つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

万歳(三唱)行為の日本最初は明治天皇の即位式

2024-10-29 00:10:50 | 皇室

※朝日新聞2023年4月15日夕刊の記事「朝日新聞写真館」が「バンザイ」の写真を掲載した。以下に参考までに、私が2020年1月8日に「万歳行為」に関して投稿した内容を紹介したい。

 

 昨年、天皇に対する「万歳」行為について話題となり、公的な場での「万歳」行為は、神聖天皇主権大日本帝国憲法発布の際に「天皇陛下万歳」と叫ばれたものが日本最初とされている。

 しかし、これは間違っている。日本最初の「万歳」行為は、明治天皇即位式において行われ、周囲の臣下が万歳を唱えたのである。明治天皇が即位した時、中国の皇帝が即位する時に倣って儀式を発明した。大きな地球儀を備えて、その地球儀には、日本列島、カムチャッカ、樺太、沿海州、朝鮮全体、中国の山東省、台湾、これらの地域を金色に塗って、明治天皇が金色の部分を三度踏んで、周囲の臣下が「万歳」を唱えるという即位式であった。ちなみに、この中にはすでにアジアを支配するという考えが込められていたのであった。

(2020年1月8日投稿)

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皇室神道(今日も存続する国家神道の中核)のメディアが報道しない年末宗教儀式

2024-09-29 12:00:11 | 皇室

 神聖天皇主権大日本帝国政府が生み出した「国家神道」は、アジア太平洋戦争の敗戦後、GHQ占領下の「神道指令」により「解体」された。しかし、それは「消滅」したのではなく、戦後も、国家神道の「」である「皇室神道」と、それを支え「神社神道」のほとんどすべてを傘下に収め君臨する「神社本庁」(前身は内務省神祇院)によって存続しつづけ、今日に至り、さらに戦前回帰を目論んでいるのである。自公政権日本国憲法第20条1項「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」、2項「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」、3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という定めを無視し意図的に蹂躙している。それを許しているのは、明らかに国家的な行事として神道儀式が実施されているにもかかわらず、「内廷の事」、天皇家の私事としてメディアが処理し報道しない事と、主権者国民の多くがそれを問題視しないからである。

※国家神道(皇室神道が核) 神像……日の丸、御真影

              教典……教育勅語

              賛歌……君が代

 皇室神道の年末の儀式には、「節折(よおり)」と「大祓(おおはらい)」がある。「節折」とは、天皇の穢れを払うというもので、天皇に白絹の着物をあて、そのあと天皇は口気を三度かけ、穢れを移す。次にの枝で自分の身体を左右左となでる。そのあと、侍従(公務員)が天皇の背丈、肩から足などに篠竹を当て、その寸法で折る。最後に15㌢ほどのに三度息を吹き込む。これらの「荒世(あらよ)の具」を使っての所作が済むと、次は「和世(にごよ)の具」として、同じものを天皇に渡し、同じ事を繰り返す。絹の着物だけは紅地である。皇后、皇太子夫妻は、御服の儀だけで、それぞれ吹上、東宮御所で行う。

 「大祓」とは、宮中三殿と称するものの一つである神嘉殿前庭で「節折」に続いて行う。「掌典(天皇家の私的使用人)」が参列者を代表して「皇族」を「大麻」で払う。これらの「贖物(あがもの)」は唐櫃に入れて、浜離宮から海に流した。1980年からは皇居・北詰門付近の濠に、重しをつけて沈めている。

掌典は宮中三殿の神殿に、内掌典賢所皇霊殿に仕える。

神嘉殿新嘗祭を実施する。

(2022年12月27日投稿)

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終戦(敗戦)直後の皇族の宗教(国家神道)儀式に見る価値観は今も継承され、これからも

2024-09-05 20:46:13 | 皇室

 昭和天皇は、アジア太平洋戦争中には、国家神道が祀る神々に「戦勝祈願」の「祈り」を皇居の三殿(宮中三殿)において捧げ続けていた事は周知の事実である。

 その昭和天皇は終戦(敗戦)直後の11月12日には、国家神道の神々を祀る伊勢神宮、神武天皇陵、明治天皇陵にそれぞれ「終戦(敗戦)奉告」のために参拝していた。

 また、12月3日には、皇族男子を呼び、「歴代天皇に親しく自分がお参りして終戦(敗戦)のご奉告をしたいのであるが、今の状態ではできない。みなで自分の代わりに御陵に参拝(敗戦のご奉告)してほしい」と命じた。それにより、12月初旬には、7人の皇族が手分けして全陵(治定は明治期伊藤博文の命により実施されたものでほとんどは信憑性はない)を参拝(敗戦のご奉告)したという。たとえば、高松宮は京都・月輪陵など40数陵、閑院宮は奈良・聖武天皇陵など15陵、朝香宮は大阪・応神天皇陵など16陵というようにである。

 なぜ、昭和天皇や皇族がこのような動きをしたのだろうか。その答えは「終戦(敗戦)の詔勅」のなかに明確に述べられていた。昭和天皇が国民に命じた事は、「忍び難きを忍」んで降伏し「国体(天皇制国家体制)を護持し得」た事を喜び、今後いよいよ「誓って国体の精華を発揚」する事、であったからである。

 この事はまた、国民の犠牲の苦痛も、日本の侵略が与えた隣国の苦難も、天皇制維持(護持)の一点以外のすべては問題とされていなかったという事でもあった。そして、平成の天皇も、新たな天皇も、その皇嗣子も、この昭和天皇の「終戦(敗戦)の詔勅」に込めた意志を実現する事を使命としていると考えてよいのである。

 彼らが、国民に対して、昭和天皇の「終戦(敗戦)の詔勅」を「撤回する」との意志表明をした事がないし、自己の考えを論理的に表明した事がないからである。

(2019年12月10日投稿)

 

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韓国併合条約についての明治天皇の詔書に見える政治姿勢

2024-09-05 20:40:38 | 皇室

 1910(明治43)年8月30日付東京日日新聞政府系御用新聞。毎日新聞の前身)は、韓国併合条約に関する明治天皇詔書を掲載した。内容は天皇の価値観を表しており、以下に紹介しよう。

「 韓国併合条約

   詔 書

朕東洋の平和を永遠に維持し帝国の安全を将来に保障するの必要なるを念い、又常に韓国が禍乱の淵源たるに顧み〇に朕の政府をして韓国政府と協定せしめ韓国を帝国の保護の下に置き、以て禍源を杜絶し平和を確保せむことを期せり、爾来時を経ること四年有余、その間朕の政府は鋭意韓国施政の改善に努め其の成績亦見るべきものありと雖、韓国の現制は尚未だ治安の保持を完するに足らず、疑懼の念毎に国内に充溢し民其の堵に安ぜず、公共の安寧を維持し民衆の福利を増進せむが為には革新を現制に加うるの避く可らざること瞭然たるに至れり、朕は韓国皇帝陛下と與に此の事態に鑑み、韓国を挙て日本帝国に併合し、以て時勢の要求に応ずるの已むを得ざるものあるを念い、茲に永久に韓国を帝国に併合することとなせり、韓国皇帝陛下及其の皇室各員は併合の後と雖相当の優遇を受くべく、民衆は直接朕が綏撫の下に立ちて其の康福を増進すべく、産業及貿易は治平の下に顕著なる発達を見るに至るべし、而して東洋の平和は之に依りて愈々其の基礎を鞏固にすべきは朕の信じて疑わざる所なり、朕は特に朝鮮総督を置き、之をして朕の命を承けて陸海軍を統率し、諸般の政務を総轄せしむ、百官有司克く朕の意を體して事に従い、施設の緩急其の宜きを得、以て衆庶をして永く治平の慶に頼らしむることを期せよ

 御名 御璽 

  明治四十三年八月二十九日

       各大臣副署                             」

(2023年3月13日投稿)

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伊勢神宮その他への「韓国併合」奉告勅使を伝える東京日日新聞(毎日新聞の前身)

2024-09-05 20:35:58 | 皇室

 東京日日新聞毎日新聞の前身)は1910(明治43)年8月30日版に「韓国併合条約」締結に関する記事を特集し掲載した。神道国教と定め国民に強制した神聖天皇主権大日本帝国政府がどのような体質を有していたのかを知る事ができる、伊勢神宮などへの「奉告勅使」の記事を紹介しよう。

併韓奉告祭

 韓国併合発表に付き来る九月一日宮中賢所大前に於て奉告祭を行わせらるることとなり岩倉掌典長以下各掌典は式典準備に多忙を極めつつあるが、更に伊勢神宮並びに大和神武天皇御陵、京都先帝御陵奉告の為め勅使として掌典次長公爵九条道實氏を差遣わさるべき旨二十九日御沙汰あらせられたり、右に付き九条公爵は三十日出発、先ず伊勢山田に赴き、一日午前豊受大神宮、午後皇大神宮奉告し、翌二日大和に赴き、三日神武天皇御陵奉告、畢て同日京都に参向、四日先帝御陵奉告の都合也と。」

(2024年9月5日投稿)

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