落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

おひとり様の履歴書

2021年10月15日 | diary
2ヶ月ぐらい前の記事で「ある人に『心の中に抱えているものを、一度外に出してみよう。どんな形でもいいから、それがあなたに必要だから』といわれた」と書いた。
それでここ何回か長めの記事を誰に読ませるでもなく書いているが、今日は、個人的にいちばん他人に触れられたくないことを書こうと思う。
誰も読んでないと思うから。

セクシュアリティの話だ。

私が生まれて初めて「性」というものを意識したのは小学校1年生のときだ。
ひとりで歩いていた学校の帰り道に、痴漢に遭ったのだ。
具体的に何をどうされたかという詳細にはここでは触れない。ついでに申し添えると、この後に続く類似の性被害体験についても詳細を書くつもりはない。なぜなら、世の中には他人の性被害をズリネタにする変態がごまんといるからだ。
私は人間であって「コンテンツ」ではない。

驚き恐怖に怯えた私は一目散に走って逃げて、帰り着いた自宅にいた母に、ついさっき起こったことを訴えた。泣いていたかもしれないが記憶は定かではない。
すると母はこういって私を叱りつけた。
「あんたに隙があるからそんな目に遭うんだ」と。
私はこう思った。
「あ、この人は私の味方ではないのだ」と。

田舎の6歳の子どもに「隙」も何もあったものではない。

私が生まれ育った町は大企業の工場が多く(過去記事)、当時は、うちを含め他所から引っ越してきた移住者が住む建売の新興住宅地と開発中の造成地と、古くからの町屋や農家の集落や農地とがモザイクのように入り混じり、大きな川が流れ山や森や広大な運動公園もあって海にも面した、一見すると長閑な町だった。
一方で、物理的にも心理的にも死角が多い町だった。
大方の人がすぐ近所に住んでいる人のことをよく知らない。その辺に知らない人がいても誰もなんとも思わない。
共働きの家庭が多く、一人歩きの子どもが珍しくない。学童保育などという制度はまだなかった時代だ。
その環境ゆえか小中高生を狙った痴漢が頻繁に出没していて、何かあるたびに学校やPTAや自治会がポスターや防災無線を使って地域に注意喚起をし、警察や消防団が交替でパトロールもしていた。すなわち痴漢騒ぎは、ヤンキーの万引きや暴走族の迷惑走行と同じような、半ば日常的な出来事と認識されていた。

第三者にとっては「半ば日常的な出来事」であっても、恐ろしく、恥ずかしく、屈辱的な体験をした被害者にとって、そんなものが「日常」だなんてたまったものではない。

私はその後も何度も痴漢の被害に遭い続けたが、母の「あんたに隙があるからそんな目に遭うんだ」という言葉をそのまま鵜呑みにして「全部自分のせいだ」と考え、ほとんど誰にも被害を訴えることなく生きてきた。
いつどこでどんなことがあったか、私はすべて記憶している。忘れようと思っても忘れられないからだ。

アルバイトを始め、社会人になって仕事を始めたら、セクハラにも遭うようになった。
通勤では痴漢、職場ではセクハラ、転職しても異動しても取引先でもセクハラ、出張に行っても、ボランティアに行ってもセクハラ。
私が性被害に遭わずに済む場所なんかこの地上のどこにもない気がした。

そんなバカなとあなたはいうかもしれない。でもこれは事実だ。
たとえば世間的には、痴漢に遭いやすい人は大人しくて抵抗しなさそうな人が選ばれているというイメージが流布している。
私はある朝、混雑した通勤電車で、濃いサングラスをかけ黒の映画Tシャツの上にライダースジャケットを羽織り、迷彩柄のカーゴパンツにレースアップのワークブーツを履いていて痴漢に遭った。それも相当ヘビーなやつだった。以降、私は二度と同じ時間帯の同じ車輌には乗らなくなった。
たとえば大抵の人は、電車の痴漢といえば朝のラッシュ時に発生するものだと考えている。
私はある夜(確か20時前後)、外出先から自社に戻る電車の座席に座っていて、隣に座った乗客にガッチリ身体を触られた。ローカルな路線で車内はガラガラに空いていた。ちなみにこの日の私の服装は黒のジャケットにインナーは濃いグリーンのカシュクール、黒のワイドパンツにパイソン柄で高さ10センチのピンヒールを履いていた。

そこまで痴漢に遭うのは私に何か非があるに違いないと考える人もいるだろう。
だが前述の通り、被害時の私の服装は過度に露出が多かったわけでもないし、人気のないところで無防備な姿態を晒していたわけでもない。
若いころ、大手の取引先との初顔合わせの日に、相応に自分の見え方を意識した装いで出向いたことなら何度かある。そうすればもちろん相手は私の顔やら身体をじろじろ見る。それはそれでこちらの戦略(経験が浅いからと見下されないために外見で圧をかけておく)なので構わない。だがそういう日に、明確にセクハラと判断できる行為をされたり、痴漢に遭ったりしたことはただの一度もない。

ストーカーの被害にも遭ったことがある。
相手は私のまったく知らない人物だったが、相手は私のことを知っていていきなり自宅に押しかけてきたり連日電話をかけてきたりした。最終的にはそれ以上の事態に発展し、このときばかりはさすがに警察のお世話にならざるを得なかった。解決に至るまでは数ヶ月を要した。
知らない人、一度しか会ったことがない人にやたらに付き纏われるといったことは、私にとってはよくあることだった。一大事に至るか否かという程度の問題である。

こんな人生を送ってきた人間がどうなるかというと、当然の帰結として、男性を信用することができなくなる。

私は自分で、そのことに気づくことができなかった。
というのも、私はその辺の他の少女と同じように、同級生の男の子を好きになって手紙を書いたり、バレンタインにチョコレートを贈ったり、いっしょに海に行ったり、年賀状をやりとりしたり、セーターを編んであげたりというごく健全な恋愛を(たまに)しながら10代までを過ごしてきたからだ。

私の男性不信を教えてくれたのは、20代のころに交際していた男の子だった。
都内に住む私と彼の郊外の自宅は電車で1時間以上かかるほど離れていたが、毎回彼は都心まで出てきてくれていっしょに遊びに行ったり、部屋に来てくれたりしていた。
当時の私の仕事は常にスケジュールが過密で毎晩遅くまでの残業だけでなく休日出勤も多く、会う日の都合は彼が私に合わせてくれていた。それがいつも、少し心苦しかった。

先述のストーカー騒ぎが起きたとき、私は自宅を出て近隣の同僚や友人の家を泊まり歩いたり、勤務先の仮眠室に泊まったりしてなるべく自宅に近寄らないようにしていた。警察からそう指示があったからである。
警察はまずこういった。「信頼してしばらくいっしょに過ごしてくれる親族やお友だちはいますか」と。
私は「いません」と即答した。警察は「であれば、当面の間はご自宅にはなるべく帰らないようにできますか。他に泊まれるところはありますか」といったのだ。
まだ携帯電話を持っていなかった私は、彼氏に「当分は家に帰れないから電話はできない」旨を伝えた。ことの成り行きとしてストーカーの件も説明しないわけにはいかなかった。
すると彼は「落ち着くまで俺がそっちに泊まろうか」と提案してくれたのだが、私は言下に断った。あなたにも仕事があるし、うちはあなたの家から遠過ぎる。そんな迷惑はかけられないからと。

ストーカー騒ぎがなんとか収束して、彼と毎晩のように電話をかけあい、ときどきいっしょに出かける生活は戻ったが、ほどなくして私たちはうまくいかなくなった。
どうしてそうなったのかはまったく覚えていないのだが(こういうところが私の人間性の歪なところだと思う)、些細なことで言い争いになったとき、彼は「あのストーカーのとき、あなたは俺を頼ってくれなかった。俺を信じてくれなかった。寂しかった。傷ついた」と告白してくれた。
穏やかな性格であまり感情を表に出さない人だったから、そういうことを口に出すのも勇気が要っただろうと思う。私は素直に「申し訳なかった。傷つけるつもりはなかった」と謝ったが、関係が元に戻ることはなかった。

このとき私は、「ああ、私は男の人を信じることができない人間なのだ」という事実を、いやというほど痛感せざるを得なかった。

私と彼は10代のころからの仲の良い友人で、男女交際に至るまでは友だちとして長い間親しくしていて互いのことをよく知っていたし、何より私は彼のことが大好きだったからだ。
好きで好きで、傍にいられるならいま死んでもいい、と思うぐらい好きだった。
その彼にすら、私は心を許すことができなかった。
いつでも私を尊重し、大事に思い、優しくしてくれた彼の心を傷つけてしまったことを、私はいまでも深く悔いている。

私がそんな風に傷つけた男性は、彼ひとりではないはずだ。

それ以降にも男の人と交際したことはあったが、私と相手の間には常に、透明な見えない壁があった。それはもう私自身の手ではどうしようもないことだった。男性と接近すると勝手に身体が、心が、いつなんどきでもすぐに逃げ出せるように身構えてしまう。
そんな女とつきあいたい人なんかいない。
やがて私は恋愛感情そのものを忘れた。
きっと私は、人を愛することができない人間なのだろう。
それはそれでいい。
仕方ない。

そうなってみると、恋愛対象として私の琴線に触れた人の傾向がよく見えてくるようになった。
それは、私が小学生で初めてボーイフレンドをもったときから一貫して何十年もまったく変化していなかった。自分でもおもしろいくらいで、気づいたときは思わず大笑いしてしまった。
好きになる男の子〜男性は色白か痩せ型かその両方で、顔つきはお地蔵さんとか仏像っぽい中性的な感じ、性格はどちらかというと穏やかで老成していて、頭が良くてちょっと変わり者、というのが全員に当てはまっていた。逆にいえば、やんちゃな子、男臭い人、ワイルドな人は生理的に受けつけない。学生時代にバイト先でボディビルダーにセクハラされてからはとくに筋肉嫌いになり、歩いていて行くてにマッチョな人が近づいてきたら速攻で逃げ出すぐらいのトラウマになった。

その傾向は恋愛対象でなくても普段接する周囲の人にも共通していて、大部分の男性の前では自然に萎縮して緊張してしまう(社会人のマナーとして態度には極力出さないが私をよく知る人には露骨にバレてるらしい)のに、なんとなく中性っぽくて男性性をあまり感じさせない相手であれば、リラックスしてコミュニケーションがとれる。見知らぬ相手になるとこの反応はさらに顕著になり、場合によっては脂汗をかいたり胃が痛くなったりする。要は、私が「普通に」接することのできる男性はかなり限定的ということになる。
映画や音楽やアートの世界でも同じで、私の関心を惹く男性は全員、必要以上に男性性を主張しない、大人なのか子どもなのか、性差の境界がどこか曖昧な人ばかりで、おそらくそれはこの先も変わることはないと思う。

この文章で何がいいたいかをまとめるとするなら、昨今やけに話題になりがちな、いわゆるLGBTQなどというカテゴリー分けは大した問題じゃなくて、人間100人いれば100通りのセクシュアリティがあると考えてもいいのではないか、ということだ。
ストレートでもレズビアンでもバイセクシュアルでもトランスジェンダーでもない私自身の性的指向は、明らかに「普通」とはいえない。
じゃあ「普通」ってなんのことだろう。「普通」の人なんかどこにもいないのではないだろうか。
生理学的な話はここでは関係ない。
人間が社会性動物である限り、私たちの性行動や性反応は本能だけでなく社会的な環境の影響を避けることができない。たとえば2年前のウェブ記事では「バブル崩壊後、『失われた20年』に当たる1992年から2015年の間に、18~39歳で性交渉の経験がない日本女性(処女)が21.7%から24.6%に、日本男性(童貞)は20%から25.8%に増加」したと報じている(出典)。この記事によれば、日本社会の貧困化・格差の拡大に伴って、日本人の性行動も「貧しく」なっているということになる。
大事なのは、この先の時代、「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」といったステレオタイプを捨てて、純粋に人と人として一人ひとり誠実に向き合うことが当たり前になれば、この世の中はもっと楽しく平和に安全になるはずで、いつかそういう共通認識が私たちの社会にちゃんと浸透する日が来たら、私ももしかしたらまた誰かを愛することができるかもしれない。

やっぱり、ひとりは寂しい。
ひとりでも、なんとか生きていくことはできるけれど。

ドーリス人の国の宝物

2021年10月14日 | diary

最近、ヒマさえあればYouTubeばかり見ている。
ほんとうは読みたい本や観たい映画もたくさんあるのだが、現状、ある事情でそれがなかなか難しい。YouTubeなら観ていて飽きればすぐに他のコンテンツに飛べるしやめたければその場でオフにできるから便利だ。
ジャンルは何でもありでいつだかASMRばっかり観てたときがあったけど、いまは動物かものづくり系、もしくはVlogか音楽系。毒にも薬にもならないやつだ。

少し前に「10年ぶりにCDを買った話」という記事でYouTubeで出会った小林私というシンガーソングライターの話題に触れたが、彼はこの春に多摩美術大学を卒業している。生配信動画でもちょくちょくそのことに言及しているし、連載しているコラムでも2回にわたって書いている。
たぶん、小林私の音楽や彼の音楽との向き合い方や価値観に、世代がまったく違う私が妙に共感するのは、私も美大出身だからかと思う。それよりも前に、妹に勧められて「かくかくしかじか」(東村アキコ著)を読んだときにもなんとなく、「やっぱりそうだよな」と思った。
「かくかくしかじか」は著者が美大受験の画塾に通い始めてから漫画家になるまでを描いたコミックエッセイなのだが、アキコは受験が無事に終わって進学し卒業し漫画家になってからも、折に触れては画塾の先生を思い出し、いまの自分がしていることに後ろめたさのようなものを感じている。
その感覚に、ものすごく共感した。読んでいて懐かしくなった。全体のトーンはギャグ漫画に近いのに、ときどき、涙がでるくらいせつなかった。

というわけで今回は美術と私の話です。

私は4歳のとき、隣町のお絵描き教室に通っていた。週に1回、一人で描いたりグループで描いたり、やることは毎回違ったが、よく覚えているのは、私が生徒の中で最年少だったことだ。他の子はみんな小学生以上だった。
なぜなら、他の生徒が課題を与えられて机に向かっている間、私だけ「好きな絵を描いていいよ」と画材だけ渡されて自由に絵を描かせてもらっていたからだ。おそらく、その教室の対象年齢は小学生以上だったのだろう。
通っていた期間は長くはなかった。母の日に他の生徒が母の絵を描いて、授業終わりの時間に迎えにきた母親たちにプレゼントしていたのに、「母の絵を描く」という課題をもらっていなかった(知らなかった)私が自由に描いたおとぎ話の絵を目にした母が激怒してやめさせられたのだ。
そのとき「ああ私はこの人とはずっとわかりあえないだろうな」と思ったのを強烈に記憶している。私は、そういう嫌な子どもだった。

お絵描き教室はやめたものの、母は私の絵に執拗に干渉し続けた。自身が絵が好きでその道に進みたかったという叶わなかった夢を娘に託すという、よくある話である(両親の実家は極貧だった。いつだか過去記事に書いた気がするので今回は割愛)。
学校の課題で描く絵やポスターなど、自宅で描くものに彼女が口を出さないことはまずなかった。だが私も決して従順な子どもではなかったから、母が望むような絵を描くことをわざと避けたり、描いている絵を隠したり、極端に変わった画風で描いたりもした。そのたびに収拾のつかない修羅場になる。描いたばかりの絵を衆人監視の中でズタズタに破り捨てられたり、受賞作品の展示会場で「銅賞なんか獲って恥ずかしくないのか。なんで金賞じゃないの。よくもしゃあしゃあと生きていられるものだ」などと叱り飛ばされたのは一度や二度ではない。それをわかっていながら反発せずにいられなかった。
いま思えば母本人だってそんなことやってたら相当疲れるに違いないのに、休みとあらば小学生の私を美術展巡りに連れまわし、写生会やコンクールがあれば参加させていた。我が親ながら並大抵の根性ではない。

だから、高校進学の際に美術科のある高校や高専を受験するよう親に勧められたときは死ぬ気で抵抗した。そんなところに行ったらそれこそ一日24時間、一年365日干渉されるに決まっている。自分のメンタルがもつわけがないことくらい子どもにでもわかっていた。
考えた私は、通学区域内で進学率最上位にあたるいわゆる名門校に進学するという名目で、美術科方面を回避した。もちろん必死で猛勉強した。睡眠時間は一日3〜4時間、学校から帰宅して一旦寝て8時か9時ごろ起きて入浴、それから朝までラジオを聴きながらリビングで勉強していた。自室には本や漫画が目につくところにあって集中できないからだ。おかげで担任には「合格ラインぎりぎり」といわれ模試でも良くてB判定だった第一志望に合格することができた。
そのせいか入学直後の実力テストで学年3位をとり、自分も含め両親もものすごくびっくりした(後から聞いたが内申書の評価と差がありすぎて職員室中教師全員が驚いたという)。その後は授業中寝てばかりいたので推して知るべしである。

進学校なので2年になるとさっそく進路の話になる。
私は本が好き(こないだの記事にも書いた)で物書きになりたかったので文学部志望だったのだが、母はやはり美術系に進ませようとあれこれ干渉してきた。そこへ降って湧いたのが、従兄の就職失敗の話だった。
ちょうどそのころ、大卒の2人の従兄が就職差別の憂き目にあっていた。大学は別だが同学年でどちらも日本全国誰でも知っている有名大、2人とも品行方正な優等生で見た目もなかなか、就職活動も順調だった。内定したのもどちらも一部上場の著名な大企業である。そこまではめでたかった。だが蓋を開けたら、彼らは入社直後に揃って子会社に出向になった。しかも新人研修の前に。私の知る限りで、彼らはその後一度も本社配属にはなっていない。
理由はわからない。だが彼らが在日コリアンだという出自が、その人事にまったく関係なかったとは誰にもいえないと思う。いつの間にやらコンプライアンスがやたら厳しくなったいまなら違うかもしれないが、昭和末期の話だ。あり得なくはない。

そこで私は考えた。
ちょうどバブル期真っ只中、日本中が異常な好景気に浮かれていたそのとき、私も自営業の両親も「これはおかしい。こんなのいつまでも続くわけない」という危機感をもっていた。私が大学を出て就職するころには、このロクでもないお祭り騒ぎは終わっている可能性が高い。
高校生活できるだけ目一杯遊び倒したおかげで、国立を狙えるほどの学力がなかった私が私立の文学部に進学したとして、就職するころに景気が悪化していたらどうなるか。人口が最も多く受験も就職も熾烈な競争率を争う世代にいながら、向上心も競争心もない上に在日コリアンというハンデをもつ私が、掃いて捨てるほどいる私学文系の同級生たちに就職で勝てる見込みはほとんどないに等しい。
ということは、社会に出る以前に同級生とは違うキャリアを獲得していなければ、大卒にも関わらず経済的に自立した社会生活が不可能になるリスクがある、ということだ。

いちばん手っ取り早いのはずっと親が勧めていた美術の道だった。資金なら喜んで出してもらえる。遠方の美大に入って実家を離れれば、親の干渉からも解放される。
文学を学びたいという夢をすっぱり諦めるには少々時間はかかったが、最終的には有名美大を出て就職差別なんかない分野で成功すると目標を定め、高2の終わりから隣町の画塾に通い始めた。
先述の「かくかくしかじか」でも描かれているが、最初の課題は石膏の幾何形態の鉛筆デッサンである。暗幕をぴったり閉じて天井の照明で煌々と照らされた真っ白けの直方体とか円錐を、延々と長時間かけて描かされる。できたと思って講師に見せるとあれこれと誤りを指摘され、やり直させられる。確か最初のデッサンには31時間かかった。画塾の授業は土曜と水曜が3時間、日曜日が6時間だから、半月以上1枚のケント紙に向かいあっていたことになる。
それが終わったら、今度は円柱と立方体、そのあとは球体と四角錐。そんな具合でくる日もくる日も白い物体を2ヶ月ほど描き続けた。その後は、ティッシュの箱と缶ジュース。次がソフトボールと煉瓦。色やら柄はついたけど、幾何形態には違いない。

そんなの描いてて楽しいか?と誰もが疑問に思うだろう。
もちろん楽しくはない。1ミリも。講師だって厳しい。座っている椅子の脚を思いきり蹴飛ばされ、大声で「なぜ指導した通りに描かないのか」「モチーフを全然見てない」「やる気がないなら帰れ」と怒鳴りまくられ、講評(課題日程が終わって、壁一面に各々の絵を並べて点数をつけられる。要は公開処刑である)だってボロクソだった。一番の子はかろうじて褒められる。二番以下は全員酷評だった。あまりの罵詈雑言に泣く子もいる。泣いたって「泣いて志望校に合格するなら好きなだけ泣け」といわれる。
それでも慣れというのは恐ろしいもので、そこまでのスパルタ指導を受け続ければ、嫌でも己れの置かれた状況に客観的にならざるを得ない。これだけやっても美大に合格できるかどうかわからない。昨今のように受けさえすればどこかの大学に入れるという時代ではない。生き馬の目を抜く激戦の受験戦争を勝ち抜くには、生半可な態度ではその入り口にすら臨めないのだ。現に途中で脱落する子もいた。

体育会系の鬼指導の賜物か私はめでたく地方の美大に合格したが、そこは本来進学したかった大学ではなかった。有り体にいえば、私が行きたかったのは、あくまで「就職に有利なブランド力のある美大」だった。だがその「ブランド」大学は通っていた画塾の指導方針にあわないといった理由で受験できなかった。講師には「どこの大学に行くかは問題ではない。そこで何をするかが重要だ」と説得されたが、結局私はその地方美大を蹴り(この前後の事情はややこしいので省略する)、1年で志望校に合格することを必須条件に片道2時間かかる都市部の大手美術予備校に転校した。合格実績でいえば田舎の画塾とはまったく比較にならない。
となると当然指導方法がガラッと変わる。それまでは鉛筆デッサンと水彩画と色面構成を中心に描いていたのが、木炭デッサンと油彩画になった。ゼロからのスタートである。木炭デッサンはさほど苦労することなく描けるようになったが、問題は油彩画である。見た通りに描いてもまったく評価してもらえない。「何を描きたい」「どう表現したい」という個性がなければ、入試の採点時に試験官の目を引くことができず振るい落とされてしまう。当時のいわゆる「ブランド」美大の受験倍率はだいたい10〜40倍以上。上手いのは当たり前、かつ目立ってナンボである。
講師は先輩が何をどう表現しようとしているのか観察しなさい、参考作品や歴史上の巨匠の画風を研究しなさいと教えてくれたので、しばらく私はモチーフから一番遠い後ろの席から、多浪の中でも講師の評価が高い学生の描き方を一人ずつ眺めて技法を真似したり、資料室の画集を端から借りては舐めるように見て、盗める要素がないか探し回った。

その美術予備校には現役生のクラスもあった。つまり私と同じクラスの一浪学生は全員、高校生のころから同じ指導を受けていた。とすれば彼らと同じように描いていても追いつくことはできない。
私は朝5時に家を出て始発に乗って登校し、予備校が開館する7時に石膏室(デッサン用の全身サイズの石膏像が展示してある)に入ってクラスが始まる9時までそこでデッサンを描き、夕方5時にクラスが終わればまた石膏室に戻って閉館の8時まで描くという自主練をした。道頓堀の笹部という画材屋(安い)まで買い出しに行く日と遠距離恋愛中だった彼氏と会う日以外は毎日ずっと、自主練を続けた。帰りの駅や電車内では他の乗客を観察してクロッキー(速写画)を描いた。1年でクロッキー帳を20冊以上消費したと思う。

予備校の講師もやはり厳格だった。東京芸大出身だから(その予備校の講師は全員東京芸大卒の画家)学生に求める作品のクオリティが滅茶苦茶高い。妥協はいっさい許されない。「お前いまこんなの描いてて芸大に受かるわけないだろう」というのが定番のセリフだった。そこの学生は全員東京芸大を受験することが決められていた。分相応な志望校を目指している程度では、他の美大であれ本番までに合格できる実力が身につかないからだ。予備校の課題といえど、本気でプロの画家として認められるだけの絵を描くことが要求された。授業をサボる学生は二度と講師から声をかけられなくなる。手を抜いたことがわかれば(当然わかる)講評すらしてもらえなかった。
斯くして私のスパルタ受験延長戦は現役時代よりもさらに過酷になった。

それでも、2年余りの画塾・予備校時代は、私の一生にとって貴重な時期になった。
あれからもう長い月日が経ったけれど、あのとき私は、絵の勉強だけではなく、その後の人生を豊かにする価値観を、世界観を広げる経験を数えきれないくらいしたし、そのひとつひとつが、いまでも私という人間を支えている。
人が生きているということ、命が脈打っていること、それそのものが美しいこと。人と違う個性があることがどれほど幸運かということ。
生活の中で目にするもの、手にするものの形のすべてに意味があって、デザイナーがいて、設計者がいて、利便性や機能性が計算されていること、観察すればするほどどんなものにも「楽しさ」と「物語」を発見できること、そんな蘊蓄は脇に置いておいても、この世界に溢れるすべてのものに「美しさ」「尊さ」があること、どんな日にもその日にしかない巡りあいがあること、見逃してしまったら二度と出会えないこと。
受験期という厳しい状況下にいても、16〜20歳という人格形成にとってたいせつな時期を、少しでも豊かに、意義あるものにしてほしいと、先生たちは願ってくれていたのだろうと思う。

1年の浪人を経て、私は無事「ブランド」美大のひとつにどうにか合格し、家を離れることができた。正直いってまぐれだったといまだに思っている。だがそれはそれとして、自分自身ではベストを尽くせたと思う。
問題は入学した後だった。
入学したのは油絵科だったのだが、授業内容が予備校とほぼ同じだったのだ。校風として他校よりアカデミックだということは知っていたが、それでも画塾や予備校でさんざんやり尽くした石膏デッサンや裸婦像をまたやたらに時間をかけて描かされるのが無駄のような気がしてしょうがなかった。
おまけに、私は自分が絵を描くのが好きではないことに入学直後に気づいてしまった。課題やテストや誰かの依頼など、何か対外的な目的があればいくらでも描けるのに、「自分で描きたいものを描いて」といわれると頭が真っ白になってしまう。描きたいものなんか何もないからだ。

一時はせっかく苦労して入った大学を辞めることまで真剣に考えたが、親しかった先輩の助言もあって、入学できたのなら大学でできることを全部やり尽くそうと考え直し、まず写真を勉強し始めた。バイト代を貯めて一眼レフを買い、モノクロ写真(この辺りのことは前回書いた)を撮って自分で現像し、手づくりの印画紙にプリントする作品をつくるようになった。3年で専門課程に分かれるときには版画専攻を選択した。その大学の版画専攻の規模が当時世界レベルで、海外からも版画関係者が頻々と視察にくることを知ったからだ。同じ学費や設備費を払うのならより費用対効果の高いクラスに進んだ方が得だと思った。実をいえば版画にはまったく興味はなかった。我ながらつくづく腹黒すぎると思う。
版画クラスは予備校並みのスパルタコースだったが、その傍ら紙漉もやり始めた。版画は版画紙(いっぱい種類がある。そして高価である)をたくさん消費する。いうまでもないが紙によって刷り上がりの質感や発色が異なってくる。その紙を、買うのではなく自分でつくって「紙からオリジナル」の版画を刷ろうと思ったからだ。

一口に写真やら紙漉やらいっても、実際やるのは楽ではない。費用も手間も半端ではない。2年生からは年に1回、自分で個展まで始めた。
私は大学4年間で20種類以上のアルバイトをし(何軒か掛け持ちして目標額に達したら辞めて、お金が足りなくなるとまた掛け持ちした)、朝は5時から働くか、シフトに入ってない日は同じ時間に登校して寝ている守衛さんを起こして工房の鍵を借り、夜は工房が閉まる8時まで制作していた(有機溶剤=危険物を使用するので夜間は工房は使用できない)。
周囲からすれば何をそんなに必死に頑張らなきゃいけないのか、奇妙に見えただろうということは自覚している。
でも私には、誰にも理解されないハンデがあった。在日コリアンだとしても、就職で、明らかに他の学生の誰よりも幅広い経験を積んでいると認めてもらえるだけのことを、4年の間に実現しなくてはならないと思っていたのだ。

結果からいえば、私は4年の初めには内定をとり、第一志望の企業に入社することができた。
バブル景気は私が大学に入った年に崩壊して、有効求人倍率が数十年ぶりに1を割り、3年時にはすでに就職氷河期が始まっていた。高校生のころに危惧していた通りのシナリオである。景気が良くても悪くても美大のファインアート系は就職に有利でないことは周知の事実だったが、終わってみれば就職活動にはさほど苦労しなかった気がする。

社会人になってからも、いろいろなことがあった。素敵な経験もたくさんしたし、悔しかったこと、理不尽なことも数えきれないくらいあった。
ひとつだけいえるのは、田舎の高校生だったころには一欠片も想像もしなかったくらい、私の世界観は大きく広がり、人生は豊かになった。いままでいくつもの分かれ道があって、毎回重大な選択を迫られてきたけど、振り返ってみて後悔するような選択は一度もしていない。
そういう生き方ができたのは、あのころ、プロの芸術家に全身全霊で精一杯指導してもらえた受験期の体験があったからだと思う。
生きるということは、他の誰でもない自分自身との戦いで、何が良くて何が間違っているか決めるのも自分で、結果がどうあれ自分で納得できる成果を得るためには誰にも負けない努力が必要不可欠なことを、先生たちは身を以て教えてくれていた。彼らに対して恥ずかしくない生き方を、常に意識していた気がする。

そのことには、大学に入ってからいままでずっと感謝しているし、これからもずっと感謝し続けると思う。
そして、何かに感謝できるということはとても幸せだということも、彼らに教わったことのひとつだと思っている。

美大を卒業する直前、クラスメイトといっしょにギリシャとイタリアに行った。初めての海外旅行だった。
受験生時代から何度も何度もモチーフとして数百時間見つめ続けてきた古代ギリシャ・ローマ時代・ルネサンス期の美術に直接感謝しに行きたかったからだ。
3週間毎日毎日ひたすら遺跡と美術館と教会を廻り、一夜漬けで覚えたギリシャ語とイタリア語で地元の人々と交流したあの旅の間、画塾や予備校や美大でお世話になった先生や同級生たちと過ごした濃密な時間が、少しずつ遠くなり、じわじわと扉が閉じていくのを感じていた。
もう二度と戻れない。
だからこそあの時間は、かけがえのない、一生の宝物なのだ。