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稲田発言「五か条御誓文は民主主義の基本」を軽視するな。天皇崇拝と大日本帝国讃美の歴史修正行為。安倍首相を代弁

2018-11-08 13:28:27 | 安倍政治

 2018年10月29日の衆院本会議で安倍首相の所信表明演説に対して代表質問をした稲田朋美・総裁特別補佐が、「多様な意見の尊重と徹底した議論による決定という民主主義の基本は、すでに『十七条憲法や五箇条御誓文』に存在し、敗戦後に連合国から教えられたものではない」と言う趣旨の主張をしたとの事である。

 この発言についてその後メディアは、何の問題もないように取り上げていないが、聞き流さずに、また、嘲笑して終わるのでなく、きちんと批判し否定しておくべきである。なぜなら、安倍首相が党役員会で「堂々とやっていただいた」と彼の期待に応えたように高く評価しているからである。この事から、この稲田氏の質問は首相との間で事前に計画され行われたものであると考えるべきである。その狙いは「大日本帝国では民主主義を基礎とした政治が行われ、それは『五箇条の御誓文』(1868年3月14日)に表れている」とするもので、これまでの科学的学問的成果を否定し、彼らの信じるこの歴史解釈に置き換え正当化を目論む行為であると考えるべきである。

 稲田氏は安倍首相の意を呈して代弁し、これまでの科学的学問的成果を否定し、自分たちの歴史解釈を広め、安倍自公政権にとって都合の良いように歴史を修正し作り変えようとしているのである。彼らは歴史修正主義者なのである。彼らは、歴史に対しての考え方が前近代レベルであり、「歴史は政権を正当化するためのものであり、作り変える事は当たり前の事」と考えているのである。

 大日本帝国の歴史をたどればその実態と彼らの「民主主義の基本は『五箇条の御誓文』にある」とする解釈とはまったく異なる正反対のものであり、神聖天皇が主権を有する絶対主義というべきものである事は今日世界の定説常識である。ちなみに、大日本帝国における天皇の支配権主権の正当性の根拠自体が帝国政府の「捏造」したものであったとする歴史解釈は敗戦後の学校教育では常識である。にもかかわらず稲田氏らがそれを否定するのはなぜなのか。なぜ固執するのだろうか。どこに自己の主張の根拠をおいているのだろうか。それは昭和天皇の「新日本建設に関する詔書」(1946年1月1日)、俗にいう「人間宣言」といわれているこの「詔書」について、1977年8月22日に行われた「会見」の言葉にある。

 「詔書」は、「顧みれば、明治天皇、明治の初め、国是(政府の政治針)として五箇条の御誓文を下し給えり」で始まり、5か条を挙げた後に、「明治天皇の考えは公明正大、また何をか加えん。朕はここに、誓いを新たにして国運を開かんと欲す。すべからくこの御趣旨に則り、旧来の陋習を去り、民意をのびやかにし、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、もって国民生活の向上を図り、新日本を建設すべし」と続くものである。

 「詔書」はマッカーサーが昭和天皇を「戦犯」に訴追しなくてもよい方法として考えたものであるが、昭和天皇自身は日本の政治体制を、敗戦までの「神聖天皇主権(天皇制絶対主義)」から「象徴天皇国民主権(天皇制民主主義)」へと変更する意志を国民に示す事を目的としたものである。そして、この「詔書」の冒頭に天皇の強い意志で「御誓文」が入れたのである。

 この意味を昭和天皇自らが、1977年8月22日の会見で明らかにしている。それによると、「御誓文」を冒頭に入れた事について、「それが実はあの時の詔勅の一番の目的なんです。神格とかそういう事は二の次の問題であった。それを述べるという事は、あの当時においては、どうしても米国その他諸外国の勢力が強いので、それに日本の国民が圧倒されるという心配が強かったから。民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして、五箇条の御誓文を発して、それが基となって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないという事を示す必要が大いにあったと思います。……それを目的としてあの宣言(詔書)を考えたのです。そして、日本の誇りを日本国民が忘れると非常に具合が悪いと思いましたから。日本の国民が日本の誇りを忘れないように、ああいう立派な明治大帝のお考えがあったという事を示すために、あれ(詔書)を発表する事を私は希望したのです」と答えている。

 「大日本帝国」「大日本帝国憲法」は「民主主義」の原則に基づいているといえるだろうか。昭和天皇は故意に公然とウソをつき国民を欺瞞し明治以降の歴史を改ざん修正しているのである。敗戦までの大日本帝国はもちろん、敗戦後から今日までを見ても一貫して「民主主義」を尊重する政治は行われてこなかった事は明白である。民主主義とは真逆である。

 「詔書」は、侵略戦争を否認し、人権侵害を否認し、天皇自身の加害責任を否認しているだけでなく、過失なき存在として自己正当化しているのである。侵略戦争に対する反省謝罪の言葉も、国民への謝罪の言葉もまったく見られない。ただただ、明治天皇から昭和天皇までの「政治方針」の「連続性」のこじつけと、敗戦以後も天皇制を「存続」する事の正当性のみを主張する事を目的としたものである。

 以上の事から、安倍首相と稲田氏は、昭和天皇の「新日本建設に関する詔書」を思想的根拠にもち、国民に対して虚構の歴史を語り、「天皇崇拝」「天皇制讃美」「大日本帝国讃美」「神聖天皇主権讃美」を国民に植え付けようとしているものである。この行為は現行憲法と国民を冒涜するものであり決して許してはならない。これを許す事は国民が彼らの歴史解釈を「肯定」する事を意味する。メディアはこのような理解をしなければその使命と責任を果たしたとはいえない。

 最後に、大日本帝国とはどのような国かを、神祇院編『神社本義』(1944年6月)の定義により以下に紹介しよう。

「大日本帝国は、畏くも皇祖天照大神の肇め給うた国であって、その神裔にあらせられる万世一系の天皇が、皇祖の神勅のまにまに、悠遠の古より無窮にしろしめし給う。これ万邦無比の我が国体である。(中略)我が国にあっては、歴代の天皇は常に皇祖と御一体にあらせられ、現御神として神ながら御代しろしめし、宏大無辺の聖徳を垂れさせ給い、国民はこの仁慈の皇恩に浴して、億兆一心、聖旨を奉体し、祖志を継ぎ、代々天皇にまつろい奉って、忠孝の美徳を発揮し、かくて君民一致の比類なき一大家族国家を形成し、無窮に絶えることなき国家の生命が、生々発展し続けている。これ我が国体の精華である。この万世変わる事なき尊厳無比なる国体に基づき、太古に肇まり無窮に通じ、中外に施して悖る事なき道こそは、惟神の大道である。しかして惟神の大道が、もっとも荘厳にして尊貴なる姿として現れたものに神社がある。伊勢の神宮を始め奉り、各地に鎮まります神社は、尊厳なる我が国体を顕現し、永久に皇国を鎮護せられているのである」

 この宗教を「天皇教」「国家神道」というのであり、現在においても天皇家皇居の宮中神殿や伊勢神宮・靖国神社を頂点として神社本庁がほぼ全国の神社を組織化に置いて活動している。その政治団体が「日本会議」であり、安倍政権の自民党閣僚のほとんどが所属している。 

 安倍自公政権はその政権の正当性の根拠を神聖天皇主権大日本帝国に置いているが、その神聖天皇主権大日本帝国政府においても、事実の裏づけの無い事に何の負い目も感じず、掌握した政権を正当化する歴史を捏造し、国民を洗脳した。その帝国政府の政治方針が『五箇条御誓文』であった。

(2018年11月8日投稿)

  

 

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