興奮しながら登校
高木三郎
(当時:国民学校高等科2年生)
国民学校高等科2年14歳のとき、昭和16年11月末、日米交渉も最終案で決裂寸前であった。
12月8日朝、友人らと登校途中で学校に到着する直前のことであった。校門近くの文房具店のラジオから、勇ましい軍艦マーチが流れて、「帝国陸海軍は、八日未明、西太平洋において、米英軍と戦闘状態に入れり、」と張り詰めたアナウンサーの声が聞こえた。引き続いてハワイ真珠湾攻撃の大戦果発表(・・・米太平洋艦隊壊滅・・・)に、友人らと思わず万歳を叫び興奮しながら登校した。
朝礼で校長先生から「宣戦の大詔」の発表が行われ「いよいよ日本は、支那をはじめ米英オランダとも戦争することになった。この戦争は大東亜建設のためであって、戦争に勝つため銃後の守りをしっかりやらねばの指導があった。
開戦当初は連戦連勝で、学校中みんなは興奮と緊張につつまれた。また、「撃ちしやまん」「欲しがりません勝つまでは」「天皇陛下の赤子なり」兵隊さんに負けるな」などの声が聞かれた。
(追記)
昭和17年4月就職で、国際電気通信(株)講習所依佐美支所(技術予科)に入ったとき聞いた話から、昭和16年12月2日夜、ハワイ真珠湾攻撃に向かう南雲機動部隊(空襲部隊:航空母艦6隻、警戒部隊:軽巡1隻・駆逐艦9隻、支援部隊:戦艦2隻・重巡2隻、哨戒部隊:伊号潜水艦3隻、補給部隊:給油艦など7隻から構成)に、開戦日を知らせる電文「ニイタカヤマノボレ1208」が、ここ依佐美送信所経由で発信された。
当時、依佐美送信所長波700KW送信機と短波20KW送信機3台を日本海軍が作戦用に使用、横須賀操縦(各地の軍施設から送られた電信を紙テープに暗号にさん孔、重要度順に自動発信機に掛けられ)で、依佐美(長波・短波)や小山(短波)を経由し発信された。
大和魂の権化のような校長先生
岩本 晢
(当時:国民学校1年生)
あの日のことは今でも良く覚えています。我が家では4人子どもがいて、私は歯を磨いていた時に父から戦争が始まったことを聞きました。父はあの有名な大本営発表を聞いたのです。
その後学校へ行ったら、大和魂の権化のような校長先生から開戦の話がありました。1年生でしたから、その時の中味は忘れましたが、例の熱誠溢れる話でした。
その後に「九軍神に続け」という話をラジオなどで良く聞き、また標語を見ました。一部の上級生が「なんで十軍神でなくて、九軍神か知ってるか」と言う質問をしてきましたが、難しいので、無視していました。戦後にその中味が分かりました。
日本はものすごいものだ
熊川 賢
(当時:国民学校4年生)
昭和16年12月8日、朝のラジオニュースの時間、アナウンサーの「大本営発表、大本営発表」という予告の後、「帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」という内容であった。
その後、アナウンサーは「着々と戦果を拡大していますが、油断は絶対に禁物であります」というフレーズを何回も何回もくり返した。
「未明(みめい)」とか「禁物(きんもつ)」などは、初めて聞く言葉であった。十日ほど前に、父が買ったラジオが役に立ったのである。
「西太平洋において」というのも不思議であったが、その時間に発表できる戦果がマレー半島上陸、上海での米英砲艦撃沈だったからであろう。真珠湾攻撃などはやや遅れて発表されたのである。
私は、おまけにもらった「グリコ日記」に書いていている。
「今日の明け方、日米こうしょうはれつして、日本軍は、まだ敵軍がねているとき、グアム島、ウエーク島、ハワイなどを大ばくげきした。日本はものすごいものだ」。
多くの国民の、「やはり!とうとう、やったか!」という緊張感は、「勝った、勝った」とやや浮かた感じに変わっいったように思う。
何日か過ぎたころ、母の実家の祖父の様子が耳に入った。
「自分は日露戦争に行った。あれは勝ちいくさだと、よくいわれるが、勝った形の講和条約をまとめてくれたのはアメリカだ。それと戦争して、勝てるわけがない」などと、いってのだそうだ。こんなことが憲兵の耳にでも入ったら大変だと、気が気でなく、心配しているそうだ。
私の父は、昭和12年、日中事変勃発の翌月の8月に召集され、2年間の従軍後に帰還した。しかし、昭和19年の再召集では帰ることはできず、ルソン島の土となった。終戦の1カ月前であった。
日米開戦の日
荒武千恵子
(当時:国民学校5年生)
その日はよく晴れ上がって、冬にしては暖かい日であった。
朝6時半ごろだったかと思うが、急にラジオが ”臨時ニユースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。”と連呼した。
”本日未明、太平洋上において、米英両国と戦闘状態に入れり。”という言葉で家中に緊張が走った。
その日の11時頃だったか,小使いさんが教室にやってきて、先生になにやら話していると思ったら、 先生がこちらへ向き直り、満面の笑みを浮かべて
”おい。みんな。日本軍は真珠湾で、航空母艦、戦艦、巡洋艦などをやつけたそうだ。”
”万歳! 万歳! 万歳!”
ちょうど算数の時間で、持っていたそろばんを片手にみんなで万歳を繰り返したのを覚えている。
家に帰ると、父が竹藪の前にござを敷き軍用行李を出して、中のものを虫干ししていた。
父は陸軍予備将校だったので、自分で、軍服や皮のゲートル、サーベル、水筒、軍靴などを用意していたのである。
それを並べながら、私をそばに呼んだ。
"お父さんは何時陛下のお召しがあるかわからない。 何時お召しがあってもいいように準備はしてあるが、お父さんが出征してしまったら、おばあちゃんは年だし、お母さんは身体が弱いし、お前に頼んでおくしかない。よくお母さんを助けて弟妹の面倒を見るように。
フランスには昔ジャンヌダルクという少女がいて、先頭に立って戦って国を勝利に導いた。
お前も何かあった時には、千万人と言えども、吾行かんの気概を持って戦え。”と、言ったのである。
小学校5年生の小さな少女にこんな言葉を残さなければならなかった父の気持ちはどんなに辛かったかと思う。
この文章は、荒武さんのご厚意により次のブログから転載させていただきました。
「80ばあちゃん」
高木三郎
(当時:国民学校高等科2年生)
国民学校高等科2年14歳のとき、昭和16年11月末、日米交渉も最終案で決裂寸前であった。
12月8日朝、友人らと登校途中で学校に到着する直前のことであった。校門近くの文房具店のラジオから、勇ましい軍艦マーチが流れて、「帝国陸海軍は、八日未明、西太平洋において、米英軍と戦闘状態に入れり、」と張り詰めたアナウンサーの声が聞こえた。引き続いてハワイ真珠湾攻撃の大戦果発表(・・・米太平洋艦隊壊滅・・・)に、友人らと思わず万歳を叫び興奮しながら登校した。
朝礼で校長先生から「宣戦の大詔」の発表が行われ「いよいよ日本は、支那をはじめ米英オランダとも戦争することになった。この戦争は大東亜建設のためであって、戦争に勝つため銃後の守りをしっかりやらねばの指導があった。
開戦当初は連戦連勝で、学校中みんなは興奮と緊張につつまれた。また、「撃ちしやまん」「欲しがりません勝つまでは」「天皇陛下の赤子なり」兵隊さんに負けるな」などの声が聞かれた。
(追記)
昭和17年4月就職で、国際電気通信(株)講習所依佐美支所(技術予科)に入ったとき聞いた話から、昭和16年12月2日夜、ハワイ真珠湾攻撃に向かう南雲機動部隊(空襲部隊:航空母艦6隻、警戒部隊:軽巡1隻・駆逐艦9隻、支援部隊:戦艦2隻・重巡2隻、哨戒部隊:伊号潜水艦3隻、補給部隊:給油艦など7隻から構成)に、開戦日を知らせる電文「ニイタカヤマノボレ1208」が、ここ依佐美送信所経由で発信された。
当時、依佐美送信所長波700KW送信機と短波20KW送信機3台を日本海軍が作戦用に使用、横須賀操縦(各地の軍施設から送られた電信を紙テープに暗号にさん孔、重要度順に自動発信機に掛けられ)で、依佐美(長波・短波)や小山(短波)を経由し発信された。
大和魂の権化のような校長先生
岩本 晢
(当時:国民学校1年生)
あの日のことは今でも良く覚えています。我が家では4人子どもがいて、私は歯を磨いていた時に父から戦争が始まったことを聞きました。父はあの有名な大本営発表を聞いたのです。
その後学校へ行ったら、大和魂の権化のような校長先生から開戦の話がありました。1年生でしたから、その時の中味は忘れましたが、例の熱誠溢れる話でした。
その後に「九軍神に続け」という話をラジオなどで良く聞き、また標語を見ました。一部の上級生が「なんで十軍神でなくて、九軍神か知ってるか」と言う質問をしてきましたが、難しいので、無視していました。戦後にその中味が分かりました。
日本はものすごいものだ
熊川 賢
(当時:国民学校4年生)
昭和16年12月8日、朝のラジオニュースの時間、アナウンサーの「大本営発表、大本営発表」という予告の後、「帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」という内容であった。
その後、アナウンサーは「着々と戦果を拡大していますが、油断は絶対に禁物であります」というフレーズを何回も何回もくり返した。
「未明(みめい)」とか「禁物(きんもつ)」などは、初めて聞く言葉であった。十日ほど前に、父が買ったラジオが役に立ったのである。
「西太平洋において」というのも不思議であったが、その時間に発表できる戦果がマレー半島上陸、上海での米英砲艦撃沈だったからであろう。真珠湾攻撃などはやや遅れて発表されたのである。
私は、おまけにもらった「グリコ日記」に書いていている。
「今日の明け方、日米こうしょうはれつして、日本軍は、まだ敵軍がねているとき、グアム島、ウエーク島、ハワイなどを大ばくげきした。日本はものすごいものだ」。
多くの国民の、「やはり!とうとう、やったか!」という緊張感は、「勝った、勝った」とやや浮かた感じに変わっいったように思う。
何日か過ぎたころ、母の実家の祖父の様子が耳に入った。
「自分は日露戦争に行った。あれは勝ちいくさだと、よくいわれるが、勝った形の講和条約をまとめてくれたのはアメリカだ。それと戦争して、勝てるわけがない」などと、いってのだそうだ。こんなことが憲兵の耳にでも入ったら大変だと、気が気でなく、心配しているそうだ。
私の父は、昭和12年、日中事変勃発の翌月の8月に召集され、2年間の従軍後に帰還した。しかし、昭和19年の再召集では帰ることはできず、ルソン島の土となった。終戦の1カ月前であった。
日米開戦の日
荒武千恵子
(当時:国民学校5年生)
その日はよく晴れ上がって、冬にしては暖かい日であった。
朝6時半ごろだったかと思うが、急にラジオが ”臨時ニユースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。”と連呼した。
”本日未明、太平洋上において、米英両国と戦闘状態に入れり。”という言葉で家中に緊張が走った。
その日の11時頃だったか,小使いさんが教室にやってきて、先生になにやら話していると思ったら、 先生がこちらへ向き直り、満面の笑みを浮かべて
”おい。みんな。日本軍は真珠湾で、航空母艦、戦艦、巡洋艦などをやつけたそうだ。”
”万歳! 万歳! 万歳!”
ちょうど算数の時間で、持っていたそろばんを片手にみんなで万歳を繰り返したのを覚えている。
家に帰ると、父が竹藪の前にござを敷き軍用行李を出して、中のものを虫干ししていた。
父は陸軍予備将校だったので、自分で、軍服や皮のゲートル、サーベル、水筒、軍靴などを用意していたのである。
それを並べながら、私をそばに呼んだ。
"お父さんは何時陛下のお召しがあるかわからない。 何時お召しがあってもいいように準備はしてあるが、お父さんが出征してしまったら、おばあちゃんは年だし、お母さんは身体が弱いし、お前に頼んでおくしかない。よくお母さんを助けて弟妹の面倒を見るように。
フランスには昔ジャンヌダルクという少女がいて、先頭に立って戦って国を勝利に導いた。
お前も何かあった時には、千万人と言えども、吾行かんの気概を持って戦え。”と、言ったのである。
小学校5年生の小さな少女にこんな言葉を残さなければならなかった父の気持ちはどんなに辛かったかと思う。
この文章は、荒武さんのご厚意により次のブログから転載させていただきました。
「80ばあちゃん」