九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

私の十二月八日②         ネット虫

2010年11月24日 20時34分23秒 | Weblog
 興奮しながら登校

                     高木三郎
                           (当時:国民学校高等科2年生)

国民学校高等科2年14歳のとき、昭和16年11月末、日米交渉も最終案で決裂寸前であった。

12月8日朝、友人らと登校途中で学校に到着する直前のことであった。校門近くの文房具店のラジオから、勇ましい軍艦マーチが流れて、「帝国陸海軍は、八日未明、西太平洋において、米英軍と戦闘状態に入れり、」と張り詰めたアナウンサーの声が聞こえた。引き続いてハワイ真珠湾攻撃の大戦果発表(・・・米太平洋艦隊壊滅・・・)に、友人らと思わず万歳を叫び興奮しながら登校した。

朝礼で校長先生から「宣戦の大詔」の発表が行われ「いよいよ日本は、支那をはじめ米英オランダとも戦争することになった。この戦争は大東亜建設のためであって、戦争に勝つため銃後の守りをしっかりやらねばの指導があった。

開戦当初は連戦連勝で、学校中みんなは興奮と緊張につつまれた。また、「撃ちしやまん」「欲しがりません勝つまでは」「天皇陛下の赤子なり」兵隊さんに負けるな」などの声が聞かれた。


(追記)
昭和17年4月就職で、国際電気通信(株)講習所依佐美支所(技術予科)に入ったとき聞いた話から、昭和16年12月2日夜、ハワイ真珠湾攻撃に向かう南雲機動部隊(空襲部隊:航空母艦6隻、警戒部隊:軽巡1隻・駆逐艦9隻、支援部隊:戦艦2隻・重巡2隻、哨戒部隊:伊号潜水艦3隻、補給部隊:給油艦など7隻から構成)に、開戦日を知らせる電文「ニイタカヤマノボレ1208」が、ここ依佐美送信所経由で発信された。

当時、依佐美送信所長波700KW送信機と短波20KW送信機3台を日本海軍が作戦用に使用、横須賀操縦(各地の軍施設から送られた電信を紙テープに暗号にさん孔、重要度順に自動発信機に掛けられ)で、依佐美(長波・短波)や小山(短波)を経由し発信された。










      大和魂の権化のような校長先生

                        岩本 晢
                                (当時:国民学校1年生)

 あの日のことは今でも良く覚えています。我が家では4人子どもがいて、私は歯を磨いていた時に父から戦争が始まったことを聞きました。父はあの有名な大本営発表を聞いたのです。

 その後学校へ行ったら、大和魂の権化のような校長先生から開戦の話がありました。1年生でしたから、その時の中味は忘れましたが、例の熱誠溢れる話でした。

 その後に「九軍神に続け」という話をラジオなどで良く聞き、また標語を見ました。一部の上級生が「なんで十軍神でなくて、九軍神か知ってるか」と言う質問をしてきましたが、難しいので、無視していました。戦後にその中味が分かりました。










         日本はものすごいものだ

                        熊川 賢
                          (当時:国民学校4年生)

 昭和16年12月8日、朝のラジオニュースの時間、アナウンサーの「大本営発表、大本営発表」という予告の後、「帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」という内容であった。

 その後、アナウンサーは「着々と戦果を拡大していますが、油断は絶対に禁物であります」というフレーズを何回も何回もくり返した。

 「未明(みめい)」とか「禁物(きんもつ)」などは、初めて聞く言葉であった。十日ほど前に、父が買ったラジオが役に立ったのである。

 「西太平洋において」というのも不思議であったが、その時間に発表できる戦果がマレー半島上陸、上海での米英砲艦撃沈だったからであろう。真珠湾攻撃などはやや遅れて発表されたのである。

 私は、おまけにもらった「グリコ日記」に書いていている。

 「今日の明け方、日米こうしょうはれつして、日本軍は、まだ敵軍がねているとき、グアム島、ウエーク島、ハワイなどを大ばくげきした。日本はものすごいものだ」。

 多くの国民の、「やはり!とうとう、やったか!」という緊張感は、「勝った、勝った」とやや浮かた感じに変わっいったように思う。

 何日か過ぎたころ、母の実家の祖父の様子が耳に入った。

 「自分は日露戦争に行った。あれは勝ちいくさだと、よくいわれるが、勝った形の講和条約をまとめてくれたのはアメリカだ。それと戦争して、勝てるわけがない」などと、いってのだそうだ。こんなことが憲兵の耳にでも入ったら大変だと、気が気でなく、心配しているそうだ。

 私の父は、昭和12年、日中事変勃発の翌月の8月に召集され、2年間の従軍後に帰還した。しかし、昭和19年の再召集では帰ることはできず、ルソン島の土となった。終戦の1カ月前であった。
                  









              日米開戦の日

                       荒武千恵子
                              (当時:国民学校5年生)

その日はよく晴れ上がって、冬にしては暖かい日であった。

 朝6時半ごろだったかと思うが、急にラジオが ”臨時ニユースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。”と連呼した。

”本日未明、太平洋上において、米英両国と戦闘状態に入れり。”という言葉で家中に緊張が走った。

 その日の11時頃だったか,小使いさんが教室にやってきて、先生になにやら話していると思ったら、 先生がこちらへ向き直り、満面の笑みを浮かべて

 ”おい。みんな。日本軍は真珠湾で、航空母艦、戦艦、巡洋艦などをやつけたそうだ。”

 ”万歳! 万歳! 万歳!”

 ちょうど算数の時間で、持っていたそろばんを片手にみんなで万歳を繰り返したのを覚えている。
 
 家に帰ると、父が竹藪の前にござを敷き軍用行李を出して、中のものを虫干ししていた。

 父は陸軍予備将校だったので、自分で、軍服や皮のゲートル、サーベル、水筒、軍靴などを用意していたのである。

 それを並べながら、私をそばに呼んだ。

"お父さんは何時陛下のお召しがあるかわからない。 何時お召しがあってもいいように準備はしてあるが、お父さんが出征してしまったら、おばあちゃんは年だし、お母さんは身体が弱いし、お前に頼んでおくしかない。よくお母さんを助けて弟妹の面倒を見るように。

 フランスには昔ジャンヌダルクという少女がいて、先頭に立って戦って国を勝利に導いた。

 お前も何かあった時には、千万人と言えども、吾行かんの気概を持って戦え。”と、言ったのである。

 小学校5年生の小さな少女にこんな言葉を残さなければならなかった父の気持ちはどんなに辛かったかと思う。

この文章は、荒武さんのご厚意により次のブログから転載させていただきました。

「80ばあちゃん」






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ポピュリスト河村たかし名古屋市長の策謀敗れる  ネット虫 

2010年11月24日 20時27分54秒 | Weblog
 わが国の地方自治体の代表的なポピュリスト首長のひとり、名古屋市長の河村たかし氏が主導する市議会
の解散請求(リコール)運動で有効署名数が法定数に届かず、住民投票は行われないことが確実になっ
た模様です。

河村たかし氏のポピュリズム(根拠の乏しい俗うけのする安易な政策をちらつかせて市民を扇動する)の手
法をひとまずは防げたこと、また、その悪しきポピュリズム政治の拡散にひとまずはストップをかけたこと
はよろこばしいことです。しかし、大阪には橋下がいて、東京には石原、そして鹿児島には竹原(阿久根
市長)が依然として居座っています。わが国の悪しき俗流ポピュリズムとの戦いはこれからさらに正念場
を迎えるというべきでしょうか。
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これぞ役所!

2010年11月24日 18時22分21秒 | Weblog
 夕方、いつもは新聞受けに入れてある回覧板を持って、隣家のお祖母さんが来られました。何かな、と思ったら次のことを言いたかったからのようでした。

 =市議会リコールの署名をしたら、「貴方は誰に署名を求められましたか」という封筒が役所から送られてきました。
 署名したのは金山のバス停で、それは誰か分かりません。しかし、誰か判らないという所に丸を打ったら無効になるかもしれないと思ったので、「受任者」の所に丸を打ちました。
 先程のテレビで、無効が多くてリコールは成立しないと言ってましたが、私の返信は有効、無効どちらになっているのでしょうか=
 
 そこで私は、「その確認は、区役所に行けば出来ると思いますよ」と答えると、お祖母さんは、「はぁ、区役所に行かないと駄目なんですか、はぁ」と首うなだれて帰られました。
 
 「誰か判らない」という欄に丸を打てば有効ということらしいですが、この回答欄の作成は、まこと知能犯そのもので呆気にとられるばかりです。
 
 
 
 
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 ”東条英機首相への熱狂ぶりと、その源泉”  文科系

2010年11月24日 12時00分40秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
はじめに
 本日ネット虫さんが興味深い記事を載せて下さった。41年12月8日、この日を当時の子どもがどう覚えていたか。これを一気に読んで、すぐに表記の記事を書こうと、僕は思い立った。当時の子どもたちの心にさえ深く刻み込まれた「戦争への感動」、その象徴的存在であった東条首相への熱狂ぶりについて書いてみようと。僕の同人誌にも軍国少年、軍国少女がお一人ずついらっしゃる。お二人とも、その後の人生はなかなか優秀だったろうとお見受け出来る方々である。今は多分、その正反対の人生観をお持ちのはずだが。
 東条英機は、A級戦犯の象徴的存在。41年12月8日開戦時の首相にして内相であって、陸軍大臣までを兼務した、現役の陸軍大将である。また、陸軍参謀総長も兼任していたから、大元帥・天皇の大本営の幕僚長でもあった。彼の前歴には、関東憲兵隊司令官というものもあった。満州国の治安の要に位置する機関であって、35年9月から37年2月のことである。娑婆、「地方」(軍隊は軍隊の外の世界をこう呼んだのでした)、世相にも、よく通じているのである。
 彼は、天皇の信任は篤く、水戸黄門まがいの「民衆査察」を行い、ラジオ、新聞を上手く使って民心を躍らせ、掌握した。ヒットラーにも劣らないその掌握術を、ご紹介したい。種本は例によって、岩波近現代史シリーズ10巻本の第6巻「アジア・太平洋戦争」。この巻の著者は吉田裕・一橋大学大学院社会学研究科教授である。【 】がほとんどであるが、ここからの抜粋を示している。 

1 人々の東条支持熱
 その人気は、一時の小泉旋風などという次元のものではない。戦争の英雄たちの、そのまた大元締、空前絶後の国民的大英雄なのである。そういう大英雄が、マスコミによって実に身近な存在に描かれるところがまた、お見事というほかはないのである。
 【 東条首相は、各地で国民に熱烈に歓迎された。42年7月27日、大阪の中央公会堂で開催された「大東亜戦争完遂国民総力結集大講演会」の折には、講演を終えて退場する東条首相を熱狂した群衆がとりかこんだ。28日付の『朝日新開』は、その場の状況を、「熱狂した数千の聴衆は帽子、扇子を打ち振り打ち振り、〃万歳々々″と歓声をあげ、(中略)あつといふ間に東条さんを取り囲む。「しつかりやります、やりますとも」「米英撃滅だ、東条閣下お願ひします」「東条首相万歳」と群がる市民は熱狂して全く感激のるつぼだ」と報じている。これが誇張でないことは、同日の首相秘書官の記録に、「公会堂発」、「総理自動車会衆の圧倒的歓迎に取り囲まれ約十分、会衆の中を徐行す」とあることからもわかる(伊藤隆ほか編『東条内閣総理大臣機密秘録』東京大学出版社1990年)。
 さらに、東条に関するすぐれた評伝をまとめた作家の保阪正康も、この頃の東条について、「東京・四谷のある地区では、東条が毎朝、馬に乗って散歩するのが知れわたり、その姿を一目見ようと路地の間で待つ人がいた。東条の乗馬姿を見ると、その日は僥倖に恵まれるという〈神話〉が生まれた」と書いている。東条は、一般の国民にとって、「救国の英雄」だった(保阪『東条英機と天皇の時代(下)』) 】

 当時、東条報道を新聞がどう行ったかもなかなか興味深い。【例えば、42年8月18日付の『読売報知』は】として、こんなことが抜き出されていた。
【 「忙中忙を求める東条さん」、「割引市電で街の視察 鋭い観察力と推理力の種は正確なメモ 拾った民情必ず”決済”」という見出しの記事を掲載し、「キビキビした政務の処理、そして電撃的な民情視察・・・国民は曾てこれほど”首相”を身近に感じたことはなかった。・・・とにかく、そこに新しい一つの”指導者の形”が打ち出されているのは確かだ」と論じている 】

2 民心操縦術
【 総力戦の時代は、多数の国民の積極的な戦争協力を必要不可欠なものとする。そうした時代にあっては、力強い言葉と行動で、直接国民に訴えかけるタイプの指導者が求められる。東条は、そのことをよく理解していた。43年9月23日、東条は側近に次のように語っている(伊藤隆ほか編『東条内閣総理大臣機密秘録』東京大学出版社1990年)
  国民の大多数は灰色である。一部少数の者が批判的言動を弄するものである。そこで国民を率いてゆく者としては、此の大多数の国民をしっかり摑んでぐんぐん引きずつてゆくことが大切である。大多数の灰色は指導者が白と云へば又右と云へばその通りに付いてくる。自然に白になる様に放つておけば百年河清を待つものである。
 東条の芝居がかったパフォーマンス、特にたびかさなる民情視察は、識者の反発と顰蹙をかった。特に、東条が住宅街のゴミ箱をチェックしてまだ食べられるものや再生可能なものが捨ててあると非難したことは多くの国民の失笑をかった。首相として他にやるべきことはないのかという批判である 】

3 政治的力の源泉、宮中工作など
 マスコミ総動員で作ったこういった東条の「表の顔」の他に、政治家としての裏の顔があるのもまた当然。
 【 政治資金の面でも、東条首相は有利な立場にあった。陸相として陸軍省の機密費を自由に使うことができたからである。この点については、いくつかの証言がある。例えば、元陸軍省軍務局軍事課予算班長の加登川幸太郎は、「何に使ったかわからんけど、東条さんが総理大臣になった時、(中略)三百万円という機密費三口を内閣書記官長に渡せ、と来るんだね。(中略)あの頃二百万円あったら飛行機の工場が一つ建ったんだから」と回想している(若松会編『陸軍経理部よもやま話』)。 (文科系による中略)
 なお、臨時軍事費中の機密費の支出済額をみてみると、42年段階で、陸軍省=4655万円、海軍省=2560万円、44年段階で、陸軍省=1億2549万円、海軍省=1865万円であり、陸軍省が機密費を潤沢に使用していたことがわかる。
 東条首相の政治資金の潤沢さについては、44年10月15日に、反東条運動の中心となっていた政党政治家の鳩山一郎が、近衛文麿と吉田茂(戦後の首相)との会談の中で語っている内容が参考になる。同席していた細川護貞は、その内容を次のように記録している(『細川日記』)。
  一体に宮内省奥向に東条礼賛者あるは、附け届けが極めて巧妙なりし為なりとの話〔鳩山より〕出で、例えば秩父、高松両殿下に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には会毎に食物、衣服等の御土産あり、中に各顧問官それぞれのイニシアル入りの万年筆等も交りありたりと。又牧野〔伸顕元内大臣〕の所には、常に今も尚贈り物ある由。
 この後、鳩山は、「東条の持てる金は16億円なり」と語り、近衛は東条の資金源は、中国でのアヘンの密売からあがる収益だと指摘している。アヘン密売との関係については確証がないが、46年7月の国際検察局による尋問の中で、近衛の側近の富田健治が、東条はアヘン売買の収益金10億円を鈴木貞一陸軍中将(興亜院政務部長)から受けとったという噂があると指摘している。興亜院は、アヘンの生産と流通に深くかかわった官庁である。皇族への「附け届け」については、史料的に確認することができる。42年12月月30日付の「東久邇宮稔彦日記」に、「この度、陸軍大臣より各皇族に自動車をさし上げる事となれり」とあり、この日、東久邇宮のところには、陸軍省関係者から、アメリカ製の自動車が届けられているからである 】
コメント (5)
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