落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

燃える髪

2017年11月27日 | book
『関東大震災』 吉村昭著

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小池都知事の追悼文とりやめがきっかけでにわかに世間の注目をあつめた関東大震災直後の朝鮮人虐殺問題。
都知事は「追悼碑にある犠牲者数などについては、さまざまなご意見がある」などとし、虐殺の事実について否定も肯定もしなかったために、もともととりやめを求めた人々の見解を却って補強してしまう結果になった(意図してかどうかはとりあえず別として)。
この前後のネット上でのやりとりをみていて痛感したのは、虐殺の事実を否定する人々の「日本人はそんなことしない」という盲信にも似た感情論の巨大な壁だった。
従軍慰安婦問題にしても強制連行にしても何にしても、戦前の日本が犯した過ちが議論になるたびに立ちはだかる、この壁。

では果たして、いまを生きるわれわれは「日本人」を、「日本」をどのくらい知っているのだろうか。
正直にいって、私は全然自信がない。
日本人ではないものの、日本に生まれ日本の一般の教育機関で学び、友人の多くが日本人、日本で働いて納税し健康保険も年金も払い、投票も欠かさずしているけど、じゃあどれくらい日本を知っているのかと問われれば、「知っています」と胸を張って公言できるほどの知識があるとは思えない。たとえば万葉集や古今和歌集や源氏物語は読破したけど(学生時代です念のため)、平家物語や東海道中膝栗毛は読んでいない。茶道も華道も剣道も柔道もやったことがない。外出すればどこでも好んで社寺仏閣を鑑賞するものの、仏式や神式の冠婚葬祭の作法などはろくに理解していない(うちの親族の冠婚葬祭は儒教式)。高校時代は世界史選択だったので、日本の歴史にもあまり明るくはない。

だから、「日本人はそんなことしない」の壁の前に、違和感はあっても反論すべき明確な根拠がなかった。
一般論として「いやするでしょ」と簡単にツッコむことはできても、「どうして『日本人であっても非常事態下では非人間的になってしまうことがある』といえるのか」というところまでは合理的な説明がつかない。
なぜならその「非常事態」が果たしてどれほどの非常事態だったかを、具体的には認識できていないからだ。
関西地方出身の私にとって、学校の社会科の授業以上に関東大震災について知る機会はほとんどなかった。1923年9月1日11時58分に発生した大地震とその直後におきた火災で10万人以上の人が亡くなったことや、これを契機に社会的に防災への意識や対策が進んだ一方で、言論統制や軍国主義が大きく進行した一面があったことくらいしか、学んだ記憶がない。

この吉村昭の『関東大震災』の初版は1973年刊行。震災からちょうど50年後のことだから、当時はまだ生存者が多く存命だったころだと思う。公的な記録とともに、実際に震災を生き延びた人々の体験談も過不足なく収録されている。
それらの一字一句のすべてが、94年前の「非常事態」がどれほどの地獄絵図だったかを、生々しく訴えてくる。
まさしくそれは、文字通り、業火と熱風の渦巻く地上の地獄だったのだ。
災害避難時の携行品は必要最小限。地震のときは火の元を確かめる。どこでもとにかく頭をまもらなくてはならない。いまでは小学生でさえ知っている最低限の防災意識が浸透していなかった時代、行政にさえ災害対応マニュアルすらなく危機管理意識という概念もなかった社会で、自分自身と家族の命と財産を何よりも優先しようと誰もが死に物狂いになってしまったら、日常ではまもられて当たり前の秩序など瞬時に吹き飛んでしまう。
よしんば火災や地震の被害からは命拾いできても、食糧難や物価の上昇、トイレ不足やゴミ問題など生存者の心を疲弊させる状況が続いたことは、つい最近もわれわれが経験した出来事によく似ている。

6年前の震災以後、何度か被災した地域に足を運び、さまざまな方々のお話をうかがい、自分でも驚くような経験をなんどもして、非常事態下で人間がいかに非人間的になれてしまうかを(いくらかは)知っているつもりではいたけど、やっぱりまだ、日本という国が発展途上の未成熟な小国だった時代はさすがに状況が違っていたのかもしれないと、あらためて思う。
だからといって罪もない多くの人びとを虐殺した罪が相殺されるわけではない。それでも、災害時に起きた数多くの凄惨な出来事のなかでも突出して残酷だったそれらの事件の周囲の状況を知ることは、「どこのどんな人間をも人間でなくしてしまうだけの環境」が簡単に現出し得る事実を、じゅうぶんに知ることでもあるのではないだろうか。

その一方でやはり、関東大震災のころの日本といまの日本には、こわいくらいたくさん共通点があることも、重要な点だとも思う。
隠蔽や事なかれ主義や官僚主義が、防災や災害復興に対してどれほど障害になるものか、もう90年以上も前にこの国はすでに経験していたのだ。
そしていままたそれを、きれいに繰り返しなぞっている。
災害は避けようがない。起こってしまったことはとても悲しいことだけれど、どんなに悔いてももう取り返しがつかない。
だが災害後に人間が引き起こす二次災害三次災害は、より成熟した社会であれば決して引き起こされるべきでない。
それなのに、この本を読んでいると、いまのこの国で誰かがそのことを一度でもちゃんと学んだようにはとても思えない。
ぜんぜん、進歩したような気がしないのだ。

44年前の著作なので、研究途上の面もあり現在判明している事実と異なっているところもなくはなかったけど、災害によって、平常時には決して目には見えない、人間の、社会の何が明らかになるのかを知るためにも、必読の書ではないかと思います。


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横浜での関東大震災時の朝鮮人虐殺地のフィールドワーク
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復興支援レポート

鏡と玉と剣

2017年11月22日 | lecture
明治学院大学国際学部付属研究所公開セミナー「憲法が変わる(かもしれない)社会」

第二回に参加して来た。初回も参加したかったんだけど、先週は仙台高裁にいてかなわず。

スピーカーは片山杜秀氏、対談者は研究所所長の高橋源一郎氏。
片山氏の専門は政治思想史。もともと戦前のナショナリズムを研究しつつ音楽評論も書く著述家で、慶応大学で教鞭を執られるようになったのは40代になってからとのことである。

主催の高橋氏によれば、この連続セミナーの主旨はなんらかの結論に誘導するのではなく、昨今活発になって来た改憲論を考えるにあたり、ほんとうに必要な知識を得ることだそうである。
改憲を考えるといっても、ごくふつうの庶民は憲法なんて中学高校の社会科の授業以来、本文を読んだこともないのが実情だろう。しかも憲法はわかりにくい法律用語で書かれている。そんな憲法に、まず、ひとりひとりが自分の立ち位置で向かいあい、己の頭で読み解くための道具が必要である。確かに。

第二回のテーマは「天皇と憲法・天皇と民主主義」。
なんでかというと、いま改憲を進めようとしている保守派の皆さんが、天皇を重んじる形に日本を変えていこうとしているからである。政治的思想的宗教的ナショナリズムをもって、不況のストレスに苦しむ人々を欺いて、明治大正時代の国家体制に戻そうとしている。
一方で今上天皇は戦後民主主義を擁護する姿勢を常に明確にしているから、彼らとは大きな思想的齟齬がみられる。このギャップは何か、ということが語られた。

以下、高橋氏の質問に片山氏が答える形で進行した(録音もしてないしメモに基づく概要なので一字一句このままではないです。念のため)。

Q.明治憲法と明治天皇とはどんなものか。いったい明治の初めに何がおきて、どんな国家が生まれたのか。

A.明治憲法はざっくりいえば「天皇=神」という憲法。
明治憲法は戦後新憲法になるまで一字も変更がなかった。その点では現憲法と同じで、解釈次第でどうにでもなる憲法だった。憲法を変えないで、解釈の範囲で大正デモクラシーも国家総動員体制も実現した。
違いは主権が天皇だったこと。明治憲法の最大の目標は天皇制の維持。もちろん国民をまもることがうたわれてはいるけど、それはあくまで天皇制を維持するための手段だった。
だから主権者は天皇なのに、天皇は何の責任も負わないしくみになっている。たとえば、欧米では戦争に負ければ元首も変わるし、革命がおこったりする。大幅に国家体制も変わる。日本の天皇はそうしたしくみを超えた“超越的存在”に設定されていた。
つまり一見グローバルスタンダードな国家を目指したようにみえて、尊王と開国を並列させた、西洋とは全く別の東洋的思想に基づいた国家体制だった。
西洋の憲法は国民の自己実現のためにある。ところが明治憲法では、国のために個々の幸せは犠牲にされなくてはならないことになっていた。

Q.人権と社会保障が注目された大正デモクラシーの時代から、なぜ第二次世界大戦、国家総動員体制という社会になっていったのか。

A.第一次世界大戦後の好景気の後、日本は辛亥革命で混乱する中国に市場を求めた。そこに関東大震災があって、その2年後に普通選挙が始まり、世界恐慌がおきた。
世界中不景気だから、選挙でどの政党が政権をとってもマニフェスト通りにはいかなくて政治不信になる。そのはけ口が軍や官僚に向かった。アジアブロック経済に解決を求めたのが大東亜共栄圏。そして満州事変がおきる。
大正デモクラシーだって綺麗事じゃなくて、人がそれぞれ豊かになりたいという基本的欲求によって始まった。それが戦時中、アメリカのプロパガンダで日本のナショナリズムがとんでもないもののように世界中に喧伝されて、日本の国民性自体が全世界から疑われることになってしまった。
それを日本の保守派はいまも恨んでいる。にもかかわらずその代弁者である安倍政権は日米同盟至上主義だし、今上天皇は国民と親しくすることで家業としての天皇制を維持しようとしている。いずれにせよスタンスがはっきりしない国。

最後に、たまたま来場していた政治学者の原武史氏も交えて、今上天皇のおことばについての討論があった。
去年8月、自ら退位について触れられた件である。

片山氏は、戦後民主主義を擁護する今上天皇の発言として、ふたつの側面があると指摘した。
ひとつめは、天皇が天皇制に言及するのは憲法違反であるということ。ふたつめは、積極的に語る行動主義的天皇像を提示したという点で、これは肯定的に評価せざるをえない、とした。

原氏はそれとはまったく別のポイントを指摘した。

われわれが天皇制を語るとき、しばしば想定されるのは近代の天皇制である。だがいまの天皇制ができたのは明治時代であり、それ以前の天皇制はいまとは別のものだった。
過去の天皇の半数以上は生前に退位していて、これが他国の王制・帝制とは大きく異なる点である。日本で最後に生前退位したのは光格天皇(注:在位1780〜1817年。けっこう長いね。亡くなったのは1840年)。といっても鎌倉〜江戸期の天皇は社会的影響力も弱く、政治力もなかった。2013年に今上天皇は天皇陵を見直し、江戸以前の小規模な、戦後憲法下の天皇制の、いわば身の丈にあった形に戻すことを提案した。

その一方で、今上天皇はおことばの中で、天皇の役割の中核は「いのり」すなわち宮中祭祀と、人々の傍に直接たつ行幸であるとしている。
しかし、宮中祭祀も行幸も明治以降に復活したもので、江戸期には行われていなかった。行幸に至っては平安中期以降何世紀にもわたって行われていない時期が続いていた。行幸は明治以降、天皇の力を強大化するための手段でもあった。
それを今上天皇は誰よりも熱心におこなっている。江戸以前の天皇の姿に戻そうと提案しながら、明治以降につくられた天皇制を強化しようとするのは矛盾している。

昭和天皇が終戦直後にやった巡幸が良い例で、戦争が終わって時代は変わったのに人のあり方はまったく変わっていなかった。人間宣言をした天皇のために、どこにいっても何万もの人が集まり万歳コールがおきて、ときに涙しながら君が代を斉唱した。
彼は玉音放送で「国体を護持」と断言している。敗戦がどれほど残酷でも、皇太子時代に全都道府県を行幸した彼は、君民一体の国体は簡単に崩壊しないことをよく知っていたからだ。

今上天皇もおことばのなかで、玉音放送と同じ言い回しで“皇室がどのような時にも国民と共にあり”と語った。
夫婦ふたりで国民の前で膝をつき直に手を触れる平成スタイルで、さらにひとりひとりの心に深く刻む行幸を確立したのは、ある意味ではかつての天皇制より危険といえる。

セミナーの内容はここまでで、以下しょうもない感想。

憲法の勉強がしたいけど、専門書は難しいし市民講座は高いしなどとくよくよしていたところに、最近何度か専門家のお話をうかがう機会があり、よりきちんと総合的に憲法を知りたいという欲求がたかまっていた。
天皇制には個人的にさほど興味があったわけじゃないけど、たった1時間半でもめちゃくちゃおもしろかったので、もっと勉強してみたくなりました。
それにしてもスピーカーお二方ともすんごい早口で喋る喋る。著作もまったく読んだことなかったけど、これから読んでみようと思います。
会場になった500名収容の大講義室はほぼ満席。平日の昼間、横浜市内とはいえ駅からかなり離れた山の上のキャンパスにここまで人が集まるというのが驚き。それだけ関心が集まってるってことだね(なんてコメントはのんきすぎですか)。大半はリタイア世代だったけど、現役学生と思しき若者もちらほら見かけました。
来週も出席の予定です。



明治学院大学横浜キャンパスにて。

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羅生門のバケツリレー

2017年11月14日 | 復興支援レポート
大川小学校児童津波被害国賠訴訟を支援する会



宮城県石巻市立大川小学校で、2011年3月11日、74名の児童が津波の犠牲になった事件で遺族が行政を相手に起こした訴訟の控訴審第7回公判の証人尋問の傍聴に行ってきた。

今日のひとりめの証人は震災当時、石巻市教育委員会の教育総務課課長補佐だった飯塚千文氏。前回の証人・当時学校教育課長だった山田元郎氏と同じく、教育行政側の防災担当だった人物である。
まず被告側代理人から、石巻市や宮城県の各種資料数点と実施された学校防災関連の研修や会議の実績が提示され(二審になってから被告側から提出された50を超える新証拠資料の一部ではないかと思われる)、平成21年の学校保健安全法の施行やおよそ37年周期で発生している宮城県沖地震の予測を受けて、市教委側が当時いかに積極的に学校防災にとりくんでいたかが懇切丁寧に説明された。

だが原告側からの反対尋問で、それがどれだけ穴だらけの防災対策だったかが前回同様に追求されていく。
飯塚氏は平成20~22年の3年間、石巻市本庁から教育委員会に異動し教育総務課課長補佐として勤務したが、それ以前の職歴は建設部や産業課など、教育とも防災とも直接関わりのない分野であり、とくに学校安全に明るい人材ではなかった。それがいきなり大きな川と海に面した広い石巻市の公立小中学校64校の防災を担当するわけで、着任後まもなく新たに施行された学校保健安全法で「学校安全の責任は設置者=市にある」とされたところで、やはり無理があるように思われる。

現にこの法律では、学校の危機管理マニュアルは法律に適合するよう策定し、毎年見直すよう定められているというのだが、飯塚氏自身にはそうした認識はなかったと証言している。飯塚氏本人が見直しをしたり、学校側に見直したかどうかを確認したことはなく、学校保健安全法の施行前と後でもそのルーティンに変更はなかったともいう。
すなわち前回証言した山田氏同様、学校の防災対策は各校に完全におまかせ状態で、その機能性や実効性など内容については100%ノータッチだったという点でほぼ同じ証言をしたといえる。

異なるのは、各校が策定した危機管理マニュアルにばらつきがあったために、飯塚氏が作成した災害対応マニュアルを学校安全対策研修会で参考例として提示していたことだった。
教育にも防災にも特に知見のなかった飯塚氏は、同僚から提供されたりネットで調べたりした資料をもとに参考例を作成したというが、そこで参照したのが山梨県の災害対応マニュアルだったという。理由はわかりやすかったから。
山梨県に、海はない。
だから飯塚氏が提示した参考例に、津波の項目はない。
彼の参考例をうけて各校が策定した危機管理マニュアルに津波が記載されているとすれば、それはすべて各校の独自の努力義務で追加されたものとなる。

飯塚氏の証言によれば、策定にあたって石巻市のハザードマップを参照するよう要請はしていないという。
学校そのものが津波の浸水域にはいっていようがいなかろうが、通学域がはいっていようがいなかろうが、そこは市教委の責任の範囲ではないという認識だったことになる。
いうまでもないが、学校を設置するのは教育委員会、通学域を決めるのも教育委員会である。
その一方で、学校とそこに通う子どもたちの安全をまもる責任はすべて、学校に丸投げ同然だった。もし、山田氏や飯塚氏の証言がすべて事実であるとするならば。ちょっと信じられないことですけれども。

原告側の反対尋問のあと、前回も山田元学校教育課長を厳しく尋問した裁判官からいくつか質問があったが、傍聴席がどよめいたのは、災害時に避難所に指定された学校の安全を確認するのは市建設部の役割であることが明らかにされたやりとりだった。飯塚氏の前任部署である。
つまり、飯塚氏は64校もある石巻市立の小中学校が災害時に安全な場所かどうかを、職務上知りうる立場にいたということになり、それまでの法廷での証言の真偽に疑問符がつく。
実際の尋問ではその点を詳しく追求することはなかったが、この短い会話で、それまで証人がどれほど繊細に言葉を選んでいても、その信頼性がまるごと台無しになったように感じた瞬間だった。

次の証人は柏葉照幸氏。大川小学校の震災当時の校長である。
念のため書き添えておくと、彼は震災当日、年休で学校を不在にしていた。

今回の証人尋問は一審に続いて二度目ということだったが、ここで被告側代理人となんとも奇妙なやりとりが繰り広げられた。
曰く、震災があった年の2月、6月に予定されていた河北地区の避難訓練の打合せのため、河北総合支所職員(市職員)3名が大川小学校を訪問した。この際の会話では危機管理マニュアルについての言及はなかった。避難場所は校庭でよいとの認識が示され、校長が二次避難先について尋ねたところ職員は想定していないと答えた。校長の「津波は堤防を越えないのか」という質問にも、職員は「計算上こえない」と回答したという(ちなみにこのとき訪問したのがいったい誰なのかという個人名および議事録は提示されていない)。
またこのあとの3月9日(震災2日前)に地震があったが、危機管理マニュアルの内容について担当職員(教頭・教務主任)と話しあうこともなかったとしている。
前年の一学期には市教委の指導主事の学習指導訪問があったが、このときも危機管理マニュアルについて指示も言及もなく、学校安全についての指摘は文書でのみ行われたという。
つまり柏葉校長は当時、大川小学校に津波が来ることを想定していなかったし、学校職員を含め周囲もそういう共通認識でいたということを印象づけたかったらしい。

ところが反対尋問ではこれらすべてがことごとく覆されていく。
山田氏や大沼指導主事との会議で、平成22年度の大川小学校の危機管理マニュアルについて柏葉校長は「津波襲来時には校舎2階に避難」と回答したという記録がある。震災直後のメディアの取材にも、2階か裏山に避難することになっていたと話したことが記事に残っている。震災の年の1月23日の石巻市学校安全対策連絡会では平松危機管理官から「前年のチリ津波の際の避難者が少なかった(=もし津波が大きかった場合の被害が甚大になるから対策が必要)」という総括があったことが、出席した石坂教頭(故人)からあったはずだが、柏葉校長は「避難者用のストーブや座布団が足りないという話はした」というものの、職員会議では議題にならなかったと証言している。
3月9日の震度5弱の地震の後、避難先とする裏山にPTAの助けを得て階段を設置しようという職員室での会話について市教委やPTAに具体的に連絡・相談したか質問され、最終的には「そこまで詳しく話したわけではない」と回答、そうした会話があった事実は認めた。
大川小学校に5メートルをこえる津波がくるともたないという認識はあったこともメディアの取材で判明している。理由は学校の前の堤防が5メートルだったから。
これら原告側代理人の指摘に対し、柏葉元校長はすべて「記憶にない」「覚えていない」「(教職員と議論)しなかった」「聞いていない」「認識していなかった」とのみ答え、それ以上の追求には口をつぐむばかりだった。

彼が誰かの責任について認めたのはたった一点、災害時の保護者への児童引渡しについての質問のときだった。
前任の教頭(学校安全の学校側の担当者)が作成した防災用児童カードが校内の金庫に存在していた(個人情報を記載するため)が、柏葉校長着任以降、記入・回収が行われていなかったことに関して、ただひとこと「私の落ち度です」と発言したのだが、理由についてはとにかく沈黙(「認識していなかった」)。
地震発生時の児童引渡しについては、震度6弱以上の場合は引渡しと着任以前から決まっていたという。しかし震災直後の聞き取りでは「津波警報の発令中は引き渡さないことになっていた」という証言が残されている。矛盾している。
大川小学校の通学域には津波発生時の浸水域が含まれている。校区内でももっとも海沿いの尾崎と長面である。この方面にはスクールバスも運行している。災害時にスクールバスがどう運行するかは決まっていなかった。着任したその年に尾崎・長面周辺には環境確認で訪問していた記録はあるから、状況は把握していたと考えるのが自然である。何度その点を追及されても、校長は「津波の来る方にはいかず学校にもどることになっていた」とのみ繰り返した。

先述通り、震災前日前々日には地震が何度もあった。9日には校庭に避難した後、教室で待機し、いつも通り下校させている。
そのときは津波注意報が解除されたかどうかの確認はしていない。
そして11日の休暇届を、彼は10日に出している。不在中に地震があった場合の引継ぎはしなかった。
尋問では、当時それほど地震が繰り返されたことを「覚えていない」と回答した。

個人的な見解になってしまうのだが、柏葉校長の証言は他の証人と比較しても突出して信頼性が低く感じる。山田氏にしても飯塚氏にしても、信頼性があってもなくてもなぜそういう証言をするのかという意図が読みとれる。それが柏葉校長にはない。だから聞いていてものすごく疲れた。彼がいったい何をまもろうとしているのかが、わからないのだ。あるいは彼自身、わかっていないのかもしれない。わからないままに下手な嘘を漫然と繰り返す意味はいったいなんなのだろう。単に決められた時間を証言台でやりすごせば、それで責任は果たしたことになるとでも考えているのだろうか。
それをより強く印象づけられたのは、やはり裁判官からの質問で、大川小学校は津波の浸水域ではないが、洪水の浸水域であることを指摘されたときだった。
津波は地震によって起こる。ということは地震で堤防が損壊してしまった場合、そこに津波が来たら学校が浸水する危険性があることは火を見るよりも明らかである。
大川小学校がそもそも現実に直面していたそのリスクを突きつけられても、柏葉校長はただ弱々しく、「考えたことがなかった」とつぶやくだけだった。

前回も感じたことだが、子どもの命を預かる学校の安全をまもる責任を、学校も行政も真剣には考えていなかったとしか思えない。
その事実を、お互いにかくし誤魔化し、うやむやにすることだけに汲々としている。

子どもの命をまもるための学校安全の責任を、バケツリレーよろしく押しつけあっていた、学校と行政。
74人もの子どもたちと、10人の先生たち、スクールバスの運転手さん、学校が避難しないから大丈夫と避難を見送った近隣の人たち、子どもがバスで帰宅してからいっしょに避難しようと自宅で帰りを待っていた家族、そうした多くの人びとの命が失われたその責任を、嘘に嘘を塗り重ねながら闇に葬ろうとしている、学校と行政。

こんなに情けなく、恐ろしい話があるだろうか。
むちゃくちゃ怖いと思うんだけど。


関連記事:
大川小学校児童津波被害国賠訴訟 控訴審第6回公判 証人尋問
小さな命の意味を考える会 第3回勉強会「何が起きたのか」
第2回 小さな命の意味を考える勉強会
第1回 小さな命の意味を考える勉強会
「小さな命の意味を考える会」座談会
講演会「小さな命の意味を考える~大川小事故6年間の経緯と考察」
『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』 池上正樹/加藤順子著
『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』 池上正樹/加藤順子著


仙台にて。

復興支援レポート



鍵のかかった箱

2017年11月13日 | book
『Black Box』 伊藤詩織著

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説明不要かと思いますが念のため。
2017年5月、週刊新潮に「被害者女性が告発!警視庁刑事部長が握り潰した安倍総理ベッタリ記者の準強姦逮捕状」というスクープ記事が掲載された。
告発したのはいわずもがなフリージャーナリストの伊藤詩織氏、されたのはTBSワシントン元支局長の山口敬之氏だが、現職総理の提灯記者の性暴力犯罪を官邸がもみ消すというこれほどの大スキャンダルを、不思議なことにほとんどのメディアがろくに後追いしなかった。
本書はその被害者自身が事件の経緯を自らの生い立ちから語るというノンフィクションになっている。

誤解を恐れずにいえば、詩織さんと山口氏の間に起きたことは、それほど珍しい話ではないと思う。
既に現場を離れて何年もたつが、マスコミ畑で働いていた20年の間、ありとあらゆる局面でセクハラと称する性暴力を見聞きし、体験もしてきた。そのことを誰もたいして問題にしていなかったし、当初は私自身も、いずれ他のみんなと同じようにその醜悪な暴力を「あって当たり前のもの」として見過ごせるようになるのだろうと、どこかで勝手に思いこんでいた(結果的には一向にそうならないうちに業界を去ることになった)。それほど、職場での性暴力は日常化していた。
性的な言葉をオフィスで浴びせられるのがジョークなら、男女関係を過剰に詮索されたり身体に直接触られたりなどといった行為も「場を和ませるコミュニケーション」の一端とみなされた。仕事上のポジションや取引を理由に性関係を強要されるケースは身近に頻繁に耳にするほどでもなかったが、露骨にほのめかす程度のことは却ってざらだったから、極端な場合ではそういうことがあってもおかしくない空気はそこいらじゅうに満ち溢れていた。
睡眠導入剤や精神安定剤も含めたドラッグが流行していた時期もあったし、業界内で性暴力を目的に使用されることがあったとしても、やはり驚くほどのことではないと思う。

なので個人的には、新潮のスクープが大手メディアに黙殺されたのもむべなるかなと感じていた。
正しい正しくないではない。大手メディアのほとんどが民間企業であり株主がいてスポンサーがいる。そしてあくまでも憶測だが、どこの大手メディアにも、この事件と同じような案件が過去に大なり小なりあったはずである。名の通ったメディア関連企業なら、どの会社に何件そっくり同じことがあってもまったくおかしくないから。
だからこそ山口氏はこれほど卑劣な犯罪行為を平気で犯したうえに、いまもジャーナリストとしてメディアで堂々と活動していられるのだ。こんなこと誰も問題になんかしやしないことを、彼は存分に熟知していたのだ。

しかし、彼は重大な犯罪行為を犯した以上に、もっと大きな思い違いをしていた。それは詩織さんが、おそらくは彼がそれまでに知っていたどんな人とも違う、特別な人物だったことだ。

実際に発生したレイプ事件のうち、警察に届け出る被害者は全体の4.7%程度(2012年)。理由はさまざまあるが、まず性暴力にさらされた被害者はその場で状況を把握・判断し、冷静に行動する気力を喪失している。なので多くの被害者が事件発生直後に警察や医療機関や支援団体に助けを求めることができない。できたとしても受入れ側に確立された体制がじゅうぶんに整っていないために、有効な証拠が揃わなかったり被害者本人の精神的・肉体的負担の大きさから、被害届の提出にまで至らない。また加害者の8割程度が被害者と面識があるため、報復や風評への恐れから被害者本人が被害を他者に口外することをためらってしまう。
こうして性暴力はやったもん勝ちと泣き寝入りに収束する犯罪となるのだが、詩織さんは決してそれを許さなかった。とにかく嘘をつくことを嫌う彼女は、子どものころからジャーナリストとして働くことを夢みて己の足で世界を駆け回ってきた、筋金入りに意志のかたい人だった。その彼女にとって、山口氏と(官邸と)の間に起こったことは、断じて看過すべきことではなかったのだ。

きっと彼女は、この事件が彼女自身にふりかかった出来事でなかったとしても、いつかジャーナリストとして立ち向かうことができた人ではないかと思う。
いま彼女が闘っているこのたたかいは、有史以来ずっと続いてきた、圧力による性暴力の新しい局面であることに間違いはない。物心ついたときから痴漢(これも本来「性暴力」と表現すべきだと思っている)にあいつづけ、セクハラからストーカーまでさまざまな性被害にさらされていても、SNSでひろがる#MeTooというハッシュタグに反応することもできない私も含めた多くの名もなき被害者にとって、彼女の告発はまさに待ち望んだ天啓だった。断じて泣き寝入りはしない。なかったことになんかしない。オーディエンスの勝手なイメージのなかの「被害者」っぽく振る舞う必要なんかない。起きたことのどこが間違っていたか、いえることは全部いってしまいたい。そのうえで、ジャーナリストとしてきちんと活動も続ける。
そんなことができる人がちゃんと世の中にいることを、彼女は証明して見せてくれた。
そしてその彼女に対する世間の反応すべてが、いまの日本が抱えている圧力と性差別の現実をそのままきれいに示している。問わず語りの空気として社会の底に流れていた巨大な矛盾を、彼女は明確に可視化した。

詩織さんが国際ジャーナリストとして成熟していくにはまだこれから時間もかかるだろう。
だがこの事件の行く末がこの先どうなろうと、彼女には必ず人として大成してもらいたいと思う。
どんな形でもいい。官邸に犯罪の後始末をされて何食わぬ顔をしている人間や、その暴力と差別を矮小化し黙殺するあらゆる人や社会をすべて覆すためにも、彼女が挑んだたたかいに敗北はあってはならないのだ。
そしてその勝利への道のりは、いまちょうど始まったばかりだ。
何かおかしい、間違っていると少しでも感じた人すべての手の中に、そのゴールに通じる鍵は隠されているのだと、私は信じている。

関連レビュー:
『性犯罪被害にあうということ』 小林美佳著
『さよなら渓谷』

釜山行きの恐怖列車

2017年11月05日 | movie
『新感染 ファイナル・エクスプレス』

誕生日に別居中の妻に会いたいという娘スアン(キム・スアン)を連れ、釜山行きの高速鉄道KTXに乗車したソグ(コン・ユ)。発車直前にとびのってきた乗客からウィルスが次々に乗客や乗務員に感染、襲われた人間が別の人間を襲い始め、車内はパニック状態に陥る。
ソグは娘を守るために他の乗客と協力して感染者に立ち向かうのだが・・・。
2016年に韓国で大ヒットしたゾンビパニック映画。

韓国映画でゾンビパニックといえば最近も『哭声/コクソン』という傑作がありましたが。
これはもう純然たるエンターテイメントホラーですね。暗喩とか象徴とかそういうものはいっさいない。とにかく怖い。とにかくゾンビ大量。しかも新幹線(正確にはKTXはフランスのTGVがベースなので日本の新幹線とは無関係)。余計なものがなんにもないというか、いれる余裕が世界観の中にまったくないんだよね。車内も車外もゾンビまみれだし、車内は狭いし外部との連絡もつかないし、乗客と同じように観客も冷静に頭を働かせて何かを考えるということがぜんぜんできない。
恐怖がどれだけ絶好の思考停止装置かを、改めて再確認させられる映画です。

思考停止になると人間どうなるか。
とりあえず自分のことしか考えられなくなるんだよね。客観的になんてなれない。いまのこの一瞬をうまくやり過ごしたい、自分ひとりだけでも無事に切り抜けたい、そのことしか考えられなくなる。だからいくらでも残酷にも冷酷にもなれてしまう。すなわち本性が出る。
この映画で印象的なのは、その本性と外見(=社会的ステイタス)の破壊的なギャップがやたらに強烈に皮肉られている部分。幼いスアンが高齢者をかばおうとするのに対して、ソグは「こんなときだから自分のことだけ考えろ」と諭すし、バス会社の役員だというヨンソク(キム・ウィソン)は本来無関係であるはずのKTXの乗務員に高圧的に威張り散らし、ソグたちは感染しているかもしれないのだから隔離すべきだなどとヒステリックに主張する。ひとりがそうわめきだしたら、周りも無批判に同調する。本性だよね。
これは映画の中だから極端な例だよといって笑うこともできるけど、現実の非常時にだって無茶苦茶な非常識と差別がまかり通ってしまうことも、2011年の大災害を経て知ってしまった人は、あるいはぜんぜん笑えないかもしれない。私は笑えなかった。何を連想したかなんてとてもここには書けないけれど。

新幹線(じゃないけど)舞台でパニック映画という設定のせいか、主役のコン・ユが大沢たかおに見えてしょうがなくて。『藁の楯』ですねええ。キャラはまったく違うんだけどね。どっちかというと『そして父になる』の福山雅治みたいな人物造形です。娘のことはかわいいんだけど父親にはなりきれなくて、仕事の成功や己の利益にばかり敏い嫌な男。それがゾンビパニックという非常事態の中で父親としての使命感に目覚めていく。のはいいんだけど、プロポーションが異常に人間離れしてて、演技にリアリティがうまく感じられない。そういうところも大沢たかおっぽい(個人的に苦手なのですすみません)。

それにつけてもあの大量ゾンビは怖かった。あれだけいっぱいいたらもうディテールとかなんでもよくなるね。そこに尽きます。2時間近い上映時間の間、ちょこちょこと展開をひねりつつもおおまかにはゾンビと人間との対決シーンしかないのに、いっさい観客を飽きさせない。設定と物量の勝利。天晴れ。