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「戦前日本の破滅の歴史を思わざるを得ません」と、中日社説  文科系

2010年11月22日 11時30分37秒 | Weblog
 中日新聞、本日の5面社説は深刻すぎる論調になっています。是非ご覧いただきたいのですが、その触りだけを書いておきます。

『内政も外交も行き詰まり感が深まって無為無策の政治へ国民の不安と不満、憤りが高じています。
 戦前日本の破滅の歴史を思わざるを得ません。似ています。
 国家財政の危機と民の貧困、外交対立。閉塞状況下、政党は醜い争いに終始して国民の軽蔑するところとなり、政党政治は瓦解。日本はファシズムへ、無謀な戦争へと傾斜していったのでした。(中略)
 情けないのは、浅はかな身内を手厳しく叱る政治家が自民にも民主にも見当たらないことです。
 政党政治の座標軸が狂っています。こういうときこそ国会が正しく機能すべきなのに、怒鳴り合いと揚げ足取り。与党も野党も非生産的なことこの上ありません』

 僕はこの状況について、マスコミにも同じくらい以上の責任があるとここに書いてきた立場ですが、この文章は今の政治現象を上手く書いているとは思います。小泉を天まで持ち上げて弱肉強食社会を作ったり、その反動なのか今度は自民を引きずり下ろして民主政権を作ることになったり、今度はその民主政権を引きずり下ろすことしたり。マスコミ(も官僚)もそれぞれの狙いに程度の差はあれ、こういうことに腐心してきたはずだと、僕は見ています。国民の窮状、絶望感は確かに戦後かって無く大きくなっているのに、そういうものすべてを、責任ある人たちがそっちのけにしてきたとも見ています。それは、マスコミも含めてのこと。
 社会正義の代弁者であるべき検察が率先してあのザマだし、裁判所もどうやら彼らと連んでいるらしい。彼らの小沢への執着ぶりは、私利に発していることとしか到底思えないのです。小沢の道徳的善悪はともかく、検察が2回も起訴に失敗した人間をあくまでも社会的に葬り去ろうとしてきた、と。官僚機構の中でも特に特権的な検察を改革しようとすることへの妨害。村木厚子免罪事件の動機も第5検察審査会の胡散臭さも、そこから出ている事は明らかでしょう。

 こんなときにこそ、この社説が話を狭めて語っているように日本一国だけではなく世界の破滅が、誰も予期しないうちに、予期しない方向で、急激にやってくる時が多いもの。背景に、先の見えない世界的大恐慌があるのも、戦前と一緒なのです。ヒットラーの登場は電撃的だったと思いますし、近衛内閣から東条内閣へと換わってから12月8日の太平洋戦争開戦までは2ヶ月も経たぬ間のことでした。日米開戦と対米交渉との二者択一では近衛内閣はまだ、後者を継続しようとしていたことも想い出しています。マスコミと世論が、近衛氏ではなく東条をこそ励ましたのではなかったでしょうか。そして、熱狂の祭りが終わってみれば、大の大人が皆、ただ呆然! あの戦争を勝てばすべて良かったのだと語る人がいるとしたら、僕はこう申し上げたい。
「ユダヤ人や朝鮮の方々を歴史的にあれだけ殺してきた政府の世界など、死んでも嫌だ」

 今の世界、日本も、こんなことでしょう。国民は生活懸かってみんな必死だし、社会に重い責任のある人たちが自分のことしか考えずこういう国民の目線をそれぞれ己の脇の方にそらそうとだけしている。そんな時にはいつも、その合成力が、後から考えた時誰にとってもとんでもないと見える方向へと社会を持って行ってしまうんですよね。
 世界1の財産を形成してきて今なお国を支えている我々、日本の老人たちなのに、孫子にこんな世界、社会しか残してやれぬとは。そして、そういうお仲間が、どんどん無縁死していくとは。返す返すも残念でなりません。
 
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太平洋戦の右翼デマに(天皇、開戦決意の瞬間)  文科系

2010年11月22日 01時32分58秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
太平洋戦争と天皇

 表記のことについて、右翼の方々はこのブログでもこのように語られてきた。天皇の統治権は形式的なものであって、戦争政策においても実際に何かを決めたというわけではない、と。そのことについてこの本(岩波新書日本近現代史シリーズ10巻のうち、その6「アジア・太平洋戦争」、著者は、吉田裕・一橋大学大学院社会学研究科教授)はどう書いているか。それをまとめてみたい

1 軍事法制上の天皇の位置 「統帥権の独立」
『統帥権とは軍隊に対する指揮・命令の権限のことをいうが、戦前の日本社会では、大日本帝国憲法(明治憲法)第11条の「天皇は陸海軍を統帥す」という規定を根拠に、この統帥権は天皇が直接掌握する独自の大権であり、内閣や議会の関与を許さないものと理解されていた。
 明治憲法上は、立法権、行政権、外交権などの天皇大権は、国務大臣の輔弼(補佐)に基づいて行使されることになっており、統帥権だけが国務大臣の輔弼責任外にあるという明文上の規定は存在しない。それにもかかわらず、天皇親率の軍隊という思想の確立にともない、制度面でも統帥権の独立が実現されてゆく。1878(明治11)年の参謀本部の陸軍省からの独立、1893(明治26)年の軍令部の海軍省からの独立、1900(明治33)年の陸海軍省官制の改正などがそれである』
『一方、参謀本部と軍令部(統帥部と総称)は、国防計画・作戦計画や実際の兵力使用に関する事項などを掌握し、そのトップである参謀総長と軍令部総長は、陸海軍の最高司令官である「大元帥」としての天皇をそれぞれ補佐する幕僚長である。この場合の補佐は、国務大臣の輔弼と区別して輔翼とよばれる。国務大臣は、憲法に規定のある輔弼責任者だが、参謀総長・軍令部総長は、憲法に明文の規定がない存在だからである。
 軍事行政と統帥の二つにまたがる「統帥・軍政混成事項」については陸海軍大臣が管掌したが、国務大臣としての陸海軍大臣も統帥事項には関与できないのが原則であり、参謀本部・軍令部は、陸軍省・海軍省から完全に分立していた。以上が統帥権の独立の実態である』

2 「能動的君主」としての天皇
9月6日決定の「帝国国策遂行要領」
『統帥に関しては、「能動的君主」としての性格は、いっそう明確である。天皇は、参謀総長・軍令部総長が上奏する統帥命令を裁可し、天皇自身の判断で作戦計画の変更を求めることも少なくなかった。また、両総長の行う作戦上奏、戦況上奏などを通じて、重要な軍事情報を入手し、全体の戦局を常に把握していた(山田朗『大元帥 昭和天皇』)。通常、統帥権の独立を盾にして、統帥部は首相や国務大臣に対して、重要な軍事情報を開示しない。陸海軍もまたお互いに対して情報を秘匿する傾向があった。こうしたなかにあって、天皇の下には最高度の軍事情報が集中されていたのである』
 そういう天皇であるから、重大な局面ではきちんと決断、命令をしているのである。本書に上げられたその実例は、9月6日御前会議に向けて、その前日に関係者とその原案を話し合った会話の内容である。まず、6日の御前会議ではどんなことが決まったのか。
『その天皇は、いつ開戦を決意したのか。すでに述べたように、日本が実質的な開戦決定をしたのは、11月5日の御前会議である。しかし、入江昭『太平洋戦争の起源』のように、9月6日説も存在する。この9月6日の御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」では、「帝国は自存自衛を全うする為、対米(英欄)戦争を辞せざる決意の下に、概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す」ること(第1項)、「右に並行して米、英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努」めること(第2項)、そして(中略)、が決められていた』
 さて、この会議の前日に、こういうやりとりがあったと語られていく。

前日9月5日、両総長とのやりとりなど
『よく知られているように、昭和天皇は、御前会議の前日、杉山元参謀総長と水野修身軍令部総長を招致して、対米英戦の勝算について厳しく問い質している。
 また、9月6日の御前会議では、明治天皇の御製(和歌)、「四方の海みな同胞と思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ」を朗読して、過早な開戦決意を戒めている。
 ただし、天皇は断固として開戦に反対していたわけではない。海軍の資料によれば、9月5日の両総長による内奏の際、「若し徒に時日を遷延して足腰立たざるに及びて戦を強ひらるるも最早如何ともなすこと能はざるなり」という永野軍令部総長の説明のすぐ後に、次のようなやりとりがあった(伊藤隆ほか編『高木惣吉 日記と情報(下)』)。
 御上[天皇] よし解つた(御気色和げり)。
 近衛総理 明日の議題を変更致しますか。如何取計ませうか。
 御上 変更に及ばず。
 永野自身の敗戦直後の回想にも、細部は多少異なるものの、「[永野の説明により]御気色和らぎたり。ここに於いて、永野は「原案の一項と二項との順序を変更いたし申すべきや、否や」を奏聞せしが、御上は「それでは原案の順序でよし」とおおせられたり」とある(新名丈夫編『海軍戦争検討会議議事録』)。ここでいう「原案」とは、翌日の御前会議でそのまま決定された「帝国国策遂行要領」の原案のことだが、その第一項は戦争準備の完整を、第二項は外交交渉による問題の解決を規定していた。永野の回想に従えば、その順番を入れ替えて、外交交渉優先の姿勢を明確にするという提案を天皇自身が退けていることになる』
 こうして前記9月6日の「帝国国策遂行要領」は、決定された。つまり、対米交渉よりも戦争準備完整が優先されるようになったのである。続いて10月18日には、それまで対米交渉決裂を避けようと努力してきた近衛内閣が退陣して東条内閣が成立し、11月5日御前会議での開戦決定ということになっていく。この5日御前会議の決定事項とその意味などは、前回までに論じてきた通りである。
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