落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

伝説の素顔

2006年12月30日 | book
『オリンポスの使徒 ─「バロン西」伝説はなぜ生れたか』 大野芳著
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映画『硫黄島からの手紙』に登場した西竹一男爵の伝記。
ぐりは映画でみるまでこの“バロン西”の存在そのものを知らなかったのだが、映画をみていて、伊原剛志演じるバロン西が見事にキマりすぎていて、思わずファンになってしまった。というのはウソで、よくできてるけどクサかった『クラッシュ』のポール・ハギス原案だからひっかかるのか?とは思った。渡辺謙が扮した栗林忠道中将の人物造形にも似たよ?、なものを感じた。
念のため付け加えておくと、西竹一とは1932年のロスオリンピック馬術大障害飛越競技の金メダリストであり、階級意識の強い欧米諸国でも人気だった国際的セレブリティ。1944年硫黄島に赴任し、翌年当地で戦死した。

タイトルにある「バロン西」伝説とは、硫黄島戦末期、敗色濃厚になった日本軍に対し米軍が「馬術のバロン西、出てきなさい。世界は君を失うにはあまりにも惜しい」と日本語で呼びかけたが本人は投降しようとしなかったというエピソードと、進退窮まって皇居の方を向いて自決したという最期のこと。
現在このふたつの伝説は事実とは大きく異なるという証言もあり、あくまで伝説でしかないとされているが、この本にはもっともっと衝撃的な証言も登場する。
映画にも引用されている栗林中将の「戦局最後の関頭に直面せり〜」で始まる訣別の電文が、実は栗林本人の手によるものではないというのだ。それだけではない。栗林中将は現在硫黄島陥落の日とされる3月26日に自ら兵を率いて突撃し戦死したとされているが、実際には、それよりも前の23日に側近によってひそかに殺害されていた。滞米経験もありアメリカ人をよく知る栗林は、これ以上戦うのは辞めて降伏した方が国のためだと主張したが、軍国主義一色の日本で純粋培養された部下たちがそんな意見に従うわけがない。背後を見せたところを斬りかかられ、斬った本人も直後に自殺したという。

これらはあくまで証言のひとつでしかない。公式の調査記録があるわけでもない。
映画に描かれたような雄々しく華々しい軍人らしい最期は、必要だからこそ生み出された彼ら自身の人生の「1シーン」に過ぎないし、それとこの本に描かれた最期の重要性と信憑性はどちらが大きいとか小さいとかいうものではないと思う。
だがそのギャップの大きさはどうだろう。ちょっと大きすぎやしませんか。
硫黄島戦について綿密にリサーチしたというイーストウッド組が、これらのあまりにも悲しく酷い証言を知らなかったはずはない。それをあえて伏せて、ふたりの軍人をかくもヒロイックに描いたのはなぜなのか。
二部作のもう一本『父親たちの星条旗』で国家とマスコミによってヒーロー?ノ祭り上げられるふつうの青年たちを描いたイーストウッドだが、それとまったく同じ轍を、『硫黄島からの手紙』で踏んではいないだろうか?B
あるいは彼らは、あれほどまでに厳しい硫黄島戦を戦った日本人に追討ちをかけるような真似はしたくなかったのかもしれない。
けど矛盾してますよ。映画に描かれた彼らの最期が「仮定」の話だとするなら、プロモで他の「仮定」も公表しておくべきだろう。フェアじゃないよ。
もし彼らの最期が「伝説」通りではなかったとしたら、あんな風に祭り上げられて亡くなった栗林氏や西氏も含めた他の硫黄島の犠牲者が喜ぶとは到底思えない。
遺族に英雄的な「最期」を伝えた人たちだってそうだ。遺族が可哀想だから気の毒だから伝説をでっち上げたなんてウソだ。自分がそんなつらい役目を背負いたくないから勝手にウソをついたに決まっている。

ウソをつくのがいけないとはいわない。けどそのウソにはちゃんと責任をもってほしい。
だって、彼らの最期が悲惨なのは、戦争が悲惨だからだ。二度とそんなことをしないために、ちゃんと事実を認めて、みつめて、みんなで共有しないことには何も始まらないではないか。
それこそ亡くなった人たちは犬死にじゃないですか。
違いますか。
どうですか。

It's OK.

2006年12月30日 | movie
『みえない雲』
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作品ごとに圧倒的なカタストロフで読者を打ちのめすマンガ作家・清水玲子氏の作品に『月の子』という社会派SFコミックがある。
『月の子』はアンデルセン童話「人魚姫」を下敷きに地球環境問題を描きつつも、基本はラブストーリーであり、しかも同時にSFでもありファンタジーでもあるという、非常に多面的な作品でもある。80年代の作品だがベストセラーでもあるし読まれた方は多いと思うのでネタバレさせていただくが、なんとこの物語は「チェルノブイリ原発事故は起こらなかった」という設定で「ハッピーエンド」に終わる。
主人公ジミーが事故後の地球の「悪夢」をみて泣きながら目覚めると、事故は起きなかったんだよ、それはただの夢だよ、と恋人が慰めてくれる。

映画『みえない雲』の中盤で、変わり果てた自分の姿を鏡でみて泣く主人公ハンナ(パウラ・カレンベルク)を、同室のアイシェ(クレール・エルカース)が抱きしめて「大丈夫よ」というシーンがある。
「大丈夫」。
ありふれた、なにげない言葉。
誰もが、不安に怯える誰かを抱きしめるとき、ささやく言葉。
でも、そういっている本人は、ほんとうは何が「大丈夫」なのかわかってはいない。
ほんとうは全然「大丈夫」じゃないかもしれない。
もしかしたら、奇跡が起きて、「大丈夫」になるかもしれない。
そんな、あてのない祈りにも似た言葉。
「大丈夫」。

この映画のテーマは原発事故だが、やはり物語の軸になるのはヒロインと転校生エルマー(フランツ・ディンダ)の淡い恋愛である。
彼らは出会ったばかり、恋に堕ちたばかりで原発事故という大惨事に巻きこまれ、引き裂かれ、出会いと別れを何度となく繰り返す運命を強いられる。まだティーンエイジャーのふたりを苛酷な悲劇が容赦なく襲い続ける。
つまり、全体としてはこの少年少女のロマンスの背景に原発事故がある、という構成になっている。それがものすごく上手いと思いました。ラブストーリーと原発事故の要素の配分もちょうどいい。どちらかに偏ってもいないし、甘えてもいない。社会派ドラマだからといってかたくなりすぎてもいないし、説教くさくもない。悲劇的なラブストーリーだからといって安易なお涙頂戴ドラマにもなっていない。ホントによくできてます。
ぐりはチェルノブイリ原発事故当時中学生で事故の報道をよく覚えているけれど、この映画に登場する子たちのような10代20代の世代にとっては遠い昔の他人事のようなものではないだろうか。しかし実はまったく他人事ではない。映画のラストに「ドイツには17基の原発がある」というテロップが出てくるが、日本には55基。これがいつ何どき大事故を起こさないという保証はどこにもない。
学生のとき、80年代に会社経由で政府の依頼を受けて原発事故のシミュレーション調査をしたという研究者の授業を受けたことがある。日本でスリーマイルのような事故が起きたらどうなるか、彼はマジメに研究調査をし、報告書をまとめた。結局、彼の報告書はにぎりつぶされ、会社からは「一生研究と生活のめんどうはみてあげるから、報告書のことは忘れてくれ」といわれたそうだ。要するに彼の報告書は「大丈夫」じゃなかったってことです。

そんな国に、我々は住んでいるのだ。
若い子に是非みてほしい映画です。感動的です。いい映画です。オススメ。
個人的にはエルマー役のフランツ・ディンダがどーしてもキアヌ・リーブスにみえてしまうのが超気になりました(爆)が、チェルノブイリの影響で生まれつき肺がひとつしかないという主役のパウラ・カレンベルクもすばらしい。とても19歳(撮影当時)とは思えない堂々とした名演でした。


『月の子』について追記。
このマンガには黙示録第8章の
「第三の御使 ラッパを吹きしに ともしびのごとく燃ゆる大なる星 天より隕ちきたり 川の三分の一と水のみなもとの上におちたり この星の名はにがよもぎといふ 水の三分の一はにがよもぎとなり 水の苦くなりしに因りて多くの人 死にたり」
に登場する「にがよもぎ」がウクライナ語で「チェルノブイリ」と同義であるという表現があるが、この翻訳には異論もあり、「チェルノブイリ原発事故が聖書に記載されていた」という説は英語圏のキリスト教徒の間で信じられている一種の都市伝説。
チェルノブイリとはもともとウクライナ語でよもぎを意味するチョルノブイリが語源であり、これがすなわち「にがよもぎ」を指すわけではないそうだ。

狂人萌え

2006年12月29日 | movie
『CURE』
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首都圏近郊でごくふつうの一般市民が突然身近な人間を殺害したうえ喉元をX字に切り裂くという猟奇殺人が連続して発生する。担当刑事の高部(役所広司)は記憶障害の青年間宮(萩原聖人)を重要参考人として取り調べるが、間宮は自分の名前も身元も語らず、逆に「オレ、あんたの話が聞きたい」といっては相手を翻弄する。
ビデオが出たばっかりのころ一度観てます。1997年の作品だから10年も経ってないけど、映像的にそれ以上の古さを感じるのは低予算だからかな?でも内容は今観てもすごくおもしろいし、もろに舞台劇っぽい非現実的な美術なんかはやっぱりチョー好みですー。最初観た時以上に娯楽性が低く、文学的・芸術的側面を強く感じましたです。

この映画が公開された1997年は神戸連続児童殺傷事件が起きた年。前年の1996年には池袋駅構内大学生殺人事件、翌1998年には和歌山毒物カレー事件が起きている。どの事件も被害者には殺されるような理由はまったくなく、現場となった場所は自宅周辺や通勤経路など日常の延長線上にあった。逆にいえば、それまでの凶悪殺人は大抵そうではなかったのだ。被害者がひとりで人気のないところにいたとか、加害者とトラブルがあったとか、何かしら犯罪に結びつくだけの理由がそこにあった。
1995年の地下鉄サリン事件以来、無関心という“日常の中の敵意”に日本人が敏感になり始めた時代だった。今では、我々は被害者と加害者になんの関係もなくても、現場が白昼の商店街でももう驚かない。以前はそうではなかったのだが。

『CURE』はまさに“日常の延長”にある敵意、殺意をモチーフにしたサイコスリラー。
映画の中で殺されるのは犯人の妻や同僚、あるいは単なる通りすがりの無関係な人ばかり。どの犯人にも動機がなく、犯行時の記憶も意識もしっかりしていて、精神障害などの既往もない。犯人同士にも接点や共通点がない。ただ同じなのは、被害者が絶命するか意識を失うかして無抵抗になった後で喉元をX字に切り裂くという変わった手口だけ。
でもこのX字に切り裂くってのは、映画的にヴィジュアル的にわかりやすい記号としての表現に必要だっただけで、実はストーリーそのものにはあんまり重要じゃないんだよね。
それよりも、人間は誰でも殺人者=犯罪者になりうるし、きっかけは日常のどこにでも潜んでる、つまり「人を殺す」ことは全然他人事じゃないのかもよ?ってことの方が、この映画では重要なメッセージになってる気がする。

そう思うとやっぱあのファミレスのラストシーンが、どの血みどろシーンよりもコワイよなあ。
あと萩原聖人がナニゲにびみょーにエロかった(笑)。役柄的にはこの前に出た『マークスの山』とめちゃカブってるけど、『CURE』の方がさらにアブナイ色気炸裂。最近はどーされてるんですかね。彼。

父よ

2006年12月28日 | book
『硫黄島の星条旗』 ジェイムズ・ブラッドリー/ロン・パワーズ著 島田三蔵訳
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映画『父親たちの星条旗』の原作本。
読んでいてふと、数年前ホノルルのあるダイナーでみた風景を思い出した。場所はヒルトン・ハワイアン・ビレッジの近く、近所に米軍専用のハレ・コア・ホテルもあるフォート・デ・ラッシー公園の向かいの店だったと思う。時期は11月の初め、ちょうどVeterans' Day(退役軍人の日)の少し前だった。
ハワイに行った経験のある方はご存知かと思うが、当地を訪れるアメリカ人観光客には退役軍人やその家族も多い。その日の朝、パンケーキと卵料理の伝統的なアメリカの朝食を食べに店に入ったぐりと連れのテーブルの隣にも、それと思しき老人のグループがいた。
年のころは70代後半か80代くらいの男性ばかり4人組。ひとりは四肢が不自由らしく車椅子に寝そべった状態で、傍に座った男性が少しずつスプーンで食事を食べさせていた。
年齢からいえば、おそらく第二次世界大戦か朝鮮戦争に従軍した人たちだろう。日本では戦争にいったとわかる人たちの姿を直接目にすることはほとんどない。だからこそ日本は平和なのかもしれないし、戦後世代は戦争をずっと昔に終わったものとして関心の外へ追いやることができるのかもしれない。
だが実際に戦争にいった人たちにとってはそうはいかない。生き残った人には戦後の人生があるし、亡くなった人の遺族は家族を奪われた悲しみを一生背負うことになる。
ホノルルのダイナーで、ぐりは初めてそのことを実感した。

著者ジェイムズ・ブラッドリーの父にとっても、それは同じだった。
アメリカで最も有名な戦争の聖像─アイコン─に写っていたジョン・ブラッドリーが、家族に硫黄島での体験を語ることは生涯ほとんどなかった。彼は本心ではその体験を忘れたかったに違いない。覚えておくにはあまりにも苦しい体験だった。しかしさまざまな理由によってその記憶は彼を捕らえて放さなかった。そして彼は沈黙することによってその体験と自分を切り離そうとした。
この本には、彼のようなごくふつうのアメリカ市民が、どんな時代の、どんな町の、どんな夫婦の家に生まれ、どんな子ども時代を過ごし、どんな風に大きくなったか、どんな過程を経て軍に志願し、どんな訓練を受け、どんな前線で、どんな戦闘を経験し、どんな経緯で硫黄島に送られ、そこでどんな戦闘を行い、あの日どんな風に星条旗を掲揚したか、その後いつどんな攻撃を受けて死んだか、あるいはどう生き残って帰国したか、死んだ青年たちの家族がどうなったか、生きて帰った者は戦後どんな人生を送ったかが、ごくふつうのアメリカ市民の伝記として、実にいきいきと、あたたかくやさしい視線で、ひとりひとりにぴったりと寄り添うように描かれている。
ほんとうにほんとうに、彼らはごくふつうの、どこにでもいるアメリカの男の子だった。ぜんぜん特別じゃない、そこにいれば誰だってそうしたであろう行いの連続の結果、1945年2月23日の午後、擂鉢山の火口で星条旗を掲げることになった。
それだけのことだった。彼ら自身にとっては、すべてが偶然の産物だった。

ところがそこで撮られた写真がたまたま綺麗だったために、アメリカという国家によってそのイメージは必然に変えられてしまった。
当事者にとってはとくに意味もないなんでもない一瞬が、伝説になり神話となっていく過程も、この本には詳しく書かれている。戦争が国家事業であり、イメージがマスコミによって増殖し勝手に歪曲されていくというセオリーが手に取るようにわかる。本人たちにはなすすべもない。
この本のいちばんわかりやすいところは、それが第三者の一般論ではなく、また本人の体験談でもなく、その身内の手による調査として描かれているという側面だろう。戦争によって傷ついた父とその仲間たちを開放してやりたいという、肉親だからこそのいたわりの心が、この本を読みやすく、受け入れやすくしている。またブラッドリー氏自身が上智大学に留学し日本で暮らしていたという経歴が、太平洋戦争そのものを日米どちらかの視点に偏ることなく、あくまで前線の兵士たち同士の戦いという面に限定して描くことを成功させているような気がする。

ぐりがこの本を読んで最もショックを受けたのは、硫黄島戦の直前、1944年11月の総選挙の際、タラワで訓練中だった兵士たちには不在者投票が許可されたのだが、ほとんどの兵士は若すぎて選挙権を持っていなかったという一文だった。
選挙権もない、本来ならまだハイスクールに通ったり、父親の仕事を手伝ったりしているはずの男の子たち。休暇に酒を飲むことも出来ないほど若かった男の子たち。のちに国旗掲揚者になった6人のうちの数人は女の子とデートしたことすらなかった。
それほど彼らは若かったのだ。

また、この本には海兵隊の伝統とその文化、精神についても易しく書かれている。軍事的な知識のないぐりは『ジャーヘッド』を観ても原作を読んでも、なぜ海兵隊が“特別”なのかいまひとつぴんとこなかったのだが、この本を読んでやっとなんとなくわかるような気がした。
かといって急に海兵隊を含めた軍隊や戦争を賛美したりするキモチには絶対ならないけどね。当り前だけど。
とりあえず太平洋戦争が一体どんな戦いだったのか、そのとき日米両国がどんな姿勢で戦いに挑み、硫黄島戦がどれほどの激戦だったか、そこで日本兵と海兵隊員がどう戦ってどう死んだのかはすごくよくわかる本です。
いい本だと思います。読んでよかった。読みやすいし、誰にでもオススメできます。とくに映画をみた方は是非読んでみてほしいかも。

インテリはつらいよ

2006年12月24日 | movie
『イカとクジラ』
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昨年度の賞レースで健闘してた注目作とゆーことでちょっと期待して観に行ったんですがー。
うーん・・・意外と小粒・・・とゆーか、あまりぐり好みの映画ではなかったです。残念ながら。
舞台は1986年、ニューヨーク近郊の住宅街ブルックリン。落ち目の文芸作家の父(ジェフ・ダニエルズ)と新進人気小説家の母(ローラ・リニー)が離婚することになり、ウォルト(ジェシー・アイゼンバーグ)とフランク(オーウェン・クライン)の兄弟は曜日ごとに両親の家を行き来して暮すのだが・・・という、1969年生まれのノア・バームバック監督自身の体験を基にしたホームドラマなんだけど。
ストーリーはすごくよくできてるし、80年代ニューヨークの風俗をうまく再現した美術装飾や、ステディカムを多用したフレキシブルなカメラワークによる映像美もオシャレ。インテリ家庭のスノッブな雰囲気を皮肉ったシャレもなかなか効いている。全体にとても丁寧にきちっとつくられた映画ではあると思う。

けどねー。簡単にいっちゃうと、いろいろ詰めこみ過ぎじゃないかと思ったです。そのわりには何がいいたいのかがもうひとつ散漫になってる。
例えば、離婚したあと父親は元の家からみて「公園の反対側」に引越すんだけど、このブルックリンに実在する公園に関する描写がほとんどないから、その距離感というか意味あいがもうひとつ漠然としている。みているとかなり大きな公園らしいというのはなんとなくわからなくはないんだけど。
あと父が好きなテニスプレーヤーやバスケットボールチーム、小説や映画のタイトルが会話にしょっちゅう出てくるんだけど、これもわからない観客にははっきりいってちんぷんかんぷんだろう。イヤ、わかるよ、さすがにマッケンローとかボルグとか、ディケンズとかカフカとかフィッツジェラルドとかメイラーとか、『勝手にしやがれ』とか『ブルーベルベット』とか、そのへんはぐりだって80年代に10代を過ごした世代だし常識の範囲としてわかる。ニューヨーク自然史博物館には行ったことないから「イカとクジラ」はまるっきりわかんなかったけど。
けどわからない人には意味の通じないような固有名詞をやたらめったら連発されると、だんだんイヤミに感じて来るんだよね。そういう「わかんない人はついてこなくていーから」的な気取ったトーンが、おそらくこの物語の背景に必要ではあったんだろうけど、ちょっと過剰に感じましたです。
それよりは、子どもたちの性の目覚めや親たちの恋愛などのパートの顔の表情とか、もっと感覚的な部分を大事に余裕を持って表現してほしかった。そういう「引き算の演出」で成功してた『アイス・ストーム』にテー?}が似てるもんだから、つい無意識に比べてしまう。あの映画の原作小説も凄まじい量の情報が文中に氾濫しまくってるけど、映画ではそれをごっそりカットしてあるんだよね。

出演者の演技は非常によかったです。
言葉を操る“文学者”とその子どもでありながら、自分の感情を表現したり相手の気持ちを推し量ったりするという基本的なコミュニケーションが絶望的に苦手、という部分がそれぞれよく似ているところなんかすっごく家族っぽかった。しかしこの両親は子どもがふたりとも思春期の難しい年頃だってのをあまりに意識しなさすぎじゃないでしょーかね?やっぱ芸術家ってダメ人間なんだなあ。
ラスト近くのネコのエピソードなんかは、もろにギリシャ悲劇の「デウス・エクス・マキナ」っぽくて思わずにやっとしちゃったりしてね。
監督は若いみたいなので、まだまだこれから、ってところでしょうか。