落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

バビロンの都

2008年03月29日 | book
『南京事件の日々―ミニー・ヴォートリンの日記』 ミニー・ヴォートリン著 岡田良之助・伊原陽子訳 解説:笠原十九司
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先日読んだ『南京の真実』のジョン・ラーべと同じく、南京大虐殺(あるいは南京事件)当時南京安全区国際委員会の委員だった女性の日記。
日記といっても家族や友人などごく親しい人だけを読者に想定したラーべのものとは違い、ヴォートリンのそれは宣教師の伝道団への報告書でもあり、文体や内容は日記というより日誌に近い。だけでなく、感情論をごっそりと廃し、自ら見たものと聞いたものを極力簡潔に記載しようとしたのは、宗教家であり教師でありアメリカの淑女たるヴォートリンの自意識が働いたからではないだろうか。

彼女は日記の中では決して誰も非難しない。
南京を見捨てた中国政府も、中国軍も、日本軍も、匪族も、泥棒も、誰に対しても、ひとことたりとも批判の言葉はここには書かれていない。そんなことを書いても/いっても何の意味もないと思っていたのかもしれない。ラーべの日記にもそういう記述は少なかったから。
だが逆に、日本の外交官や上級将校に接したときの好印象については詳しくくり返し書いている。読んでいる方には、その好印象にしがみつきたい彼女の思いが表われているようにも感じる。彼女たちの周りで起きている蛮行をやめて平和を取り戻してくれる人がいてほしい、いるに違いない、そんな一縷の望み。

ヴォートリンは1886年アメリカ・イリノイ州の貧農の娘として生まれ、幼くして母と死別後、家事をきりもりし弟妹のめんどうをみながら苦学して宣教師となり、1919年に中国に派遣された。渡中のために婚約が破談になり、以来老父の介護も家族に任せて、中国の女性教育に精魂を注いで来た。
中国の都市に住む欧米人というとどうしても外交官や商人などといった特権階級をイメージしがちだが、ラーべ同様ヴォートリンも貧しい苦労人だったという出自からか、貧しくどこへも避難できない非力な南京の人々を見捨てられないと考えたのだろう。
ただ守るといっても容易なことではない。この日記には、避難所と化した学校(金陵女子文理学院=現南京師範大学)の衛生状態や莫大に膨らんでいく避難民の数と彼女たちに食べさせる食糧問題など、毎日毎日同じようなことがひたすら淡々と描かれている。毎日何万人という人間の身の安全と健康状態を考えるという現実が、いったいどれほどの重圧かなど到底常人の想像の及ぶ範囲ではない。しかもそれはすべて彼女個人の自発的な善意からくる重圧なのだ。

この本には日本軍の南京攻略が始まった1937年12月から翌年3月までの日記と、その前後に残りの日記の概略をまとめた解説が掲載されている。もとの原文の量が膨大だったからだが、ぐり個人としてはできれば是非とも全文読んでみたい。
なぜなら彼女が嘗めた辛酸はこの事件当時の日々だけにとどまらなかったからだ。
会社から再三の退去勧告を受けて南京を後にしたラーべと違い、学校という仕事場のあったヴォートリンはその後も南京に留まり、戦時下の中国で地元の女性の教育と救済につとめ続けた。しかし1940年精神のバランスを崩し帰国、帰国途上から自殺未遂をくり返し、翌1941年5月、ガス自殺で自ら命を絶った。彼女は重いうつ病を患っていた。南京の女性たちにとって彼女は今も女神だが、彼女自身は、家族を犠牲にして人生のすべてを捧げつくした中国での伝道活動が失敗に終わったという自責の念から逃れられなかった。悲しすぎる。
日記は帰国の前年頃から記載が間遠になっていき、タイプミスがめだつようになったという。その気持ちはなんとなくだがわかるような気がする。何を書く気も起きない、何をいう気力も湧いてこない、感情を言葉にすることなど何の意味もない、そんなふうに閉じていく心の扉の重さと、それまで20年間希望を懸けて来た夢が無惨に破壊されていくのを目の当たりに、なすすべもなく手をつかねているしかない無力感のつめたさ。それこそが彼女にとっても真の悲劇だったのだろう。
この日記には誰を批判する言葉も、悲嘆も絶望も直接には書かれていない。しかしだからといってそこで起きていたことが誰も悲しませなかったことにはならない。もしそう考える人間がいるとしたら、それはたとえ何を聞いても何を見ても、慮るという行為に決して意味を求めない人ではないだろうか。


ぐりメモ。
1938年1月20日の記述。126p。
任務で南京を離れる若い日本人将校が、ヴォートリンに対しある中国人女性ふたりの保護を求めた。彼女たちが住んでいる外交部の近隣地域が危険だからというのがその理由なのだが、公にはこの時点で日本軍は危険は去ったので難民は自宅へ戻るよう宣伝していた。現在この日記を基に日本軍の当地での犯罪を否定する意見もあるが、さまざまな意味でこのエピソードは大変興味深い。件の将校の個人名が記載されていないのが残念である。
ヴォートリンは将校が彼女たちになんらかの個人感情をもっているものと推測していたが、結局ふたりのうちの片方が元教え子であったことから保護を引き受けている。

ホテル南京

2008年03月23日 | book
『南京の真実』 ジョン・ラーベ著 エルヴィン・ヴィッケルト編 平野卿子訳
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『ザ・レイプ・オブ・南京』の著者アイリス・チャン氏が取材中に発掘した、在中ドイツ人の1937〜38年当時の日記。
著者ラーベはドイツを代表する総合電機メーカー・ジーメンスの南京支社長だった人物で、南京陥落後に市内にいた欧米人と協力して中国人民間人を保護するために南京安全区国際委員会を組織し、その代表を務めた。
長く日記が公開されなかったのは、彼のドイツ帰国後から第二次世界大戦の終結までの時代、この大惨事の公表が日独関係に悪影響を及ぼす危険性があったためと、戦後にはラーべがナチ党員だったせいで家族に危害が加わることを怖れたためである。

この日記の存在が明らかになったとき、アメリカのメディアは1994年の映画『シンドラーのリスト』になぞらえて彼を「南京のシンドラー」と評したという。
でもこの日記を実際に読んでみると、むしろ2004年の映画『ホテル・ルワンダ』の方を連想する。
ラーベは南京に日本軍が迫り会社から避難を勧められたとき、後に残される使用人や現地従業員やその家族をどうしても見捨てておけず、彼らを自宅内に泊めて自らも留まりつづけることを決意する。『〜ルワンダ』のルセサバギナ(ドン・チードル)も、当初自身の妻の親族や隣人をホテルに収容したのがその後の人道活動のきっかけである。
ラーべは自分が委員会の代表に選ばれたことを「ドイツ人で日本軍との交渉に有利だから」と考えていたし、たった3.8平方キロ(面積でいえば甲子園球場と同じくらい)程度の地域に最大で25万人もの難民を収容したことで、彼自身なんの利益も得ることなど考えてもいなかった。30年もの歳月を暮した第二の故郷でもある中国の人々を、ラーべは人種や国籍や言語を超えて隣人として友人として愛した。愛する人々の窮乏に差し伸べる手があるなら伸ばし続けたい、単純に彼はそう思っただけなのだろう。
文面を読んでいても、自ら労働者と称するようにごく素朴で愚直な人柄がしのばれる。ある意味では不器用な人でもあったのだろう。ドイツ帰国後の不遇を思うと、むしろ不器用であったからこそ、あの南京での彼の誠実さが多くの人に信頼されたのも頷ける。

この日本語版日記にも『ザ・レイプ・オブ・南京』同様、各方面から批難が浴びせられている。
編者のヴィッケルト氏は日本と中国に滞在した経験があり両国の事情に詳しく、かつラーべ本人とも面識があるというこれ以上ないくらいの適任者ではあるが、彼のテキストには故人や遺族への配慮が必要以上に強く感じられるし、翻訳作業になんらかの手ごころが加わっている可能性は否定できないだろうとは思う。
でも、ぐりが読んだ限りではこの本そのものは誰が読んでも─読者がたとえ“事件”否定派でも─それなりに受け入れやすい、読みやすくわかりやすい日記だと思った。意外に残酷な描写は少ないし(ラーべ本人が直接目撃しなかったせいだろう)、彼の仕事の多くは安全区の設置・運営、難民の食糧・燃料の調達、治安維持、日中独の政府・軍部との交渉など実務的なことばかりで、強姦や略奪を防ぐ・止めるといったヒロイックな活動はそう強調されてはいない。
読んでいてもっとも印象的に感じたのは、彼個人の活躍ぶりよりも当時の南京市内の混乱ぶりが非常にリアルに記録されている点。日記は1937年9月中旬以降のぶんからが収録されているのだが、どんな段階を経て南京から中国軍が撤退し日本軍の侵攻が始まり、占領状態がどのように変化していったのかが、実に生々しく表現されている。なにしろラーべは中国軍の側でもなければ日本軍側でもない。どちらに対してもシビアな目で客観的意見を述べている。
しかしこの人の精神力・体力はハンパないっす。強いです。スゴイです。エライかどーかはさておいて、強いことだけは間違いない。

現地ではあれほどヒーロー視されていながら帰国後はなんだかんだと踏んだり蹴ったりな晩年を過ごした気の毒なラーべ氏だが、現在は中独合作で『ジョン・ラーベ』という映画が製作中なのだそうだ。ラーベ役はウルリッヒ・トゥクール(『善き人のためのソナタ』『ソラリス』)、共演はダニエル・ブリュール、スティーヴ・ブシェミ、張静初(チャン・ジンチュー)、香川照之、柄本明、井川東吾、ARATA、杉本哲太など。
どんな映画になるのかは知らないけど(爆)、完成の暁には是非とも日本でも観られることをせつに期待してます。できることなら、『シンドラーのリスト』ではなく『ホテル・ルワンダ』のように、「誰もが人間としてやるべきことをすれば平和は守れるはず」という普遍的な物語になっててほしいなと、勝手に思ってます。あと、ラーべが2月に南京を去った後に“ジーメンス・キャンプ”の人たちがどうなったのかもすごく気になる。
しかしこの『南京の真実』っちゅータイトルはちょっとアレだよねえ・・・あんまり内容に即してるとは思えないし、本のタイトルとしてもイマイチ陳腐な気がしてしょうがない。もっとマシなタイトルはなかったんかなー?

ビーズに綴る愛

2008年03月20日 | book
『少女売買 インドに売られたネパールの少女たち』 長谷川まり子著
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こないだアグネス・チャンが児童ポルノ根絶キャンペーンの記者会見をやってましたが(ニュース)。
もうねえ、ポルノどころじゃないよ。
この夏に公開される映画『闇の子供たち』(ニュース)にも登場するが、東南アジアの売春窟では6〜7歳の幼児が売春をさせられている。彼/彼女たちは物心もつかないうちから言葉巧みに騙されるか、あるいは誘拐同然にさらわれて売春宿に連れてこられ、いっさいの自由を奪われて売春を強要される。賃金など一円も渡されない。彼/彼女たちの生活は人間のそれではない。家畜以下である。

この本はいわゆる一般的なノンフィクション、ドキュメンタリーとはかなり違った本だ。
著者の長谷川氏はネパール人セックスワーカーの救助・自助活動を支援するNGOを実に12年にもわたって主催するボランティア活動家である。もともとはジャーナリストとしてインドの売春窟を訪れ、そこで働かされるネパール人少女たちの存在を知り、成りゆきのままに支援に参加することになったという。
だからこの本は、インド/ネパール間の人身売買の実態を暴いたノンフィクションであると同時に、活動家としての長谷川氏個人の手記・体験記という側面もある。それがこの本を、テーマの重さのわりに読みやすくしている。もうホントにわかりやすい、たぶん中学生くらいの子どもが読んでもじゅうぶん理解できる、非常にやさしい本です。

ネパールからインドへ売られてくる少女がいる。
彼女はどこでどんな家庭に生まれてどんな生活をしていたのか、なぜ売られて来たのか、彼女を騙したのはどんな人で何をいわれたのか、どんな道程を経てインドに来たのか、売られて来たらどんな生活が待っているのか、彼女たちの仕事はどんなもので、現地の売春窟と人身売買システムはどんなものなのか、助けようとする人たちを阻む壁はいったいどんなものなのか。
人身売買の実態といってもそこにはさまざまな側面がある。生半可な潜入取材ではとても全体像を知るほどのじゅうぶんな記録はとれない。その点、この本は12年間という長い時間をかけて集められた個人的経験という、これ以上はとても望めないほどのリアリティがある。少なくとも、インドで働くネパール人セックスワーカーの現実だけは相当にリアルだ。
できることなら、他の各国の実態についても、同じように支援者自身の手でこれくらい読みやすい本がもっとたくさん書かれるようになるといいと思う。

ネパール人の少女たちのセックスの値段は1回¥200〜¥300から。1日に40〜50人の客を相手にし、多いときは100人を数えることもあるという。長谷川氏が居合わせた客のように1回10分程度なら不可能ではない数字である。
まだ初潮も迎えていない子どもがそういう仕事をしている。いや、仕事じゃないな。無給なんだから。労働だ。
コンドームの使用率が極端に低いため彼女たちの何割かはHIVに感染していて、救援団体に助け出されても実家には戻れないケースも多い。世界で最も貧しい国のひとつであるネパールでは、一般市民ばかりか医療関係者の間でもHIVに対する偏見と誤解は根強い。
そんな子どもがなぜ性奴隷の商品になるのか。処女性を尊ぶヒンドゥー教圏では女性は若ければ若いほど好まれ、また肌の色がカーストを象徴するインドでは色白なネパール人が高貴さをイメージさせるからなのだそうだ。
処女が聞いて呆れる。高貴が聞いて呆れる。しかしすべてを無知と貧困ゆえの誤解ともいいきれはしない。豊かでじゅうぶんな教育を受けた日本人にも欧米人にもそんな幻想は間違いなくあるはずだ。それに、インドの売春窟にはたまたま日本人客はいない(いないことになってる)けど、タイやベトナムじゃいちばんの上客は日本人だともいう。この本に、たまたま日本人客が出てこないってだけのことである。たまたま。

この本のいちばんすごいところは、やっぱり長谷川氏の究極なまでの正直さだろう。
彼女は、取材も支援活動もぜんぶ自分のためにやっているという。被害女性たちに深く関わることにも、なんらかの責任を負うことにも、初めは抵抗を感じたことがきっちりしっかり率直に書いてある。人間ここまで素直になるのはなかなか難しいんじゃないかと思う。でもだからこそ、書かれた言葉のすべてに、ずっしりとした信頼感を感じることができる。
『ホテル・ルワンダ』が日本で公開されて話題になったころ、某SNSで「自分もルワンダのために何かしたいけどどうしたらいいか」などという若者が何人もいた。それはそれで殊勝な心がけだとは思う。彼らがひとりでも多く、実際に何か行動を起こしてくれていればいいなとは思う。
でもほんとうの慈善活動とは、長谷川氏のいうように、誰かのためではなく、自分自身のためにすることで、自分のためにやっていると堂々といえることなんじゃないかと思う。

ぐりはこの本、男性に読んでほしいです。
貧困と無知と売春に対する偏見を持つすべての人に、読んでほしい。

ラリグラス・ジャパン 長谷川氏が代表を務めるNGO

記憶につづる愛

2008年03月20日 | book
『「ザ・レイプ・オブ・南京」を読む』 巫召鴻著
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こないだ読んだ『ザ・レイプ・オブ・南京』の翻訳者による解説本。
てゆーかメインは訳注ですね。もともと日本語版を出す際に訳注を本文に並記したかったらしいんだけど、どーも権利契約関係の都合でムリだったらしーです。なので『ザ・レイプ・オブ・南京』本文には訳注はほとんどない。あっても年号の誤記訂正くらい。
けどべつの本に分けて却ってよかったかもしれない。だって本文にも原注が大量についてて、日本語版では後半4分の1ほどのページが注釈に割かれている。しかも原著が出て日本語版が出るまでの10年にさんざっぱらあら探しされ放題で、日本国内ではすっかり「間違いだらけのトンデモ本」扱いになってしまった挙げ句に著者が自殺までしてしまったいわく付きの本に、中途半端な訳注じゃ説明しきれないことがあり過ぎる。

ただし、ぐり個人としてはこの2冊は是非ともセットで読むことをオススメします。
理由は簡単で、『ザ・レイプ・オブ・南京』はやっぱり間違いや誤解がどうしても目立ってしまって、なかなか公平な感覚で読みときにくい感触が拭いきれないからだ。もともとこの本は欧米の一般読者向けに書かれた本であり、アイリス・チャン氏自身に日本社会に関する知識が不足していただけでなく、想定した読者にもそうした情報は要求されていなかった─いいかえれば、彼女の日本社会に対する誤解は、欧米社会全体に当り前に存在しうるだけの誤解ともいえる─から、日本の読者/日本に詳しい読者が読んで「なんかヘン」と感じてしまうのは当然のことだし、ある程度は仕方がないことだ。

『〜を読む』の著者・巫召鴻氏は戦後生まれの台湾系華僑2世。
ルーツは台湾/中国だが生まれも育ちも日本で現在も日本在住、日中戦争両国どちらの当事者でもないうえに、歴史家でもジャーナリストでも戦争研究家でもない、相応に中立的な立場の著者ともいえる。
なので『ザ・レイプ・オブ・南京』という本に対しても、南京大虐殺(あるいは南京事件)に対しても、全体にかなり突き放した印象の表現が目立っている。クールだ。
この本は訳注に加えて、この10年に世界中で起きた『ザ・レイプ・オブ・南京』賛否両論の論争についても、それぞれ対応箇所を挙げて解説しその信憑性について検証もしている。ぐりのようにそういう論争に興味のない読者が読んでも、非常におもしろいです。マジで、おもろいです。
まあでも、フツーに考えて、「あったこと」を証明するより、「なかったこと」を証明する方が、ずっと難しいことなんだよね。そこはハンデとしては認めてもいいと思う。『お父さんはやってない』(映画『それでもボクはやってない』のモチーフとなった事件の容疑者の手記)でもそんなこと書いてあったしね。

What's wrong with you?

2008年03月20日 | movie
『ダージリン急行』

物足りなかった。
徹頭徹尾、そのひとことにつきる。
まあまあおもしろいんだけどね。でも、自分がアジア人であることを忘れてまでのめりこめるような作品にはなってなかったです。ハリウッド映画はしょせんハリウッド映画。
見どころは本編前に上映される短編でナタリー・ポートマンの貴重なヌードが拝めるってとこくらいか?『その名にちなんで』のイルファン・カーンがチョイ役で出てくるんだけど、あまりに扱いがぞんざいで唖然。
金持ちにはどーしてもついてけない自分の貧乏根性に改めて情けなくもなり。