『南京事件の日々―ミニー・ヴォートリンの日記』 ミニー・ヴォートリン著 岡田良之助・伊原陽子訳 解説:笠原十九司
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先日読んだ『南京の真実』のジョン・ラーべと同じく、南京大虐殺(あるいは南京事件)当時南京安全区国際委員会の委員だった女性の日記。
日記といっても家族や友人などごく親しい人だけを読者に想定したラーべのものとは違い、ヴォートリンのそれは宣教師の伝道団への報告書でもあり、文体や内容は日記というより日誌に近い。だけでなく、感情論をごっそりと廃し、自ら見たものと聞いたものを極力簡潔に記載しようとしたのは、宗教家であり教師でありアメリカの淑女たるヴォートリンの自意識が働いたからではないだろうか。
彼女は日記の中では決して誰も非難しない。
南京を見捨てた中国政府も、中国軍も、日本軍も、匪族も、泥棒も、誰に対しても、ひとことたりとも批判の言葉はここには書かれていない。そんなことを書いても/いっても何の意味もないと思っていたのかもしれない。ラーべの日記にもそういう記述は少なかったから。
だが逆に、日本の外交官や上級将校に接したときの好印象については詳しくくり返し書いている。読んでいる方には、その好印象にしがみつきたい彼女の思いが表われているようにも感じる。彼女たちの周りで起きている蛮行をやめて平和を取り戻してくれる人がいてほしい、いるに違いない、そんな一縷の望み。
ヴォートリンは1886年アメリカ・イリノイ州の貧農の娘として生まれ、幼くして母と死別後、家事をきりもりし弟妹のめんどうをみながら苦学して宣教師となり、1919年に中国に派遣された。渡中のために婚約が破談になり、以来老父の介護も家族に任せて、中国の女性教育に精魂を注いで来た。
中国の都市に住む欧米人というとどうしても外交官や商人などといった特権階級をイメージしがちだが、ラーべ同様ヴォートリンも貧しい苦労人だったという出自からか、貧しくどこへも避難できない非力な南京の人々を見捨てられないと考えたのだろう。
ただ守るといっても容易なことではない。この日記には、避難所と化した学校(金陵女子文理学院=現南京師範大学)の衛生状態や莫大に膨らんでいく避難民の数と彼女たちに食べさせる食糧問題など、毎日毎日同じようなことがひたすら淡々と描かれている。毎日何万人という人間の身の安全と健康状態を考えるという現実が、いったいどれほどの重圧かなど到底常人の想像の及ぶ範囲ではない。しかもそれはすべて彼女個人の自発的な善意からくる重圧なのだ。
この本には日本軍の南京攻略が始まった1937年12月から翌年3月までの日記と、その前後に残りの日記の概略をまとめた解説が掲載されている。もとの原文の量が膨大だったからだが、ぐり個人としてはできれば是非とも全文読んでみたい。
なぜなら彼女が嘗めた辛酸はこの事件当時の日々だけにとどまらなかったからだ。
会社から再三の退去勧告を受けて南京を後にしたラーべと違い、学校という仕事場のあったヴォートリンはその後も南京に留まり、戦時下の中国で地元の女性の教育と救済につとめ続けた。しかし1940年精神のバランスを崩し帰国、帰国途上から自殺未遂をくり返し、翌1941年5月、ガス自殺で自ら命を絶った。彼女は重いうつ病を患っていた。南京の女性たちにとって彼女は今も女神だが、彼女自身は、家族を犠牲にして人生のすべてを捧げつくした中国での伝道活動が失敗に終わったという自責の念から逃れられなかった。悲しすぎる。
日記は帰国の前年頃から記載が間遠になっていき、タイプミスがめだつようになったという。その気持ちはなんとなくだがわかるような気がする。何を書く気も起きない、何をいう気力も湧いてこない、感情を言葉にすることなど何の意味もない、そんなふうに閉じていく心の扉の重さと、それまで20年間希望を懸けて来た夢が無惨に破壊されていくのを目の当たりに、なすすべもなく手をつかねているしかない無力感のつめたさ。それこそが彼女にとっても真の悲劇だったのだろう。
この日記には誰を批判する言葉も、悲嘆も絶望も直接には書かれていない。しかしだからといってそこで起きていたことが誰も悲しませなかったことにはならない。もしそう考える人間がいるとしたら、それはたとえ何を聞いても何を見ても、慮るという行為に決して意味を求めない人ではないだろうか。
ぐりメモ。
1938年1月20日の記述。126p。
任務で南京を離れる若い日本人将校が、ヴォートリンに対しある中国人女性ふたりの保護を求めた。彼女たちが住んでいる外交部の近隣地域が危険だからというのがその理由なのだが、公にはこの時点で日本軍は危険は去ったので難民は自宅へ戻るよう宣伝していた。現在この日記を基に日本軍の当地での犯罪を否定する意見もあるが、さまざまな意味でこのエピソードは大変興味深い。件の将校の個人名が記載されていないのが残念である。
ヴォートリンは将校が彼女たちになんらかの個人感情をもっているものと推測していたが、結局ふたりのうちの片方が元教え子であったことから保護を引き受けている。
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先日読んだ『南京の真実』のジョン・ラーべと同じく、南京大虐殺(あるいは南京事件)当時南京安全区国際委員会の委員だった女性の日記。
日記といっても家族や友人などごく親しい人だけを読者に想定したラーべのものとは違い、ヴォートリンのそれは宣教師の伝道団への報告書でもあり、文体や内容は日記というより日誌に近い。だけでなく、感情論をごっそりと廃し、自ら見たものと聞いたものを極力簡潔に記載しようとしたのは、宗教家であり教師でありアメリカの淑女たるヴォートリンの自意識が働いたからではないだろうか。
彼女は日記の中では決して誰も非難しない。
南京を見捨てた中国政府も、中国軍も、日本軍も、匪族も、泥棒も、誰に対しても、ひとことたりとも批判の言葉はここには書かれていない。そんなことを書いても/いっても何の意味もないと思っていたのかもしれない。ラーべの日記にもそういう記述は少なかったから。
だが逆に、日本の外交官や上級将校に接したときの好印象については詳しくくり返し書いている。読んでいる方には、その好印象にしがみつきたい彼女の思いが表われているようにも感じる。彼女たちの周りで起きている蛮行をやめて平和を取り戻してくれる人がいてほしい、いるに違いない、そんな一縷の望み。
ヴォートリンは1886年アメリカ・イリノイ州の貧農の娘として生まれ、幼くして母と死別後、家事をきりもりし弟妹のめんどうをみながら苦学して宣教師となり、1919年に中国に派遣された。渡中のために婚約が破談になり、以来老父の介護も家族に任せて、中国の女性教育に精魂を注いで来た。
中国の都市に住む欧米人というとどうしても外交官や商人などといった特権階級をイメージしがちだが、ラーべ同様ヴォートリンも貧しい苦労人だったという出自からか、貧しくどこへも避難できない非力な南京の人々を見捨てられないと考えたのだろう。
ただ守るといっても容易なことではない。この日記には、避難所と化した学校(金陵女子文理学院=現南京師範大学)の衛生状態や莫大に膨らんでいく避難民の数と彼女たちに食べさせる食糧問題など、毎日毎日同じようなことがひたすら淡々と描かれている。毎日何万人という人間の身の安全と健康状態を考えるという現実が、いったいどれほどの重圧かなど到底常人の想像の及ぶ範囲ではない。しかもそれはすべて彼女個人の自発的な善意からくる重圧なのだ。
この本には日本軍の南京攻略が始まった1937年12月から翌年3月までの日記と、その前後に残りの日記の概略をまとめた解説が掲載されている。もとの原文の量が膨大だったからだが、ぐり個人としてはできれば是非とも全文読んでみたい。
なぜなら彼女が嘗めた辛酸はこの事件当時の日々だけにとどまらなかったからだ。
会社から再三の退去勧告を受けて南京を後にしたラーべと違い、学校という仕事場のあったヴォートリンはその後も南京に留まり、戦時下の中国で地元の女性の教育と救済につとめ続けた。しかし1940年精神のバランスを崩し帰国、帰国途上から自殺未遂をくり返し、翌1941年5月、ガス自殺で自ら命を絶った。彼女は重いうつ病を患っていた。南京の女性たちにとって彼女は今も女神だが、彼女自身は、家族を犠牲にして人生のすべてを捧げつくした中国での伝道活動が失敗に終わったという自責の念から逃れられなかった。悲しすぎる。
日記は帰国の前年頃から記載が間遠になっていき、タイプミスがめだつようになったという。その気持ちはなんとなくだがわかるような気がする。何を書く気も起きない、何をいう気力も湧いてこない、感情を言葉にすることなど何の意味もない、そんなふうに閉じていく心の扉の重さと、それまで20年間希望を懸けて来た夢が無惨に破壊されていくのを目の当たりに、なすすべもなく手をつかねているしかない無力感のつめたさ。それこそが彼女にとっても真の悲劇だったのだろう。
この日記には誰を批判する言葉も、悲嘆も絶望も直接には書かれていない。しかしだからといってそこで起きていたことが誰も悲しませなかったことにはならない。もしそう考える人間がいるとしたら、それはたとえ何を聞いても何を見ても、慮るという行為に決して意味を求めない人ではないだろうか。
ぐりメモ。
1938年1月20日の記述。126p。
任務で南京を離れる若い日本人将校が、ヴォートリンに対しある中国人女性ふたりの保護を求めた。彼女たちが住んでいる外交部の近隣地域が危険だからというのがその理由なのだが、公にはこの時点で日本軍は危険は去ったので難民は自宅へ戻るよう宣伝していた。現在この日記を基に日本軍の当地での犯罪を否定する意見もあるが、さまざまな意味でこのエピソードは大変興味深い。件の将校の個人名が記載されていないのが残念である。
ヴォートリンは将校が彼女たちになんらかの個人感情をもっているものと推測していたが、結局ふたりのうちの片方が元教え子であったことから保護を引き受けている。