近年の裁判判決には、「憲法を基準としていない」判決や、「憲法判断をしない」判決が横行している。それらに共通した特徴は、法的判断をつかさどる専門家裁判官とは思えない国民を馬鹿にしたような非論理的な屁理屈を弄し、憲法で保障している国民の基本的人権を認めず、被告(安倍政権や日本維新の会など政権側)が推進する大日本帝国回帰の政策を、結託して強引に正当化するところにある。たとえば、大阪高裁が「君が代起立斉唱条例訴訟」を合憲(2016年10月24日や2017年3月30日など)としたり、同じく大阪高裁が「安倍首相の靖国神社参拝(2013年12月)訴訟」で憲法判断をしなかったり(2017年2月28日)、また広島地裁が「伊方原発差し止め仮処分申請」を却下(2017年3月30日)したりしている事などである。
憲法第6章「司法」第76条3項には「すべての裁判官は、その良心に従い、独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定めているにもかかわらず上記ような判決を下すという態度は、裁判官でありながら判断の唯一のよりどころとすべき日本国憲法を否定し尊重擁護義務をも踏みにじるもので、自身の偏向したオルタナティブ・ファクトに基づく判断判決を下しているというべきである。その判断判決は、原告はもちろん原告同様の考え方に立つ国民に対し、判決の非論理的な論理(屁理屈)を権力を私物化濫用し「正当な考え方」として押し付け、考え方や価値観の改造洗脳を意図しているのである。その「考え方」は「自民党改憲草案」に示されている内容であり、それ以外のものではないのである。日本国憲法をよりどころとすべき裁判官としてはその使命職責をまったく果たしていないだけでなく、資格を有していないというべきであり、辞職させるべき事態であると考える。
「君が代起立斉唱条例訴訟」(2017年3月30日)の件は、君が代の起立斉唱を教職員に義務付けた条例が、思想・良心の自由を保障した憲法に違反するかが争われたが、最高裁が上告を退け大阪高裁判決(職務命令の根拠となった府条例は合憲、減給処分も府の裁量の範囲内)が確定した。それ以前には、
同じく(2016年10月24日)の件は、卒業式で君が代の起立斉唱を拒んだ事を理由に減給処分されたのは憲法が保障する思想・良心の自由の侵害だとして争ったが、大阪高裁は一審判決(減給処分は適法)を支持し、「起立斉唱は慣例上の所作」とし、式進行などの目的があるなら思想・良心の間接的な制約も許される、とし控訴を退けた。つまり、きわめて曖昧な言葉で法的拘束力のない「慣例」という概念を最大の根拠として「従うべきだ」と命じているのである。また「国旗国歌法」が「掲揚斉唱」を義務づけているものではない事に触れる事なく、「条例」とそれに基づく権力行使である「職務命令」を拘束力のあるものとみなし、最高法規である日本国憲法で基本的人権として政府が国民に保障すべきものとして定めている「思想・良心の自由」については拘束されても「我慢せよ」と命じているのである。まったく論理的に筋の通らない理解不可能の屁理屈で理不尽な判決としか言えないのである。大日本帝国憲法で「思想・良心の自由」を「法律の範囲内」でしか認めないとした考え方と同じ考え方に立った判決なのである。大日本帝国憲法では「法律の範囲内」の文言を明記していたのに対して、現行憲法には明記されていないにもかかわらずである。高裁の初の司法判断であった。
2016年7月6日にも、府の減給処分取り消しと100万円の国家賠償を求めた訴訟判決を大阪地裁が下したが、判決内容は「起立斉唱は単なる儀礼的な所作で、許される程度の制約だ。公務員としての規律より自らの価値観を優先させた」として訴えを退けた。ここでは「単なる儀礼」という概念を根拠として「従うべきだ」としているが上記の「慣例」と同じような曖昧で拘束力のない「儀礼」の言葉を使用して処分を適法正当しているが何の説得力もないものである。上記と異なる内容としては「公務員としての規律」も根拠としているが、規律とは条例の事であろうが、条例制定自体が憲法違反であるにもかかわらず、それに「従うよう」命じる事は権力を濫用悪用した横暴な判決である。
2016年12月12日には、卒業式で君が代を起立斉唱しなかった事で定年退職後の再任用を不合格としたのは、思想・良心の自由を保障する憲法に反すると訴え国家賠償を求めたのに対し、大阪地裁は「式進行や厳粛な雰囲気を保つためならば思想・良心の自由が一定の制約を受けても許される」として請求を退けた。つまり、制約を認めない者は、再任用を認められなくても当然だとしているのである。
2017年2月28日には、安倍首相が2013年12月に公用車で靖国神社を訪れ、宮司の出迎えを受け、「内閣総理大臣 安倍晋三」と記帳し、私費で献花料を納めた事に対して、政教分離原則に反するとした訴訟の大阪高裁判決で、一審に続き憲法判断をせず、請求を棄却した。
判決で問題とすべき点は、靖国神社が「歴史的経緯から一般の神社とは異なる」として、特別視している点である。それは、敗戦までは国家神道制度において、伊勢神宮と両輪をなすものであったが、敗戦後は日本国憲法の下では、単なる一つの宗教法人の神社でしかない事を認めていないのである。また、敗戦後もそれまで通り天皇のために侵略戦争に動員され戦没した者を神々として祀るという荒唐無稽の作り話に疑念を示さず、靖国神社の存在意義を認め尊重すべきものであると判断している点である。
判決ではさらに、首相の参拝で原告らが「不快の念」を抱いても法律上保護される利益の侵害とは言えない、とした点も問題である。靖国神社について上記の認識に立てば、公務員のトップである首相が、私費であろうが献花料を納めて参拝した行為は憲法の政教分離原則に違反し、公務員を引き連れた参拝行為はその関係者すべてが憲法尊重擁護義務に違反しているとみなすべきであるにもかかわらずである。国民はそのような判断をして当然である。そのため法律上保護される利益の侵害である「不快の念」を抱くのである。そして、その「不快の念」を解消するため(これは国民の権利である)、首相たちに憲法を厳守させるための司法判断求めたのである。しかし、裁判官は意図的にその意味を無視し理解しようとしないのである。ここに、裁判官のオルタナティブ・ファクトに基づく判決が見られるのである。
判決は結論として「法的利益の侵害があるかどうかという結論を導くのに必要な範囲で示せば十分とし、侵害がない以上、政教分離原則については判断するまでもない」として憲法判断をしなかったのである。しかし、これは「判断を回避した」と考えるべきである。それは「自民党改憲草案」には、天皇や公務員の「靖国神社参拝」や参拝に関わる事を「合憲」とするための条文が整備されているからである。また、国民に参拝させる事を合憲とする条文も整備されているからである。
為政者(安倍政権と大阪維新の会など)と結託した裁判官は、為政者にとって都合の悪い事は無視し憲法に基づいた判断を示さず、その代わりに為政者の意向(政策)こそ「正しい」とするオルタナティブ・ファクトに基づいた判決を押し付け居直っているのである。裁判官が、国民が当然とする憲法に則らず、為政者が正しいとする基準(異なるルール)に基づく状態では、議論は成り立たず国民の権利を保障する判決を期待できる裁判が行われる事は望めないのである。
2017年3月30日に示された、四国電力伊方原発3号機の運転差し止め仮処分申請に対する広島地裁判決においても、「具体的危険によって住民らの人格権が侵害されるおそれがあるとはいえない」と判断した。また、その根拠として、新規制基準に不合理な点はないとした。また、電力会社側にどの程度の立証を求めるかについて、原発や裁判所によって異なる事は望ましくないとして、2016年の九州電力川内原発を巡る抗告審決定を参照するのが相当とした。これに対し原告側は、「間違った判断をする事もある民主主義の行き過ぎをただすのが司法権の独立。法と良心にのみ拘束される理想的な裁判官の姿が見えない」と批判した。ここにも、原発再稼働の差し止め申請に対して、安倍政権と結託した裁判官のオルタナティブ・ファクトに基づく判決が見られるのである。
国民はこのように様々な面で、安倍政権と結託した裁判官によって、オルタナティブ・ファクトに基づく判決を押し付けられ、安倍政権が国民に保障しなければならない憲法に定められた権利を、安倍政権によって次々と奪い取られているのである。これは数の暴力によるクーデターである。
しかし、安倍政権(政治)に無関心になったり、闘う事をやめてはいけない。安倍政権(政治)は我々国民を逃がすことはしないから。日本人である限り、安倍政権(政治)から逃れる事はできないから。