安倍政権は「安全保障関連法案」について15日衆院特別委で審議を打ち切り強行採決で可決し、16日衆院本会議で強行採決し可決した。
15日のメディアによると、強行採決前、締めくくりの総括質疑では、安倍首相は「残念ながらまだ国民の理解が進んでいる状況ではない」と認めた。また与党は法案の審議時間は14日までに113時間を超えて審議は尽くされた、これ以上審議を長引かせても世論の理解は深まらない、と主張していた。
16日のメディアでは、安倍首相が「国民の理解不足」を認めながら強行採決をしたその背景について、4月の米議会演説で、今国会での成立を国際社会に公約した事にあるとする。
安倍政権が「理解が進んでいない」という表現を使っているが、これは政権は「きちんと説明しているのだから理解できるはずなのに国民は理解できない、国民は理解力が乏しい」という意味で使っているのだ。これは独善的な政権側の見方で、原因を野党や国民に責任転化している言葉なのだ。真相は、政権が国会で野党の質問に対して、正面から誠意をもって答えない、はぐらかす、無視するなどに終始するために、国民の疑問は解消されず、不信感のみが増幅している状況であるのだ。安倍政権は口裏を合わせて故意に使っている。
政権と国民の利害の違いが言葉の使い方の違いとなって現れているのだ。政権は、明確な考えを持ち得ない国民を政権の考え方に取り込むために「理解が進んでいない」という言葉を使っているのである。
メディアはその政権の言葉「理解不足」を、そのまま無批判に読者である国民に向かって使っている。その言葉を使用する事についてメディアの立場を説明する事もなく。となると、メディアの国民に対する見方は政権と同じ側に立っていると考えざるを得ないという結論に至る。つまり、メディアは政権の翼賛勢力になっているという事を自ら明白にしたという事になる。国民側の視点で表現しようとするのであれば別の言葉を使うべきである。
安倍政権は、「国民は理解力に乏しい」「だからこれ以上説明しても無駄だ」という判断で、強行可決したのである。この意識は、13日「菅官房長官の定例会見」で、沖縄県議会が「埋め立て用土砂規制条例」を成立させた事について、「時事通信」記者が「もう、そんな連中は放っておいてもいいと思うが、いかがでしょうか」「もう国として見限ってもいいような気がするが、いかがでしょうか」と質問したのと同じである。
メディアは、安倍政権の強行可決の背景に「国際公約がある」と説明する。これは「新国立競技場」に関する件と同じである。「安保法制」についても、安倍首相が国民の意思を無視して独断で勝手に4月に米議会演説で「この夏までに成立させる」と放言したに過ぎない。それをメディアが無批判に「国際公約」という言葉をそのまま使用すると、明確な判断を持ち得ない国民には、それが安倍氏の「放言」であるにもかかわらず、いかにも「公約である」かのように思い込ませる効果を生み、「公約だから守るべきだ」と思い込ませる効果を生む。メディアはこの手法を故意に使っている。つまり世論操作をしているのである。安倍政権のためにであるのは言わずもがなである。ここでもメディアは安倍政権に対する翼賛勢力になっている事を自ら明らかにしている。メディアがジャーナリズムを大切にするつもりならば、この「放言」こそを重大視して安倍首相を追及しなければならないはずだ。欧米などでは政界から葬り去られるほどのメディアや国民からの批判・非難を浴びる問題だ。
安倍政権は自己の目的達成のために「日本人の心理」についても周到な研究をしている。それに常に注意し騙されないようにする事が大切である。ニュースにおいても発言内容は彼らの都合や価値観でカットしてしまうのである。先日、愛川欣也氏が亡くなった際の、夫人・うつみみどりさんの記者会見の内容についてもそうである。情報はその出所の信頼性と全体を把握する事が重要だ。
15日のメディアは、衆院特別委の強行可決後、安倍首相が記者会見で、「国会の審議はさらに続く。丁寧に分かりやすく説明していきたい」と述べたという。このコメントはいかに国会を国民を民主主義を馬鹿にした内容である事か。安倍政権の偽善性欺瞞性傲慢性を余すところなく表している。またこの特質は天皇制大日本帝国のと同じものである。
16日のメディアに「政治の責任 国会は果たせ」という見出しがある新聞に載った。記事内容は「……自民、公明両党(は)……論戦を踏まえ、例えば秋の臨時国会で民主党、維新の党とも合意できる法改正をまず実現させる。集団的自衛権の行使は見送る……。こんな道を国会はなぜ探ろうともしないのか。」とあるが、文章がおかしくないだろうか。なぜ最後を「国会」批判とするのか。「国会」ではなく、「自民公明」とすべきではないのか。物事に対して責任を取る場合、複数の人間が関係する場合には、保持する権力の強弱に応じてその責任の軽重も異なると考えるべきである。であれば、なぜ「国会」という不明確な言葉を使用するのか、まず自民公明の責任を強く追及するのが筋だろう。国会の秩序を崩壊させたのは自民公明ではないのか。国会の審議というのは、お互いの暗黙の信頼によって成立する。その前提を崩壊させたのは自民公明ではないのか。審議で混乱したのではない。それこそをメディアは重要視しなければならないはずだ。なぜできないのか。翼賛体制をとっているからである。
17日のメディアに「安倍首相が2度目の政権発足以来、最大級の逆風を受ける中、野党が自らへの順風に変え、政権を追い詰めるのかが焦点だ」とある。この「追い詰めるのか」という言葉表現であるが、これも、「追い詰めるかが」とすると「野党」側に立った見方と判断されるので、そのような表現にしているのだ。第三者的な表現にしているのだ。つまり、メディアは国民側に立っていると見せながら、実は政権の翼賛勢力であるために表現に曖昧さが現れるのである。
※メディアの世論操作でよくやる方法、注意点
「 ➀事実を歪めて、「ウソ」をつく事。②権力を持つ者にとって都合のよい部分だけを公表し、都合の悪い部分は伏せる事。③最も効果的な時を狙って公表する事、などである。」
(2015年7月17日投稿)