落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

おこられニッポン

2014年10月24日 | lecture
院内集会:なぜ日本の刑事司法は国際社会から孤立しているのか ~ 取調べの可視化から代用監獄まで ~に行って来た。
このイシューの院内集会に出るのは2年ぶり(前回のレポート)。ずいぶんご無沙汰してしまった。

今回のスピーカーは3人。
ひとりめが海渡雄一弁護士で、このかたは日弁連のジュネーブ代表、国連の自由権規約委員会の審査に毎回参加されておられる。今日は今年7月の審査の報告。
ふたりめが一橋大学教授の葛野尋之先生。学術的な観点から、日本の刑事司法がどれほど国際社会から乖離していて、具体的に何を改革すべきなのかをお話してくださった。
三人めはイギリスの弁護士ベン・ローズ氏。イギリスでいかにして取調べの可視化が実用化され、現在どう運用されているかをお話してくださった。
濃ゆい。出たことある方はもちろんご存知だと思うけど、院内集会は議員の昼休みを利用して行われるものが多いので、時間は昼休みの1時間半だけというケースがほとんどである。それでこの内容。みっしりです。よって今日のレポートは長いです。これでも超はしょりましたが(全体の半分くらいしか書いてない)。

まずスピーカーが話す前に、日本の刑事司法の改革がいまどの段階にあるかを司会のアムネスティの川上さんが簡単に説明。
今年9月に法制審議会が改正要綱をまとめて法務大臣に提出した。これが来年度に国会で審議に入る見通しだが、改正範囲がごく限定的で、国際社会が求める改革にはなりそうにない。本来必要とされる改革のためには、国民的な議論がさらに必要ということである。

海渡弁護士の報告。
最初に静岡朝日放送がジュネーブの審査を取材した短い映像が紹介される。委員の厳しい追及に対して、日本側はもろに官僚的な答弁(無意味に答えるだけ答えて相手がそれをどう評価しようがガン無視)ばかりしていて、やりとりがチョー不毛なヘーコーセンに終始しているのが一瞬にしてみてとれる。危機的に恥ずかしい。あと「代用監獄」がそのまま英語で「Daiyou-Kangoku」になってたのがさらに恥ずかしい。議長は日本は「国際社会に抵抗している」「代用監獄は自白を求めて維持されているのではないのか」とかなり強い口調で非難していた。
今年3月に袴田巌さんが釈放されたのを受けて海渡さんたちはジュネーブで袴田さんのドキュメンタリー映画の上映会をしたり、委員にフライヤーを配ったりしたそうだが、もともと袴田さんの事件は世界に大きく報道されたこともあり、3人の委員がこの件に言及。袴田事件は代用監獄や死刑制度、死刑確定者の処遇など、日本の刑事司法の遅れを如実に明確化させた事件でもあったわけで、二度とこんな人権侵害を犯さないためにも取り上げられてしかるべき案件だったらしい。
各国の委員は、30年も同じ問題が提起されているのになぜ日本は変わらないのか、日本の死刑確定者は長期にわたって独房に拘禁され、死刑執行も数時間前にしか告知されないという処遇は非人道的であるなどと指摘。裁判員制度では全員一致でなくても死刑判決が出せてしまうから死刑判決が出るなら必ず高裁で審査し直す制度をつくるべきだし、拷問や不当な取調べは審査されるべきだし、弁護人は取調べに立ち会えるようにするべきだし、取調べの方法や時間の厳格な制限も必要。いまは取調べ全体の3%しか録画されていない。全部例外なく録画されなくては意味がない。
あと今回の委員会で出された4つの勧告「代用監獄の廃止」「死刑制度」「慰安婦」「技能実習生制度」に対し、日本政府は1年以内に委員会に回答しなければならない。この回答義務についてはぐりの知る限り報道ではあんまし触れられてなかった気がするけどどーでしょー。
もし委員会が納得できるような回答が出せなかったらどーなるんでしょーねー。国連は繰返し何度も勧告してるのに日本政府はのらくらのらくら改革を先延ばしにしてばっかり。しかし委員会のあのサムい映像はみんな観た方がいいよマジで。真剣に恥ずかしいからさあ。

次。葛野先生。
代用監獄のどこが法的に間違ってるのか。日本の警察では裁判所の許可が出たら最長23日間被疑者を警察内の留置場に拘束することができるが、これは国連の自由権規約委員会の規約9条3項「刑事上の罪に問われて逮捕されまたは抑留された者は、裁判官または司法権を行使することが法律によって認められている他の官憲の面前に速やかに連れて行かれるものとし」「裁判官の面前引致の目的は、被疑者の拘禁を司法的コントロール下に移すこと」「時間制限は48時間以内を原則とすべき」に反している。欧米各国は逮捕後48時間以内に起訴ってことになってますから(24時間程度の延長はアリ)、日本の23日ってのがいかに異常な長さかっつーことですな。
袴田事件においては嘘の自白を強要する取調べや証拠の捏造などあってはならない捜査が明らかになっている。これがもし国際法では保障される証拠開示がなされていれば起こるはずがなかった。
また郵便不正事件で被疑者となった村木厚子さんは著書で日本の取調べを、密室でプロボクサーと素人が戦う試合に喩えている。せめてセコンドとレフェリーは必要。現在行われている取調べの可視化はわずか3%、その必要性を判定するのは捜査側で基準も曖昧で例外的。弁護人の立ち会いはもとより、証拠開示の拡大も必要である。
今回法制審が出した要綱には、弁護人の立ち会いや取調べの時間・方法の規制、代用監獄の廃止などは盛りこまれてないらしい。国連の勧告ガチ無視でんがな・・・。

最後。ローズ弁護士。
刑事裁判とは事実を再構築するもので、公正な裁判には警察は証拠をすべて開示すべきであり、正確な取調べが行われなくてはならない。証拠は正確に収集・保管されるべきであり、正確な記録が必要である。これは刑事司法が適切に運用され、市民に信頼されるために必要なことである。
イギリスでは60年前に内務省から提案され国会で取調べの可視化が協議されたことがあるが、実際に制度が始まるのに40年かかった。録画されていなかった時代には被疑者の自白の真偽を審査するのに非常に長い時間がかかっていた。
きっかけとなったのは1972年のコンフェイさんの事件。燃えている家の中で午前一時にコンフェイさんが亡くなっているのが発見された。3人の若い青年が逮捕され自白、裁判で彼らは自白の強要があったと証言したが有罪判決が言い渡された。イギリスでは殺人は終身刑。だが後に3人のアリバイを証明する新証拠が見つかり、再審が行われ彼らは釈放された。
これを機に市民社会では取調べの可視化が議論され始めたが、当初警察では反対意見が多かった。手間や時間やコストがかかること、録画が捜査の障害になることが理由とされた(このへんはどこも同じですな)。
1980年に王立委員会が警察に録画を始めるよう求め、制度化が進んだ。84年には取調べの可視化が法制化され、92年にはイギリス全土で録音録画が義務化された。現在では軽微な犯罪・物理的に録音録画が不可能な場合・被疑者が同意しないという例外を除いて、すべての取調べが録音録画されている。ローズ弁護士も同僚の弁護士も、被疑者が録音録画に同意しなかったケースは一度も経験がないそうだ。
取調べを録音録画する制度がイギリスで浸透した理由は、明らかに正確で時間の短縮になること。被疑者が英語を話せない場合でも、通訳の正確さもチェックできる。警察や弁護士のトレーニングにもいい。
1999年には被疑者だけでなく証人の取調べも録音録画されるようになった。この証言は裁判でも再生され、証人は出廷せずに証言することができる。いまでは警察車輛だけでなく、武装警官自身にも録画装置が設置されている。警察官は日常的にカメラ付きのベストを着てパトロールをしている。これは警察署の外での警察官の態度に対する苦情があったからで、実際に設置が始まって苦情は改善されたそうだ。
最後に、刑事司法の維持に透明性は必要不可欠であり、そこではすべてが適切に行われ、正確に記録されるべきであり、そのうえで可視化はすべての面で大きな進歩ではある。プライバシーの面は考慮されるべきだが、20年前には抵抗があったこの制度が現在は警察にも検察にも裁判所にも支持されていて、イギリスでは疑いなく重要なものになっているとのことでした。
ちなみに事前に司会の川上さんが「可視化のポジティブな面を喋ってくれ」とリクしたところ、「それしかないから」といわれたとゆーことです。

質疑応答。
Q.日本では逮捕前の任意の事情聴取で供述をとってしまうことがあるが、イギリスではそういうことはあるのか?
A.警察車輛の中でも供述は録音録画するが、原則留置所以外での取調べは禁止。取調べ前に自白してたら裁判で大問題になる。すべての法執行官が録音録画することを求められている。

Q.日本で可視化を始めたら黙秘権が行使されるのでは?イギリスではどうか?
A.イギリスでも、録音録画することで被疑者が話しにくくなるのではという議論があったかもしれない。だが実際には取調べが始まれば被疑者は録音録画されていることは忘れてしまう。自由に出入りできない状況では、被疑者は黙秘するか話すかに集中するので、録音録画されていることは重要でなくなるのでは。弁護士が立ち会うことで、ちゃんと話すように促すこともできる。

あと、イギリスでは逮捕されて収容されるまで正確な記録がされ、身体の自由を奪われている人をきちんと扱うことが制度化されてるという話もありました。
最後に袴田巌さんとお姉さんの秀子さんがいらっしゃって、軽く挨拶を述べられた。
袴田さんはお話はできるがふつうに理解できるような言葉を発することが難しく、報道などで拘禁反応の後遺症については知っていても、そういう袴田さんを目の当たりにして改めて、冤罪で死刑判決を受け48年もの間拘束されるという人権侵害の重さと生々しさを肌で感じた。

それにしてもジュネーブの審議の詳細を聞くにつけ、日本の人権問題が遅れているというより国際社会からどれだけ孤立しているかということに、薄ら寒くなるような恐ろしさを感じる。日本で起こっている人権侵害の現実よりも、その現実をよしとしてしまっている政府や国民感情が恐ろしい。
絶対そんなんアカンと思うんやけど。

第6回日本定時報告に関する総括所見 日本語訳(自由権規約委員会第111会期 OHCHR)

関連記事:
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議員会館の食堂にはアルコールもある。こんなとこで飲むってどんな人だろうー。

地球は回るし太陽は上るし

2014年10月03日 | book
『母がしんどい』 田房永子著

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お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、弟、妹、おじいさん、おばあさん。
会社員、サラリーマン、OL、公務員、店員さん、店長さん、社長さん、先生、おまわりさん、市職員、運転手さん、看護師さん、お医者さん、作家さん、調査員、選手、監督、コーチ・・・(めんどうになってきた)。
世の中にはありとあらゆる“役割”があって、それぞれに理想像というものがある。おそらくは何の役割も持たない人というのは存在しないのではないだろうか。意識的にせよ無自覚にせよ、人は誰でもそれぞれの役割を背負って生きている。だが人が思い描く理想通りに役割を果たせる人はそうはいない。
いや、理想通りでなくてもいいのだ。人はひとりひとり全員が違っていて当たり前なのだし、理想通りでなくてもその人にしかない力もある。そもそも理想などというものは実体のない単なるイメージでしかないということもある。
誰が何といおうと、人は自分の幸せを追求し、まもる権利がある。そのためには理想ばかり追っていられないことも珍しくはない。

だが儒教思想やイエの概念が根強いアジア社会では、子は親に従うもの、家族は絶対的な絆である、という固定観念がいまだに大きな力で人の心を縛りつけている。
それはそれで否定はしない。だが誰にでもひたすら手前勝手に押しつけあったところで、いったい何が生まれるだろう。無理なものは無理、諦めるべきところは諦めてもらいたいと思う。血を分けた肉親であれ、世代も違えば価値観も違う。わかりあえなくても相性が合わなくても、しかたがないこともある。
少なくともぐりは完全に諦めた。
家族に自分を理解してもらいたいとか、自ら家族を理解したいとか、そういうことは毛頭思わない。
何年も何年も葛藤して、そしてついに力尽きたのだ。
残念ながら自分はそこまでの人間だ。だからなんだというのだ。
自分の限界を知って葛藤をやめることくらい、きれいさっぱりと気持ちのいいことはない。

このコミックエッセイの「母」はことあるごとに「あなたのため」「愛してるから」と娘を脅迫し、彼女自身の価値観を押しつけ、コントロールしようとしてばかりいる。まあけっこうキョーレツな人ではある。
でも読んでいてとくに変わった人だとは思わなかった。寂しい人なのかなとは思ったけど。
こういうお母さんでいたい、こういう娘がほしいという理想像が強すぎて、彼女自身が自分の追い求める理想に負けて主体性を見失っていたのではないかとも思う。
ただ、誰にでもうっかり彼女のような言動を子どもに向かってしてしまう可能性はあるだろうなとは思った。なにしろ自分の腹を痛めた子どもなんだから自分の思い通りにして当たり前、できて当たり前というファシズムには、意外に誰でも陥りやすい部分があるだろう。

この作品でキーになるのはあまり登場しない父親だが、現代日本の子育て現場での父親の不在ぶりからすれば、実はこの本を読むべきなのは母親でも子どもでもなく、父親なのではという気がしなくもない。
積極的に子育てに関わるということは何も子どもに直接手をかけるだけではない。そこで主導権を持つ母親への関わりも父親の大切な役目だし、そこで妻という他人のわからなさにひるむことなく、対等なパートナーとして男らしくしっかり向いあい、家族の中のパワーバランスの均衡を保つのは、やはり父親にこそできることなのではないだろうか。

理想やら固定概念は捨てて、これはこういうものだからと現実を受け入れることがすべての始まり。うつ病やったときに学んだ、ぐりの一番大事な人生訓でございます。
それにしても世の中には正論が好きな人がなんと多いことか。
相手が傷つこうが、自分がどれほど無理解であろうが、正論だけ主張してればいいと何も考えずに勝手に思い込んでる人くらい迷惑なものはないと、ぐりは思うのですが。