タダだと思うと無茶食いしたり、無茶買いしたり、無茶遊びしたりする人をたまに見かける。その場合その人たちはどう評価されるか?良くは評価されないのが一般的だと思う。またそういう評価をされるのを気にして、そのような行動をさける人が多い。それを品格がないあるという言葉で表す人もいる。
その品格のないモラルの低い人たちとは誰か。今国民が強烈な批判抗議をしているが、「新国立競技場」の建築計画に関わる人たち安倍政権ワールドである。簡単に復習すると、国民は、総工費が国際的に非常識である事や、さらに五輪後の施設整備費や維持管理費などが膨大である上に、その費用調達が不可能で後世にかかる負担が重すぎるという事で、計画のずさんさを指摘し見直しを求めているのである。
ところで今回話題にするのは、先の品格のない人たちが、これまでの政策同様に国民の批判や抗議に故意に耳を貸さず無視して(この姿勢は安倍政権ワールドの大きな特徴、民主主義の原則を認めない)、その「品格のない事」の上塗りをする発言や行動や新たな政策を打ち出している事である。
安倍首相は、10日の衆院特別委員会で、自分の発言や決定の責任を棚に上げ、民主党前政権に責任をなすりつけようとして「国際コンペをやって決定したのは我々が政権に付くまえの話だ」と発言した。無責任体質を明白に示した。
自民党内では、首相出身派閥の細田派が7月9日の会合で「今から党内で揚げ足を取ると、野党にとって『しめた』という話になる」と箝口令をしいたようだが、開放的な議論ができない組織はいかなる組織であっても、水の流れがなければ水が腐っていくように、まともなまともな発想は生み出せないし、まともな活動もできない。安倍政権によって自民党内はすでにそうなっているようだ。末期症状だ。(しかし、自壊はしないから、たゆまぬ攻撃で崩壊させよう)。
東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長は「明治神宮外苑」という彼にとっての「聖地」でラグビーW杯を迎えるのが長年の悲願だったらしいが、「国立競技場は、スポーツを大事にする日本を象徴する建物である必要がある。3、4千億円かかっても立派なものを造る。それだけのプライドが日本にあっていい」と話していたが、7月11日に札幌で講演し建築計画への理解を求めて「競技場を2020年五輪のレガシー(遺産)として、50~70年先も使える名所にしたい」、64年の東京五輪で造った国立競技場について、「半世紀の間、日本のスポーツの聖地だった」「(新競技場についても)北海道の皆さんにも喜んで来て裸足になって走って歩けるような競技場を造って、20年東京五輪のレガシーとして残そうというのが我々、スポーツ愛好者の考え方」と語った。やはり現在の日本の状況がまったく見えていないようだ。見る気もないようだ。国民の政治感覚より低い。自分の夢を国民の税金を使って実現させようとするとんでもない意識だ。政治を私物化する質の悪い政治家であり政界にいる資格はない。厚顔無恥も甚だしくなお懲りずに理解を求めようとしている。理解を得られると考えているところが異常だ。思考停止状態を証明している。一事が万事である。このような安倍政権ワールドが日本の政治を担当していると日本国民の生活は崩壊する。
安倍政権ワールドはさらに、国民としては断じて許すべきでない政策を実施しようとしている。これは児童生徒の人権を侵害する憲法違反である。文科相の「有識者会議」が7月9日、「五輪教育」を小中学校で実施するために「中間まとめ案」を出した。「まとめ案」の提言では「障害者を含めて、誰もが生涯を通じてスポーツに携われる社会づくりを」とし、応援国を割り当てて子どもがその国について調べたりする「一校一国運動」や五輪・パラリンピック教育というものを実施するために「学習指導要領」の改訂を盛り込んでいる。また大学の一般教養科目や専門科目で五輪・パラリンピック教育を充実させる事などを盛り込んでいる。文科相は7月中に中間まとめを公表。来年度予算の概算要求で五輪・パラリンピック教育の充実や全国展開に必要な取り組みを盛り込むようだ。スポーツや教育の関連機関、地方自治体などにも、中間まとめの提言を踏まえた取り組みの推進を求めていきたいという。
「有識者会議」は、物事を判断する能力がないと思われる。この「まとめ案」の問題は安倍政権が、五輪へ向けて国民の関心を高めようとして、小中学校の児童生徒に目を付け、「一校一国運動」や「五輪・パラリンピック教育」を学校教育の一環として強制的に学習させ、児童生徒をこの行事に協力動員させていく政策であるという事。しかし、児童生徒には憲法第19条で「思想及び良心の自由」が保障されている。児童生徒は五輪やパラリンピックに対してどのような関わり方をしようと本人の自由なのである。しかし、それを認めず強制参加をさせようとしている。また五輪やパラリンピックが、参加であれ協力であれ関心の持ち方であれ、強制できない行事であるにも関わらず故意にそのような理解を認めず、「指導要領」(なんでも指導要領に盛り込んで実施しようとする手法を認めてはいけない)に盛り込んで学校教育の学習の一環としてしまう手法は、憲法19条と憲法18条「奴隷的拘束及び苦役からの自由」を侵害する事である。何人も自由を奪われ、意に反する苦役に服させられないという権利を侵害するものである。大学においても五輪・パラリンピック教育を充実させるとしているが、五輪・パラリンピックについての教育(スポーツ教育?)なのか、障害者の人権に関わる教育なのかそのポイントは明確ではない。またその教育の全国展開に必要な取り組みを盛り込むとしており、そのためその関連機関、地方自治体への協力を求めるともいう。つまり、全国の公的機関に協力を強制していくという事だ。しかし、この事も、先ほどの憲法に違反する政策であり、地方自治体の自由を奪い自治体住民の自由を侵害し、自治体の税金を強制的に拠出させる事を意味している。地方自治を認めないという考え方だ。独裁的で、中央への権力集中を目指している。
※指導要領の法的効力の範囲を明確にさせるか、指導要領をなくすかの闘い が必要になってきた。
この件は国民の将来にとって、「新国立競技場」建築計画問題をはるかに超える問題である。一言でいうと、敗戦前の1937年10月から開始された「国民精神総動員運動」(全体主義、ファシズムへと)から「国家総動員法」施行への流れと同じ手法(国家総動員法の審議中「黙れ事件」起こる、佐藤賢了陸軍中佐が質問した議員を「黙れ」と怒鳴り問題となった、しかし、処罰されず)で、五輪行事を利用した、国民意識の国家統合が目的だからだ。これは「五輪行事」だけで終わらない。その事が安倍政権の狙いどうり成功すれば、これからのまた五輪後の日本の国家体制を左右する事になるからである。五輪行事を全体主義国家への「流し込み」(意識醸成)の行事として利用する計画なのである。
※ 「一校一国運動」や「五輪・パラリンピック教育」を「学習指導要領」に盛り込んで実施する事は、児童生徒の憲法第19条「思想及び良心の自由」を侵害する事。
安倍政権ワールドは「アイヒマン」を決め込んでいるわけだが、この問題を国民全体の問題として適切に処理する上で、大切な事がある。それは、現役の「アスリート」たちはどう思っているのかという事を明らかにしてもらう事だ。この問題に関心を持たず、口を閉じていていいのか、好きなスポーツに熱中しているだけでいいのかという事だ。「アスリート」も国民なのから、国民の一人として「税金の使い方」、それも自分たちが利用する場所に税金がどのように使われるのかという事に関心を持つ事は当然のことだ。もし、そんな事は考えずにスポーツに勤しんでいるのなら、「スポーツ」は国民としての資格のない常識のない人間のやる事だという事になる。そんな人間のために税金が使われてはいけない。品格のない人々と同類に見られないために、ぜひ「アスリート」はこの問題に意志表示をしてもらいたい。「アイヒマン」になって「アスリート」でいる事にどんな価値があるのか。すべての事について同じように言えるのだが、広い視野深い思慮を持たずスポーツだけに熱中していられる時代は終わった事を知るべきだ。
すでに、元女子マラソン選手の有森裕子さんは「現行案には反対」「五輪にお金がかかるという批判の矛先がアスリートに向かうのが心配。今のデザインでなければいけない理由を明確にしてほしい」と意志表示している。また、ラグビー元日本代表で神戸親和女子大講師の平尾剛さんは現計画に反対。「……スタジアムは大きくなくていい。福島第一原発事故への対応もあり、最優先で税金を使うべきはスポーツイベントではない」という。
憲法をなし崩しにしていく手法は、安倍政権ワールドの常套手段である。麻生副総理が公言した「ナチスの手口」である。
彼ら独裁者は垂直思考、民主主義を大切にする我らは水平思考。
垂直思考は犠牲のシステムを使い、水平思考は共生のシステムを大切にする。