原敬首相は、立憲政友会の党勢を拡大する事とその党勢を盤石なものとする事を目的とし、1919年5月23日に改正衆議院議員選挙法を成立させた。その内容は大きく2つあった。その一つが小選挙区制の採用であった。彼の掲げた理由は、①選挙民と候補者との関係を密接にし得る事、②同士打ちを回避できる事、③政党の地盤を強め得る事、④選挙費用を節約できる事、⑤選挙干渉の効き目を減少せしめる事、などであった。しかし、その真の狙いはもちろん立憲政友会の地盤強化にあった。
もう一つは有権者の納税資格要件を10円から3円以上に引き下げた事であった。この狙いはどこにあったか。原敬は「普通選挙」を直ちに実施する事には反対であった。帝国政府や社会に脅威を与えているのは、民衆の成長であり、普選法の背後には階級制度を打破しようとする「不穏なる思想」が潜んでいるとみていた。そこで納税資格要件を引き下げたのであるが、その事により有権者数を倍増させるのであるが、そのほとんどは地方農民の小地主や上層自作農民であり、彼らが有権者となる事が政友会に有利な状況を生むと計算したのである。原敬による有権者の納税資格要件の引き下げと小選挙区制の成立は帝国政府の利益を計算した民衆対策であったのである。民衆による民主主義的な運動の高まりに理解を示すように見せながら、実は民衆運動を押さえつける事を狙っていたのである。原敬は民主主義的な民衆運動に対し挑戦をしたのであった。
原敬の民衆対策からもその事は明らかであった。彼の「民衆像」は「保守と進歩」の調和による「鉄の如き国民性」(『原敬全集』下)であった。それは民衆の帝国政府・社会に対する義務を強調し、民衆を帝国政府に統合していくものであった。民衆の協調性をうたい、帝国政府への忠誠観念、自治公共心を養成する考え方は、民衆の政治的成長を防止し、逆に民衆を操作していく上での根本としていた。「健全な国家」を築き上げるために民衆に「危激の思想」にかぶれないよう「自重自制の精神」をいかに修得させるかを大きな課題としていた。
原敬の民衆教化対策としては1919年3月以降内務省を通じて推進していた民力涵養運動があった。この狙いは民衆に「犠牲奉公の精神」を発揮させ「国体の精華」を発揮させる事、勤倹主義をもって生活の改善をはからせ、「協同調和の実」を上げさせる事にあった。この運動は県・郡・市町村の行政を通じて社会の底辺におろされた。担い手は地方の共同体に拠点を持つ青年団、婦女会、産業組合などで、府県郡市町村が指導したのであった。
そして、この運動は大日本帝国政府を安定させるために、民主主義的な社会運動に対する政府の抑圧弾圧政策の露払いの役割を果たしたのであった。それが山川均・堺利彦らが1920年に12月に結成した日本社会主義同盟の禁止(21年)であった。また、朝鮮における1919年の三・一独立運動に対する弾圧であった。
(2018年10月27日投稿)