神聖天皇主権大日本帝国政府(当時実権は大久保利通が掌握)による、教科書的に表現すれば1874年5月の「台湾出兵」の目的は、大日本帝国政府が国境を画定するための軍事行動である。「台湾」全体を「占領」し、大日本帝国政府の領土とするためであり、併せて「琉球王国」の清国との両属関係を断ち切り、大日本帝国政府の完全な領土とする「琉球処分強行」のためであった。しかし、「台湾占領」は、清国の抗議や、英国の反対にあいこの時点で達成できず、1895年、日清戦争後の下関条約でついに清国に割譲させた。
【経過】
○1871年、廃藩置県実施、薩摩藩は鹿児島県となり、琉球王国は鹿児島県の管轄。
○1871年10月、琉球王国への上納を終え、宮古島へ帰る役人たち約70名が那覇港を出港。途中暴風にあい台湾東南岸牡丹社へ漂着し、54名が台湾の先住民族(パイワン族)に略奪殺害された。原因不明。
○生き残った者12人は清国の役人により1872年正月、福建省福州へ送られ、6月には琉球王国へ送還された。琉球王国の漂着民が台湾の先住民族に襲われる例は、1790年、1810年にも見られ、この事件と同様に生存者は琉球へ送還されている。
○1872年7月、琉球王国政府から鹿児島県庁へ報告。大山綱良鹿児島県参事は、「台湾先住民を討つべし」と大日本帝国政府へ報告。
○1872年9月、琉球藩設置。外交権接収、清国への朝貢禁止、琉球国王を藩王とし華族に列す。
➀琉球藩の事務は鹿児島県を離れ、琉球王国が締結した外国との諸条約も含めて外務省の管轄に移す(琉球の外交権停止)
➁大日本帝国海軍が琉球列島を測量。
③久米島・宮古島・石垣島・西表島・与那国島に「日の丸」を立てる。
清国は認めず、琉球王国も抵抗。琉球王国の帰属争いは継続。国際問題化。
※井上馨大蔵大輔の「琉球国」に関する建議……正院あてに提出
「〈百度維新〉を迎えた今、琉球の『あいまいな位置』を一掃し、『皇国の規模御拡張の御措置』をとるべ き事を主張し、その方法として、武力による制圧は避け、琉球の『酋長』にその『不臣の責』を問い、これまでの歴史や『順逆の大義』を説いて、版籍を収めさせ、『内地一執の制度』を施行する、というもの。」
○1873年、大日本帝国政府は「台湾占領計画」を立て、宮古島島民の「台湾遭難事件」の責任の所在を求めて清国と交渉。清国は、台湾全島は清国の領土であるが、先住民族は中国の教えが及ばない「化外の民」である、と述べ責任を回避。
○1874年2月6日、大日本帝国政府は「台湾占領」と「琉球処分強行」の前提をつくるため、「台湾の先住民族地域は清国の領土ではない。主権者のいない地域である。大日本帝国政府の属民が殺害された仕返しをするのは政府の義務である」という事を根拠に台湾出兵を決定。
○米英スペインなどの諸外国は大日本帝国政府の台湾への侵略戦争を警戒し、苦情申し出と局外中立を宣言。米国を当てにしていた大久保利通は計画中止を命令したが、西郷従道司令官は命令を拒否して出兵を強行。三菱汽船会社が軍事輸送を担当。
○1874年5月、西郷従道軍約3600名(鹿児島県士族300人を含む)は長崎を出発し、台湾南部に上陸し、パイワン族の住む牡丹社及び南部に住む先住民族を攻撃。戦闘は1カ月足らずで終了(その後も占領し続け撤兵は74年12月)。戦死者12名。マラリアなどで561名が病死。
※1874年5月、琉球藩を内務省の直轄地とし、井上の建議のような皇権拡張方針一貫して強行。琉清関係の廃絶と天皇のもとの中央集権国家機構の枠内に琉球を包含する「藩治職制」を強制。
○大日本帝国政府の「台湾占領」の目的は、清国の抗議、英国の反対にあい挫折。
○1874年10月、英国公使の仲介。清国は宮古島遭難民に対し10万両、大日本帝国陸軍が台湾で建設した道路や家屋の買収費として40万両、計50万両(約67万円)を支払う事で決着。大日本帝国政府は台湾を清国領土であることを認め、清国は琉球藩を日本領土である事を認める形となった。しかし、同年、琉球藩は清国になお進貢使を派遣。
○1875年5月、大日本帝国政府は内務官僚松田道之を琉球藩に派遣し、清国への進貢や冊封の廃止、藩王の上京、鎮台分営の設置などを命じたが抵抗。琉球は米英清各国公使に救済を訴える。
○1876年、大日本帝国政府は琉球藩の裁判権・警察権を接収。
○1877年4月、琉球藩は受諾拒否し、王族の幸地朝常をリーダーに久米村の人間も集め、密使として清国福建省福州の琉球館へ遣わした。清国は大日本帝国政府へ正式に抗議。清国公使から寺島宗則外務卿へ「隣国どうしの交際のならいに背き、弱小の国を欺くなど決してあってはならない」と。
○1879年4月4日、大日本帝国政府は再び松田道之を、警官160名、熊本鎮台から300余名の軍隊とともに派遣し、首里城を武力で占領。琉球藩を廃し沖縄県を設置(琉球処分)。450年間の琉球王国滅亡。藩王尚泰の上京、邸宅及び公債20万円給与、侯爵授与(1885年)、首里玉陵に埋葬。
○琉球王国滅亡の知らせは清国福州にも伝えられた。琉球館に派遣されていた琉球密使(脱清人)は北京や天津へ嘆願を直訴。幸地朝常は天津で李鴻章に嘆願。しかし、李鴻章は欧米列強と対抗するうえで、日本との関係を重視したため認めず。
※神聖天皇主権大日本帝国政府は、欧米的な近代国際法の論理で台湾の先住民族を侵略し、琉球処分を強行した。その論理は、国境を明確にする事にあり、国境が明確でない土地は先に手を付けた国の領土(無住地先占)であるというもの。琉球各地に「日の丸」を掲揚した事や、神聖天皇主権大日本帝国政府が侵略した台湾の先住民族の族長たちに服属の証として「日の丸」を配布した事に見られる。
(2023年12月6日投稿)