つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

天声人語:「相手の側に立てば」を伝えるのに福沢諭吉を持ち出すのは読者を欺瞞する歴史修正主義

2018-01-01 08:12:04 | 教育

 2017年12月28日の「天声人語」では、「自分にとっては正義でも、相手の側に立ってみれば(別の人からすれば)、理不尽な振る舞いかもしれない」という視点を読者に気づかせ思い起こさせるために、福沢諭吉の言葉を例に取り上げて伝えていた。

 「天声人語」が伝えようとした視点は、人が生活をしていく上で最も大切なものだと思います。特に昨今、その視点を失ってしまった国民の状況を考えれば、ひじょうに重要なものでしょう。

 しかし、思うのですが、なぜ「福沢諭吉」を持ち出したのでしょうか。私からすれば、上記の「視点」を伝えるために「福沢諭吉」を持ち出した事は不思議で仕方がありません。「天声人語」の筆者の福沢諭吉像は相当偏向しているとしか考えられません。そうでないならば故意に人物評価を歪曲し、いわゆる主観的な歴史修正主義の立場に立って評価し読者を欺こうとしているとしか考えられないのです。上記の「視点」を持つという事は、相手を対等な人間と見做しその人権を尊重する対応をする事だと思いますが福沢諭吉はそうではないのです。みなさんはそう思いませんか?

 福沢諭吉が遺した言葉を見ればそれは明らかです。たとえば対外的には、

 1881年『時事小言』では、「朝鮮人は未開の民、極めて頑愚で凶暴、無気力無定見」「チャイニーズはあたかも、日本でいえば、乞食、穢多(ママ)」「朝鮮国なんていう国は、滅びた方が人民は幸福だ」などと主張していた。

 また彼は「漫言」で私有物の強奪を勧めています北京に出兵中(義和団戦争、北清事変の意)の日本兵に向けて、「目につくものは分捕品のほかなし、何とぞこのたびは北京中の金銀財宝を掻きさらえて、……チャンチャン(中国人に対する侮蔑語)の着替えまでも引っぱがして持ち帰ること願わしけれ。古書画、骨董、珠玉、珍器など多からんなれば、……一儲け……」という具合に。

 また、「チャンチャン……皆殺しにするは造作もなきこと」「支那兵のごとき……豚狩りの積もり」と言う主張もしていた。

 1895年1月論説においては「韓国併合」の可能性を予告するように、「主権云々は純然たる独立国に対する議論にして、朝鮮のごとき場合には適用すべからず。……今、日本の国力をもってすれば、朝鮮を併呑するがごときは甚だ容易にして、一挙手一投足の労に過ぎざれども、……我に利する所少なきがゆえに先ずこれを見合わせ」と主張していた。

 1882年時事新報社の社説では、「印度支那の土人等を御する事イギリス人にならうのみならず、そのイギリス人をも苦しめて東洋の権柄を我が一手に握らん」「実を申せば日清戦争何でもない。ただこれ日本の外交の序開き」などと主張していた。

 また、彼は山県有朋よりも早く、「満蒙は我が国の生命線」発言をしていた。それは1887年の論説「朝鮮は日本の藩屏」で、「今日本島を守るに当たりて、最近の一番近い防御線を定むべき地は必ず朝鮮地方たるべき」と主張していた。

 国内的には、

 自由民権運動に対して『通俗国権論』では、「無智無識の愚民」「無頼者の巣窟」と非難していた。

 大日本帝国憲法を「完全無欠」「完美なる憲法」と手放しで賛美し、教育勅語の発布を感泣をもって歓迎し、学校でこの「仁義孝悌忠君愛国の精神」を貫徹させるように要求する社説を石川幹明に書かせた。

 日清戦争では時事新報社の論説「日本臣民の覚悟」と題して、「四千万のものはあらん限りの忠義を尽くし、……財産をあげてこれをなげうつはもちろん、老少の別なく切死して人の種の尽きるまで戦うの覚悟」を呼びかけ、天皇への忠義の名で侵略戦争への協力を求めていた。

 旅順虐殺事件については、「時事新報」特派員従軍記の旅順ルポには「その屍は積んで山をなし血は流れて河となれり(旅順)市街道路行くところとして敵の死体を認めざるはなく」と記しているにもかかわらず、「実に跡形もなき誤報・虚言」と全面否定していた。

 靖国神社については、「もって戦場に斃れるの幸福なるを感ぜしめざるべからず」とその必要性を主張していた。

 足尾鉱毒事件について田中正造が帝国議会で「民を殺すは国家を殺すなり。……しこうして亡びざるの国なし」という亡国演説をしたのに対して、福沢は被害農民の大衆的請願行動を「政府は断然職権をもって処分をし一豪も仮借する所あるべからず」徹底的弾圧を主張した。

 福沢は、「男女の間を同権にするがごとき、……もって衝突の媒介たるべきのみ」と男女同権に反対し、家父長制的な差別的女性論を体系化した人物であり、娼婦の海外出稼ぎを含め、公娼制度の積極的な賛成論者であった。

 福沢は一般庶民を、「土百姓」「下民」「百姓車挽き」「無智の小民」「馬鹿と片輪」「下等社会素町人土百姓の輩」などと呼んだ。

 福沢は「アイヌ」を「北海道の土人」と呼び、「遺伝絶対論」の一例として、先天遺伝の能力が劣等な「北海道の土人」に教育を与え「辛苦教導」しても無駄であると主張していた。障害者に対しても「ちんば」「白痴瘋癲」と呼んでいた。

 以上のような発言・主張を残している事を考えれば、冒頭のように福沢諭吉を例に持ち出すのは不適当であり、偏向した価値観に基づくものであり、歴史修正主義の立場に立つものといわざるを得ない。

 福沢諭吉が1万円札に登場したのは1984年であったが、その後2004年にお札の肖像を一斉に入れ替えた。しかし、福沢だけは入れ替わらなかった。これに対し、メディアは問題視しなかった。そして現在も福沢が存続している。これは福沢に対する先に指摘したようなメディアの価値観に変化がないためなのです。そして、福沢に対して国民が無知であるからです。そのおかげでほくそ笑んでいられる人間が存在するという事でもあるのです。

(2018年1月1日投稿)

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12月31日(日)のつぶやき

2018-01-01 03:19:57 | 報道/ニュース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする