宮沢賢治(1896年~1933年)は岩手県生まれで盛岡高等農林学校卒。岩手県の土性調査に従事した。中学時代から「法華経」に傾倒し、1920年に上京して田中智学の国柱会に参加した。文芸による大乗経典の大衆化をめざし童話創作に入り、同年秋帰郷し稗貫農学校教諭となって、誌・童話を創作。26年羅須地人協会を結成し、農業化学・農民芸術を講じた。
1931年秋、宮沢賢治は岩手県で、「西暦一千九百三十一年秋/このすさまじき風景を/恐らく私は忘れる事ができないであろう」と書き、「雨にも負けず 風にも負けず」をうたった。
1929年には、大学卒業生の就職難が深刻化し、東京大学においても就職率は30%に過ぎず、小津安二郎監督の松竹映画『大学は出たけれど』が流行した。
1930・1933年には豊作で米価・農産物価格が下落し、所得が下がり豊作飢饉(豊作貧乏)となり、1931・1934年には東北・北海道は冷害により大凶作となり、特に東北地方では、企業倒産による都市の失業者の帰農(小作農の増加)などで農家は著しく困窮(農業恐慌)し、娘の身売りや欠食児童が続出した。
1930年の春、大恐慌が神聖天皇主権大日本帝国にも波及し、
株式市場・商品市場は暴落
株価……1926年を100とすると、1930年:60.1、31年58.0
東京の卸売物価……1929~30年:18%低下
輸出品(生糸・綿花)価格……1929年3月~30年9月
生糸48%、綿花57%低下 生糸の対米輸出は大幅減少
貿易……1929~30年
輸出28.1%、輸入27.4%減少
中小企業の倒産続出
30年823社
工業生産額
1929年77億、30年60億、31年52億
労働者の実質賃金
1926年を100とすると、1932年88
失業者
1930年約300万人
新聞社会面記事
「東海道を歩いて田舎の村へ帰る失業者たち」
「午前2時から職業紹介所に並ぶ人々」
「商売に失敗して借金を抱え夜逃げする商人たち」
「繁盛する質屋」
「昼の弁当を持たずに登校する欠食児童たち」
「東京市営として作られた、娘の身売りのための相談所に出かけてくる親子」
農村
米と繭をはじめ農産物価格大暴落
埼玉県66カ町村の生活難救済陳情団の訴え
「実際、今日、私共農民の生活は生か死か助けるか殺すかの岐路に立つ実に涙のにじむ苦難時代です。汗水垂らして作ったキャベツは50個でやっと敷島一つにしか当たらず、蕪は100把なければバット一つ買えません。繭は3貫、大麦は3表でたったの10円です。これで肥料代を差し引き、一体何が残りますか」
※敷島18銭、バット7銭、大卒初任給50円、女子事務員月給20~50円
1930年の農林省の全国赤字農家調査
小作農76.4%、自作農58.6%が赤字農家
肥料など農村需要の工業製品の価格下落に比べ、農産物価格の下落は著しい(農民の売る物は安く、買う物は高くなる)
農業負債の増加……農家一戸当たり1000円突破……当時の自作農平均年間所得961円を上回る
(2023年12月8日投稿)