落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

13歳の別れ

2023年10月19日 | movie

『CLOSE/クロース』

レオ(エデン・ダンブリン)とレミ(グスタフ・ドゥ・ワエル)は兄弟同然に育った幼馴染みの大親友。
中学に上がっても同じクラスになったふたりは、親密なあまり周囲に「付き合ってるの?」「オトコオンナ」などとからかわれ、それを意識したレオはレミと距離を置くようになる。
第75回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。

子ども時代にこんな友だちがいたらよかったのにな、と憧れたことがある。
レオとレミは夏休みも食事も眠るときもいつもいっしょ、互いに助けあい、支えあってきた。
明るい日射しの降り注ぐ自然の中を子犬が戯れあうように駆けまわり、演奏会本番の前夜、緊張で眠れないレミのために、レオは即席のおとぎ話を聞かせて寝かしつける。
これぞ幸せ、平和そのものの情景に感じる。

でもそんな幸せは永遠には続かなかった。
どうして、ふたりは離れ離れになってしまったのだろう。

ふたりをからかったクラスメイトたちに悪意はなかったのだろう。ただの好奇心、ただの悪戯心。
だけどそれがレオの心を傷つけてしまう。
なぜレオは傷ついたのだろう。
なぜ彼は、あんなに仲良しだったレミを避けるようになってしまうのだろう。

大して興味がありもしないアイスホッケーを始め、他のクラスメイトたちと遊び、家業の農作業を手伝うレオの表情に大きな変化はないように見える。
それでいてどこか寂しげにも見える。
レミはどこ?どうしてレミと遊ばないの?レミといる方が楽しいはずでしょ?
つい、彼に話しかけたくなってしまう。その言葉が、レオの頭の中を飛び回っているような気がする。

子どもの友だちが成長とともに変わっていくのはありふれた成り行きだと思う。
レオとレミも、こんな明確なきっかけがなくてもいつかは離れていく関係だったのかもしれない。だが、だとすれば、レミが選んだ結末は説明がつかない。レオはどうあれ、レミは切実にレオを必要としていた。ほんとうはレオにもレミが必要だったはずだ。
その真理を、レオは拒否してしまった。

セリフが必要最低限しかなく淡々とした映画なので、レオの行動の理由に説明はない。
だからこそ、観客側は自分の心に「なぜ」と問い続けることになる。

レミとの関係を「カップルのようだ」と揶揄されたレオが傷ついたのはどうしてなのか。
レオの心理に、クラスメイトたちの間にホモフォビア(同性愛嫌悪)があったのではないか。
だとしたら、それはいつ、どんな形で無垢な彼らの心に入りこんだのだろう。
レオがアイスホッケーを始め、ことさら男の子らしく振る舞おうと装うのは、自分がゲイのように見えるのではないかという恐怖心があったからではないのか。
その恐怖心はどこからくるのだろう。
誰がどうしたら、レミをまもれただろう。

映像が眩いほどに美しい。
レオの家族は花を育てているのだが、季節ごとに変わる広大な花畑の景色はまさに天国そのもの、一面に咲き乱れる花の間を跳ねまわる13歳の子どもたちはまるで天使のようだ。ふたりが自転車で通学する田園風景は印象派が描く絵画そっくりです。
カメラは基本的にエデン・ダンブリン演じるレオのクローズアップか、もしくは彼らの視線の高さにあわせたローアングルで、物語は一貫してレオの主観で描かれる。だから観客は常に「あなたならどうする?」「それでいいの?」と己の心と会話しながら映画を観ることになる。

公開されてしばらく経ってしまったけど、ひとりでも多くの人に観てほしいと強く思いました。

あなたなら、どうする?
それでいいの?


関連レビュー:
『怪物』


『マティアス&マキシム』


さとくんといっしょに

2023年10月18日 | movie

『月』

洋子(宮沢りえ)と夫・昌平(オダギリジョー)には幼い息子がいたが先天性疾患がもとで亡くなり、その後、洋子は障害者福祉施設で働き始める。入所者に対する職員の虐待や、同僚の“さとくん”(磯村勇斗)の差別的な言葉に動揺した彼女は所長(モロ師岡)に報告するものの、大したことではないと一蹴され…。
2016年に発生した相模原障害者施設殺傷事件(通称「津久井やまゆり園殺傷事件」)をモチーフに、事件が起こるまでを描いた辺見庸の同名小説を映画化。

小学校1〜2年生のとき、クラスメイトに自閉症の男の子がいた。
ひらのくんといって、ひょろっと痩せて背が高くて手脚が長くて人形劇のマリオネットのような風貌で、愛嬌のある子だった。見た目にも明らかに「障害がある」と誰でもわかるようなひらのくんだったが、とくにいじめられることもなければ、取り立てて誰かに構われたり庇護されたりすることなく、自然にクラスに馴染んでいた。並外れて記憶力がよく、算数がとても得意だったのを覚えている。算数の授業では早口でぺらぺらと喋りながら問題を解いていた。

その小学校は全校生徒がおよそ3,000人にもなるマンモス校で、私は3年生に上がる段階で分離された新設校に移ったので、ひらのくんがその後どうなったのかは知らない。新設校でも障害児は普通学級で学んでいたように記憶している。
いまの公立の小中学校ではどうなっているのだろうか。

個人的には、たとえ障害があっても、誰かの助けが必要な子でも、可能な範囲で、普通学級でいっしょに学ぶのがベターだと私は思っている。
自分と他人は違うこと、違っていてもいいこと、必要なときは互いに助けあうことは社会性動物である人間にどうしても必要な能力だ。小中学校はそれを養う上で絶好の機会でしかない。

こういうことをいうと「障害児は教材じゃない」といった反発があることは知っている。
でも、障害児を普通学級から排除することは「社会は健常者専用なのだから障害者を排除してもいい」という偏った価値観の端緒にもなってしまっていると私は思っている。その価値観が、異物をうけいれようとしない内向きで攻撃的な社会の根源のひとつなのではないだろうか。

この作品は神奈川県の施設「津久井やまゆり園」で起きた凄惨な事件をモデルにしているが、ストーリーそのものはフィクションだ。加害者のニックネームや言動は実際の加害者である植松聖死刑囚から引用されているものの、映画の中の“さとくん”は植松死刑囚の物真似をしているわけではない。
この物語の軸はもっと根源的な疑問だ。

“人”って何?
“生きる”ってどういうこと?
“普通”ってどういうこと?
“命”はどうしてたいせつにしなきゃいけないの?

もちろん、そんなこと知ってるよ、わかってるよ、という人もいるだろう。
私自身も、ある程度はわかっているつもりではいる。
だけどそこをあえて、「あなたはわかってますか」「もう一度よく考えてください」と問うているのだ。

植松死刑囚は意思疎通が困難な重度の障害者を“心失者”と呼び、社会に必要ないと決めつけ、彼らを抹殺することで社会が良くなると信じていた。
確かに極端な考え方だが、では私は、あなたは、何をもってして誰を“人”と認め、社会には何が必要で、社会を良くするためにはどうすればいいか、理解しているだろうか。
「さとくん」がどうしてそんな考えに至ってしまったのか、なぜ誰も彼を止められなかったのか。19人もの犠牲者の命に報いるためには、ひとりでも多くの人間が、改めて心から誠実にその疑問に向きあい続けるしかないと思う。
そのために、この映画はつくられたのだと思う。
主人公の洋子は無力な新人職員ではあるけれど、観客を、人として忘れてはならない葛藤の入り口に導くための重要な役割を果たしている。

『舟を編む』の石井裕也監督作品にしては全体につくりが古くてクサイ雰囲気に面食らってしまった(テロップの書体やデザインがダサい・施設のセットがあまりにボロ過ぎるし汚過ぎる・全編照明が限度をこして暗過ぎる)が、いつの間にか展開が加速していくのにつれて物語に引きこまれていて、終わってみればちょっとした見苦しさも演出なのかなという気もする。
気がするだけかもしれないけど。

登場人物が全員、弱かったり卑怯だったり無神経だったり、人間がいかに不完全な生きものかということを嫌というほど力一杯再現していて、彼らの言動ひとつひとつがすべて残らず、物語の大事な要素になっている。
感動作ではないけど、「衝撃の問題作」などという軽薄なキャッチフレーズではくくれない、大事な映画だと思います。

劇中、昌平の発言にさとくんがハッとした表情を見せる瞬間がある。彼はここで、自分の考え方が間違っていることに気づいている。
結果的にさとくんはその気づきを自ら見過ごしてしまうのだが、この短いやりとりには「所詮、当事者に面と向かって発言できないような意見は、そもそも正しいことではない」というごくありふれた倫理観がこめられているのではないだろうか。
ほんとに、当たり前のことなんだけど。

関連レビュー:
『彼女の名はサビーヌ』
『ブラインドサイト〜小さな登山者たち〜』
『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』
『ボウリング・フォー・コロンバイン』
『累犯障害者─獄の中の不条理』 山本譲司著
『福祉を食う―虐待される障害者たち』 毎日新聞社会部取材班著
『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』 佐藤幹夫著
『舟を編む』


あたしの名前はキム・ソンリョ

2023年09月02日 | movie

『福田村事件』

日本統治下の朝鮮を離れ、妻・静子(田中麗奈)とともに故郷に戻ってきた澤田(井浦新)。リベラルな村長・田向(豊原功補)は京城(ソウル)で教師をしていた澤田の帰郷を喜び、村の学校で教えてほしいと頼みこむが、なぜか心を閉ざした澤田はにべもなく断るのだった。
一方、薬の行商をしている新助(永山瑛太)は一族を率いて讃岐を出発、関東方面に商いの旅に出る。
関東大震災直後の1923年9月6日、千葉県福田村(現在の野田市)で起きた行商団虐殺事件をドキュメンタリー作家の森達也が映像化。

このブログで何度か書いている通り、私は在日コリアン3世だ。
祖父母が渡日したのは関東大震災から数年後の1920年代後半〜1930年代と聞いているから、私自身と関東大震災当時の朝鮮人虐殺事件に直接的な関わりはない。
でも、2011年の東日本大震災をきっかけに各地で災害復興支援ボランティアとして活動したとき、被災地で100年前とほとんど同じデマを何度も耳にした経験は、トラウマのような傷となって、心の底にこびりついて離れなくなった。

デマを口にする人々に悪意はないかもしれない。だが、自分が発しているその言葉に何の責任も保とうとはしていない。むしろ善意で語っていることさえある。怖かった、傷ついた、という被害者意識がそうさせていることもある。
人間には知性があるから、極端に偏った情報に触れたとき、本来ならば一度立ち止まって冷静に判断することができるはずなのに、できなくなってしまうのはなぜなのだろう。

映画では、被害が大きかった東京市内から避難してきた被災者の口伝いに「朝鮮人が集団で人を襲った」「強姦をはたらいている」「井戸に毒を放りこんでいる」などというデマが村にもたらされるが、そもそも地震の前から日本人に朝鮮人への差別意識が潜在的に存在していたことも描かれている。
1910年の日韓併合以来、日本が朝鮮の人々をどれだけ虐げてきたか。ならばこういうときこそひどい仕返しをされるかもしれない、という罪悪感に基づく警戒心があったことや、それが、互いに抑圧しあう閉鎖的な農村社会に不穏な波風を立てる過程も、丁寧に表現されている。

さらには、在郷軍人会の存在が悲劇を助長したことも明確にしている。戦場を経験した彼らは、命を守るためなら相手の命を奪っても構わない、いざというときには考えている猶予などない、というある意味異常な生存本能をもっている。しかも、軍国主義のもとで自警団を指揮する彼らの立場が、行政の指示系統を機能不全に陥れる。

人は、事件といえば「起こってしまった犯罪」そのもののことを認知・記憶するけれど、この映画では、犯罪に至るまでに具体的にどのようなプロセスが重ねられていったのか、どんな要因が絡まりあっていたのか、いつなら悲劇をくいとめることができたはずなのかを、わかりやすく語っている。
村長は「軍隊、憲兵、警察の許可なく通行人を誰何してはならん。許可なく一般人民は武器または凶器を携帯してもならん」という政府の戒厳令を村に伝え、自警団の解散を促す。
新助たちは、彼らを朝鮮人だと決めつけようとする自警団に、行政発行の行商人鑑札を提示している。
5日前に朝明(浦山佳樹)と信義(生駒星汰)から湯の花を買った静子と澤田は、彼らはほんとうに讃岐からきた行商人だと証言している。

立ち止まるチャンスは、何度もあったのに。
まるで、村人たちは初めから人殺しがしたかっただけのような気がしてしまうのが、悲しい。

新助の最後のセリフは、おそらく、この作品のつくり手がいちばん伝えたかった一言だと思う。
そして在郷軍人・秀吉(水道橋博士)の最後のセリフは、やはりつくり手たちが、絶対に許容すべきでないと考えた概念なのだろう。
登場人物たちのセリフで人々の名前を強調する場面が繰り返されるのも、すごく大事なメッセージだと思う。

正直にいうと、森達也のドキュメンタリーを何回か観ていて「ドキュメンタリー作家の劇映画ってどうなんだろう」という疑問を持ちつつ劇場に足を運んだ。
失礼しました。ほんとにすいませんでした。
映画は脚本というけど、今作の脚本は荒井晴彦・井上淳一・佐伯俊道という超ベテラン勢が手がけている。この脚本がもう素晴らしい。完璧。文句のつけようがない。
人物設定もよく計算されている。福田村の住人でありながら外地からの帰還者という“異物”である澤田夫妻や、新聞記者の楓(木竜麻生)、行商団の少年・信義は、現代人である観客や語り手の視線を表し、観る者を物語の世界へ導く役目を果たしている。倉蔵(東出昌大)と咲江(コムアイ)、貞次(柄本明)とマス(向里祐香)の不倫や、大地震で人々が恐れ慄いているときこそ儲けどきと意気込む新助たちの阿漕な商売など、時代背景を反映した人の業の描写も、とても生き生きしている。

劇中には、福田村事件以前に起きた亀戸事件や堤岩里事件、部落差別やハンセン病患者への差別、水平社宣言など、日本の国家犯罪や差別の歴史を語る上で欠くことのできないいくつもの事例が登場する。行商団の人々や澤田夫妻の会話でも、差別がいかに理不尽で人道に反しているか、本質から目を背ける思考停止がどれほど罪深く非人間的かが、自然に語られている。
会話の一つひとつの完成度に、この映画をつくろう、世に問おうとする人たちの覚悟を感じました。したがって、なぜこの作品が朝鮮人虐殺ではなく福田村事件をとりあげたのかという確信も伝わる。

これが世紀の傑作と評価されるかどうかはまだわからない。
だけど、誰もが観るべき素晴らしい作品であることに間違いはないです。

倉蔵のキャラ設定には笑ったよね…この役に東出昌大をキャスティングした人は鬼だと思う。
芸術的なプロポーションで露出高めな造形が存分に堪能できたのは眼福だったけどもさ…例の醜聞でなんか嫌な印象もっちゃってましたけど、大丈夫、そういう人も今作の東出さんは楽しく?観れると思います(笑)。


関連記事:
『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』 加藤直樹著 
加藤直樹さんと一緒に、埼玉から関東大震災・朝鮮人虐殺を考える(フィールドワーク)
関東大震災時の朝鮮人虐殺地のフィールドワーク
アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所訪問記

『FAKE』
『虐殺のスイッチ 一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか』 森 達也著
『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う。』 森達也著
『放送禁止歌』 森達也著
『言論統制列島 誰もいわなかった右翼と左翼』 森達也/鈴木邦男/斎藤貴男著
『ご臨終メディア ─質問しないマスコミと一人で考えない日本人』 森達也/森巣博著


塔をめぐる冒険

2023年09月01日 | movie

『君たちはどう生きるか』

*ネタバレが不快な方は読まないでください。

空襲の夜、眞人(山時聡真)は入院中の母を火災で亡くす。父(木村拓哉)が経営する軍需工場とともに母方の郷里に疎開すると、母の妹で父の再婚相手の夏子(木村佳乃)が待っていた。彼女はすでに父の子を身篭っていた。
眞人がひとりになると、一家の屋敷の庭に住む“覗き屋の青鷺”(菅田将暉)がひそかに「母君のご遺体を見ていらっしゃらないでしょう。あなたの助けを待っていますぞ」と囁く。ある夕方、つわりで寝こんでいたはずの夏子が屋敷から姿を消し、眞人は手製の弓矢を携えて彼女を探しに、屋敷の庭に建つ“塔”の中に踏み込む。

子どものころ住んでいた家の周りには、水田が広がり、小さな山があって川が流れていて海も近くて、一年中、さまざまな野鳥がやかましく飛び回っていた。中でも身体の大きな鷺の優雅な姿態や、ゆったりと翼を広げて羽ばたく光景は幼心にとても神秘的で、ついつい見惚れてしまうことがあった。日暮どきに木々にとまっている鷺の群れが、寄り集まって何を話しあっているのだろうと想像したものだった。
やがて水田が次々に造成されて住宅地に変わっていったある朝早く、カラスが騒ぐのに気づいて家の裏手の狭い用水を覗いたら、丸々とした青鷺の死体が水に浮かんでいた。外傷はなく、どうして死んだのかはわからなかったが、とりあえず死体を引き上げて空き地に穴を掘って埋めた。
何十年も前のことだけど、とてもよく覚えている。

主人公の眞人は、そのころの私とちょうど同年代だ。
少しずつ自立の階段を上り始め、自分の世界を切り拓いていく年ごろ。同時に、親や家族や身近な人たちとの間にある距離を朧げに感じつつ孤独の味を覚えていく。子どもの舌に孤独はあまくほろ苦く、ときに美しくあたたかく、なぜとはなしに未知の世界へと自らを導いていく。
その昏い道にわくわくして、勢いに任せて先に進みたくなる気分に抗えず、すぐ傍にいる親兄弟や友だちと触れあう現実よりも、肥大化していく自我の中に埋没していく快楽。限りなく危険でありつつも、子どもの人格形成の過程においてはたいせつなプロセスでもあり、そのときを過ぎてしまえば二度と味わうことのできない稀有な心地でもある。

眞人は亡母が遺した吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』のページの上に、継母の行方を追う旅の中に、その道の行くてを見出す。
「お屋敷の血をひく者」にしか訪うことの叶わない“塔”の世界には海があり、島があり、ペリカンやセキセイインコの大群がいて、覗き屋の青鷺やキリコ(柴咲コウ)やヒミ(あいみょん)といった塔の住人たちに助けられながら、眞人は前を目指して突き進み、冒険を乗り越えていく。彼にとって「夏子さんを助けて連れて帰る」という使命は誰のためでもなく、自分で自分の子ども時代を終わらせ、自立した人間として現実に向きあって生きていく覚悟のためにこそ必要だったのではないかと思う。

これまでの宮﨑駿作品の集大成といってもいいようなこの物語には、生きる道に迷い、孤独を畏れ、己れの価値を見失っているあらゆる「子どもたち(大人を含め自らの未熟さや不運に立ち止まっている人々)」に対して、大丈夫だよと、静かに背中に掌をふれるようなメッセージがあるように感じた。
大義や教訓は重要じゃない。ただ大地を、水を、風を、火を、星や月や鳥たちが住う世界の大気を胸いっぱいに含んで、前を向いてごらん。思いきり手を伸ばしてごらん。心を開いて、きみの思うことを伝えてごらん。きっとできるよ。
そんなシンプルな話だと思うんだけど、そのメッセージに辿り着くまでの旅路を、塔の不思議な千変編花で彩る映像美とめくるめくように鮮やかな場面の連続が、華やかに煌びやかに照らしている。

私は宮﨑駿フリークではないけど、大雑把にいえば「千と千尋の神隠し」と「風立ちぬ」を足して二で割ったような印象を受けました。親(今作では継母)を探して助け出すというストーリーは「千と千尋〜」っぽくて、戦時中の日本の世界観や、風と光に満ちた塔の世界が幻想的に表現された情景描写は「風立ちぬ」に似ている。
ナウシカやラピュタやトトロみたいな不朽の名作かどうかはさておいて、日本のアニメーションの美を極めた芸術作品であることは間違いないし、誰にでも一見の価値はある作品だと思う。

同名の小説で劇中にも一瞬登場する『君たちはどう生きるか』は読んでなかったんだけど、読まなくても全然楽しめます。
けど前から読みたかったし、この機会に読もうと思います。

ところで覗き屋の青鷺=鷺男の風態が某巨匠を彷彿とさせるのはただの偶然ですよね。私の思いこみですよね。うん。きっとそうです。はい。


腐女子上等、BL上等。

2023年08月18日 | movie

『赤と白とロイヤルブルー』

初の女性大統領(ユマ・サーマン)の長男アレックス(テイラー・ザハール・ペレス)とイギリス王子ヘンリー(ニコラス・ガリツィン)は些細なきっかけで犬猿の仲となるが、米英関係を円満にするためのキャンペーンのなかで急接近。親しくなるにつれて互いの秘めた想いに気づくのに、時間はかからなかった。
ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラー小説を映画化、アマゾンプライムで公開中。

アマゾンのレビューでは賛否両論あるみたいだったのでどうかな?と思ってたけど、あるオープンリーゲイの方がX(ツイッター)で「こういうのが観たかった」と書いていたので鑑賞。
うん。おもしろかった。

ストーリー自体はすごく単純だし、あくまでもファンタジック(非現実)なラブコメとして楽しむための軽いコンテンツとしては、気持ちよく観られる作品に仕上がってます。
もちろんラブシーンもあるにはあるけど昨今の規制はきっちりまもられていて、これなら親子で観ても問題ないと思う。というかむしろ親子で観てほしいかもしれない。

物語のベースは古き善き少女漫画のテンプレートとよく似ている。
王子様とお姫様が出逢って、恋に落ちて、なんやかんやの障害を乗り越えてゴールインする。現実にはあり得ないけど、おとぎ話としてなら誰もが子どものころに絵本で読み親しんだ話だ。
違うのは、王子様と出会うのがお姫様ではなくてアメリカ大統領の息子(しかも政治家志望)という設定である。
そこが21世紀だよね。まさに。

アレックスはヘンリーとの関係にほとんど葛藤らしい葛藤は抱かない。だがヘンリーはそうはいかない。日本でもそうだけど、王室の人にプライバシーはない。人権もない。どんなにアレックスが好きでも、本気でのめりこむわけにはいかない。
だから常に自分を欺き、恋した相手をも突き放し、傷つけ、ただ背を向けて涙を堪えるしかない、そんな恋愛を彼は繰り返してきたのではないだろうか。画面には直接は出てはこないが、彼の挙動には、そんな孤独な過去がうっすらと見え隠れして切ない。

この映画を、セクシュアルマイノリティを商品化した低俗なBL作品だといって怒る人もいる。
その気持ちはとてもよくわかる。確かにその通りだ。
だけど、ヘンリーの苦しみを我がことのように感じる人もいるだろうし、アレックスの両親の愛情深さや、アレックスのスピーチに感動する人もいると思う。彼らのセリフは徹頭徹尾正論だし、青少年を含めて、家族でセクシュアリティについて語りあう機会があったら、是非参考にしてほしい作品でもある。あくまで入り口としてだけど。
少なくとも私はそう考える。

この物語には悪人は出てこないし、暴力シーンもない。肌の露出は必要最小限、下品な単語も(ほぼ)出てこない。
ポリティカリーコレクトネスにおいてはこれ以上ないくらいコレクトです。
老若男女、お子さんからお年寄りまで、誰でも楽しめます。
腐女子上等、BL上等。
セクシュアルマイノリティの恋物語をこんなキラキラハリウッド映画に仕立てて、みんなで楽しく観て、笑える。これこそ平和じゃないかと私は思うんだけど…。

本編はこちら。

あと、英語でもアメリカ英語とイギリス英語の違いが会話のなかでちょこっと出てきて、英語使う人ならそこも楽しめるかもです。
ヘンリーのお気に入り映画が『花様年華』だったり、アレックスがネックレス代わりにチェーンで鍵を首にかけていたり、深夜にふたりが抱き合って踊るシーンがあったりと『ブエノスアイレス』のオマージュらしき部分があって、監督か原作者はウォン・カーウァイ(王家衛)推しではないかと思う。どうかなー。