落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

甕の中の夢

2016年05月15日 | movie
『殿、利息でござる!』

江戸中期、仙台藩に課せられた伝馬役の負担の重さに破産や夜逃げが続出していた吉岡宿の造り酒屋・十三郎(阿部サダヲ)は、茶師の篤平治(瑛太)の発案で「殿様に銭を貸してとった利息で伝馬の負担を減らす」事業にとりかかる。
ひそかに同志を増やし家財や土地を売り、6年がかりでどうにか目標額の千両をこしらえたものの、出した嘆願は出入司の萱場杢(松田龍平)に突き返されてしまう。
250年間封印されて来た実話を映画化。

ありえないくらいいい話。
今日の舞台挨拶の報道で見かけたんだけど、主演の阿部さんは最初「本当にこんな話があるんだって信じられなかった」と発言したそうですが、ホントにちょっと信じられないです。
まず発想がスゴイよね。搾取される側の庶民が身分を超えて大名から利息をむしり取ろうという逆転の発想。つまりはなんだかんだいってこの時代、既に何よりもカネがものをいう資本主義が生まれてて、封建主義下の従来の概念に囚われずにそこをうまく利用した人間が頭脳ゲームに勝ったサクセスストーリーでもあるんだけど、それはいまの時代から見てそういえるんであって、その時代のフツーの人間ならなかなかそういうことは思いつかないしできない。けどホントにやってしまったという嘘みたいな物語です。
じゃあこれは資本主義の話なのか?というとそうではない。どっちかといえば、資本主義のシステムを利用した社会主義の話に近い。スゴイですね。封建時代に資本主義のからくりに則って社会主義を実現するんだもんね。

映画として表現方法全体がものすごくバランスがとれていて、観ていて非常に痛快。
実話でしかも経済の話だから当時の制度や貨幣価値など説明部分が多く、ナレーションやテロップが多用されててうっかりすると再現VTRみたくなっちゃいそうなのに決してそうはならないところが実にうまい。お芝居そのものはコメディタッチなんだけど演出があっさりしててくどくない。めちゃくちゃ感動的ないいシーンもいっぱいあるのに無駄に強調せず、ほどよく抑制が利いている。その塩梅というか絶妙な温度感がビックリするぐらいバッチリ。ドンピシャなんだよね。だから観客はなんにも考えずに心から笑えて、泣けて、感動できる。
逆に省略された部分、表現されなかった部分もすごくたくさんあるんだろうと思う。たとえばこの映画には子どもや年寄りや女性、小作農などの社会的弱者はほとんど画面に登場しない。江戸中期の東北だから、貧しい宿場といえばもっと悲惨な場面もたくさんあっただろうし、たとえばこの物語の主要登場人物たちである商人は年貢を納めてなかったはずだから(たぶん)、実際にはその不平等に対する軋轢もあったのではないだろうか。
町の貧困を救いたいという意図からスタートした物語でありつつそこのリアリティは脇に置いておいて、十三郎たちの足掛け8年にも及んだ挑戦に純粋にフォーカスしたのはけっこう勇気あるなと思いました。
だってこういう“いい話”ってつい厳しい面を強調したくなるじゃないですか。こんなにひどいことがある、許せない、なんとかしなきゃ、そういう感情に訴えるのって簡単だからさ。もっと思いっきり感動的に描いて日本アカデミー賞を狙うことだってできたはずだけど、あえてそうしなかったところがまた気持ちいい。

といっても、主人公・十三郎は物語の中ではほぼ100%感情に生きている。
彼は千両集めて町を救うという策が実現することを信じて夢にも疑わない。根拠はないのに、ひとりではどうにもできないのに、絶対に何とかなる、なしてみせる、それ以外のことはまるで考えもしない。世渡り上手な篤平治は策を発案したものの実現自体には疑問をもっているが、なすがままに十三郎の情熱のエネルギーに巻き込まれていく。はじめは十三郎を諦めさせようと肝煎・幾右衛門(寺脇康文)や大肝煎・仲内(千葉雄大)に引き合わせるが意外にも同じように考えていた人間が幾人もいて、善意だけでなく面子やライバル心などそれぞれの思惑がはたらきながら計画はどんどん前に進んでいく。
だからヒーローは決して十三郎だけではないのだが、彼の「町を助けたい、助けられるはず」という思いの熱さが、さまざまな人の心を動かし、あらゆる壁を乗り越えていく。
そういう勢いがホントに奇跡のように感じました。

キャスティングがよくてどの人もものすごくハマってたんだけど、個人的には藩の冷酷な財政担当者を演じた松田龍平がめちゃめちゃおもしろかったです。何を考えてるのか読めないお面のような無表情が逆に能弁で、とくにおもしろいことは何もしてないのにすっごい笑える。1シーンだけ妙にメイクが濃くてギョッとしちゃったところがあったんだけど、アレは何が起こってああなっちゃったんだろうね。同じ意味で山崎努もサイコーでした。あのキャラはあのおっさんにしか無理だね。
あと藩主・伊達重村役の羽生結弦くんもベストマッチ。ほんの一瞬しか出てこないんだけど、貧しい庶民・しかも男ばっかりの地味〜な画面にキラキラ〜っと現われて、キラキラ〜っと去っていく。アレ?いま羽生くん=殿様いたよね?夢?みたいな、現実の当時の庶民にしてみれば幻みたいな白昼夢みたいな登場・退場ぶりが本気でよかった。そういう意味でも、究極にバランスとれた作品だなという印象を受けましたです。

実をいうとふだん自分がしてることに共通する部分が多くて、これからいろいろと参考にしたいなと思ったところもあり、勉強になりました。
誰か人の役に立ちたい、世の中の間違いが許せない、そんなふうに思う人みんなに観てもらいたい、でも思いっきり楽しい娯楽映画。オススメです。
劇中で山崎努が読んでた冥加訓も気になるし、是非原作も読んでみようと思います。

関連レビュー:
『NO』
『パレードへようこそ』




Would that it were so simple.

2016年05月14日 | movie
『へイル、シーザー!』

1950年代のハリウッド。大手映画スタジオ「キャピタルピクチャーズ」のプロデューサー・マニックス(ジョシュ・ブローリン)の仕事は、酔っぱらった若手アイドルの不始末の尻拭いから、妊娠したお色気女優(スカーレット・ヨハンソン)の子どもの養子縁組の手配、ゴシップ記者(ティルダ・スウィントン)の相手などスタジオ内外で起こるあらゆるトラブル解決。
ある日、社運をかけて撮影にとりかかった歴史超大作「へイル、シーザー!」の主演俳優ベアード・ウィットロック(ジョージ・クルーニー)が誘拐され、身代金まで要求されてしまうのだが・・・。

実をいうとこの時代のハリウッドにあまり詳しくなくて。
もともとクラシック映画をさほど真面目に観るほうではないしハリウッド映画も大して好きではないので、正直なところこの映画に出てくるパロディの半分も理解できてないんだけど。でもじゅうぶん楽しめました。そういう人間でもなんとなく、「ああ、アレのことだな」と思いあたるような、「どっかで聞いたな」みたいなネタが満載です。
ベースは汚れ仕事専門のマニックスの分刻みの働きぶりを通して描くハリウッドの内幕物語で、そこに当時はやってたシリーズものの娯楽映画のあれこれ—ミュージカル、西部劇、恋愛ミステリー、水上スペクタクル、etc.—の撮影風景が挟み込まれる。劇中では撮影風景として表現されてるけど、実際には映画のワンシーンがそのまま登場する感じで、リアルな撮影風景ではない。懐かしいね、映画って昔こんな感じだったよね、舞台裏はこんな感じだったね、というノスタルジーを喚起するような構成になっている。
だから映像として単純に楽しい。てんこもりです。飽きない。

ハリウッドの虚構がいかにカラッポかというバカバカしさをどこまでも徹底的にシニカルに描いているのが途中まで意図が読みにくい気がしてたんだけど、最後の最後、マニックスがウィットロックに怒鳴るシーンで全部スッキリ読み解けるのがものすごく気持ちよかったです。
自分自身、長い間、映像をつくる仕事をしていて、何本かは映画制作にも関わった経験がある。映画を含めて映像の仕事は楽しいけど、99%まではつらいこと、くるしいことの連続である。嘘で塗り固められた虚構の世界に己の命と人生のすべてをかけてとりくんでいても、生まれる作品は端から世間に消費されていってしまう。それでも映像をつくる、人を楽しませる仕事というのはほんとうに特別で、ほんの一瞬、たとえばクルーの気持ちがひとつになったとき、思いもかけないような名シーンが生まれたとき、観客の大喝采を浴びたとき、自分がこの世に生まれてくるよりもずっと前から捜し求めて来たものはこれだったんだと確信できたような、そんなマジカルな幸福感を味わえる。
そういうほんとうの幸福は目の前の仕事と自分自身の手の中にあるもので、まだ目にしたこともないどこか遠くの夢の世界になんかあるものではない。
なんとなく、そういうことがいいたかったんじゃないかなと、思いました。

しかし主演のジョシュ・ブローリンは不思議な人ですね。ぜんぜんスターって感じじゃないんだけどものすごい存在感。こないだ観たばっかりの『ボーダーライン』とか『ノーカントリー』が印象に残ってて、ジョシュ・ブローリンといえば=タフなおっさんというイメージだけど、今回の作品では、タフでありつつも家族には優しかったり、禁煙にまじめに苦労してたりヘッドハンティング話に揺れたり、多面的なキャラクターを器用に演じてたのがちょっと意外でした。
あと日本のプロモーションではあたかも主役のよーに扱われてたジョジクルさんは、アホな大根役者っぷりがもうむちゃくちゃおもしろかった。これまでにも『バーン・アフター・リーディング』なんかでもアホ役はやってたけど、ここまでとことんアホキャラになりきれるって天晴れです。

映画の華やかさと地味で暗い部分を両方描きながらも、ちゃんと映画愛にあふれた娯楽映画にまとまってて、そしてメッセージ性もある作品でした。
けどやっぱし、これ元ネタしってた方が楽しめるんだろーなー。
というわけで同時代のハリウッドの内幕が題材になっている7月公開の『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』の公開を楽しみに待ちたいと思います。



パリのタミル人

2016年05月08日 | movie
『ディーパンの闘い』

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スリランカ内戦で妻子を失ったディーパン(アントニーターサン・ジェスターサンティーハン)は難民キャンプで知りあったヤリニ(カレアスワリ・スリニバサン)と彼女が拾ったイラヤル(カラウタヤニ・ヴィナシタンビ)と家族を偽装してフランスに亡命。パリ郊外の集合住宅で管理人の職を得るが、そこは昼間から売人がたむろする荒廃した地域だった。
2015年カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作。

現在進行形でヨーロッパを大混乱に陥れている難民危機。
国連難民高等弁務官事務所によれば、2015年1年だけで100万人を超える人々が中東・アフリカ・南アジアからヨーロッパに流入したという。
直接的なきっかけはシリア内戦によってシリア国民の約半数が家を失って難民と化したことや、ヨーロッパ各国の難民政策が緩和されたこともあるが、もともとヨーロッパでは難民・移民は常に抱えている社会問題でもあった。それが昨今の政治状況によって急激に拡大されたわけだが、数が増えれば増えるだけ、どうしても当事者以外にとって“難民”とは“着の身着のままで命からがら逃げてきた貧しい無辜の民”という一般化したイメージの殻に閉じ込められてしまい、直接彼ら自身の顔を見て声を聞く機会というのはなかなかない。
たとえば、うちの近所にもこのごろスリランカ系の住人が少しずつ増えているが(インドネシア系は爆発的に増えている)、彼らが移民なのか難民なのか、どういった経緯で東京に来てどんな風に暮しているのかはまったくわからない。朝晩の通勤や休日に出歩けば必ず何人か顔をあわせるけど、ほんとうにそれだけだから。異文化という仮面の向こうの人々。

物語はディーパンとヤリニとイラヤルがフランスに渡り、ときに反発しあい、ときに寄る辺ない心細さを慰めあいながら、不器用に家族となっていく様子を描いている。
そう説明してしまうとどうしてもハートウォーミングな感動物語をつい期待しそうになるのだが、実際の映画はまったくその逆である。
まずディーパンたちが管理人として住む集合住宅の治安が見るからに悪すぎる。平和を求めて故国を出てきたはずなのに、周辺にも建物内にもそこらじゅうに怪しげな男たちがうじゃうじゃいて、昼夜問わず暴力事件が多発している(劇中で「ル・プレ」と呼ばれた地区が実際どこなのかは不明)。フランス語がわからないヤリニにとって、外に出て働くこともなかなか容易ではない。一方あっという間にフランス語を覚え小学校の移民クラスに編入したイラヤルは、なぜかうまく友だちがつくれず孤立している。
家族を偽装している3人だがもともとは赤の他人の共犯者で、ひとつ屋根の下に暮していても互いの距離感も計れない。ただ母国語でほんとうの気持ちを正直に話しあえる人間が他にいないという一点だけで3人は繋がっている。フランスに住みたくて来たわけではないために、どの程度地域に馴染めばいいのかもわからないでいるいたたまれなさは、どうしてかなんとなくわかる気がした。

観ていてふと祖父母のことを思いだした。
祖父母は1920年代に日本統治下の朝鮮半島から日本に移住している。まったく日本語を解さず、貧困の中で大変な苦労をした。その間に戦争もあった。帰るべき故郷は失われてしまった。それでも最後まで日本人としての人生を選ぶことなく、日本の土に還っていった。
来たくて来たわけではない。故国から逃げたくて逃げたわけではない。でもそれ以外の選択肢はなかった。それが人が故郷を捨てる唯一無二の理由であって、それ以上でも以下でもない。そこで手のうちにあるのは己の命ただひとつしかない。これ以上心細い話はない。単純な理屈だが、人は自分がそういう状況になってみなければそんなことを想像することすらもできない。
ディーパンは目の前にいる“家族”を命の限りまもろうとする。それだけが、故郷ですべてを失った彼がまもれる、彼自身の手のうちにある唯一の“自分のもの”、自分を自分たりえる拠りどころだからだ。
そのしがみつき方がまたハンパじゃない。いくら映画だからってちょっとスゴイです。予備知識なしに観に行ったので正直劇場の椅子から落ちそうなくらいビックリしたけど、祖父母の長い長いサバイバル人生をぎゅっと凝縮したら、もしかしたらこんなものかもしれないとも思えた。

主演のアントニーターサン・ジェスターサンティーハンはほんとうにタミル人で役柄同様、実際に「解放の虎」で少年兵として戦った経験のある当事者だそうですが、無口で無表情で感情の読めない演技に迫力があって、この映画はまさにこの人ありきの作品だなという存在感でした。
カンヌでは満場一致でパルムドールに選ばれたというけど、おそらくはこれからこうした題材の映画は増えていくんだろうなとも思う。ディーパンの話はディーパンの話であって、移民・難民にはそれぞれ人数分のドラマがある。うちの祖父母の人生にドラマがあったように。
そうした相互理解の先に、この問題のほんとうに解決策が見えてくることを祈る。心から。

関連記事:
「シリアを知ろう」アムネスティ・インターナショナル日本



There are crimes that become innocent and even glorious through their splendour, number and excess.

2016年05月04日 | movie
『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』

2000年代から活躍する覆面アーティスト・バンクシーが2013年にニューヨークで1ヶ月間活動した時期を取材したドキュメンタリー。
といってもバンクシー本人は登場しない。画面に登場するのは主に、彼が毎日SNSで拡散するストリート・アートに一喜一憂するニューヨーカーたちの狂乱ぶりである。
なんか期待はずれでした。個人的に。
バンクシーといえば去年イギリスで発表したディズマランドをはじめとして、社会的なメッセージ性の強い作品で観る人にひろく問題について考えさせることを主旨としたパフォーミング・アーティストだと思うんだけど(私の中では彼はストリート・アーティストではない)、この映像の中では、描かれた問題そのものではなく、意味もなく争って作品といっしょにセルフィーを撮りたがり、作品を盗んで商売しようとする第三者たちばかりにフォーカスしているからだ。
こないだもちょっと書いたけど、そういう誰かを嘲笑するような映像作品ってうまく楽しめない。だってなんにしろアートなんて観てくれる人がいなきゃ何の価値もない。どんな反応であれ、オーディエンスの反応を含めて芸術なのに、その一方だけ取り上げて見下すような語り方って、誰が観て楽しめるんだろう。

ちょっと共感はできなかったな。残念。



日本国憲法第14条

2016年05月04日 | movie
『ヤクザと憲法』

1992年に施行された暴力団対策法(暴対法)によって取締りが厳しくなり、構成員数も激減/高齢化が進むヤクザの世界を、東海テレビが100日間かけて取材したドキュメンタリー。「謝礼金は支払わない」「収録テープ等を事前に見せない」「顔へのモザイクは原則かけない」というルールのもと、大阪の指定暴力団二代目東組の二次団体・二代目清勇会の日常と山口組顧問・山之内幸夫元弁護士のインタビューで構成される。

生まれ育った地域は件の有名暴力団の下部組織の本拠地だった。
学校の同級生にもそうした家庭の子がいて、学校行事にみるからにそれとわかる父兄が来ていたのを記憶している。彼らの存在は地域ではあまりにも日常の風景で、怖いというより町を構成するひとつの記号でしかなかった。世の中にはそういう人たちがいて当たり前というのがその辺りの共通認識だった。
問題の暴対法が議論されるきっかけになった抗争の時期は十代のころ。家のすぐ近所、登下校に通る道で発砲事件が起こることもしばしばだったけど、それがふつうじゃないことは上京して関西を離れてから初めて知った。
でも東京にだってどこにだって暴力組織はある。ヤクザじゃなくても、組織的に人を傷つけたり犯罪を犯したりする反社会集団は、人が社会を構成して生きる生物である限りはどうしても生まれてしまうものなのではないだろうか。暴対法施行後に起きた未曾有の無差別テロ・地下鉄サリン事件の実行犯たちはヤクザではなかった。現実社会に馴染めずオウム真理教というカルトに居場所を見出した高学歴のエリートだった。

もちろんそれがヤクザ≠暴力団を正当化する理由にはならない。
違法薬物や銃器の取引・所持は日本では禁止されている。モノを故意に壊したり人を暴力で傷つけたり恫喝で脅すのも違法行為だ。だがどこにも行き場のない人々が現実に存在していて、ヤクザがその受け皿になってしまっているのも事実なのだろう。貧しくて困っているときに衣食の面倒をみてくれた・懲役を終えて出所した後の孤独な身を受け入れてくれたその組織のために働いて、でも保険には加入できない、ローンは組めない、銀行口座は開けない、子どもが保育園への通園を拒否される、そうした人権侵害が暴対法という法律の名の下に堂々と行使される。
そんな少数者のためにと請われて顧問となった山之内弁護士さえ、通常は罰金刑にしかならないような微罪で繰り返し起訴され、弁護士資格を脅かされる。

このままいけば、暴力団(指定暴力団)は間違いなく衰退し日本から姿を消すだろう。それはもう避けようのない運命のようにも見える。
だがそのあと、彼らはどこにいくのだろう。
秩序に縛られた世の中からはみ出してしまう人というのは、いつどんな社会にでもいる。そういう人を含めて「社会」であるはずなのに、彼らの居場所が消えてしまったら、今度は彼らはどこにいくのだろう。
「ヤクザ」という目に見える居場所ではなく、まだ誰も知らない得体のしれない場所にもし彼らが吸い込まれていってしまうのなら、それは決して法の下の秩序による問題解決にはなり得ない。あるいはいまよりももっと悪い状況が引き起こされる危険性だってあるかもしれない。
そんなこと誰にもわからないんだろうけど。

取材クルーのスタンスが、初めから最後まであくまで中立なのが見ていて非常に心地よかったです。
たとえば初日に事務所の畳のうえに転がったテントケースを見て「マシンガンでもはいってるのかと思った」というクルーには笑ってしまった。いくらなんでもそんなもの畳のうえに転がさない。それでいてシノギのディテールについてはぐいぐいと直裁にインタビューしようとする。画面を通して観ている方が怖くなるくらい躊躇がない。
1989年に三浦友和主演で映画化された『悲しきヒットマン』の原作者でもある山之内弁護士の、最後の清々しさに溢れたなんともいえない表情がものすごく印象的でした。
しかし組長の川口さんはなんであんなに若いんだろうね。しゅっとしてて組長というよりホストみたい(爆)。ウェブサイトの画像と全然印象違っててビックリしました。

ヤクザに限らず、憲法や法律はなんのためにあるのか、深く考えさせられる作品。公開当初から観たかったけど、今日観れてよかったです。