つれづれなるままに心痛むあれこれ

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ソンミ村虐殺事件(ヴェトナム戦争)の経緯とカリー指揮官のその後、そして、佐藤栄作自民党政権のいざなぎ景気との関係

2018-05-07 22:10:16 | 米国の世界戦略

 2018年4月25日の朝日新聞が、ソンミ村虐殺50年の記念式典についての記事を載せていた。その中で、韓国は米国の同盟国として南ヴェトナム側に参戦し、ソンミ村に近いハミ村住民135人を虐殺したとされており、文在寅韓国大統領がこの3月にハノイを訪問した際に「両国間の不幸な歴史に遺憾の意を表する」と述べた事も載せていた。

 それではソンミ村虐殺事件がどのようにして行われたのかを紹介しよう。1968年3月16日の早朝、午前7時20分、「チャーリー中隊」の三個小隊約60名と数名の連絡将校は、LZドッティ地区を11機のヘリに分乗して飛び立った。この時、すでに周辺のアメリカ軍各基地からミライ地区に向けて集中的な砲弾射撃が行われていた。掃討作戦に先立つ準備攻撃だった。ミライ地区ではちょうど朝市の賑わいの最中だったため、この突然の砲撃で早くも多数の村民に死傷者が出ていた。ヘリは2派に分れてミライ第4地区の西方約150㍍の水田に着陸した。旅団司令部は大規模な戦闘を予想して、戦闘を記録するために広報班からロバーツ記者と、ロナルド・へーバリーというカメラマンをヘリに乗せていた。この2人のジャーナリストは後衛の第3小隊に従ってソンミ村に入った。この間、解放戦線側からの反撃は全くなかった。村の人口は約700人、先鋒の2個小隊が村に侵入した時、逃げ出す村人はいなかった。村人たちは、アメリカ兵が走るものはすべて「ヴェトコン」(1960年結成、南ヴェトナム民族解放戦線、北ヴェトナムが支援)とみなして射殺する事を知っていたからだ。

 アメリカ兵たちは村人を家々から引きずり出し始めた。村人のある者は朝食の最中であり、またある者は米を炊いているところだった。午前8時頃、まず、約80人の村民が部落中央の広場に集められた。数名の者が「自分たちはヴェトコンじゃない、ヴェトコンじゃない」と叫び声を上げただけで、村民の側からの反撃や抵抗は皆無だった。中央広場に集められてから、小隊指揮官であるカリー少尉による村民に対する尋問はまだ一切行われていなかった。突然カリー少尉が約80人の村民たちをめがけて撃ち始めた。小隊の兵士たちがこれに続いて一斉に乱射し出した。その後は、村中のいたるところでアメリカ兵による狂気の射撃が無抵抗の村民たちに対して無差別に執拗に展開された。アメリカ兵は村中にいる生き物という生き物を殺し続けた。すべての家屋や食糧も焼き尽くされた。アメリカ兵の中には虐殺の間中、はしゃいだり、歓声をあげる者もいた。「おい、おれはもう1匹殺ったぞ」、「おれのも1匹記録しておけよ」。ハーバード・カーターという兵士は後日このように供述している(ハーシュ著『ソンミ』より)。

 カーターはまた次のような証言もしている。「(後衛の)第3小隊が村の近くに移動するとまもなく、1人の女を認めた。誰かが彼女を殴り倒し、それから、メディナはその女を自分のM16ライフルで撃ちました。この女を撃つ理由はありませんでした。我々は、兵隊が15人、あるいはそれ以上のヴェトナム人の男・女・こどもを一塊に集めている場所に来ました。メディナは『みんな殺せ、立っている者を残すな』と言いました。(同書)死者504人(氏名判明者472人)。うち、女性182人、子ども173人、老人60人で計415人。3年後に、責任者のカリー少尉はアメリカの軍事法廷で裁判にかけられて終身労働の判決を受けた。しかし、判決の翌日、ニクソン大統領の命令により即時釈放された。

 ヴェトナム戦争の本格的な「アメリカ化」が始まった1965年以降は、戦後日本の「高度経済成長」の頂点ともいえる「いざなぎ景気」(66~69年)の始まりであった。日本経済の繁栄は、いわゆる「ヴェトナム特需」に負うところが多かったのである。また、日米安全保障条約に基づく在日アメリカ軍基地(特に、県民の意思に反していたが、昭和天皇の意思によってアメリカの支配下に差し出されていた沖縄のアメリカ軍基地)の存在こそが、アメリカのヴェトナム侵略を可能としたのである。

 沖縄県のアメリカ軍基地面積の変遷を見てみると、1958年に、岸首相(安倍首相の母方の祖父)とアイゼンハウアー大統領との会談後、アメリカは対ソ対中の前線基地として基地を拡張。アメリカは1965年のヴェトナム北爆開始後、海兵隊などの沖縄移動で基地をさらに拡張。1971年、沖縄返還協定締結時に最大となったが、1972年の沖縄返還直後にはやや減少した。全在日アメリカ軍基地に占める割合は58.6%であった。しかしその後、その割合は増加し、2004年には現在と同じ74%となったのである。

(2018年5月7日投稿)

 

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5月6日(日)のつぶやき

2018-05-07 03:21:15 | 報道/ニュース
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マニラの慰安婦像撤去:主権者国民はメディアが報道しない安倍自公政権の真の姿を知ろう

2018-05-06 23:20:32 | 慰安婦問題

 2018年4月28日の日本の新聞に、フィリピンの首都マニラに設置されていた日本軍慰安婦像が、4月27日の深夜にマニラ市によって撤去された事が小さく載った。この件に関して、日本の新聞は、国民の意識を刺激し関心を呼び覚ます事を避けるためであろう、意図的に小さな記事で扱い詳細な経緯を載せていない。また、フィリピンの被害者や支援者の反応を詳細に伝えていない。だから、日本国民はこの件を正しく理解するためには全貌を知るべきである。

 マニラに慰安婦像が設置されたのは2017年12月8日であった。フィリピンの元「慰安婦」女性の団体「リラ・ピリピーナ」、フィリピン人女性の同盟「ガブリエル」、トゥライ財団、そしてそれらに対する多くの支持者が、フィリピンの歴史的な記念物の設置に関わる政府機関「フィリピン国家歴史委員会」の支援を受けて設置したのである。

 設置の目的は像の台座に記されている。「1942~45年の日本統治下で虐待の被害に遭ったすべてのフィリピン女性の記憶である。彼女たちが自身の経験を語り出すまで、何年もの月日を要した」と。つまり、再発防止のために他ならない。日本軍慰安婦(性暴力)被害者たちは、2度と同じような被害者を生まない平和な世界の実現を訴えてきた。今、世界に広がる日本軍慰安婦メモリアルは、この訴えを記憶する事で、今も戦時下で、あるいは基地周辺で、そして日常の中で繰り返される性暴力を根絶しようとする決意と切望を表すものなのである。

 これに対して安倍政権はどのように対応してきただろう。設置直後から「日本政府の立場と相容れない」として「遺憾の意」を伝えていたのである。また、2018年1月には野田聖子・総務相兼女性活躍担当相がフィリピンでドゥテルテ大統領と会談した際に、「非常に残念だ」として政府間で協議するよう求めていたのである。福田・財務省事務次官のセクハラ問題においては安倍政権の対応に対して批判的な発言をしていたが。

 また、現場で撤去を確認した在比日本大使館は「(撤去は)フィリピン政府側の判断であり対応」と言いつつ、「フィリピン政府には像設置は遺憾であり、2国間の関係に悪影響を与えないようにとの安倍政権の立場を繰り返し伝えてきた」と述べているのである。

 しかし、これまでの自民党政権や安倍政権(日本政府)は、ラグナ州カリラヤに日本兵戦没者の慰霊碑「比島戦没者の碑」を建てているのである。また、日本人生還者や戦没者の遺族が、フィリピン各地に400基を超える日本兵戦没者の慰霊碑を建てているのである。

 この事はつまり、かつて日本軍が侵略した事によって120万人もの犠牲者を出したフィリピンに、日本兵の慰霊碑を建てる事には協力してもらいながら、フィリピンの国民が自国の地に、日本軍による性暴力被害女性の碑を建てる事に対しては露骨に妨害しているという事なのである。それも「日本政府の立場と相容れない」という理由で。このような非常識で厚顔無恥、独善的な安倍政権を主権者国民は許しておいてはいけない。

 それから、フィリピン人女性の同盟ガブリエルが4月28日に、ドゥテルテ大統領に抗議声明を出している(日本メディアは報道していない)事を知ってほしいので以下に紹介しておきたい。

 

 ガブリエル 声明

  ドゥテルテ大統領へ マニラの「慰安婦」記念碑を再建せよ

                                2018年4月28日

  私たちは、2018年4月27日に、フィリピンのマニラ市のロハス通りにおいて、深夜に女性解放運動家、歴史学者などの強い反対を押し切って断行された、「慰安婦」記念碑の撤去に強く抗議する。これはフィリピン人女性の尊厳の冒涜であり、第二次世界大戦中、旧日本軍によって性奴隷にされた何百人ものフィリピン人被害者への侮辱である。

私たちはフィリピン政府に以下の要求をする。

 記念碑を保護された公共の場所に再建し、同様の碑を国のいたるところに設置する事。

1、右翼的で軍事的な安倍政権(日本政府)の世界史の修正圧力に抵抗するとともに、元  「慰安婦」女性の経験をフィリピンの歴史として公式に認める事

 韓国、アメリカ、オーストラリア、カナダ、ドイツの記念碑と同様に、マニラの記念碑は、未来の世代が、第二次世界大戦中の日本のフィリピン人女性に対する残虐行為と虐待、そして侵略戦争において女性が歴史的に被害を受けてきた事を忘れないように貢献するものである。フィリピンの元「慰安婦」女性の団体の一つであるリラ・ピリピーナ、フィリピン人女性の同盟であるガブリエルトゥライ財団、そして多くの支持者たちが、フィリピン国家歴史委員会の支援を受けて、この記念碑が可視化されるよう長年活動を続けてきた。この撤去によって、右派であり軍事主義者である安倍政権(日本政府)は、世界各国の政府や支持者に対して、歴史修正的な選択を押し付ける事に成功したのだ。同様の「慰安婦」に関する追悼碑や記念碑を持つ都市において、日本政府による外交的・経済的制裁のリスクは圧力とはならなかった。一方で、フィリピン政府が、夜にまるで泥棒のようにマニラの「慰安婦」記念碑を撤去した事は、非常に嘆かわしく恥ずべき事である。仮にロドリゴ・ドゥテルテ政権がこのような凶悪な行いを正すよう求める声を聞き入れなければ、記念碑が撤去された事は、この政権が、女性とフィリピンという国家の尊厳と、何十億もの日本からの借款と技術支援を引き換えにしたポン引き(私娼窟などで、不案内の者を連れ込む客引き)である事を決して忘れさせる事はないだろう。私たちは民衆とともに、フィリピンや各地の旧日本帝国軍による性奴隷制を告発する努力を力強く継続する。いかに安倍政権(日本政府)が占領時の惨事を覆い隠そうとしようと、それを明らかにしようとする女性たちは屈する事はないだろう。

                                  以上

(2018年5月6日投稿)

 

 

 

 

 

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5月3日(木)のつぶやき

2018-05-04 03:18:20 | 報道/ニュース
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4月30日(月)のつぶやき

2018-05-01 03:19:49 | 報道/ニュース
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