海水浴や潮干狩り、サーフィンなどの海のレジャーで人々の押しかける知多半島南端の師崎町の海岸に、先の戦争中、海軍の最終特攻兵器として有名だった人間魚雷「回天」や特攻ボート「震洋」などの基地跡があります。 また、三河湾ぞいに河和までもどると、水上飛行艇の訓練基地を持っていた河和海軍航空隊の基地跡があります。
しかしかつてはみられた両方の特攻艇格納庫も朽ち果てて雑木のなかに埋まっていました。
人間魚雷「回天」は主に駆逐艦に搭載された。回天は、この酸素魚雷を改造して、全長14.7メートル、直径1メートル、排水量8トンで、一人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブをつけ、襲撃用の潜望鏡を設けた。炸薬量を1.5トンとして、最高速度時速55キロで23キロメートルの航続力があった。当初突入前に乗員の脱出装置のハッチがあったが,航行安定に悪影響をもたらすこと、脱出後は敵の捕虜になること、また脱出装置自体の製作がまにあわなかったことから結局は廃止されました。 回天による初期の戦果は、発進20基のうち撃沈2隻(給油艦ミシシネワ、歩兵揚陸艇LCI-600)、撃破(損傷)3隻であった。 最初の攻撃で給油艦ミシシネワが撃沈された際、アメリカ軍は一時的に航空燃料の補給の不安に陥った。なお、アメリカ軍はこの攻撃を、当初2人乗りの特殊潜航艇「甲標的」による襲撃と考えていた。艦上の兵士はこれよりいつ回天が襲ってくるかという恐怖にかられ、泊地にいても連日火薬箱の上に坐っているような戦々恐々たる感じであったといいます。(出典:特攻兵器「回天」と若人たち~ウルシー礁内の大恐慌)
その後回天は1944年11月8日に菊水隊として、ウルシー、パラオ方面に初出撃して以降1945年8月まで、金剛隊、千早隊、神武隊、多々良隊、天武隊、振武隊、轟隊、多聞隊、神州隊ののべ28隊(潜水艦32隻、回天148基 途中帰投含む)の出撃が行われている。目的地は、ニューギニアからマリアナ諸島、沖縄諸島にかけてです。
そして戦争末期には回天を搭載する大型潜水艦が次々と失われ、また敵の本土上陸が現実問題となってきたことから、日本本土の沿岸に回天を配備する「基地回天隊」が組織された。
河和の基地はそのために準備されたものです。
一方、水上特攻兵器「震洋」は小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬(約250kg)を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦。上陸船団に体当たり攻撃することが目標とされた。 末期は敵艦船の銃座増加に伴い、これを破壊し到達するために2発のロケット弾が搭載された。また、2人乗りのタイプもあり、こちらには機銃1~2丁が搭載され、指揮官艇として使用されました。
日本本土決戦時には、入り江の奥の洞窟などから出撃することが計画され、日本各地の沿岸に基地が作られました。九州・川棚の訓練基地跡が有名。
設計時から量産を考慮して設計された為製造が比較的容易であり、民間軍需工場でも生産されたため終戦まで月間700~150隻が生産され終戦時までに各型合わせて6,197隻が生産されました。
乗員は他の特種兵器搭乗員及び機体が無いために余剰となった航空特攻要員であった学徒兵、海軍飛行予科練習生出身者を中心としていた。軍の作戦の一環として、若い将兵を集めて特攻隊が編成されたといえる。主に長崎県大村湾の水雷学校分校と鹿児島県江の浦の2箇所で育成が行われ国内及び海外拠点各地に海上輸送により配備されたが、海上輸送線の途絶に伴い潜水艦、航空機による移動中の被害が多く、また出撃できぬまま陸戦に巻き込まれるなどして実戦に参加できぬまま、支援要員も含めて2,500名以上が戦死したとされる。終戦時には本土決戦に対する備えとして4,000隻近くが実戦配備についていた。オーストラリアのシドニーの戦争記念博物館に1隻のみ保存されています。
河和海軍航空隊は美浜町の古布地区の集落を収用し、終戦直前の二年かけて整備教育施設を構築した。体裁としては、現場で活躍する整備員を養成する普通科練習生の教育に従事した。整備教育を推進する訓練場であったため、全期間を通して数千人規模の生徒を抱えていた。最盛期には9,000人とも言われています。
河和海軍航空隊の重要な役割として、水上機の訓練基地があり多くの訓練生が水上戦闘機を海岸までスリップ(海岸までの斜面を引っ張って着水させる)させる訓練に明け暮れ、全国から七百人の若者が集められ特攻の訓練が行われ、訓練で17名の死者をだしました。
今では護岸施設が戦跡として見ることが出来ます。
その他この航空隊のせんせきとしては、本部正門、など朽ち果てた戦跡がかろうじて現存していました。
★写真は水上攻撃艇「震洋」
しかしかつてはみられた両方の特攻艇格納庫も朽ち果てて雑木のなかに埋まっていました。
人間魚雷「回天」は主に駆逐艦に搭載された。回天は、この酸素魚雷を改造して、全長14.7メートル、直径1メートル、排水量8トンで、一人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブをつけ、襲撃用の潜望鏡を設けた。炸薬量を1.5トンとして、最高速度時速55キロで23キロメートルの航続力があった。当初突入前に乗員の脱出装置のハッチがあったが,航行安定に悪影響をもたらすこと、脱出後は敵の捕虜になること、また脱出装置自体の製作がまにあわなかったことから結局は廃止されました。 回天による初期の戦果は、発進20基のうち撃沈2隻(給油艦ミシシネワ、歩兵揚陸艇LCI-600)、撃破(損傷)3隻であった。 最初の攻撃で給油艦ミシシネワが撃沈された際、アメリカ軍は一時的に航空燃料の補給の不安に陥った。なお、アメリカ軍はこの攻撃を、当初2人乗りの特殊潜航艇「甲標的」による襲撃と考えていた。艦上の兵士はこれよりいつ回天が襲ってくるかという恐怖にかられ、泊地にいても連日火薬箱の上に坐っているような戦々恐々たる感じであったといいます。(出典:特攻兵器「回天」と若人たち~ウルシー礁内の大恐慌)
その後回天は1944年11月8日に菊水隊として、ウルシー、パラオ方面に初出撃して以降1945年8月まで、金剛隊、千早隊、神武隊、多々良隊、天武隊、振武隊、轟隊、多聞隊、神州隊ののべ28隊(潜水艦32隻、回天148基 途中帰投含む)の出撃が行われている。目的地は、ニューギニアからマリアナ諸島、沖縄諸島にかけてです。
そして戦争末期には回天を搭載する大型潜水艦が次々と失われ、また敵の本土上陸が現実問題となってきたことから、日本本土の沿岸に回天を配備する「基地回天隊」が組織された。
河和の基地はそのために準備されたものです。
一方、水上特攻兵器「震洋」は小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬(約250kg)を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦。上陸船団に体当たり攻撃することが目標とされた。 末期は敵艦船の銃座増加に伴い、これを破壊し到達するために2発のロケット弾が搭載された。また、2人乗りのタイプもあり、こちらには機銃1~2丁が搭載され、指揮官艇として使用されました。
日本本土決戦時には、入り江の奥の洞窟などから出撃することが計画され、日本各地の沿岸に基地が作られました。九州・川棚の訓練基地跡が有名。
設計時から量産を考慮して設計された為製造が比較的容易であり、民間軍需工場でも生産されたため終戦まで月間700~150隻が生産され終戦時までに各型合わせて6,197隻が生産されました。
乗員は他の特種兵器搭乗員及び機体が無いために余剰となった航空特攻要員であった学徒兵、海軍飛行予科練習生出身者を中心としていた。軍の作戦の一環として、若い将兵を集めて特攻隊が編成されたといえる。主に長崎県大村湾の水雷学校分校と鹿児島県江の浦の2箇所で育成が行われ国内及び海外拠点各地に海上輸送により配備されたが、海上輸送線の途絶に伴い潜水艦、航空機による移動中の被害が多く、また出撃できぬまま陸戦に巻き込まれるなどして実戦に参加できぬまま、支援要員も含めて2,500名以上が戦死したとされる。終戦時には本土決戦に対する備えとして4,000隻近くが実戦配備についていた。オーストラリアのシドニーの戦争記念博物館に1隻のみ保存されています。
河和海軍航空隊は美浜町の古布地区の集落を収用し、終戦直前の二年かけて整備教育施設を構築した。体裁としては、現場で活躍する整備員を養成する普通科練習生の教育に従事した。整備教育を推進する訓練場であったため、全期間を通して数千人規模の生徒を抱えていた。最盛期には9,000人とも言われています。
河和海軍航空隊の重要な役割として、水上機の訓練基地があり多くの訓練生が水上戦闘機を海岸までスリップ(海岸までの斜面を引っ張って着水させる)させる訓練に明け暮れ、全国から七百人の若者が集められ特攻の訓練が行われ、訓練で17名の死者をだしました。
今では護岸施設が戦跡として見ることが出来ます。
その他この航空隊のせんせきとしては、本部正門、など朽ち果てた戦跡がかろうじて現存していました。
★写真は水上攻撃艇「震洋」