神聖天皇主権大日本帝国政府が産業革命を推し進める中で、労働者がどのような状態におかれたかについては、横山源之助の『日本の下層社会』(1899年)や農商務省工務局刊『職工事情』(1903年)の中に詳細に明らかにされているが、この労働者を保護する法制定の動きはどのようなものであったのだろうか。また、その動きに対して渋沢栄一はどのような態度を示したのだろうか。
農商務省が工場法をつくろうとしたのは1882年であった。そしてその後の1887年にまとめられたのが職工条例案であった。その内容は「年齢14歳未満の者は1日6時間以上、17歳未満の者は1日10時間以上使役してはならぬ、婦女14歳未満の職工を夜間使用してはならぬなど」としていた。
これに対し渋沢栄一、益田孝(三井物産)ら政商(大資本家)は、「古来の醇風美俗にもとづく雇用関係、すなわち封建的労使関係がくずれてしまう」と反対し、成立を阻止したのである。また、1896年の農商工高等会議において工場法が提案された時にも、渋沢栄一は「労働時間は長いが、職工が堪えらるる時間と申してよい、又夜業はゆかぬというが、一方からいうと、成るべく間断なく機械を使って行く方が得である、……夜業ということが経済的に適って居る……害があって職工が段々衰弱したという事実は、能く調査は致しませぬが、まだ私共見出さぬのでござります」(渋沢栄一伝記資料第23巻)と発言し、その後も工場法案は提案されても成立しなかった。
1911年にようやく「工場法」は成立したが、その施行はすぐになされず1916年施行であった。また、紡績女工の深夜業撤廃についてはさらに遅れて1929年施行であった。これらの背景には渋沢栄一ら政商(大資本家)の反対があったのである。
(2021年3月13日投稿)