新国立競技場の建設計画について、多くの国民の反対抗議が功を奏して、17日、安倍首相が「これはまずい」と思ったのだろう、やっと計画の見直しを発表した。「安保法制」を自民党の数にものを言わせて衆院で「強行可決」したため沸騰した国民の怒りや反発を少しでもなだめ、今後の政策実現の障害を少なくするために、決断したようだ。「アメとムチ」政策というものである。あまりにも見え見えであるので、怒りはさらに強まるのが一般的だ。
「現在の計画を、白紙に戻しゼロベースで見直す決断をした。できる限りコストを抑制し、現実的にベストな計画を作っていく。コストが当初の予定よりも大幅に膨らみ、国民、アスリートたちからも大きな批判があった。」
国民からの反対抗議の声は、「安保法制」「原発再稼働」「普天間の辺野古移設」「国立大の人文社会科学系学部の廃止、国旗・国歌の強要」「義務教育での道徳教育の正課化」などなどでも同じようにそれ以上に強く発せられているにもかかわらず、強行に押し通そうとしているからだ。
安倍政権は混乱の原因を検証する「第三者委員会」を設けるという。当たり前だ。そして、安倍首相は自身にも及ぶので言及していないが、責任者を明らかにし、処分するのが妥当だ。
しかし、森良朗・五輪大会組織委会長は国民が問題とすべき発言を17日にしている。「僕は元々、あのスタジアムは嫌だった」「誰も責任はない」と。そうか?このような発言を公然とする無知無能ぶり、無責任ぶりには呆れる。一事が万事で、多分安倍政権ワールドは、すべて同類であろう。このような政権が国民の将来を左右する権力を握っているのだ。即刻退場してもらわなければならない。
下村文科相は、新たな計画を進めるのは「文科相とJSCが中心だ」と述べているが、この下村氏も常識を逸脱しているとしか言えない。教育に関して意見を言う資格はない。JSCの職員の中には「同じ人間がもう一度やるのは道義的にどうなのか」と発言しているようだが、この方が「まとも」な判断をしている。重大な問題を犯した者は責任をとって退場するのが世界の常識だろう。
不思議な事に安倍政権ワールドは、「謝罪」するという事を知らないらしい。関係者で国民に「謝罪」したものはいない。国民からすれば「正常な感覚」を持っていないといえる。
森氏は「誰にも責任はない」という。この体質は、敗戦前からの権力者がもつ伝統的なものであろう。だから、国民は絶対に認めてはいけない考え方だ。
アジア太平洋戦争についても、敗戦後の政権は一貫して国民に対して「謝罪」していない。敗戦処理内閣として、8月17日成立した歴史上初めての皇族内閣東久邇宮内閣は、敗戦に当たり有名な「一億総ざんげ論」を発表したが、これと同じ感覚であるだ。そこに通底している意識は「責任回避逃避」で、「無責任」者の寄せ集めの無責任政治を生む政治体制である。戦争を自らやめる事ができなかった事に表れている。安倍政権はこの意識を継承している。
※「一億総ざんげ論」抜粋……「 敗戦のよって来る所はもとより一にして止まりませぬ、後世史家の慎重なる研究批判にまつべきであり、今日我々がいたずらに過去にさかのぼって、誰を責め、何をとがめる事もないのでありますが、前線も銃後も軍も官も民も国民ことごとく静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総ざんげをして神の前に一切の邪心を洗い浄め、過去をもって将来の戒めとなし、心を新たにして、戦の日にも増して挙国一家乏しきを分かち、苦しきをいたわり、温かき心に相たすけ、相携えて、各々その本分に最善を尽くし、来るべき苦難の途を踏み越えて帝国将来の進運を開くべきであると思います」
さて、白紙撤回で最重要な事は、これまでに使ったお金(税金)であるが、21日にJSCが民主党の「東京オリンピック・パラリンピックに係る公共事業再検討本部」に提出した資料では、ザハ・ハディド氏のデザイン監修が14億7千万円。日建設計、梓設計、日本設計、アラップ設計共同体の設計業務が約36億5千万円。施工予定業者で設計にも携わった大成建設、竹中工務店の技術協力が約7億9千万円。デザインや設計業務の約59億円とは別に、有識者会議の了承を受けて9日に、大成建設と契約したスタンド部分の工事約33億円である。合計約100億円か。
この税金の損失を、安倍政権の関係者は誰も賠償しないつもりなのか。賠償責任はないとするつもりだろうか。ふざけてはいけない、冗談もほどほどにすべきである。現代社会では通用しない理屈である。自腹で損害賠償すべきである。そして、その責を負い辞職すべきである。社会では懲戒免職に当たる行為である。国民はこの問題で安倍政権ワールドをそこまで追い詰めず、彼らを蘇生させたならば、国民に対する反撃を今まで以上の強さで行う可能性がある。
※600キロの人間の鎖を作って独立を達成したバルト3国のはなし
「エストニア、ラトビア、リトアニアの3国は、1939年の「独ソ不可侵条約」が結ばれた時これに付属する密約でソ連に編入され独立を奪われていたが、独立を熱望していた。東西冷戦が終わりかけた1989年、この3国は「不可侵条約50周年記念日」の8月23日に、3国の首都(タリン、リガ、ビリニュス)を結ぶ600キロを、50万人の人間が手をつないで鎖を作るという抗議行動に出た。これがキッカケとなり、1990年の「独立宣言」につながった。91年にソ連が崩壊すると独立を承認された。天然ガスや石油の供給をロシアに頼っていたため、経済制裁で独立までは街灯もつけられないという日々を過ごしたという。独立後依然として3国に駐留していたロシア軍は、94年には完全撤退し、真の独立を手に入れた」