落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

支配せよ

2007年12月29日 | movie
『再会の街で』
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歯科医のアラン(ドン・チードル)はある日偶然NYの街角で大学時代のルームメイト・チャーリー(アダム・サンドラー)と再会するが、9.11テロで妻子も飼犬も失ったチャーリーは心を閉ざし自分の殻に籠り、音楽とTVゲームとキッチンのリフォームに日々の生活を費やしていた。アランはそんな彼を助けようと奔走するのだが・・・。

すごくいい映画でした。感動したよ。
アランは初め友だちの悲運に同情して救いの手をさしのべようとするんだけど、救われたかったのはほんとうは自分の方だということにだんだん気づいていく。仕事は順調だし美人の奥さんもかわいい娘もいる。すてきなクリニックにリッチなコンドミニアム、きれいなクルマにオシャレなスーツ、どこからみても“勝ち組”の彼だけど、何かが息苦しい。
そこへ現れたのが卒業以来音信不通のチャーリーだった。
チャーリーといれば“勝ち組”のふりなんかしなくていい。彼といれば、まだ“勝ち組”でも何者でもなかった、“ただのアラン”に戻れる。
人は自分が何者なのか知りたくて、あるいは何者かになりたくて成長のために努力するけれど、成長には常に犠牲が伴う。大人になるには純粋さや正直さは邪魔になり、妥協や欺瞞も必要になる。経験を積めば物事を先読みしていいたいこともいえなくなってくる。そして人間はつまらなくなっていく。人生がつまらなくなっていく。気づいたときには「こんなハズじゃなかったのに」とため息をつくことしかできなくなっている。
イタイわあ。

一方でチャーリーは決して戻ってこない家族にとらわれたまま立ち止まっている。
決して家族の話をしようとしないチャーリー。彼がアランに心を開いたのは、アランが死んだ妻子のことをまったく知らないからなのだが、かといって彼女たちのことを忘れたいわけではない。思いだす必要もない、彼は9.11以来4年間というものずっと、彼女たちとの愛に支配されたまま暮していたのだ。
その支配から逃れる術を持たなかったチャーリーだが、むしろ彼は記憶の中から彼女たちが遠ざかっていくのがいちばん怖かったのではないだろうか。人は忘れる生き物だから、誰かと思い出をわけあってしまったら、二度と会えない妻子の記憶を浪費するような気がしたのではないだろうか。
自分を癒すことよりも、これから増えていくことのない思い出を守ることの方が、彼にとっては大切だったのだろう。
そんな悲しみの形もある。
そんなチャーリーの心理に寄り添うかのように、妻子の回想シーンは一瞬しか画面に出てこない。写真もはっきりとは映らない。

この映画は9.11テロやその後のアメリカのアフガン侵攻、イラク戦争とはまったくいっさい関係がない。映像でも戦争関連のニュースが一瞬映るだけで、9.11そのものの映像はない。台詞にもほとんど出てこない。
だから一見するとべつに9.11じゃなくてもよかったんじゃないかという感じもする。単なる飛行機事故でもよかったんじゃないかと。
でも観ているうちに、やはりこの物語は9.11であるべきだったんだということがわかってくる。
犠牲になった人たちや遺族には、あのテロの犯人が誰であろうと報復が行われようと、何の関係もない。死んだ人は二度と帰ってはこない。一度失われた命は戻らないし、起こってしまった悲劇は何をどうしようとなかったことにはできないのだ。
だからそこに立ち止まることよりも、前をみて、手の届く相手とふれあい、語りあうことの方がずっと大切なのだ。
これはこれでとても控えめだけど、そのぶんだけ、すごくきちっとした反戦映画にもなってるんじゃないかと、ぐりは思いました。

ところでキッチンのリフォームといえば、最近観た『ある愛の風景』でも重要な要素として出て来たし、『硫黄島からの手紙』でも栗林中将(渡辺謙)の手紙に出て来た(これは実際の手紙にも書かれている)。
映画的に妻子と引き裂かれる男の何かを象徴するモチーフなのだろうか。
確かに、用をなさない形になった台所の風景には、一種独特の物悲しさはある。


“Love, Reign O'er Me” THE WHO

Only love
Can make it rain
The way the beach is kissed by the sea
Only love
Can make it rain
Like the sweat of lovers
Laying in the fields.

Love, Reign o'er me
Love, Reign o'er me, rain on me

Only love
Can bring the rain
That makes you yearn to the sky
Only love
Can bring the rain
That falls like tears from on high

Love Reign O'er me

On the dry and dusty road
The nights we spend apart alone
I need to get back home to cool cool rain
I can't sleep and I lay and I think
The night is hot and black as ink
Oh God, I need a drink of cool cool rain

愛だけが雨を降らせる
海が浜辺にキスするように
愛だけが雨を降らせる
大地に横たわる恋人たちの汗のように

愛よ 私を支配せよ
愛よ 私を支配せよ
私の上に降り注げ

愛だけが雨を招く
あなたは空に憧れ
愛だけが雨を招く
それは天からの涙のように滴る

愛よ 私を支配せよ

乾き汚れた路上
離ればなれの夜
冷たい雨に私は帰る 
眠れずに思う
熱く黒い夜
神よ 冷たい雨を飲みたいのに
(ぐり訳)

ムダ知識は泉

2007年12月28日 | book
『カラダで感じる源氏物語』 大塚ひかり著
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いつも聴いてるラジオ番組「ストリーム!」に先月ゲスト出演してた大塚ひかり女史の本。
実は番組でも紹介されていた『源氏の男はみんなサイテー』を読むつもりが、図書館で間違ってこれを借りてしまったのだ。『〜サイテー』はまた来年借りよっと。
ぐりはもともと学生時代は国語がいちばんの得意科目で、中学時代から古典漢文は大好きだった。ちょうどぐりが高校生のころNHKで「まんがで読む古典」という番組が始まって、現代風に大胆に解釈した古代文学がちょっとブームにもなったりした流行のせいもあるかもしれない。『源氏物語』も原文より先に大和和紀のコミック『あさきゆめみし』で読んだ。原文は教科書や参考書に載っていた抄録しか読まなかったが、高校に入ってから学校の図書室にあった円地文子の現代語訳を「匂宮」か「紅梅」あたりまで読んでるはず。宇治十帖はストーリー自体ほとんど記憶にないのでどっか途中で挫折したんだろうと思う(それか卒業でタイムアップか)。

大学受験後は古典文学に直接触れる機会はまったくなくなったのだが、社会人になってから仕事上で歴史や古代文学に関わる調べ物があるとやっぱり楽しいし、学校の授業とはまた違う発見があっておもしろい。
たとえば、平安貴族の食生活は保存食中心で塩分過多なうえ、調理法が未発達なため消化不良になりやすく、しかもしょっちゅう宴会ばかりしていたので彼らの多くが消化器系になんらかの病気を抱えていた。貴族が住んでいた寝殿造りの家には窓がなく、屋内は昼間でも真っ暗だったので、顔をわかりやすくするためにあの白塗りの化粧法が発案された。清潔な水や燃料が貴重で入浴や洗髪は贅沢なイベントだったので、体臭を消すために着物に香を焚くのがエチケットになりファッションになった、なんてことがわかるだけでも古典文学の世界への理解も広がる。
この本を読むのに改めて『源氏』自体を読むひまはなかったけど、代わりに大雑把な時代背景や成立の経緯を調べただけでもかなり楽しめました。たとえば、書物が印刷物として流通するようになったのは近世以降で『源氏』成立当時は手書きの写本しかなく、自然書き間違いや欠巻も多くなり『源氏』も100通りを超える写本が存在したが、作者自身が書いた原本やそれに近い同時代の写本は現存しないうえ、“源氏物語”は作者がつけたタイトルではなく本来の題名は未だに不明なのだ。それでもこの小説は1000年以上にもわたって日本人に読みつがれ、今では世界中で翻訳もされている。
つまり要するに『源氏』ほど古くて長い本となると、ただの文学作品というよりこれそのものがひとつの歴史、何世紀にもまたがって継続する文学的現象のひとつともいえるってことです。すごいねえ。

この本自体も、平安時代の生活習慣や社会状況を踏まえて『源氏』を読み解くおもしろさを解説していて、読んでてすごく納得させられるところがたくさんあった。タイトルはちょっと軽い感じだけど、古代から中世へと移っていく時代背景を絡めたマジメな解釈も新鮮で興味深い。タイトル通りのパートもじゅうぶんおもしろいけどね。
昔の人たちの生活は確かに現代の我々とずいぶん違うけど、所詮は同じ人間、感じることや考えることは大して違わない。男は女にモテたいし、女はいい男をつかまえたい。出世も大事だしオシャレも大切。1000年経ったってそこらへんはいっしょである。人間そうそう進歩しないもんなんだよね。
それにしても十代のころの記憶力ってスゴイ。この本読んでても「落葉の宮」とでてくれば「朱雀帝の次女で頭中将の長男柏木と結婚した人だな」とか、「軒端荻」とでてくれば「伊予介の連れ子で空蝉と間違って源氏にヤラレちゃう子だな」とか、すぐに人物の背景が思い出せる。あの長大な物語と複雑怪奇な系図相関図がしっかり頭に入っちゃってそのままになっている。
そんな知識、なんの役にもたつわけじゃないんだけど、あればあったでおもしろくていいじゃありませんか。
ね。

世紀末の家

2007年12月27日 | book
『永遠の仔』 天童荒太著
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1999年の発行以来150万部を売上げ、翌年TVドラマ化もされたベストセラー小説。
こないだ読んだのつながりで手に取ってみたんだけど・・・うーん・・・・・・・イマイチ。
題材はいいと思うよ。親子の愛憎のスパイラル、あらゆる形の児童虐待─性的虐待・育児放棄・暴行・・・─とそれから生まれるトラウマ。すごく丁寧に取材して書いたんだろうなと思う。それはわかる。虐待に対する著者の怒りや憎しみもとてもよく伝わってくる。

けどねえ、それを読み手に一方的に押しつけるのはちょっといただけないですよ。
まず文体が硬すぎる。ストーリーが感情論に偏りすぎ。もっと客観的に、多面的な表現ができるはずなのに、描写が単調で話が一方通行な感じがしてしょうがない。大体、登場人物がころころころころ死に過ぎです。ミステリー小説だからそんなもんだといわれればそーかもしりませんが。
たとえばこの小説、登場人物の会話や語りが結構多いんだけど、口語的にすんごい不自然なんだよね。文語調なのよ。全員。しかも喋り出したら長い。べらべらべらべら無駄に喋りすぎ。演説かよ。虐待やトラウマって内面的なファクターだから、もっと内省的な描写で表現してほしかったです。内省的ったって心理描写がどーとかそーゆーことではなくて、ディテールを描くにしても他にいくらでも表現方法はあるはずじゃん。小説的テクニックとでもゆーか。よーするに芸がないのさ。

たかがミステリー、たかが娯楽小説かもしれないけど、テーマがテーマだからすごくもったいない印象になってます。
ぐりは日本の小説って最近あんまし読んでなくて天童荒太氏の作品も今回初めて読んだけど、勢いだけは悪くないのに全体に一元的な小説になってしまってるのが、読んでてひたすら歯がゆかったです。

暴行黙認、8歳娘を男に預けた母親に懲役2年実刑…富山

くるくるどっかん

2007年12月26日 | movie
『俺たちフィギュアスケーター』
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あーおかしかった。アホすぎるー。
同点優勝したフィギュア男子シングルの王者同士が表彰式で乱闘騒ぎを起こして永久追放になり、数年後に前代未聞の男子ペアとして返り咲く、とゆースポーツコメディ。ちなみに実際にはフィギュアの公式戦では同性ペアは認められていない。
ありえない。馬鹿馬鹿しさの極致。
ハリウッド映画でスポーツコメディといえば『リンガー! 替え玉★選手権』も爆笑モノだったけど、『俺フィギ』はその上をいっちゃってます。だって現実には絶対にあり得ないシチュエーションが、ただただ観客を笑わせるためだけにこれでもかこれでもかとくり出される。ぐりはフィギュアにはまったく詳しくないんだけど、そんな素人でも「なワケねーだろ!!」とゆーギャグの暴走の連続で、観客に考えさせる隙をいっさい与えないのだ。

この映画の原題は『BLADES OF GLORY』、ブレードといえばスケートシューズの底の金具の部分のことだけど、つまりはあれって刃なんだよね。
よく考えたら、そんな危険極まりないモノを履いて、硬い氷の上で跳んだりはねたり人を投げたり、フィギュアってものすごくアブナいスポーツだ。それもひらひらしたミョーな衣裳を着て、どぎつい化粧までして。おかしいよね。でもこれが世界中で大人気、とくにアメリカでは国民的スポーツにまでなっている。
この映画は、みんなが大好きなフィギュアスケートというスポーツの奇妙奇天烈な部分を極端にデフォルメした上で、選手たちが観客の見えないところでしている努力を具体的にコメディに織り込んでいる。たとえば競技のために金持ちの養子になったり、赤の他人同士が無理に仲良くしたり、ライバルをスパイしたり。でもそれでリアリティをおしつけたりはしていない。あくまでも映画の中の一要素として、さりげにギャグにすり替えてあって、基本は爆笑コメディに徹している。その姿勢が潔い。よーするに『少林サッカー』のフィギュア版・『スキージャンプ・ペア』風実況付きってことか。

スポーツものだけにSFXもがっつりと駆使されていて、つくってる方は相当に真面目にやってたんだろーなと思える力作でもあります。衣裳や音楽には遊びがたっぷりあって、同時にすごく楽しんでつくってる感じでもある。
こんなアホ映画をここまで力いっぱい真剣につくれるってとこに、いつもハリウッドの懐の深さを思い知らされる。やっぱハリウッドってスゴイわ(違)。
ところでこの映画館、前から気になってたんだけど画面のトリミング幅デカ過ぎません?少なく見積っても10%以上切ってるよね?切り過ぎじゃない?(※映画館のスクリーンには映画の映像が100%全て映写されているわけではなく、画面の外側の数%がスクリーンの枠外に写っている。つまりその枠外数%は観客からは見えない)
観てて映像がみょーにちんまりしてしまってるよーな気がするんですけど・・・。

クリスティをフレンチで

2007年12月24日 | movie
『ゼロ時間の謎』
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原作はアガサ・クリスティだが、ぐりはこの小説(『ゼロ時間へ』)は読んでないです。てゆーかクリスティって中学時代に何冊か読んだきりだけど、タイトルも内容もまったく覚えてない。脳味噌くさってんな・・・。
おもしろかったです。すごくふつうの、まっとうなエンターテインメント映画。どこといってひねったところもないけど、観てて不満に感じるようなところもとくにない。ある意味ちょっと懐かしい感じもする、オーソドックスなミステリー映画。
この映画のいいところは、そのミステリー臭さがあまり鼻につかないところだろう。トーンが全体に淡々としていて、観客が無意識に能動的にいろいろと想像する余地をじゅうぶんに残してある。音楽やカメラワークも控えめ。そのぶん、衣裳や美術などのディテールに非常に凝っている。クリスティといえば金持ちの家が舞台だが、この映画の金持ち描写はじつにまったく趣味がいい。贅沢なのに派手じゃなくて嫌味がなくて、観ているこっちも自然にリッチな気分になれる。こういうところがハリウッド映画の贅沢描写とは一線を画している。
それとこの映画の人物描写がまたものすごくくっきりとコントラストがきいていて楽しい。どの人もそれこそマンガみたいにわかりやすくばっちりと色分けされていて、まるで映画というより舞台を観ているような気分にさせられる。とくにメルヴィル・プポーがすばらしい。すばらしすぎる。ブラーボー。プポーの前妻役がキアラってキャスティングは狙い過ぎな気もしますが(ふたりは元パートナーで5歳の娘がいる)。
物語そのものにはなんかひっかかるものは感じるけど、まあそこはクリスティだからってことでよしとしましょー(笑)。