落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

エリートがエリートであるために

2018年06月24日 | play
『ザ・空気 ver.2 誰も書いてはならぬ』

政権を揺るがす“文書”発覚に伴う首相会見のその日、官邸記者クラブの共用コピー機から、会見での想定問答リストの原稿が見つかる。
メディアと政権との明らかな癒着を示すQ&Aをスクープにするべきと主張するネットメディアのまひる(安田成美)、隠蔽したい公共放送解説委員の秋月(馬渕英里何)、そもそもこんなものを誰が書いたのか、他の加盟各社の意向を知りたいリベラル系全国紙官邸キャップの及川(眞島秀和)、自分で原本を発見したもののどうすればいいのかわからない保守系全国紙首相番記者の小林(柳下大)、記者クラブのスキャンダルが首相との私的関係にどう影響するかに拘泥する保守系全国紙コラムニストの飯塚(松尾貴史)、それぞれの思惑が絡みあう社会派コメディ。

仕事柄、しばしば前を通りかかる国会記者会館。
中に入ったことはないです。通るだけ。出入りしてる国会メディアの皆様方にもままお目にかかることはありますが、正直、いままで共感のようなものは一度も感じたことがない。残念ながら。
彼らも仕事、一会社員にすぎないことはわかるし、であるからには妥協もやむを得ない局面もあるだろうけど、それでも、ジャーナリストとしてもっと毅然としていてほしいという感情はどうしようもない。記者クラブに所属する及川は、記者クラブのために施設や運営費用を国が負担していることを「国民の知る権利をまもるため」というが、であるならば、その“知る権利”を妨害するような行為をこそ記者クラブは厳に慎むべきではないかと思う。
日本独特のこの記者クラブ制度が、これまで“知る権利”どころかあらゆる人権をどれだけ蹂躙してきたか、改めてここで繰り返すまでもない。
メディアのすべてが間違っているとはいわない。ひとりひとりは真摯にそれぞれの使命に向きあっておられるのだろう。だからこそ、彼らが最も大事にしなくてはならないものを、決して見誤ってほしくないと、せつに思う。

演劇は好きだけど、実際に観にくるのはすっごいひさしぶり。超おもしろかったです。
よくよく振り返ってみれば、いままで観たことあって記憶に残ってる演劇の大半が社会問題に関わる題材を扱ってたことに初めて気づきました。たとえば『人形の家』は女性の自立、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』はナショナリズム、『繭』は天皇制、『舞台|阪神淡路大震災』はそのものすばり阪神淡路大震災。
でも私が観るものに限らず、古今東西の戯曲は普遍的に社会問題を扱った作品が多いのではないだろうか。オイディプスは迷信が国を滅ぼす物語だし(野村萬斎凄まじかった)、ロミジュリだってラブストーリーだけど家や身分制度が引き起こす悲劇を描いている。舞台って発信者とオーディエンスの間にメディアが介在しないから、ほかのエンターテインメントよりセンシティブな題材がとりあげやすいんだろうね。オーディエンスがそこから何を受けとめるか、発信者側がその場でそのまま責任をとれる。コントロールもしやすい。
映画や音楽よりも古くから、伝統的に社会を風刺してきた演劇だからこそできる表現でもあるんだろうけど、そう考えれば、政権の誰もが法律ぶっちぎりの無茶苦茶を年中繰り返し倒すこの無法地帯時代、こういうお芝居をもっとやりたい放題にやっちゃってもいいのでは、という気もします。
それくらいおもしろかった。

登場人物5人の設定のバランスも絶妙だし、セリフに登場する大小さまざまなエピソードが全部「ああ、あのことをいってるな」という背景がわかりやすいのも楽しかったんだけど、やっぱ全部もってっちゃったのは松尾貴史の首相のモノマネ。似すぎでしょ。しかも客席がやたらウケるもんだから調子のっちゃってどんどんやる。ずるいよねえ。けどおもしろい。こんなにおもしろいんだから、もっとみんなやればいい。なんでやんないんだろう。もったいないよ。それくらい笑えた。
5人の中でいちばん共感したのは及川さんかな。スクープが続いて市民の支持もあつい大手メディアのエリート幹部記者。政権批判はしたい。でも記者クラブはまもりたい。敵はなるべくつくりたくない。正義感はあるのに、立場も大事。仕事は好きなのに、そのためにプライベートを犠牲にしなきゃいけないストレスが苦しい。わかりすぎてちょっとイタいぐらいわかります。がんばれ及川くん(年齢設定的にも近いし)。演じてた眞島秀和はテレビやら映画でしょっちゅう見かける人だけど、舞台でみると意外なくらい大柄で声もよくて、動きが派手で舞台映えする。経歴を見るとあまり出てないけど、もっと舞台をやってもいいのではという気もしました。
おそらく書き手が観客側の視点を代弁するキャラクターとして設定したのはまひるだと思うんだけど、それにしては登場シーンが多くなくさして活躍もしなかったのはなぜなんだろう。そこも含めて、上演時間1時間45分がちょっと物足りない印象はありました。

この舞台、これから7月半ばまでの東京公演を経て、三重、愛知、長野、岩手、山形、山口、福岡、兵庫、愛知(また)、滋賀と9月上旬まで全国各地での上演が決まっている。東京公演では25歳以下3,000円、高校生以下は1,000円という割引価格も設定されている。
ひとりでも多くの、とくに若い人に観てほしい。あとメディア関係者ね。どんだけ己らがみっともないか、ちょっと客観的に観てみたほうがいいかもよ。
できることなら、この上演が終わるころまでに、この物語の背景となる現状がすこしでもいい方向に変わっていることを願う。いや願ってるだけじゃダメなんだけど。ホント致命的絶望的状況だからさ。


サブタイトルはこの曲のオマージュだよね。たぶん。歌詞と内容がリンクしてるんだとすればちょっと怖い。

松戸のパチンコ屋、赤のヴィッツ、習志野ナンバー

2018年06月09日 | movie
『万引き家族』

2月の夜、団地の廊下で空腹に震えていた5歳のゆり(佐々木みゆ)は、通りかかった近所の住人に夕食に招かれる。
年金暮らしの初枝(樹木希林)は風俗で働く亜紀(松岡茉優)、日雇いの傍ら日用品や食料品の万引きを小学生の祥太(城桧吏)に教える治(リリー・フランキー)、クリーニング工場勤務の信代(安藤サクラ)と暮らす古い小さな家にゆりをうけいれ、貧しくともあたたかさに満ちた家庭に幼女は安らぎを見出すのだが・・・。
第71回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した是枝裕和監督作品。

家族の描写に定評のある是枝監督の集大成ともいえる作品ではないだろうか。
メディアにあふれかえり、いまや消費の対象にさえなり果てた「愛」や「絆」の真の尊さと儚さと移ろいやすさと生々しさを、すべて同時にこれだけしっかりと妥協を排除して表現した映画というのは、少なくとも、日本国内では私の記憶にはなかなかない。
初枝一家は確かに和やかに明るいが、かといってべたべたした甘ったるさはまったくない。一部には一見あるように思えても、実際にはわりとしょっぱかったことが後からわかる仕掛けになっている。しかしそのしょっぱさすら「愛」と「絆」の深みになっている。たとえば初枝のふとんで毎晩いっしょに眠る亜紀は、のちに“おばあちゃん”が自らの両親(緒形直人・森口瑤子)からしばしば現金をうけとっていたことを知る。両親は音信不通の長女が初枝と暮らしていたことを「しらなかった」というが、初枝と彼らの間にどのような了解があったのかなかったのかは映画では描かれないし、亜紀にもわかりようがない。初枝はほんとうに“孫”として亜紀を愛していたのか。それとも金づるとしか思っていなかったのか。だがそんな真実が、いったい誰にどうやって理解できるというのだろう。
その一方で、抱きしめる腕の力の強さにも、ふれあう肌のあたたかみにも、すべてに疑いようのない必然性がある。余計なものは、何もない。

「アンパンマン」の作者・やなせたかしが正義の意味を「子どもにひもじい思いをさせないこと」としていたのをインタビューで聞いたことがあるが、その意味では、この映画に描かれる家族の姿はまさに正義そのものといえる。一家の日々の生活はとにかく飢えないことを第一優先に営まれていたし、そんなものはどこの家庭でも同じ、家庭生活の軸ではあるのだが、重要なのは、この一家の誰もが自分ひとりで勝手にこの最底辺の貧しさから抜けだそうとはしない点である。彼らの全員が、互いにかろうじて飢えない・飢えさせないためだけに、花火も見えない傾きかけたあばら家で身を寄せあい、脆く危ういモラトリアムをささやかに積み重ねていく。それまでの人生で、おそらくはさまざまな不幸を知った彼らは、たとえ貧しくても食事ができて安心して眠れる居場所があることがどれほど幸せなものかを、誰よりも深く知っていたのではないだろうか。
だから彼らに貧しさゆえの悲壮感はない。彼らは、この生活をこのまま続けていたらどうなるか、という将来像をいっさい想定しない。間違いなく、意識して考えないよう逃げている。豊かな人は平気で将来のことが考えられる。貧しい人は怖くて考えられない。その怖さを知らない子どもの祥太だけが、打開の一撃に踏みこむことができる。

描かれる登場人物たちの生活は、窃盗、児童虐待、誘拐、搾取、詐欺など報道で耳にしない日はまずないといっていいくらいありふれた事件の連続である。
だがそれを聞くオーディエンスにとって、加害者と被害者がクロスする1点のみで語られるそれらの事件はいつも、当事者にとっては、それまでもそしてこの先も続いていく人生の断片でしかない。なぜかメディアでは価値を見出されないそれらの“背景”の意味を問うた是枝監督に、強烈な共感を感じました。

キャスティングがとにかく素晴らしいのだが、なかでもゆりを演じた佐々木みゆは唯一無二といってもいい。この家族の中でもまだどの犯罪にも手を染めないピュアな立場に置かれた彼女だが、一見してわかりやすい美少女ではない。邦画で陥りがちな「被害者=汚れない人」という表層的描写に決して迎合しないキャスティングと、無駄に笑ったり媚びたりすることのないストレートな演技が、物語のリアリティを最も強く支えているように見えました。
この物語と似た旧作の『誰も知らない』もすごく好きな作品だけど、その部分が微妙に引っかかってたんだよね。あの映画ももう公開から14年、ゆりと似たポジションのゆきを演じた清水萌々子はもう20歳をすぎて、いまは芸能活動をしていない。
そりゃ監督だって成熟するし、常連だったカンヌだってパルムドールあげちゃうでしょう。じゃあおまえは14年間なにしてたんだとか、自分のことはあまりふりかえりたくないですけど。


関連レビュー
『三度目の殺人』
『海よりもまだ深く』
『そして父になる』
『空気人形』
『歩いても 歩いても』
『花よりもなほ』
『誰も知らない』



国保、社保から葬儀・埋葬の補助
葬儀後の給付金(補助金)

21センチのバレエシューズ

2018年06月02日 | movie
『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』

1980年5月20日、ソウル。11歳の娘を男手ひとりで育てるタクシードライバーのマンソプ(ソン・ガンホ)は、滞納した家賃10万ウォンを稼ぐため、光州までドイツ人のユルゲン・ヒンツペーター(トーマス・クレッチマン)を乗せていく。
折しも光州はクーデターに抗議する市民と戒厳軍が衝突し、電話も通じず外部との交通は軍の検問に絶たれた孤立状態にあった。
光州事件を初めて海外で報道したジャーナリストの実話を通じて、韓国民主化運動の歴史の1ページを描く。

いまも全容がわかっていないといわれる光州事件。私もさっぱりわかってません。
これまでにも事件を映像化した作品は観たことあったけど、この『タクシー運転手』は他とはちょっと違う作品になったんではないかと思う。
まず視点ががっちり整理されている。犠牲者の正確な総数どころか発端すら判然としない事件の真相には、善悪含めいっさい触れることなく、あくまでも街の外からやってきた無教養な労働者マンソプ個人の視点にしぼりきってある。彼はただお金がほしい。ひとり娘のもとに無事に帰りたい。ヒンツペーターはスクープがほしい(車で片道4時間前後の距離を昼から日帰りで取材する予定だった)。このふたりの言葉の壁を挟んだ精神戦が、光州市内の惨状を見て恐怖し、やがて虐待される同朋の姿に心震わせる韓国人と、軍部のあまりの暴虐に怖気づく外国人記者として、徐々に交錯していく。
この丁寧だけれどストレートな内面描写が、ひたすら混乱し催涙弾の煙に霞む幻のような光州の風景を背に、くっきりと浮かび上がって来る構図が実に見事です。

そして、この事件の何が間違っていたかというポイントがたったひとつに絞られている点。
事件のきっかけは皆さまご存知軍事クーデターへの反発だが、そうした前後の経緯などはごっそり排除して、単純に「軍隊が暴力で国民を制圧するなんておかしい」というところしか描かない。そんなの誰がどう観てもおかしい。途中、私服軍人がマンソプをつかまえて「アカ」「国民の敵」などと暴力をふるう場面があるのだが、よしんばマンソプがアカだろうが(違うけど)国民の敵だろうが(違うけど)、それでいきなり暴力をふるうのは完全に間違っている。理由はどうあれ、暴力は、ヘンだ。
マンソプは「デモなんかやったって何にも変わらない」「学生ならまじめに学校に行けばいいのに」「韓国は住みやすいいい国」としか考えていないガッチガチのノンポリ庶民の兵役経験者だが、その彼の“常識”にてらして、軍隊はそんなことしない、するべきでないというとにかくニュートラルな判断に、観客誰もがするっと素直に共感できる構成になっている。しかもあざとくない。うまいです。

実話を基にしているが、映画化されるまで実在のタクシードライバーがみつからなかったこともあり、マンソプ個人の人物設定はフィクションになっている。映画の中のマンソプには娘がいて、貧困にあえぐ彼は成長期のわが子に満足に靴さえ買ってやれない。しかたなく少女は靴のかかとを踏んで履いているのだが、この靴が、ものすごく象徴的なモチーフとして描かれている。
軍の制圧現場に散らばる、無数の靴。病院に運びこまれた犠牲者の足元に転がる靴。
靴はひとりでに持ち主の身体を離れていったりしない。だから置き去りにされた靴は、そこにいたはずの人の不在に強烈な不安感を抱かせる。この靴を履いていた人は無事なのか、生きているのか、いまどこにいるのか、その靴が履き慣らされていればいるほど、履いていた人のパーソナリティが濃い影のように靴の上に映る。
映画を観ていて、ふと、東日本大震災の瓦礫撤去や海岸捜索の現場でみつけた何足もの靴のことを思いだす。災害という自然の暴力の現場ではしょっちゅう靴がみつかるのだが、持ち主の特定につながる情報がなければそのまま廃棄処分されるきまりになっていた。かかとや内側に名前など持ち主を判別できる手がかりがないか探しながら、どうかこの靴の持ち主が生きていてくれますようにと祈ったものだった。

映画全体としては庶民派コメディをベースに娯楽作風にまとめて、一見して政治色を綺麗に取り払ってあるが、随所に愛国とは何かを問うセリフがさりげなくちりばめられていて、そういうシナリオの絶妙なバランス感覚にものすごいセンスを感じました。守銭奴マンソプと、アジアではなんでもお金で解決できると思っているアングロサクソン外国人ヒンツペーターのすれ違いを経たラストシーンなんか、心の底から唸ってしまうほどうまい。
かつ画面構成やライティング、衣装やメイクにいたるまで余計なものがまったくなく、すべての要素に妥協というものが感じられない。それでいて、ちゃんと笑って、ちゃんと泣ける。
韓国映画の底力を、改めて痛感する作品でした。
それにしてもこの邦題というかサブタイトルのダサさは・・・イタタタタ。

関連レビュー:
『光州事件で読む現代韓国』 真鍋祐子著
『光州5・18』
『ユゴ 大統領有故』
『大統領の理髪師』
『殺人の追憶』
『戦場のピアニスト』