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1965年日韓条約は日韓両政府の強行採決により成立。日本政府は植民地支配の合法主張。メディアは佐藤栄作自民党政権の強行採決の事実を国民に伝えよ

2025-02-15 19:03:56 | 朝鮮問題

 日韓条約とは、1965年6月22日に日本政府(佐藤栄作首相)と大韓民国政府(朴世煕大統領)の間で調印された日韓基本条約と、それに付随する一連の協定・外交公文の総称である。これにより国交を開いた。朝鮮半島は日本の敗戦により、日本の植民地から解放(独立)されたにもかかわらず、その後の、米国の介入により南北分断を余儀なくされ、38度線を境にして、先ず南部に「大韓民国」、そして北部に「朝鮮民主主義人民共和国」が成立し、朝鮮戦争をへて、分断が固定化する状況となった。

 朝鮮戦争は、1950年6月25日に勃発し、53年7月27日に休戦協定が結ばれたが、勃発の翌年の51年11月に「日韓予備会談」が開始された。米国、日本(第3次吉田茂首相)、韓国(初代大統領:李承晩)3国政府の意図で「朝鮮国」を「排除」し「韓国」だけと交渉が進められた。その意図は、基本条約の第3条に「韓国政府は、国連総会決議195号が明示するとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府である」と定めた事からも明らかなように、「朝鮮国」は半島北部を「侵略」し「不法占拠」している「殲滅すべき不法勢力」であるとの認識を共有していたからである。日本政府は第3条については「休戦ライン以南を現に管轄している事実を確認したものに過ぎない」と子供だましの説明したが、その後今日に至っても「朝鮮国」との国交を開いていないだけでなく敵視政策を強めていることから判断して日本政府は、韓国政府の説明を故意に認めず否定し、国民を騙すために「ウソ」をついた事を自ら暴露し開き直っていると言ってよい。その意図はまた、「在日韓国人の法的地位および待遇に関する協定」で、「協定にともなう日本側の特別法により66年1月から5年間の間の本人申請にもとづき、協定永住権を賦与する」として、在日朝鮮人に一方的に「韓国籍」を取得させようとした事でも明白であり、「朝鮮半島の分断」と「朝鮮人の分断」を意図したものであった。

ちなみに、日韓国交交渉についての外交文書の公開の1回目はほとんどすべて墨塗り状態で、2回目は韓国の新聞や雑誌の翻訳文ばかり。未公開部分を公開させる事が重要で急務である。

 さて、「日韓予備会談」は53年の第3次(第5次吉田政権)で中断(4年余り)された。それは、日本側の首席代表「久保田貫一郎」の「日本の朝鮮統治は悪い面ばかりでなく、良い面もあった(恩恵を与えた)」という、日本の植民地支配を正当化する発言をしたためである。日本側は代表を交代させ「久保田発言」を撤回したうえで、58年4月に第4次(第1次岸政権)が再開された(代表交代後も「久保田発言」と同様の姿勢と発言を続けた)。韓国では李承晩政権が独裁化していたのに対して、民主化と南北統一を求める「四月革命」が起こり、李政権を打倒し、野党を基盤とした張政権が成立したが、それを軍人である朴正熙が1961年5月にクーデタを起こし、政権を打倒し李政権と同様の独裁政治に戻した。朴政権は日本資本による経済発展をめざした。日本政府は独占資本の韓国進出を目論んでいた。米国は、ベトナム戦争に深入りするため、韓国に対して日本に肩代わりを求めていた。3者の利害が一致し、会談は急速に進展した。しかし、韓国国民は、会談が自主的平和的統一を阻害するだけでなく、再び日本への従属を招く事になるとして、64年3月から6月にかけて反対運動が高まり、朴政権は「非常戒厳令」を出して抑圧し、65年6月に調印した。日本でも反対運動が起こったが、日本による植民地支配の責任追及やそれに基づく再侵略批判は目立たなかった。

 また、「批准」の過程は、朴政権は65年8月14日に野党議員が総辞職するという状況下で、与党だけの単独採決を強行した。日本では第1次佐藤政権が、65年11月6日の「衆議院日韓特別委」で、11月12日の「同本会議」でも、12月11日の「参議院本会議」でも「強行採決」を行った。そして、12月18日に批准書が交換され条約が発効した。

※1910年に日本が締結を強要した「韓国併合条約」やそれに至る条約や協定については、日韓基本条約第2条では、朴政権が「そもそも無効である」と主張したのに対し、佐藤政権は「もはや無効である」と押し通し、日本による植民地支配を認めないあいまいなずるい決着?をした。

在日朝鮮人も「日韓条約」により、分断を強いられる事となり、現在の在日韓国・朝鮮人問題を生み出した。

請求権問題では、日本政府は、植民地支配は「合法」であるとして、韓国の「賠償金」請求を放棄させ、「経済援助」として、「無償贈与」と「有償借款」を合わせて「5億ドル」を供与するとした。

※「相手を理解しようとする努力と、自己を省みる真摯な態度を持たないと、真の友好を育む事はできない。」

(2019年8月27日投稿)

 

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沖縄季評に書かれた教科書が載せない、敗戦直後のパンパンと明治維新の新島原遊郭

2025-02-15 18:54:42 | 慰安婦問題

 2021年11月5日の朝日新聞「沖縄季評」が「パンパン」の事に触れていた。「パンパン」とは、「アジア太平洋戦争で降伏した日本を占領した、連合軍兵士の相手をする日本人売春婦を指す言葉」であるとしている。

 さて、GHQによる占領下の日本政府は、占領軍兵士に対する性的慰安施設を設置した事を紹介しよう。日本政府は1945年8月18日、占領軍専用の「慰安施設」を特設するよう官僚に指示している。「日本の娘を守る」という名目であった。当時の大蔵官僚であった池田勇人が「1億円で純潔が守れるのなら安いものだ」と活躍した。しかし、プロの売春婦たちはこの事業に参加する事を拒んだ。彼女たちは「アメリカ人は大男なので性器も巨大だろうから怪我をする」と考えたようだ。そこで設立者たちは一般女性を募る事にして、東京銀座巨大看板を出した。それには『新日本女性に告ぐ、戦後処理の国家的緊急施設の一端として、進駐軍(占領軍)慰安の大事業に参加する、新日本女性の率先協力を求む』と書いた。愛国的、自己犠牲的に参加した女性もおおかったようで、8月22日までに1360人もの女性が「特殊慰安婦施設協会」(RAA)に登録した。そして、皇居前広場RAAの発足式と『……戦後社会秩序の根本に見えざる地下の柱たらんとす……国体護持に挺身せんとするに、他ならん事を、重ねて直言し以て声明となす』との宣誓を行った。

 RAA発足の日には数百人の米兵たちが大森のRAA施設に向かった。少数の娘たちが集められていたが、大半は処女であった。ベッドも布団も衝立もなく、阿鼻叫喚、官僚が罠にはめた娘たちは米兵に集団強姦された。当時の警察署長はすすり泣いたという。RAAの女性が相手にした米兵は1日15人から60人であった。自殺者も精神的な問題を抱えた女性も多かった。RAAは数カ月で廃止された。RAAの女性の90%が性病に感染し、米兵の70%が梅毒、50%が淋病に感染している事が判明したからである。

 RAAの廃止後、内務省官僚は『女性には売春する権利がある』と赤線地域を設定した。警察が市街地図に赤線を引き、その範囲内での売春を許可した。5万5千人から7万人の売春婦がいたという。

 ところで、明治維新においても新政府が同様の政策を実施していた事も紹介しよう。『戊辰物語』(東京日日新聞社会部編)によると、「吉原の廓築地へ移して外国人お取持ちのため「新島原」というのが出来る話が始まって、吉原の連中が「どうぞ移りませんように」と神様参りを始めたりした。ホテル館が出来る、居留地が出来る、遊郭が出来るで、攘夷家は築地近辺を通らなかった。新島原は確か2年に竣工したと思うが、仲の町があり、花魁道中があり、引手茶屋などすべて本式で、今のうなぎの竹葉の通りが仲の町、鉄砲洲に大門があった。遊女はどのくらいあったか知らんが、島原八カ町といった。この遊郭は2年ばかりで廃絶したが、一時は大したもので、遊女屋のおやじは「天下のための商売だ」とひどく威張った」とある。

ちなみに、新島原遊郭は、1868(明治元)年11月東京築地に開かれ、居留地の外人めあてに千名近い娼妓が存在した。後、各方面からの反対で、1871(明治4)年全部取り払われた。

赤線地域……政府公認の売春地域。日本政府はGHQの公娼廃止指令に基づき、1958年売春防止法を制定し、公娼制度を廃止し、赤線地域(売春許可地域)もなくした。

(2021年11月6日投稿)

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大嘗祭は皇室神道の宗教儀式:政府・自治体などの公務員が関わる事は憲法が禁止する政教分離原則を蹂躙する非合法行為

2025-02-15 11:54:41 | 大嘗祭

 大嘗祭は日本国憲法の下で、国民から憲法違反であると異議を唱えられながら、既に平成天皇の即位の際、国事行為として実施を強行し、そしてまたこの度の新天皇(令和天皇)の即位に際しても国事行為として、安倍自公政府は実施を強行し始めている。大嘗祭は、神聖天皇主権大日本帝国政府が作った国家神道の核である、天皇を最高祭祀者とする皇室神道(天皇教)の宗教儀式のなかで最も重要とされるものである。

 この皇室神道については、敗戦後の1945年12月15日、GHQが、「神道指令」=「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督ならびに弘布の廃止に関する件」を発令したのに対し、宮内省は皇室祭祀令の大祭、小祭にある「天皇、皇族及び官僚を率いて」(8条、20条)の文言を削除し、19条1項「皇室又は国家の大事を神宮、宮中三殿、神武天皇山陵、先帝山陵に親告する」儀式を中止し、例祭の際、天皇の勅使が奉幣する勅祭社の扱いを取り止めた。そして、1947年の新憲法施行とともに、皇室典範は改正され、一連の皇室令(皇室祭祀)も憲法違反の扱いとなり廃止されたのである。しかし、1947年5月2日の日本国憲法施行の翌日である5月3日、宮内府長官官房文書課長名の「依命通牒」の「皇室令及び付属法令は、5月2日限り廃止せられる事になったについては、事務は概ね左記により取り扱う事になったから、命によって通牒する」、又その3項の「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて事務を処理する事」にもとづいて、憲法違反(非合法)の状態のまま現在まで、続けられてきたのである。「従前の規定」とは神聖天皇主権大日本帝国政府が1908年9月の「皇室令」第1号で制定した「皇室祭祀令」であり、新嘗祭(大嘗祭)はその内の「大祭」に含まれていた。また、先の「皇族、官僚を率いて」行ってきたのは、春秋の皇霊祭、神殿祭及び新嘗祭で、その際には下記の「官僚」に賞典長名で案内状が出されてきた。

①内閣総理大臣、国務大臣、国会議員、衆参両院議長、同副議長、同両院事務総長、最高裁長官、同判事、同事務総長、認証官、国会図書館長、内閣法制局長官

②宮内庁職員、皇宮警察本部職員

などである。案内状の内容は「来る23日に新嘗祭神嘉殿の儀を行われますからご参列の向きは、午後〇時〇分までに賢所参集所に参集されますようご案内申し上げます。なお、モーニングコートを御着用…」である。

※宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)の成立は1872年である。 

 新嘗祭は、天皇家で毎年11月に行っているが、天皇が最高祭祀者である「天皇教」とも呼ぶべき皇室神道宗教行事であり、それも非合法の憲法違反の宗教行事である。「新嘗祭」は宮下矩雄の論文(『瑞垣』1975年10月号)によると、「11月23日の夕刻、神嘉殿に皇祖天照大神始め諸神を招じ、天皇陛下親しく新穀の御飯・御酒を神々に御饗し、また御自身も大神と御対座で召し上がられ、更に八重薦の寝座に一夜、大神の御寝を願った後、再び暁の御饗を共食あらせられる。即ち国土のいのちの稔りを神々と共に主上みずからきこしめされる神聖な一夜である」との意味づけをしている宗教儀式である。そして、儀式の内容は毎年行っている新嘗祭と同じであるが、新天皇が即位した場合、即位後の最初の新嘗祭を大嘗祭と呼ぶのである。大嘗祭は7世紀末の天武天皇(初の天皇称号使用)の頃に確立したといわれる。しかし、大嘗祭を行わない天皇もおり、中世の戦乱などで皇室が衰微した220年間は行われていない。東山天皇のとき再興したが次の中御門天皇の時は行わず、次の桜町天皇以後復活した。

 その大嘗祭(新嘗祭)で、皇室がその祖先であるとしている天照大神などの神々に供える米を作る都道府県を選ぶ「斎田点定の儀」を5月13日、皇居の宮中三殿の神殿前庭に設けられた「斎舎」で古式装束を身に着けた賞典職(皇室の私的使用人)が行った。

 新嘗祭で使用する新穀は明治以前には、山城国宇治郡から献上させていた。全国の農家からその年の新穀を献上させるようになったのは、1882年12月の地方官会議での岩倉具視の提案によるもので、1892年から各地方の農家が「米粟」を献上させられた。その「斎田」(大田といい、所有者を大田主という)決定は神聖天皇主権大日本帝国政府が定めた「登極令」にもとづいて行われた。登極令8条で「京都以東以南を悠紀の地方」「以西以北を主基の地方」としている。しかし、今回は東京(皇居)を中心に変更し両地方を分けた。決定手段はこれまた新憲法施行と同時に廃止された「登極令」を基に、亀甲を利用した占い古墳時代に行われていた太占の法に似せたもの)で決めている。これも違法違憲行為であるにもかかわらずそんな事はまったく無視して行っているのである。ついでながら、アオウミガメを含むすべてのウミガメは、国際的な商取引を制限するワシントン条約の対象となっている。国内でも環境省のリストで絶滅危惧Ⅱ類に分類されているものでありながらそれを使用するという、この国際的にも非常識な宗教儀礼を現在もなお行うという面からも皇室や宮内庁、安倍自公政権を非難し、この時代錯誤の大嘗祭(新嘗祭)を廃止させるべきである。

 今回の「斎田」には秋田県と大分県を選んだようだ。ところで新憲法施行後のこれまでもそうであったが今回も、宮内庁(皇室)・安倍自公政府自治体首長(知事市町村長)職員などの公務員や県民住民に、自己の非合法行為、憲法違反(政教分離原則違反)行為への加担を強いている。つまり、人権侵害行為を強制している。皇室の賞典長から都道府県知事に対し、「本年度の大嘗祭(新嘗祭)に献穀を希望する者がある場合は、別紙のような方法で受納しますから、よろしくお取り計らい願います」との文書が届けられるだろう。「希望する者」という表現であるが、それを「協力依頼」と変えても同じで、実態は憲法が保障する「思想良心信教の自由」をまったく無視した行為の強制で人権侵害人権無視でしかない。憲法第20条は1項で「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と定め、2項で「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加する事を強制されない」と定めている。にもかかわらずこれまで知事は市町村長を介して地元農協(JA)に伝え、献穀者担当農家)を決定してきたのであり、今回もするであろう。斎田に選ばれた両県の知事は、非合法、憲法違反の皇室神道に基づく大嘗祭を国民の権利保障以上に権利を侵害してまでも尊重すべきものとの考えに立ち、それを当たり前のように、「農業者の皆さんと共に、秋には滞りなくお納めできるようしっかり取り組みたい」「県民にとって大きな励みとなる」と歓迎し、「JAなす南」も担当農家の推薦に意欲を燃やしている。また、新嘗祭や大嘗祭には国や自治体から公金が支出されてきたが、憲法の政教分離原則第20条3項で、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない」と定め、第89条では、「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公けの支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」と定めている事を尊重すべきである。皇室神道(宮中祭祀、神聖天皇主権大日本帝国政府が作った国家神道の中核)は天皇を祭祀長とする一つの宗教であり、「天皇教」なるものであるから。

 このままでは今年の秋の献穀行事は、「農業祭」などの名称で、自治体(県、市町村)の首長や職員など公務員が中心となって行うだろう。その事についての彼らの理屈はおそらく、「大嘗祭(新嘗祭)と献穀行事は関連するが、両者は性質を異にする。祭りに神式の行事を伴うとしても、地鎮祭や神式の結婚式と同様の習俗的行事といえる。行事の主催者は新穀献納奉賛会で、地方公共団体ではない。奉賛会への補助金は農業振興であり、その性質は『農業まつり』である。自治体の支出は献穀者(担当農家)の栄誉をたたえ、生産の成功を祈る祝い金である」とするのであろう。今回、この大嘗祭に関連する「斎田点定の儀」を日本国民の多くが注目し歓迎したとするならば、日本の国はすでに、国民が限りなく、皇室を扶翼し、神聖天皇主権大日本帝国回帰を狙う安倍自公政府の翼賛団体化したファシズム体制に入ってしまったという事である。

(2019年5月17日投稿)

 

 

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東京地裁(朝倉佳秀裁判長)判決は司法の思想偏向が極まった証:大嘗祭「違憲」訴訟で弁論一切させず却下

2025-02-15 11:52:40 | 大嘗祭

 東京地裁は、日本裁判史上はじめて、一度も弁論の機会を与えず、訴えを棄却する判決を下した。2018年12月10日に、19年の天皇の代替わりに伴う「即位の礼」や皇室行事「大嘗祭」に国が公費を支出するのは政教分離を定めた憲法に違反するとの訴えに対する19年2月5日の判決である。

 この訴訟は、即位の礼・大嘗祭儀式をはじめとする一連の儀式全体の違憲性を問いただし、儀式に対する国費支出の差し止めと、合わせて、すでに進行している儀式の準備によって生じた損害賠償を求めるものである。

 これに対し東京地裁は、一体であるべきこの訴訟を勝手に分離させ、前者の差し止め請求を「行政事件」として、後者の損害賠償請求を「一般民事事件」として、別々の部に係属させたのである。弁護団・原告はそれを不当として、二つの裁判を併合するよう申し立てを行ってきていた。

 後者の損害賠償請求については、2月25日に1回目の口頭弁論が開かれる予定であるが、それに先立って東京地裁は、行政事件部分に関して請求却下の判決を下したのである。その理由は、「法律は、原告らが主張するような「納税者基本権」などの権利を保障していない、また、国費支出の違法性を理由として支出差し止めを求める訴訟を認める規定も存在しないので、本件訴えは不適法であり、「口頭弁論を経ないでこれを却下する」事にした」というのである。

 今回の判決は、「代替わり」儀式の本格的な開始を前に、儀式それ自体への異議申し立てに議論をする余地はないとする立場に立っており、特に天皇制に関する問題に対しては、一切の議論をせずに「前例を踏襲する」というものであるとともに、これまでの政府の立場に「異議を申し立てる事を認めない」という立場に立ったものである。この姿勢は、憲法第76条3項「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律のみ拘束される」という規定を放擲するものであり、裁判官こそが先ず遵守すべき第99条憲法尊重擁護義務」のかけらさえ感じさせない、自らの思想の偏向を露わにしたものであり、非合法的に安倍自公政権の意向を正当化するものである。日本の司法は国民の権利を守るものとして機能を放擲した、日本の裁判官は国民の権利を守る役割を放擲したという事ができる。意識的に立憲主義政治や国民主権・基本的人権尊重の原則を崩壊させる事を目論む確信犯である

(2019年2月23日投稿)

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ラジオ(体操)放送開始の目的とその中止と再開の正しい認識を

2025-02-15 09:38:15 | メディア

 2023年6月10日付朝日新聞be記事が「ラジオ体操」の歴史を掲載した。しかし、今日の主権者国民が最も知っておかねばならない事を書いていないので、それからは偏向した知識教訓しか学べないのでメディアの責務として是非書いて欲しかった事を以下に少し紹介したい。

 ラジオ体操は、1920年代に逓信省職員が米国で体験し、日本での実施を提唱した事から始まり、同省簡易保険局が作った。その目的は、神聖天皇主権大日本帝国政府が、1928年11月10日に実施予定の昭和天皇の大礼(即位儀式)を記念するためであった。 

 日本初のラジオ放送は、新聞社、通信社、無線機器メーカーなどの出資による、それぞれ独立した3つの社団法人、つまり東京放送局(1925年3月)、大阪放送局(3月)、名古屋放送局(7月)が開始した。その後、神聖天皇主権大日本帝国政府は「放送は国家的事業」と考え始め、3局を合併して1つの組織にまとめるとともに、全国各地に支部を設けていき、1926年8月には社団法人日本放送協会を創設した。新役員の多くは逓信省出身者により占めた。そして、1928年11月10日実施予定の昭和天皇の大礼(即位儀式)を目標に、3局を結ぶ中継回線建設を計画し、11月5日に完成させた。つまり、神聖天皇主権大日本帝国政府は、全国ラジオ放送体制を、天皇制との関係で整備したのである。そしてそれを用いて昭和天皇の大礼奉祝番組を11月6日から27日までの22日間にわたり全国中継でラジオ放送したのである。

 そして、ラジオ体操の放送についてであるが、大日本帝国政府逓信省が日本放送協会に持ち込み、政府がその「大礼」を記念する事を目的として1928年11月1日東京放送局から開始させ、時を開けず全国放送とさせ、早朝に集団で実施させるようにした。目的は、音楽と号令による学童の集団行動や集団統一の馴致であった敗戦の翌1946年4月には再開したが、連合国軍総司令部(GHQ)が翌47年9月1日からの放送中止を命じた。しかし、朝鮮戦争開始後約1年の1951年5月に実施を許可した。これはGHQによる警察予備隊創設をはじめとする、民主化・非軍事化から再軍備へという占領政策の大転換(逆コース)と大きく関係していたのである。主権者国民は、このような歴史をしっかりと認識した上で、ラジオ体操を、又今日ではテレビ体操をも健康維持のために生かす事は良い事である。

(2023年6月10日投稿)

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