母の闘い その1
「私、もう駄目ですわぁ」
日曜朝の散歩で、隣家の主婦への挨拶に母がそう応えている。
〈この場合、日常よく聞く「もう駄目!」とはえらく違って、ちょっとリアル過ぎるなぁ〉
手を引きながら、ブラックユーモアのようだと苦笑いが出て、思わず母の表情を見つめてしまった僕。八十九歳、脳内出血、右半身不随、感覚性全失語症の母は、体重も既に三十キロに近づいている。こんなことを改めて噛み締めていたら、ふっと昨夜の事件を思い出した。
二階から下りて母の部屋をのぞいた。晩秋の日の午後六時過ぎ、もう真っ暗な部屋がはっきりと生臭い。灯を点けると、ベッドサイドテーブルに転がった鰺の干物が目に飛び込んできた。生なのに頭がなく、囓ったような跡がついている。ふとんの端っこにはやはり囓りかけのベーコンが、よじれてペタッと張り付いている。母は、起き上がってベッドに腰掛け、泣いている。「どうしたの!?」。どうも「私が悪い」と繰り返しているらしく、あとは泣くだけの母。数分のやりとりで、事態が分かった。昼食時の我々夫婦の激しい口論を、何か自分が原因だと誤解したらしい。そして悩み抜いた末に、パニックになった頭で出した結論が、「なるべく自分のことは自分でしよう」で、早速「夕食くらいは自分で」とふるまってみたという訳だ。
ようやく少し落ち着いた僕は、一瞬、母を抱き締めたいと感じたのだけれど、いつものように右手で母の左ほほをちょっと撫でるだけにしておいた。
この日曜午後三時、十一月末なのに西日が暖かい。母は縁側の籐椅子に座り、僕たち夫婦の今日の庭仕事の一つ、ワビスケの移植を眺めている。主の帰宅を喜んだ老テリアのチビが、母の膝の上ではしゃいでいる。僕の連れ合いが近づいて、母の左手の平に何かをのせた。赤いボケと白っぽい紫のヨメナの花一つずつだった。母は人さし指で花を転がしていたが、やがて連れ合いの顔を見上げ、それから、僕の方に微笑んできた。
「私、もう駄目ですわぁ」
日曜朝の散歩で、隣家の主婦への挨拶に母がそう応えている。
〈この場合、日常よく聞く「もう駄目!」とはえらく違って、ちょっとリアル過ぎるなぁ〉
手を引きながら、ブラックユーモアのようだと苦笑いが出て、思わず母の表情を見つめてしまった僕。八十九歳、脳内出血、右半身不随、感覚性全失語症の母は、体重も既に三十キロに近づいている。こんなことを改めて噛み締めていたら、ふっと昨夜の事件を思い出した。
二階から下りて母の部屋をのぞいた。晩秋の日の午後六時過ぎ、もう真っ暗な部屋がはっきりと生臭い。灯を点けると、ベッドサイドテーブルに転がった鰺の干物が目に飛び込んできた。生なのに頭がなく、囓ったような跡がついている。ふとんの端っこにはやはり囓りかけのベーコンが、よじれてペタッと張り付いている。母は、起き上がってベッドに腰掛け、泣いている。「どうしたの!?」。どうも「私が悪い」と繰り返しているらしく、あとは泣くだけの母。数分のやりとりで、事態が分かった。昼食時の我々夫婦の激しい口論を、何か自分が原因だと誤解したらしい。そして悩み抜いた末に、パニックになった頭で出した結論が、「なるべく自分のことは自分でしよう」で、早速「夕食くらいは自分で」とふるまってみたという訳だ。
ようやく少し落ち着いた僕は、一瞬、母を抱き締めたいと感じたのだけれど、いつものように右手で母の左ほほをちょっと撫でるだけにしておいた。
この日曜午後三時、十一月末なのに西日が暖かい。母は縁側の籐椅子に座り、僕たち夫婦の今日の庭仕事の一つ、ワビスケの移植を眺めている。主の帰宅を喜んだ老テリアのチビが、母の膝の上ではしゃいでいる。僕の連れ合いが近づいて、母の左手の平に何かをのせた。赤いボケと白っぽい紫のヨメナの花一つずつだった。母は人さし指で花を転がしていたが、やがて連れ合いの顔を見上げ、それから、僕の方に微笑んできた。