つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

「国際連盟脱退通告」に見える大日本帝国政府の傲慢による孤立化

2025-02-26 18:48:19 | アジア・太平洋戦争

 神聖天皇主権大日本帝国第2次若槻礼次郎内閣(1931.4.14~12.11)関東軍による1931年9月18日の柳条湖事件に始まる満州事変」に関し、1933年2月24日国際連盟リットン報告書を骨子にした「対日勧告案」を総会で審議した。結果は賛成42対反対1(大日本帝国政府のみ)で採択された。これに対し松岡洋右代表は、「大日本帝国政府は今や日支(中華民国政府)紛争に関し連盟と協力する努力の限界に達したと感ぜざるを得なくなった」と述べ退場した。大日本帝国斎藤実内閣(1932.5.26~1934.7.3)は1933年3月27日付の電報により、国際連盟脱退の意思を通告した(通告の日より2年後の1935年発)。通告電報によると脱退理由は以下のようである。

「……。昭和6(1931)年9月日支(中華民国)事件の連盟付託を見るや、帝国政府は終始右確信に基づき、連盟の諸会議その他の機会に於て連盟が本事件を処理するに公正妥当な方法を以てし、真に東洋平和の増進に寄与すると共に其の威信を顕揚せんが為には、同方面に於ける現実の事態を的確に把握し、該事態に適応して規約の運用を為すの肝要なるを提唱し、就中支那(中華民国)が完全なる統一国家にあらずして其の国内事情及国際関係は複雑難渋を極め、変則例外の特異性に富める事、従って一般国際関係の規準たる国際法の諸原則及慣例は、支那(中華民国)に付いては之が適用に関し著しき変更を加えられ、その結果現に特殊且異常なる国際慣行成立し居れる事を考慮に入るるの絶対に必要なる旨力説強調し来れり。然るに過去17カ月間連盟に於ける審議の経過を徴するに、多数連盟国は東洋に於ける現実の事態を把握せざるか、又は之に直面して正当なる考慮を払わざるのみならず、連盟規約其の他の諸条約及国際法の諸原則の適用殊にその解釈に付、帝国と此等連盟国との間に重大なる意見の相違ある事明らかとなれり。其の結果本年2月24日臨時総会採択せる報告書は、帝国が東洋の平和を確保せんとする外何等異図なきの精神を顧みざると同時に、事実の認定及之に基づく論断に於て甚だしき誤謬に陥り、就中9月18日事件当時及其の後に於ける日本軍の行動を以て自衛権の発動に非ずと憶断し、又同事件前の緊張状態及事件後に於ける事態の悪化が支那(中華民国)側の全責任に属するを看過し、為に東洋の政局に新たなる紛糾の因を作れる一方、満州国成立の真相を無視し、且同国を承認せる帝国の立場を否認し、東洋に於ける事態安定の基礎を破壊せんとするものなり。殊に其の勧告中に掲げられたる条件が、東洋の康寧確保に何等貢献し得ざるは本年2月25日帝国政府陳述書に詳述せる所なり。之を要するに多数連盟国は日支(中華民国)事件の処理に当たり、現実に平和を確保するよりは適用不能なる方式の尊重を以て一層重要なりとし、又将来に於ける紛争の禍根芟除するよりは架空的なる理論の擁護を以て一段貴重なりとせるものと見る外なく、他面此等連盟国と帝国との間の規約其の他の条約の解釈に付重大なる意見相違ある事前記の如くなるを以て、茲に帝国政府は平和維持の方策殊に東洋平和確立の根本方針に付、連盟と全然其の所信を異にする事を確認せり。仍て帝国政府は此の上連盟と協力するの余地なきを信じ、連盟規約第1条第3項に基づき帝国が国際連盟より脱退する事を通告するものなり。」(国際連盟協会発行『連盟脱退関係諸文書』)

※「帝国政府陳述書」では、日本政府は満州における日本軍の行動、日満議定書の調印は国際連盟、9カ国条約、パリ条約などの国際条約に違反せず、且満州国の樹立は極東における共産主義の危険に対する障壁であるという自己弁護を展開したものであった。

※日本軍は1933年3月4日熱河を占領、さらに万里の長城南側の華北に侵入、4月には山海関南方の秦皇島北戴河も占領し、5月31日関東軍代表と中華民国政府軍代表との塘沽停戦協定締結により、「満州国」を大日本帝国政府の傀儡国として中華民国から分離した形で、満州事変を終結させた。

※大日本帝国のメディアは、例えば東京日日新聞1931年10月27日付は見出しを「守れ満蒙 帝国の生命線」とし、幣原喜重郎外相と南次郎陸相の大きな顔写真を載せ、「満州・モンゴルにおける日本の特殊権益は、『日本民族の血と汗の結晶』」と政府・軍部の侵略行動を支持・擁護し、国民には戦意を煽った。

(2025年2月26日投稿)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山東出兵・東方会議(大日本帝国政府の中国侵略外交政策)

2025-02-26 00:24:08 | 中国・台湾

 中国に対する侵略(積極)外交政策は、神聖天皇主権大日本帝国第2次大隈重信内閣(1914.4.16~16.10.4)による1915年1月18日の21か条の要求」から始まるが、その後の田中義一内閣(1927.4.20~29.7.1)では、先ず3次にわたる「山東出兵」が行われた。「第1次出兵」は1927年5月、「第2次」は1928年4月で「済南事件」を引き起こしている、「第3次」は1928年5月であり、日本人居留民の保護を名目にしていたが、実は1926年7月に開始された蒋介石国民革命軍による北伐の北上華北、特に東三省への波及)阻止にあった。次に「東方会議」開催(6月27日~7月7日)であった。神聖天皇主権大日本帝国政府の中国侵略外交政策の確立のため、田中(首相兼外相)、森恪(外務政務次官)、芳沢謙吉(駐中公使)、畑英太郎(陸軍次官)、大角岑生(海軍次官)、南次郎(参謀本部次長)、野村吉三郎(軍令部次長)、武藤信義(関東軍司令官)、吉田茂(奉天総領事)が参加し、「対支(中華民国)政策綱領」を発表した。

内容は、要約すれば、満蒙の権益を実力で守るという事であった。➀大日本帝国政府の極東における特殊の地位に鑑み、支那(中華民国)本土と満蒙を区別・分離させ、満蒙を大日本帝国政府の勢力下に確保する事、➁中華民国の全国的統一は見込みなく、中央政府確立は容易ではないので当分各地方における穏健なる政権と適宜接近し、地方軍閥の分裂抗争を助長する事、③不逞分子、不良分子によって、支那(中華民国)における大日本帝国政府の権利利益並びに在留日本人の生命財産にして、不法に侵害せらるるに於ては必要に応じて断然たる自衛の処置に出るという現地保護政策、④単に満蒙における個々の権益擁護にとどまらず、万一動乱満蒙に波及し、治安乱れ該地方に於ける我が特殊の地位、利益の侵害されるおそれのある時は、これを防護・保持するという満蒙分離政策、などであった。

1928年6月には、国民には知らせず「満州某重大事件」とよばれた謀略張作霖爆殺事件」を起こす。

(2025年2月26日投稿)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする