寺井寿男校長こそ最近話題となっている「政治的中立」を「逸脱」した「教育指導」をしているとみなすべき「人物」である。憲法で保障する「個人の尊重」「男女の平等」「幸福追求権」などを無視するものであり、公教育の立場にある者として「憲法尊重擁護義務」を負う意識が欠如した人物である。
「大阪市鶴見区の市立茨田北中学校の寺井寿男校長が全校集会で「女性にとって最も大切な事は、子どもを2人以上産む事。仕事でキャリアを積む事以上に価値がある。子育てした後に大学で学べばいい」などと発言した事が市教委への匿名の電話で発覚した。市教委の聞き取りに校長は「間違った事は言っていない」という趣旨の説明をしたという。朝日新聞の取材で、校長は「人口が減るなかで、日本がなくならないためには女性が子供を産むしかない。間違った発言とは思わない」「私の発言で傷ついた生徒がいたなら真意をきちんと説明する」「出産を強いるわけではない。子育てが楽しいという事を伝えたかった」と述べた。また、「男女が協力して子どもを育てるのが社会への恩返し。子どもが産めず、育てられない人はその分、施設などに寄付すればいい」などと主張したという。
この記事を見て私は開いた口が塞がらなかった。巷のおっちゃん(該当するおっちゃんには申し訳ないが)の世間話では耳にする事がよくある発言ではあるが、公職にあり市民に対して責任ある立場の人間の発言であったからだ。だからこそメディアも記事にしたのであろうが。
全校集会における発言はつまるところ「女は国家のために子どもを産む事が一番大切な仕事だ」という発想がこの校長の認識の根底にあるという事は明らかである。この発想は敗戦までの男尊女卑意識であるが彼がそれを思考判断の根底に持っている事を明らかにする発言であり、反面で今日の常識である「男女の平等」意識が欠如している事を明らかにする発言となっているのである。そして、「女」の上位に立つべき「男」としての、さらに「校長職」であるという「優越感」「傲慢さ」がその「意識症状」をさらに「悪質悪態化」させているのである。それが聞き苦しい支離滅裂な「言い訳」となって表れており、「言い訳」をすればするほどこの人物が「校長」として「教師」として「放置しがたい」問題を持つ人物である事をより強く感じさせるのである。敗戦までの日本では「女」は「子を産む機械」と見なされていたのである。「子」を産まない「女」は蔑まれ離縁されたのである。また「子」は「親」の「子」ではなく、「天皇」の「家来」とみなされたのである。
今回のような問題発言は「男子」に対しても話しているのではないだろうか。たとえば、「国家」の「緊急事態」であるから「国を守る」ために「戦え」とか「命をささげよ」とか。「戦えない」人間は「それに代わる事をせよそれが国への恩返し」とか。
このように考えるとこの校長の考え方は、国民に人権が認められていなかった「天皇制大日本帝国」時代の「教師像」「教育指導」と酷似しているようだ。市教委の聞き取りや朝日新聞の取材の際の発言からみても、「人」の「気持ち」になんと「鈍感」なのであろうと思う。「鈍感」という事は「人権侵害(差別)」に「敏感でない」という事に通じるもので、この校長の「人権感覚意識」は問われて当然であると思う。さらに市教委もこんな人物をよくも「校長職」として認めたものだと思う。市教委の選任責任も問うべき問題である。