受け続け、誰からも顧みられることなく育ったプレシャスだが、レイン(ポーラ・パットン)という熱心な国語教師との出会いが少しずつ彼女を変えていく。

これ製作総指揮がオプラ・ウィンフリーなんだよね。あのー、超有名なトーク番組やってて、社会的影響力がすごいあって、アメリカの女性芸能人ではいちばん金持ちとゆーか、つまりセレブなんだよね。確か。
それで原作者はもともとこの舞台になった地域でソーシャルワーカーをやってた女性作家だそーです。
だからとゆーかなんとゆーか、全体にフェミニズム映画っぽくはある。登場人物のほとんどが女性で、ちょろっとでてくる男はどいつもこいつもロクなもんじゃない。ましなのはゲスト出演者のレニー・クラヴィッツ演じる看護士くらいなものでー。
ぐり個人としてはフェミニズム臭が鼻につくとゆーことはとくになかったけど、男性の観客はどう感じるんやろな?ってとこは気になりました。すごい気になるね。うん。

プレシャスはバカ・デブ・ブスと三拍子揃ったゴミ少女とゆー、それだけでも充分過ぎるくらいひどい設定なんだけど、そのうえアフリカ系+母子家庭+本人もシングルマザー+生活保護受給世帯+長女は障害児という、底辺も底辺、無茶苦茶なドン底っぷりである。
これで家庭が円満ならまだ救いがある。ところがこの家庭という地獄が彼女に最後までトドメを刺しつづける。
どうして彼女ひとりがここまでてんこもりの不幸を背負わなくてはならないのか、不運に見舞われ続けなくてはならないのか。
演じるガボレイ・シディベは全体に表情が乏しく、喜怒哀楽も微妙に頬を緩ませるとか眉間に皺を寄せる程度の表現しかしない。だがそれも彼女自身の自己防衛なのだろう。感情を殺し、自分の内側に閉じこもることで、彼女は自らを守ってきたのだろう。
そんなプレシャスが徐々に心を開き、学校や子どもを糧に自立の道を選ぶ姿は間違いなく美しい。そこに悲壮感はない。彼女はただ、今、手にあるものをしっかりと握りしめている。それだけでOKなのだ。それ以上は、彼女にとっては贅沢なのだ。
けど、誰だってそんなのおんなじだ。泣き言なんかいったって始まらない。今、手にあるものをしっかり握りしめて、前を向いて歩く。生きている限りはそれが最低限のルールだし、まずそこから始めないとどこにも辿り着けない。

ガボレイ・シディベの体型がものすごくてですね。比喩とかジョークとか演出とかそーゆーロジック抜きで、もうホントに見事な百貫デブなんだよね。軽く力士並みです。顔だちもお世辞にも上品じゃない。デブはデブでもジェニファー・ハドソンみたいな愛嬌とか色気とか、いっさいない。容貌だけじゃなくて、演じるヒロインの人物設定にもそういうものはない。
だから表情があってもなくても、そこにいるだけで既に圧倒的な存在感なんですわ。説明とかぜんぜんいらないの。すごい失礼ないい方かもしんないけど、彼女が「あたしなんか誰にも愛されない、誰にも愛されてこなかった」と泣き叫ぶとき、その声にはすさまじいリアリティがある。16歳でふたりの子どもの母親で、頼るべきまともな家庭もなく、学もなく、そのうえにさらにひどい重荷を背負わされて(このダメ押しに1986年という時代設定が関わっている※)、泣き叫ばない方がむしろおかしいのだ。誰だって泣きたくなる。どうして私が?

映像や音楽が凝っていてかなりオシャレな映画でもあるし、豪華なゲスト出演者陣の活躍もなかなか楽しいし、娯楽映画としてもぐりは楽しめました。
ただやっぱし、男性がどう思うのかがチョー気になります。どなたかご感想お聞かせいただけませんか〜?
あと気になるといえば、プレシャスの子どもたちの出生の事情。これがアメリカ映画でなければ、ヒロインは出産という選択をしなくてもいい。堕胎が極度に忌み嫌われるアメリカの話だから、彼女の子どもたちはこの世に生を享けることができたわけだけど、現実にこの子たちの将来は相当に厳しいものであるはずだ。おそらく彼らは母親とはそう長く暮すことはできない。そして、いつかは自分たちがどういう事情で生まれたのかを知ることになる。
その点を無視してしまうと、この映画に描かれる絶望と希望の対比がかなり違うものに感じられるはずである。
それと、一見すると「教育と福祉が貧者を救う」という調子のいい美談のようで、レイン先生やマライア・キャリー演じる福祉事務所職員の家庭にもそれなりの問題があることをちらりとにおわせる演出がぐりは気に入りました。完璧な家なんかどこにもないんだよね。きっとさ。




※下記はネタバレなので、この映画を既に観た方・今後観る予定のない方のみ反転して読んで下さい。自己責任でお願いします。大したこた書いてませんけど。(関連記事
1980年代にニューヨークで猛威をふるったエイズには当時まったく治療法がなく、感染すればそれは即ち死を意味していた。
1997年に抗レトロウィルス療法が確立され、現在では発病以前に適切な治療を開始すれば35年は生きられる慢性疾患とされている。


恋の幽霊

2010年04月24日 | book
『切羽へ』 井上荒野著

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九州地方の小さな島で、小学校の養護教員をしている30代のセイ。亡父はこの島で療養所を開いており、セイも島で生まれ育った。夫も島出身の画家で、3歳上の元級友である。
春、島に新しい音楽教師が赴任してくる。石和というぶっきらぼうな青年の存在を、セイは初めて会った瞬間からはっきりと性的に意識する。

自然豊かな静かな島の生活が、季節の移り変わりとともに穏やかに描かれる。全文にみちみちた官能と死の匂いも、あるいはこうした自然描写のひとつなのだろう。
セイと夫は深く愛しあい、互いを自らの一部のように許しあい、受け入れあっている。とても幸せだ。
それでもセイは石和を意識せずにはいられない。彼とどうなりたいという明確な意志があるわけではない。それなのに、身体が、心が、どうしようもなく、石和の異物感を求めてしまう。
その感覚以外に何もないのに、彼女は夫に罪悪感を感じる。甘い疼きのように。
エロティックである。ちょーーーーーーエロである。
実際に文中には性描写はない。ほとんどない。微妙に性的な描写はなくもない。でも大体ないといって差し支えない。
それなのにエロなんである。あーエロい。

しかしエロなんてものはもともと、こうしてちょっと距離をおいて、あるいは間に障害物を挟んで鑑賞するからこそ、より強く官能的に感じられるものなのかもしれない。
といってもこの小説のエロティシズムはいわゆるチラリズムというのともちょっと違う気がする。いってしまえば、ものすごく全体的に露骨でもあるからだ。露骨にエロいのに、直接的にはセックスを描かない。田舎の話だし、ヒロインは保健の先生なんとゆう、平和を絵に描いたような人妻。エロな要素といえば、不倫中の同僚と、ひわいな話が好きな近所の老婆くらいなものである。つまり設定はぜんぜんエロくない。だから、なんだかすごく新鮮なエロティシズムのような気がしてしまう。
ヒロインは激しく石和を求めながらも、同時に夫を愛し、大切にもしている。そのふたつは彼女の中で矛盾していない。そこに女の不可解な怖さも感じる。
けどさ、ちょっとくらい怖いぐらいな方がかわいいよね。女ってさ。それも女の甲斐性なんじゃないかと思う。

ものすごくおもしろくて一気読みしてしまったし、セイというヒロインは好きになれないけど、彼女の境遇は素直にすごく羨ましかった。
だっていいじゃないですかー。芸術家の夫と、海が見える丘の上の古い実家でのふたり暮らし。地元でとれる旬の食材にいろどられた日々の食卓。小学校の子どもたち。そして、ときにはぴりりと刺激的な恋の予感。
この作家も初読だけど、ちょっとファンになったかも。他のも読んでみたいなー。

NOBODY KNOWS

2010年04月24日 | book
『出会い系のシングルマザーたち―欲望と貧困のはざまで』 鈴木大介著

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ぐりが前からひとりで主張してることですが。
国に本気で少子化をなんとかする気があるのなら、もっと真面目に「生みさえすれば誰でも自動的に育てられる社会システム」を整備するしかないと思う。
今の日本は、子どもを生み育てるにはあまりにもリスクが高過ぎる。まず出産費用が高い。今のところは無料化の方向で進んでるけど、地域によって産科医療に格差がある現状では、日本全国どこでも安心してタダで生めるという状況にはほど遠い(参考記事)。やるなら一時金ではなく、基本的な産科医療費を直接病院から国に請求する制度にするべきである。
たとえば先進国でも少子化対策に成功したフランスでは、産後は国からヘルパーが無料で派遣される。親はひとりでも安心して初めての子育て、赤ん坊の世話に馴染んでいける。フランスは家庭制度そのものを覆して、結婚してもしなくても同じ条件で子育てできるシステムをつくった。核家族化が進行し、離婚率も年々上昇し続ける日本にも同じ制度が欲しいものである。
教育制度もまた然り。給食費なんか親に請求する時点で間違ってる。食育もカリキュラムに入れてしまえば費用なんかとらなくたっていい。教材費や修学旅行や部活費だって同じである。子どもが国の財産なら、そのめんどうをみるのは国の責任だろう。親は家庭を子どもに供給し、国は金と制度を供給する。財源は親世代が働いて納めた税金なんだから、それくらいやって当然ではないのか。
親子だってべつの人間だから相性が悪いこともあるだろうし、そもそも子育てに向かない親もいるだろう。どうしたって家庭や学校に馴染めない子もいるだろう。そういう子にも、いつでも無条件で受け入れてもらえる居場所も用意するべきである。
今の日本社会は、夫婦が揃っていて頼れる実家があって定収入がある世帯以外には、到底子どもを生んで育てられる環境ではない。それだけの条件が揃っていてさえ、みんな苦労している。めちゃめちゃ苦労している。
それでいて、若年世代に向かって結婚して子どもを生みましょうなんて、ムシが良過ぎて口がかゆくなりませんかって話である。
子ども手当が聞いて呆れる。そんな端金渡しただけでいったい何が解決するというのか。ただのバラマキ政治以外の何ものでもないではないか。

アラフォーの主張はさておきまして。
シングルマザーである。シングルマザーを含めたひとり親世帯の半数が年収114万円を下回る、とゆーショーゲキの事実を以前に同じ鈴木大介氏の『家のない少女たち』のレビューにも書きましたがー。
これだけ離婚率が高まっているにも関わらず(2005年の統計では夫婦3組につき1組以上が離婚している)、ひとりで子どもを育てている世帯をケアする国の政策がまったく進んでない。
極論をいえば、国は結婚した人には絶対に子どもを生んで欲しいし、絶対に離婚して欲しくない、と国民を脅してるよーなもんなんである。
これで少子化がどーやらとかいわれてもねえええええ。まあとりあえずそんなワケでシングルマザーはキツイ。慰謝料も養育費もとれず(とれる方がラッキーである)、日中子どもを預かってくれる実家もなく(そもそも母親自身が実家を援助していたりする)、うつ病などの精神疾患を抱えて定職に就けないほど健康を害した女性に残された道はひとつしかなくなる。
売春である。

そこでアナタはちょっとまて、と思うかもしれない。
再婚は?生活保護は?母子寮とかあるでしょ?ぐりもそう思う。
確かに財源に恵まれ、匿名性の高い大都市ではそれもあるかもしれない。子持ちの女性が好きとか、子ども好きとか、そういう奇特な男性をつかまえる機会もなくはないかもしれない。だが現実には、シングルマザーと結婚できて定収入のある甲斐性持ちの男をどこででも捕まえられたら、いまどき誰も苦労なんかしてないだろう。生活保護や施設などの行政サービスも、あるいは大都市部でなら抵抗なく受けられるかもしれない。現にわざわざサービスを受けやすい地域に転居してから窓口を訪れる困窮者も増えているという。彼らは地元の窓口で行政職員に「○○に引っ越せば申請が通る」などと教えられてくるそうである。呆れてものもいえない。
だがそもそも子どもを抱えたシングルマザーはそこまで小回りはきかない。地域のつながりが深く、因襲や差別意識の根強い地方都市では、シングルマザーであるというただそれだけで多くの重荷を背負っている。そのうえで、行政の福祉に頼ることにさえ差別がある。
ぐりが、国が国民に出産と婚姻関係の維持を押しつけて脅迫している、という根拠はここにある。
ひとりで子どもを生んで育てる女性を助けるどころか差別する世の中で、誰が安心して国を信じて子を生み育てたいなどと思うものか。冗談も大概にして欲しい。

著者は、とにかくどうでも握った子どもの小さな手を離さないでほしい、と述べている。
本書に登場するシングルマザーにとって、子どもは真っ暗闇の人生を照らす唯一の明かりだという。
でも、とぐりは思う。
ぐりの知人に、母親に「あなたのために離婚しないで我慢してきた」とずっと言い聞かされて育った人がいた。彼女の母親は夫の死後まもなくその兄弟と再婚したが、この再婚相手がただただ妻と連れ子(実の姪にあたる)を虐待しまくるどうしようもない男だった。経済的自立の手段を持たなかった彼女の母親は、生活と世間体のために平和な家庭環境を犠牲にして厭わなかったのだ。
果たしてそれが知人にとって幸せな子ども時代だったとは誰にもいえないだろう。
どうしようもない夫婦ならどんどん壊せばいい。壊しても、堂々と誰憚ることなく子どもが育つ世の中がなぜつくれないのだろう。
男はなぜ若い女しか眼中になく、子連れの女を敬遠したがるのか。世の中はなぜひとりで子どもを育てている男は賛美し、女には同情したり憐れんだり蔑んだりするのだろう。
企業はなぜ子持ちの女性を採用しようとせず、国はそうした採用にもっと積極的に補助を出さないのか。

どうしてなのだろう。わからない。

関連レビュー:
『誰も知らない』