『プッシュ』 サファイア著 東江 一紀訳
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こないだ観た映画『プレシャス』の原作本。
ゲスト出演したレニー・クラヴィッツも好きだとゆーし読んでみましたが。うん、よかった。おもしろかった。
邦訳が出たのはもう12年も前だけど、どーなんやろ?売れたんかな?ぐりは今回初読だったんですけど・・・印象としては。うーんちょっと子ども向け?っぽい・・・大人向けの文芸作品って感じではないです。あ、でも子どもには読ませらんないか。言葉遣いが下品すぎ。
基本のストーリーは映画と全く同じで、随分忠実に映画化したんだなーと思ったけど、やっぱ文字と映像では違う部分もかなりある。
たとえばプレシャスと母親の体型。原作でもデブはデブだけど、映像のリアリティは原作にはない。読んでるとだんだん彼女がデブだってことを忘れてしまう。映像ではそうはいかない。常に「デブであること」が何においてもまず前提になる。すべてがそこを起点にして表現される。小説ではそうはいかない。
それから、原作では母親の方がデブで、しかも不潔ときている。具体的な体重値で比較はされないけど、バスタブに身体が入りきらないとか、長く立っていられない(ので家事ができない)、体臭がひどくておまけに服は破れているなどという描写は想像するだけでちょっとキツイ。映画の母親はむしろ娘より小綺麗なくらいで、アクション=虐待にも迫力があったので(原作ほど太っているとここまで機敏に暴力をふるえない)、この母子関係の違いが映画と原作の大きな違いのひとつになっている。
それからやっぱりディテールが小説の方が細かい。フリースクールのクラスメートたちのキャラ設定は映画ではサラッと流す程度の表現になってるけど、原作では巻末に彼女たちのエッセイの形で登場する。サブキャラである彼女らの苦難も小説の世界観の重要なファクターになっている。ヒロインと彼女たちの関わりも映画より密である。
逆に映画の方が細かかった部分もある。
まずはプレシャスの内面描写。映画では彼女が苦しいときにいつも妄想する華やかな映像が印象的だったけど、原作にはあのシーンはほとんどない。
レイン先生や福祉事務所職員の人物造形も映画の方が具体的だし、レニーが演じた看護士にいたっては原作には出てこない。名前はわからないけどプレシャスの隣人の少女も映画だけのオリジナルキャラクターらしい。
映画は映画で小説の質に頼らずに、映像として独立した表現にこだわって映画化されたのがよくわかる。アカデミー賞で脚色賞をとったのはなるほどなと思いましたです。
文体は一人称がメインで、プレシャスが文盲なために『アルジャーノンに花束を』を彷佛とさせる雰囲気がある。
80年代のニューヨークのどうしようもない荒廃ぶりが背景になってるけど、もしかしたらその後の現在にいたる治安改善との対比も、ヒロインの希望に重ねあわせて書かれてるのかもしれない。
この原作者はレズビアンなんですねー。映画観たときも、もしかしてそーかな?と思ったんですが、やっぱそーでした。登場する男がほんとに全員とんでもないろくでなしばっかりで、すんごい男性観ゆがんでるんだよね。それだけ彼女自身が男性で苦労したんだろうけど、この小説がアメリカで受け入れられてるのはそれもある意味「一般的」だからなのかなあ。
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こないだ観た映画『プレシャス』の原作本。
ゲスト出演したレニー・クラヴィッツも好きだとゆーし読んでみましたが。うん、よかった。おもしろかった。
邦訳が出たのはもう12年も前だけど、どーなんやろ?売れたんかな?ぐりは今回初読だったんですけど・・・印象としては。うーんちょっと子ども向け?っぽい・・・大人向けの文芸作品って感じではないです。あ、でも子どもには読ませらんないか。言葉遣いが下品すぎ。
基本のストーリーは映画と全く同じで、随分忠実に映画化したんだなーと思ったけど、やっぱ文字と映像では違う部分もかなりある。
たとえばプレシャスと母親の体型。原作でもデブはデブだけど、映像のリアリティは原作にはない。読んでるとだんだん彼女がデブだってことを忘れてしまう。映像ではそうはいかない。常に「デブであること」が何においてもまず前提になる。すべてがそこを起点にして表現される。小説ではそうはいかない。
それから、原作では母親の方がデブで、しかも不潔ときている。具体的な体重値で比較はされないけど、バスタブに身体が入りきらないとか、長く立っていられない(ので家事ができない)、体臭がひどくておまけに服は破れているなどという描写は想像するだけでちょっとキツイ。映画の母親はむしろ娘より小綺麗なくらいで、アクション=虐待にも迫力があったので(原作ほど太っているとここまで機敏に暴力をふるえない)、この母子関係の違いが映画と原作の大きな違いのひとつになっている。
それからやっぱりディテールが小説の方が細かい。フリースクールのクラスメートたちのキャラ設定は映画ではサラッと流す程度の表現になってるけど、原作では巻末に彼女たちのエッセイの形で登場する。サブキャラである彼女らの苦難も小説の世界観の重要なファクターになっている。ヒロインと彼女たちの関わりも映画より密である。
逆に映画の方が細かかった部分もある。
まずはプレシャスの内面描写。映画では彼女が苦しいときにいつも妄想する華やかな映像が印象的だったけど、原作にはあのシーンはほとんどない。
レイン先生や福祉事務所職員の人物造形も映画の方が具体的だし、レニーが演じた看護士にいたっては原作には出てこない。名前はわからないけどプレシャスの隣人の少女も映画だけのオリジナルキャラクターらしい。
映画は映画で小説の質に頼らずに、映像として独立した表現にこだわって映画化されたのがよくわかる。アカデミー賞で脚色賞をとったのはなるほどなと思いましたです。
文体は一人称がメインで、プレシャスが文盲なために『アルジャーノンに花束を』を彷佛とさせる雰囲気がある。
80年代のニューヨークのどうしようもない荒廃ぶりが背景になってるけど、もしかしたらその後の現在にいたる治安改善との対比も、ヒロインの希望に重ねあわせて書かれてるのかもしれない。
この原作者はレズビアンなんですねー。映画観たときも、もしかしてそーかな?と思ったんですが、やっぱそーでした。登場する男がほんとに全員とんでもないろくでなしばっかりで、すんごい男性観ゆがんでるんだよね。それだけ彼女自身が男性で苦労したんだろうけど、この小説がアメリカで受け入れられてるのはそれもある意味「一般的」だからなのかなあ。