落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

父よ

2005年10月15日 | book
『父小泉八雲』 小泉一雄著

なんと悲しい本だろう。こんなに悲しい本だとは想像もしていなかった。
ぐりは中学生の頃から小泉八雲=ラフカディオ・ハーンのファンで、彼自身の著作は勿論、研究書や伝記の類いも読めるものは読み、彼の生涯に関する知識はひととおりもっていたつもりだった。
だが八雲が亡くなった当時わずか10歳で小泉家の当主となった長男一雄氏の遺したこの本が、これほど悲しみに満ちた一冊だったとはついぞ思いもよらなかった。

意外にもこの本には八雲と一雄親子の思い出話といった個人的なエピソードはほとんど書かれていない。さらに幼くして父を失った弟妹とは違い、長男として厳しくしつけられ毎日英語の個人授業を受けたりふたりで避暑に出かけたり、短くとも充実した親子関係だったはずの11年間について、一雄氏はあえてプライベートな部分を避けて述懐している。
一雄氏はこれ以前の昭和6年にも『父八雲を憶ふ』という本を書いているので、もしかするとそうした主観的な‘父八雲’についてはこちらに書かれているのかもしれない(この本はまだ読んだことがない。手だてがあれば一度読んでみたいけど)。あるいは、そうした甘ったるい記憶を著述家ではない素人の著書で自慢げにひけらかすのを恥じたのかもしれない。
ついそんな憶測をしてしまうほど、一雄氏がいかにも旧士族らしい頑迷な人物だったらしいことが文章からうかがえる。これは八雲自身が厳格で頑固な人であったという性格が遺伝した部分もあるだろうし、八雲の育て方にもよるものでもあっただろう。幼くして大家族の当主となった彼の立場が影響した部分もあるだろう。それにくわえて、彼の亡き父に対する愛情と敬慕の深さが、彼自身をして「父のように清廉でありたい」という生き方を強く決定づけている気がした。そのように自分を追いつめていくことで二度と会えない父に一歩でも近づこうとし、記憶の中で否応無しに少しずつ薄れていく父の面影を逃すまいとしたのかもしれない。

この本にはそうした一雄氏の父八雲に対する愛情があふれている。
世界に冠たる偉大な文学者であり芸術家だった父、両親との縁が薄く身障者でもあった(隻眼)可哀想な父、結婚とともに大家族を養う重荷を背負って必死で働いていた父、不器用で孤独を好んだが果てしなく優しく情に篤く非力なものにこそ心を寄せたナイーブな父。
父を誰よりも理解したい、そして自分の愛する父をこそ世間にもっと正当に理解してほしいという思いは、時代背景からみてもなかなか満たされるものではなかったろう。そんな願いより遥かに激しく一雄氏を苛んだのは、小泉家当主として直面すべき現実だった。八雲が没した当時、時代はおりしも明治後期、日本は戦争の時代へ突入しようとしていたのだ。
八雲は晩婚だったために、子どもたちの成人まで自分が働き続けられないかもしれない、という漠然とした不安を感じていたことはよく知られている。彼には4人の子どもがあったが、家族は妻子だけではなかった。妻セツの養父母と養祖父の他に、セツの親戚の書生たちや乳母や下女や車夫など常に十数人(!)の人間がひとつ屋根の下八雲の収入だけで暮していた。セツの実家は実父の存命中は自活していたそうだが、亡くなってからは実母の生活は八雲家でみていたらしい。一家の生活費は最晩年期で1ヶ月約300〜400円。当時勤めていた東大の月給が最初の契約で400円だから、これではほとんど余裕がない。だからこそ八雲は必死に著述業に精を出し、元来つつましさを好んだ彼には似つかわしくないほど原稿料に厳しくこだわっていたのだ。そんな八雲の不安は不幸にも見事的中してしまった。
現に一雄氏は父亡き後の小泉家の采配に相当な苦労をされたようだが、本書には苦労そのものよりも、彼や母セツを支えてくれた心ある人たちへの感謝の念がしっかりと書かれている。

この本に描かれている八雲は、だから‘父八雲’というよりは日本の大家族の家長としての八雲像というに相応しい。八雲個人の人物像とともにその背景として八雲家に関わる人々─八雲家の家族、セツの実家小泉家、遺族を支援してくれた友人や親類や弟子たち─の物語も詳しく描かれている。
特に興味深いのは、八雲の著述業を助けた弟子や友人たちと八雲自身・家族との個人的な関係や彼らの貢献についての記述。八雲没後、彼の書簡集や伝記が次々と出版されたが、重要なのはやはりその信憑性である。一雄氏はそれらの編者著者と本が出版された経緯、内容の真贋についてひとつひとつ丁寧に解説している。これは八雲についての資料を選ぶうえでたいへん貴重な証言だといえる。
それとセツの実家である小泉家に関するエピソードは、一部はなんと歌舞伎(『天衣紛上野初花 河内山』。セツの母方の祖父・松江藩家老鹽見增右衞門がモデル)の題材になったものまで登場するほど波瀾万丈で驚きました。
セツは生後間もなく遠縁の稲垣家へ養女に出されたので、没落した貧しい養家で苦労はしたようです。貧困のあまり教養はなかったものの、高貴な家に生まれ貞淑で上品で感受性豊かな女性だった母の姿を、一雄氏は父と同じように憐れむようないたわるような視点で描いている。その視線がますます八雲に重なり、重なるほどに彼の父への愛がなお哀しく響いてくる。

有名人を親にもつというのは誰にとっても苦労の多い人生だろうというのは容易に想像はつきます。
でもここまで苦しんだ人はそうはいないかもしれない。決して報われることのない亡父への愛ゆえの苦悩。宿命とでもいうべき、生涯逃れようのない苦悩だったろうと思うと悲しい。現実は八雲が愛したお伽話のように「みんななかよく幸せに暮しましたとさ。めでたしめでたし」とはいかないのだ。
涙なくしては読めない本でした。けど読んで良かったです。

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少女よ大志を抱け

2005年10月10日 | movie
『NANA』
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今日用があって渋谷に出て、せっかくだしたまにゃ非アジア系映画でも観て帰ろうか、と思ったら前から観たかった『運命じゃない人』は先週で終わってて、ちょうど時間の都合が良かったのが『NANA』。
ちょっと悩んだけど、去年コレが映画化されると聞いた時から観たかったし、今日を逃せばもしかしたら永久に観ないかもしれない、と思って観ることにした。

実はぐりはこの原作者の矢沢あい氏のデビューをリアルタイムで知っている。
あれはちょうど20年前、ぐりが中学生で毎月のお小遣いで「りぼん」を買っていた頃だ。当時矢沢さんは高校生で、『NANA』のような夢みる少女らしいかわいらしい少女マンガではなくて、もっと先鋭的でビッチビチにつっぱらかった、カリカリに乾いて硬く尖った鋭い物語を描いていた。全体に白っぽい絵柄もきりきりにクールだった。矢沢永吉のファンでペンネームを「矢沢」にした、とインタビューで語っていたのをよく覚えている。
その後間もなくぐりは「りぼん」を読まなくなったので、90年代にブレイクして大人気マンガ家になった後の彼女の作風についてはまったく知らない。『NANA』も一度も読んだことはない。
それでも『NANA』が映画化されると聞いてなんとなく嬉しかった。矢沢氏がデビューした頃、ぐりも少女マンガ家をぼんやり夢見ていて、同郷人で年齢も近く、学業とマンガ家業を両立しようと一生懸命頑張っている彼女の姿に親近感の交じった羨ましさのような感情を抱いた時代があったのを思い出したからだ。ただ単純に好きなことでチャンスをつかんだふつうの女子高生だった矢沢さんの作品が、20年経って多くの若者に支持され読みつがれ、映画になる。それも人気スター豪華競演。ステキじゃないですか。これぞオトメの夢じゃないですか。少女マンガの世界そのものでしょう。

映画はおもしろかったですよ。ちゃんと。すっごく少女マンガ!!!してて。
原作もよかったんだろうし、キャスティングもよかったんだろうと思う。ぐりは泣けたよ。「りぼん」読んでた頃が素直に思い出されて、懐かしさに自然と涙が出た。ええぐりにもあったんですよ。オトメな時代が。遥か昔ですけども。
宮崎あおいは無茶苦茶芝居上手いね。てゆーか演技にみえないです。中島美嘉も悪くない。オーラは充分だし貫禄と迫力は充分以上だと思う。けどこの人の芝居は致命的に間が悪い。表情も台詞回しもすごくいいのに相手役との間がまっっっっったくとれてない。これがイタイ。惜しい。がっくし。
松田龍平はさすがです。もホントとっつぁまソックリだね。あまりに似てて笑える。つうか彼が出て来るだけでいきなり画面が「映画」っぽくなります。この人よく枕詞に「日本映画界を背負ってたつ」とかいわれてますが、この映画では既に日本映画界が彼によっかかってる、甘えてるみたいにも見える。ヤバいよそれ。今回ラブシーンが何度かあって肌露出も多いんだけど(おそらく今作の‘露出’担当>笑)、いつもの妖艶なフェロモンは一切出さず。そんなもん出したりひっこめたり出来るってスゴイねー。
他でぐりが「おっ」と思ったのは松山ケンイチと丸山智巳。脇役なんだけど光ってました。要チェック。
こうやってひとりひとり挙げてるとキリがないくらい、この映画キャスティングは本当にいいです。ほんの端役まで贅沢なくらい全員がみんな魅力的。役にもハマってるし。

それに対して脚本は全然イケてないね。TVドラマでも昨今もうちょっとマシやろ、ってくらいダサい。台詞はどーしよーもないくらい白々しいしどうでもいいようなモノローグはやたら多いし、場面転換すんごいぎくしゃくしてるし。ところどころほとんどコント?みたいな段取りまるだしなヤケクソシーンも目立つ。
画面構成にもまるで芸なし。人物に異様に寄り過ぎた画が多くて、全体に狭苦しく感じた。なぜそこでレンズを替えないのか?あと2メートル下がらんのか?とイライラさせられっぱなし。原作がマンガなだけに要所要所に印象的な台詞がちりばめられていたり、衣装や美術セットなどプロダクションデザインもそれなりに凝っているのに、そんなディテールを活かす画づくりがまったくされていない。ただ漫然と芝居をおっかけてるだけ。カメラワークに愛情のカケラもなにもない。センスもやる気も感じられない。若者向けラブコメ青春マンガの映画化作品でも『恋の門』なんかすごーく映像綺麗だったんだけどねえ。
あと画面が妙に黒ずんでたのはアレはナニ?色が汚いよ。少女マンガ原作のオトメちっくな夢物語なんだから、もっとフワッと綺麗な仕上がりにしても良さそうなのに、なんか刑事モノとか文芸モノ?みたいなヘンに渋いドス黒い色調。意味がわからない。
それからー、あのー・・・例の合成シーンはちょっと(というかかなり)いただけなかったです。ヤバいよー。ってかもしかしてアレはギャグなの?マジではありえんよ。ぐはぁ。
エンドロールをみてると知りあいがいっぱいクレジットされててオドロキ。日本映画界って狭いなーーーー!てゆーか層が薄すぎるのか。中には内トラでがっつり画面に映ってる人もいたりして。しばらく会ってませんがお元気そうで何よりです。

完成度を云々しだすとかなりどうしようもない映画ではあります。でもたぶん女の人なら、80年代に少女マンガを読んでた人ならぼちぼち楽しめる作品かも。
少なくともぐりの予想よりは全然おもしろかったです。ホッ。
それにしても映画館超いづらかったよ(笑)。見事に若い子ばーっかりで、めちゃめちゃいたたまれなかったです。男性の観客が多かったのが意外でした。みんな誰目当てで来てたのかな?

痛い図星

2005年10月03日 | book
『東京奇譚集』村上春樹著
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この前の『アフターダーク』がどーもイマイチだったのでコレも読むかどうか迷ってたんだけど、先日待ちあわせの暇つぶしに立ち読みしてたらなかなかおもしろくて買っちゃいました。
うん。よかった。
村上春樹、長編は特に近作には完成度にバラツキがあるような気がするけど、短編はいつもなかなかいいです。これもぐりは結構好き。ただし『どこであれそれが見つかりそうな場所で』と 『品川猿』は他の3本に比べてもうひとつという気がする。

しかしこの人の短編は毎度のことながらかなりキツイことをズバッと書いてきます。
人間て誰でも図星をさされるとついムッとしてしまうものだけど、村上春樹の短編はまさにそこの、いちばん他人にいわれたくない痛いところを、遠慮会釈もなにもなく思いっきりグッサリと刺してくる。
今回も刺されましたね。ぐりが刺されたのは『偶然の旅人』と『品川猿』。『偶然の旅人』の方はたまたまそこを読んでた時電車に乗ってて、反射的にものすごい勢いで涙が出てきてしまってちょっと困りました(笑)。
たぶん大人ってたいていは、大人になりきれてない自分をうしろめたく思いながら、日々の生活をどうにかこうにか生きている。どんなに平穏に幸せに生きてるように見える人でも、多かれ少なかれ「未解決の宿題」みたいなものを抱えている。そうですね?そういう不完全さが人間らしさでもある。
だけど一生その「宿題」を抱えこんだままではいられない。いつかどこかで必ず清算すべき時がやってくる。『偶然の旅人』の調律師と『品川猿』のみずきにはたまたま“勘定書き”がうまくまわってきたけど、現実世界に生きている我々にも、そう都合よく向こうからまわってきてくれるものだろうか。

ぐりにはそれがどんな瞬間なのか、ぜんぜん想像がつかないけれど。

続ぐり的映画鑑賞三原則

2005年10月02日 | movie
『四月の雪』
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昨日の日記にも書いたぐりの映画鑑賞三原則。
ひとつ、作品に関する事前情報をなるべくいれない。ふたつ、作品に対する勝手な期待をもたないこと。みっつめ、作品にできるだけ入りこんで観ること。
Blogがこれだけ流行ってたくさんの人が映画評を書く世の中だけど、ぐりが普段みてまわる限りでは、大抵の「おもしろくなかった」という評はほとんどがふたつめ、作品に観客の勝手な期待を持ちこんでいることが原因のように思える。
たとえばハードボイルドならハードボイルドはこうあるべきではないか、とか、サスペンスならサスペンスはこうあるべきではないかとか。もっと下世話な言い方をするなら、ラブシーンがあるならエッチじゃなきゃイヤとか、ホラーなら残酷じゃなきゃ納得いかないとか、意外に結構たくさんの人が無意識に映画にいわゆる既成概念を求めながら観ていたりする。それはそういう観客が求めがちなものに安易に迎合している映画やTV番組が多すぎる(その方が最大公約数的にわかりやすい=受け入れられやすい)からなんだけど、毎度毎度それでは新鮮味もオリジナリティもなくなってしまう。当然作家によってはそんな予定調和な作品なんかつくりたくない人もいる。
ぐりはどっちかといえばそういう観客を裏切れる作品の方が好きですけども。

『四月の雪』もぐりがみてまわるBlogではすこぶる評判悪いです。曰く退屈だとか、盛り上がりに欠けるとか。日本ではヒットしてるけど韓国や台湾では全然成績悪いみたいだし。
でもさぁ、大体許秦豪(ホ・ジノ)作品に盛り上がりとか求める方が間違ってないかね?大絶賛された『八月のクリスマス』だって『春の日は過ぎゆく』だってカタストロフもなにもない、ひたすら静かで淡々としたメロドラマだった。
彼の映画では画面ではほとんど何も起こらない。死期の告知も、主人公の最期も、愛が壊れる瞬間も、交通事故も、ほとんどの大事件は画面には出て来ないまま物語が展開していく。大事なことは大抵画面の外で起こってしまってから、観客はなりゆきでその「一大事」の存在を知る。それが許秦豪作品。盛り上がる訳がない(爆)。
だがそれだからこそ、彼の作品には繊細な情感が満ち溢れている。わざとハイテンションなシーンを排除してあるからこそ、涙はほんとうにほんとうにせつなくあたたかいし、笑顔は実にやさしくさわやかだ。少ない台詞のひとつひとつには重い説得力があるし、登場人物の無言の背中や横顔からは能弁にその心のうちが伝わってくる。
いつも少し淋しげな引いた構図もぐりは好きだし、音楽もなくしんとしたひとりぼっちのシーンも(よく出て来る)リアルで良いと思う。

なかには裴勇俊(ぺ・ヨンジュン)や孫芸珍(ソン・イェジン)の芝居がイケてないという評もみかけたけど、ぐりは特にそうは思わない。彼らは彼らなりに頑張ってたと思うし、ぐりが観た限りではそれほど悪くないと思う。少なくともぐりは不満は感じなかった。
許秦豪の作品は台詞がとても少ないので、台詞によって台本を読み取ろうとする習慣のある役者にとっては割りに難しい、ハードルの高い作風ともいえる。だって台詞=言葉で説明しちゃうのってラクじゃないですか。でも台詞がなかったら感情をぜんぶ表情を含めたボディランゲージでしか表現出来ない。ボディランゲージによる感情表現というのはまず自分自身を解き放ってからっぽにして、全ての現象に対して100%ストレートに反応出来るモードに自分をもっていくところからしか始められない。これは相当に難しいことだし、おそらくはいくら訓練しても出来ない人の方が多い。
そんなハイレベルな芝居を要求される作品の中で、ふたりはかなり頑張ってはいたんではないかと思う。ぐりはね。

今回の『四月の雪』はそれでも許秦豪にしてはドラマチックな話だと思う。ダブル不倫のカップルが交通事故に遭って、ふたりともが意識不明の重態に陥る。病院で出会ったふたりのそれぞれの配偶者が、毎日顔をあわせるうちにだんだん親しくなっていき、恋に堕ちる。筋立ても細かな偶然の繰り返しもまさにメロドラマの王道ではないか。
それなのにお定まりのメロドラマの俗っぽさに陥らないのは、やはり台詞での説明を一切排除して全てを画で表現しようとしているからだろう。
事故に巻き込まれたトラックドライバーの葬式の帰り、ソヨン(孫芸珍)がクルマを降りて道端で号泣するシーンがある。台詞はまったくない。画面もほとんど動かず、カットチェンジも一度しかない。時間はもう黄昏時で、泣いている女の顔もろくに見えない。でもみている者は胸を抉られるようなせつなさに襲われる。私は悪くないのに、私が何をしたというんだろう、そんなソヨンの心の叫びが聞こえてくる。

そんなワケで許秦豪ファンのぐりとしては納得の出来でした。おもしろかったです。ちゃんと。いい映画です。
けど許秦豪ファンでない人にはあえてオススメはしないです。ヘタすっと寝ちゃうかもしんないからね(爆)。
そーいやぐりが観た上映館には例のよんさん手型があって、ちょーいっぱい「家族」の方が行列されてました。売店にも各種グッズがたんまり。
よんさん劇中で鼻水垂らして泣いてたけど(爆)、あれって「家族」さん的にはどーなんでしょね。ぐりは「おっ。よんさんの鼻の穴にも鼻水入ってんだー。サイボーグじゃないんだー」とかちょっと思ったけど。
すんません。

ぐり的映画鑑賞三原則

2005年10月01日 | movie
『セブンソード』
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ぐりは映画を観る時に決めているルールがいくつかある。
まずひとつめは何度かここにも書いてるけど、作品に関する事前情報をなるべくいれない。無用な先入観をもちたくないからだ。特に出演者や監督のインタビューは軽いもの以外はまず読まないし、レビューも出来るだけ目に触れないようにする。観るか観ないか決めかねている作品に関してはたまに参考にしている特定のライターの評があれば軽く目を通すが、そういうのは例外である。原作ものの場合は原作も読まない。
ふたつめは作品に対する勝手な期待をもたないこと。ひとつめと同じようなことだが、おもしろいかどうかとか出来が良いかどうかとかそういう質的なことだけではなく、たとえばストーリーの先にあるものや、つくり手が語ろうとしているメッセージのようなものを、こちらで先回りして待ち構えるような見方はしないように気をつけている。
みっつめは作品にできるだけ入りこんで楽しむこと。泣ける映画ならぼろぼろ涙を流して号泣するし、笑える映画なら思いっきりゲラゲラ笑う。他の観客の迷惑にならない程度に、ではあるが。少し前に仕事場の人といっしょに『宇宙戦争』を観にいったら、隣に座ってた仕事仲間が「びっくりして椅子から飛び上がってる人(ぐりだ)を初めてみた」といっていたけど、それくらい入りこんで楽しまなきゃソンじゃないですか。せっかく高い入場料を払って、短くはない時間を割いているのだから、モトはとりたい。

このルールが守れていれば大抵の映画はある程度までは楽しめる。
しかしひとつめとふたつめは観る方でどうにか出来ても、みっつめは作品そのものの出来具合いによってはどうしても無理なことがある。どう好意的に観てもおもしろくなかった映画の多くには、「観客を作品の世界に連れていく」機能が欠けている。そういう映画は、残念ながらいくらぐりでも楽しんで観ることは出来ない。
『七剣』に関していえば、世間がなんといおうとこの「観客を作品の世界に連れていく」力は申しぶんない。ぐりはもともと武侠片(中国の時代劇アクション)にはほとんどまったくといっていいくらい興味も知識もないし、この映画に出ているどの俳優のファンでもないし監督のファンでもない。中国ではベストセラーだという原作だってもちろん読んでいない(日本ではこれから発売されるのだが)。
それでもちゃんと楽しめました。衣装やメイクや美術セットもなかなか見応えあったし、アクションシーンも迫力あったし、ストーリーも上手く練れているとはとても言い難いとはいえ、長く濃密な大衆文学を2時間半の映像にまとめるには他に方法がなかっただろうということは容易に想像がつく。
というかそもそもこの映画は「ストーリー」を楽しむようなタイプの作品ではないのだろう。こちらの頭をからっぽにして、7人の剣士たちの住むこの独特な世界観と、徐克(ツイ・ハーク)の表現しようとした美意識に素直に身を委ねれば、ふつうに当り前に「おおスゴイな」と思える。それが難しく感じるような作品ではない。力はあるのだ。

だがそれでもやはりあれこれとアラは目につく。エピソードをつめこみすぎ。女がぎゃあぎゃあ騒ぎすぎ。うるさいしみっともない。ついでながらいわなくていいクサイ台詞も多すぎる。
黎明(レオン・ライ)活躍しなすぎ。主役なのに影うっすー!いつの間にかやたら年くっちゃってるし。この前の『インファナル・アフェアⅢ』ん時は相変わらずクールでステキだったのに、もしや古装が似合わないのか。
っつうかこの映画では孫紅雷(スン・ホンレイ)以外はどの役も誰がやったっていっしょな気がするなー。特に演技力を求められるような作品じゃないし、キャラが濃いから出来る芝居の質が決まってしまう。孫紅雷はめちゃめちゃ貫禄あって怖かったけどー。

致命的なのはカメラワークとカット割り。アクションシーンはすっごくいいです。さすがです。ところがそれ以外のシーン、特に状況説明的な引き画になると途端にあからさまにやる気のないテンションの低い画面になってしまって、そのギャップに愕然とさせられる。スペクタクルシーンとかもう何が何だかじぇんじぇん意味わからない。序盤で雪山に火の玉みたいのが降ってきたけど、アレはナニ(爆)?あのあたりのシークエンス何がどーなってんのかさっぱりついてけなんだよ。
あとコレもしかしてハイビジョン撮影なのかな?画質がイマイチ綺麗じゃなかった。せっかく迫力のある映像なんだから、どーせならアナモフィック・レンズ使ってスーパー35サイズで撮って欲しかったです(ハリウッドのスペクタクル映画でしばしば使われるサイズ。超横長&高細密)。そしたらもっと圧倒的に華麗な画で観客をのみこむことが出来たはず。

とはいえよく出来てる映画だとは思うし、観てソンするような駄作では決してないです。
少なくとも題材に対するつくり手の愛と情熱は充分に感じられる。やりたくてやりたくてしょうがないことを、一生懸命必死に頑張ってやってます!というのはしっかり伝わってくる。
そういうのがわかると、結構観てる方は安心して映画の世界についていけちゃうもんなんだよね。実は。